第1話 日常よ、さようなら
お察しの通り、作者は遅筆です。
困ったものです。
「渡辺 翔って、どんな人?」と聞かれたら、おそらくほとんどの人が「モブキャラ」と答えるだろう。
つまるところ、俺はそれくらいに極めて平凡な人間であった。
鏡の前に立ち、寝癖のついた髪を櫛で梳きながら、俺は今日も特徴のない男――すなわち、自分自身と顔を突き合わせる。
ぬばたまの、等とはとても言えない一般的な黒髪を櫛で梳かし、これまた一般的な黒瞳で、寝癖以外に何かおかしなところはないかを調べる。あ、目ヤニ発見。
「……よし、こんなもんでいいかな」
鏡の中の男と別れた俺は、次に着替えに取り掛かる。ジーンズを穿き、黒色のシャツを着て、ハイ、終了。元々ファッションにはあまりこだわりがないので、着替えは簡単に済ませる。
壁掛けの時計を見ると、そろそろ家を出なければ講義に間に合わないことを示していた。
ギリギリの時間まで寝ていたため、今日も朝食を食べている時間はなさそうだ。まあ、そこは仕方のないことだろう。
あとは教材が入っている鞄を持てば、あっという間に外出の準備が完了する。俺は急ぐ足で靴を履き終え、住み慣れたアパートを出る。
それが、大学に入り一人暮らしを始めて二年目になる俺の、朝の日常であり、
それが俺にとって最後の日常になるとは、この時は知る術もなかった。
扉から出れば、そこは異世界でした。
――いやいや、ちょっと待って。どういうこと?
なんて言って、慌てるような愚を俺は犯さない。考えずとも分かる。子供でも分かる。
「扉から出れば、そこは異世界でした」なんて、ライトノベルみたいなことが起こるはずがないのだ。
平常心だ、平常心。何だったら、素数を数えてもいい。
まだ、慌てる時間じゃないとは誰の言だっただろうかなどと考えつつ、ふぅ、と深呼吸。
よし、少しは落ち着いた。冷静になった。
どうしてこうなってしまったのか、順を追って考えてみようと思う。
まず、俺は、玄関の扉を開けて外に出た。うん、いつも通りだ。
そのまま、扉の鍵を閉める。これもいつも通り。
振り返れば、今ではすっかり見慣れたはずの通学路の姿はそこに無く、綺麗に加工された石が敷き詰められた室内が目の前に広がっていた。
「――いやいや、ちょっと待って。どういうこと?」
結局、慌ててしまうのであった。
「いい加減、周りを見る癖をつけねえとなあ」
周りをよく見ろ、って昔から言われてきたっけ。
例えば、なにか行動しているとする。その際、どうしても目の前にばかり集中してしまい、そのせいで周囲の状況が読めなくなるという悪い癖が俺にはある。
その癖のせいで、俺は子供の頃から色々な事件に巻き込まれてきた。まあ、望んでいないとはいえ、わざわざ巻き込まれにいく自分のせいでもあるのだが。
やれ他校の生徒との喧嘩だの。やれ修羅場だの。やれ交通事故だの。やれ誘拐だの。よく生きてこれたものだと思う。
今回もそうだ。扉を開けた際に、手元ばかりに集中していなければ……一瞬でも外の様子を確認していれば――、手元ばかりを見ていなければ、こんなことにはなっていなかったはずなのに。
異変に気付いた俺は、すぐさま扉を閉めただろう。そして、外の様子が元に戻るまで、我が家で過ごしていたに違いない。
確か、部屋の窓から見える光景はいつも通りだったはずだ。どうしても扉の向こう側の光景に変化が無かったのならば、窓から出入りしてもいい。もっとも、傍から見れば変人にしか見えないだろうが。
まあ、今更なんだけどな。ヤレヤレ。
ちなみに。「扉を抜けてココについたのなら、また扉を通れば元の家に帰れるんじゃないか?」と気付いた時には手遅れで。
いつの間にか、我が家へ続く扉は跡形もなく消えていた。ナンテコッタイ。
室内を調べる。ベッド、タンス、テーブル、椅子……。特に他の部屋と変わりはないようだ。必要最低限の家具のみが置かれているだけ。
