幕間 バレンタインデーとはなんぞや
ジョバンニが一時間でやってくれました。
「俺の世界にはバレンタインデーというものがあってな」
切っ掛けは、俺の呟いた一言だ。目の前では焚き火の中に居座る木々達がパチパチと火の粉を打ち出している。
「ばれんたいんでえ?」
「イエス、バレンタインデー。古くは――まあそれはこの際いいか……俺達の世界では女性がお世話になった男性にチョコを贈る日ということになっている」
この言葉は、嘘ではない。ただ、真実の一部を伏せて話しているだけだ。
好きな男性にチョコレートを贈る日でもあることは伏せたまま、俺はミラにバレンタインデーとはどういうものなのかを教えていく。
「ちょこを贈るの?」
「イエス。チョコ、チョコレート……チョコで通じるか?」
「ええ、それくらい知ってるわ」
「そうか。この世界にもチョコはあるんだな」
チョコの存在がこの世界になければどうしようかと思っていたのだが、そんな心配は必要なかったらしい。内心で深く安堵する。
……決して、その感情を表には出さないが。
「そうなんだ……。ねっ、その日ってそろそろだったりするの?」
「ん?バレンタインデーのことか?――そうだな。向こうの暦だと……二日後かな」
「二日後……。うん、それくらいだったら出来そうね……」
ミラの呟きを一字一句逃すことのないように、しかしバレようにかつ真剣に、俺は耳に全神経を注いでいく。
――どうやら餌に食いついたようだな。ならば……。
ここは、待ちの一手だ。獲物を逃してしまうような愚は犯さない。
大丈夫だ、大丈夫……。ミラが考え込んでいる姿を『いかにも興味無さ』そうに眺め続ける。
大丈夫だ、大丈夫……。掌に浮かんできた汗の存在に、俺は気づかず手に力を込めていたことに気付いた。即座にそれを解く。
平常心だ、平常心。平静を装え……!
その短くも俺にとっては永劫とも感じ取れる時間を打ち壊したのは、目の前に座る彼女の言葉だった。
「折角だから、作ってあげようか?チョコ」
――フィィィィィィッッッッッシュッッッッ!!!!!!!
構想を練りに練り、彼女がそう言うように誘導し続けた。その努力が今、実を結ぼうとしている。
思わず立ち上がって喜びの咆哮を上げたくなる自分自身を全力で押しとどめる。ここでチャンスを棒に振るわけにはいかない。
「え?いいのか?」
「まあ、それくらいだったらそんなに手間はかからないし――ショウには色々とお世話になってるからね」
「そうかな?いや、悪いなぁ。なんだか催促したみたいで」
……思いっきりしていたんだがな?
「いいのよ。ショウは私達の計画に協力してくれているんだから。正直、感謝してもしきれないくらいよ」
「ん……、じゃあ、そこまで言うんだったらお願いしようかな?」
「任せといて。――さて、じゃあ明日から材料を揃えないといけないから、今日はもう寝るわね。おやすみ」
「おう、おやすみ」
互いに就寝の挨拶を交わし、ミラが去っていく。
彼女の姿が馬車の中へと消えていくのを確認して、俺は初めてその感情を表へと解き放った。
「……よし!!!」
彼女に聞かれるわけにもいかないため、その声はとても小さいものであったが。
さて。わざわざする必要もないかもしれないが、一応ネタばらしでもしておこうか。
「――といっても、そこまで大層なものじゃないんだけどな……」
要は、異世界の住民であるミラにバレンタインデーの存在を教えたわけだ。一部の情報こそ伏せてはいるものの、な。
そのイベントのことを教えれば彼女のことだ。ならば自分もそのイベント内容に則って行動してみようなどと言うはずだった。現にそうなったしな。彼女は実に分かりやすい性格をしていると思う。
あとは、ただ待てばいい。そうすれば、二日後には俺はめでたくチョコを手に入れるというわけだ。
……ん?なんでそこまでしてチョコを欲しがるのかって?
「分かってない、分かってないぞ!」
お前たちは何も分かっていない!
いいか?俺はな――チョコを貰ったことがないんだよ!今までの人生において、義理も本命も含めてただの一度もチョコを貰ったことがないんだ。
小学時代も中学時代も高校時代も、一度としてチョコを貰ったことのない男の気持ちが分かるか?クラスの全員に配るチロルチョコすら貰えなかった俺の気持ちが。
唯一、中学時代に一度貰った程度だが、それにしても……、
「ええと、渡辺君にはコレをあげる」と、丁寧に包装された何かを手渡されて。
「え?ありがとう。……何かな?」と、初めて貰うそれに内心でワクワクしつつ俺がその包装を解いて。
その綺麗な模様の紙に包まれていたのは、
うまい棒サラダ味。
なんでやねん。
チョコですら無いし。というより、わざわざこれを包装したわけ?新手の苛めか?
「わ、渡辺君。言っておくけど、義理だからね!」
分かってるよ!誰がうまい棒を見て本命だと思うかよ!