「人が居た形跡はあるんだがな。どうして、さっきから誰もいないんだ?」
何か、理由があるのだろうか。俺がこの見知らぬ場所に迷い込んでしまったのと、何か関係があるのだろうか。
何もわからない。
ふぅ、と溜息をつき、扉を閉めた。
現在、俺はこの場所を探索中である。さすがにいつまでもあの場所で、一人慌てているわけにもいかないと判断したためだ。
無闇に動き回らない方がいいのではないか、とも思った。思ったが……。
ここがどんな場所なのか。何故、俺はここへ迷い込んでしまったのか。そもそも、ここは日本なのか。
なんでもいい。何か情報を仕入れておかないと、とっさの場面で効率よく動けない、と最終的に判断したのだ。
もっとも、とっさの場面など遭遇しないに越したことはないのだが。
そのときその場面その状態に、最も適した行動をとる。これが、今まで様々な事件に巻き込まれてきた俺が学んだこと。いわば、俺が生きていく上での格言である。
――あ~。どうするかな……。
探索を開始してからおよそ数分。
俺は大きな扉の前で立ち止まっていた。
他とは類を見ない大きさのその扉は、存在感を存分に撒き散らしていた。他の扉と違い、両開きであることもその一因であるかもしれない。
正直、とても怪しかった。
「何かあるとすれば、ここなんだろうけど……」
何故か、身体が扉を開ける事を拒否していた。
もしかしたら、今までの経験が――数多のトラブルに巻き込まれてきた俺の経験が――、ここを開けることでまた何かトラブルに巻き込まれてしまうということを敏感に察知したのかもしれない。
もっとも、ここにやってきた時点で既に巻き込まれているのだが。
「――開けよう」
迷いに迷った末、俺は扉を開ける事を選択した。藪蛇という言葉が頭に浮かんだが、それ以上に、自分がここにやってきた理由を知りたいという気持ちの方が強かったのだ。
何も情報がなければ、それでよし。何か危険があれば、即座に逃げる。何か情報をつかめれば、万々歳だ。
決心を固めると、身体は動いてくれた。俺はゆっくりと扉に近づき、手をかける。
扉に手をかけてそこで、俺は気がつく。今までこの扉から発されていると思っていた存在感は、それよりも奥、即ち部屋の中から発されていた。
存在感というよりも、気迫といった方が近いかもしれない。
高校時代に他校の不良に絡まれた時も、ここまでの気迫を発する者はいなかった。彼らなど相手にもならない。いや、そもそも比べること自体が間違っている。
誰かが、いや、何かがこの奥にいることは分かった。だが、それに自分は相対するのだと思うと足が竦んだ。怖いと思った。
生唾を飲み込む。そして、扉をゆっくりと開けていく。
かつてない程の慎重さで、すぐに閉めることができるようにゆっくりと……。
「――っ……!?」
扉を開けた俺に、気迫の暴風が襲いかかる。間に妨げるものがなくなった今、声を上げられなくなるほどの暴力的なまでの気迫が、俺に叩きつけられた。
「ふっ」
声が上がった。吐息に微少の笑みを含めた、静かなる笑い声。自分以外の、声。
俺は声が聞こえてきた方向へと視線を向ける。手は扉にかけたままだ。そのときその場面その状態に、最も適した行動をとるという、俺の格言に背くようなことはしない。まだ、手を放すべきではない。
……危険が去ったと確認できていないからだ。
声の出所は、すぐに見つかった。広い室内の中、俺の正面奥に腰かけている人影を発見する。
間違いない。この気迫の出所はあの人影からだ。ソレは、玉座と思わしき椅子に腰かけていた。
人影が実に優雅な動きで、組んでいた腕を解く。そして、ソレが口を開く様を見て、俺は、
「よく来」
扉を閉めた。
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