初めて異性に貰ったプレゼント――うまい棒。その日食べたソレは、涙の味なのか酷くしょっぱく感じた……。
「…………」
自分の過去を思い出して、俺のさっきまで高まっていたテンションが急速に冷めていく。底辺を抜けて奈落の底まで落ちていく勢いだ。
――まあ、そういうわけだ。俺は人生において一度もチョコを貰ったことがない。
だったら――せめて人生において一度くらいはチョコを貰いたいと思ってもいいじゃない……。夢を見たっていいじゃない……。
正直、この世界にやって来てから、これが初めてかもしれない。ここまで神経と頭を使ったのは。
彼女にチョコを作らせるよう仕向けた労力――それをもっと別のことに使えばいいのにと、我がことながら考える。
「ふぁ……」
テンションが一気に下がったせいだろうか、突然に込み上げてきた眠気に俺は欠伸を漏らした。
既に朝日が昇りつつある。考え込んでいる間にいつの間にか、夜が明けていたようだ。
今までの思考は一旦捨ておこう。ミラを起こさなくてはならない。
ミラと交代で、今度は俺が眠る番だからだ。俺は馬車の方へと足を向ける。
――ところで。
その途中。ふと頭を過った疑問に自然と足が止まる。
――俺は今まで、誰と話していたんだろうな?
この世界においてチョコは非常に希少価値が高いものらしい。実際に聞いたわけではないけれど、ミラが忙しく飛び回って――文字通り『飛び回って』――いるのを見てそう思う。
まあ、向こうでも中世ではケーキなんて貴族たちしか食べられなかったわけだから、同程度の技術水準であるこちらでもそういうものなのかもしれない。
幸いなことに、まだまだ魔王城に近いこの周辺では人族に出会う可能性など一パーセント程度も存在ない。……そうでもなければ、翼を生やして飛び回るなどといういかにも魔族然とした行動などとれるはずもないだろうが。
――にしても、ここまでする必要はあるのかねぇ?
馬車の中にはチョコレートの材料がないとミラが言っていたが――だからといって、何も飛び回ってまで作ろうとしなくてもと思う。
……まあ、焚きつけたのは俺なんだが。
「バレンタインデーなんてこの世界にはないイベントだしなぁ」
初めて体験するイベントだから張り切っているんだろう。
「――明日かぁ」
いよいよ、明日だ。明日、俺は人生において初めてのチョコレートを貰うことになる。
……流石に、この世界にはうまい棒なんて存在しないだろうしな。というより、あってたまるか。
彼女の材料集めは順調に進んでいるらしい。飛び出す際に必ずミラが持っていく袋も、日毎に大きくなっていっている。……チョコレート一つにそこまでの材料が必要になるとは思えないんだが――まあ、構わないだろう。
「多すぎて食いきれない――なんてのも乙だろうさ」
何にせよ、明日だ。明日になれば俺は……。
勿論、本来の目的を見誤るようなことはしない。あくまでもこれは、旅の途中に行う一種の余興である。力の入れ具合は置いといて、だ。
「さて、じゃあ持ってくるわね」
昼食も終え、一息ついていた俺にミラが話しかけてきた。
「お、チョコか?」
「そうよ。丹精込めて作ったんだから、味わって食べてよね」
「アハハ、当然だろ?」
食うに決まってる。
「じゃあ、今から持ってくるからね」
「ん。楽しみにしておく」
荷車の中へと消えていくミラの後ろ姿を見送る。
……笑みが止まらない。治まらない。
――チョコかぁ。楽しみだな。
当然ながら、普通のチョコレートなら今までの人生で数え切れないほど食べてきた。だが、バレンタインデーに異性から貰うチョコレートは初めてだ。
さぞ旨いに違いない。そうに違いない。
逸る気持ちを抑えていると、ミラが荷車から出てきた。その手に持つのは皿だ。……皿?
わざわざご丁寧なことに、フランス料理とかでよく見る蓋までしている。――よくそんな物があったな。
これは、あれだろうか。文化が違うからということなのかな。いや、きっとそうなのだろう。多少の違いには目を瞑るべきだ。
なんていったって、俺はチョコを貰う立場の人間なんだから。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
素直に礼を述べる。
「それでは、早速――」
「大変だったんだからね。魔法が無かったら、こんな短時間では作れなかったわ」
二日間の苦労を口にするミラを背後に、俺は蓋を勢いよく開ける。
そこにあったのは、六つの球。それぞれの色が違う、色彩豊かな球群。
これはおいしそうだ。俺は手掴みで赤いチョコを取り、そのまま口へと運んでいく。
噛み締めた。
「こ、これは――!」
これがバレンタインデー効果というものか。今まで食べていた物とは明らかに違う食感、味覚、匂いに俺は――、
「――なに、コレ?」と思わず呟いた。
――どう考えても別物だよね、コレ。
「え?だって、チョコレートでしょう?――にしても、こんなものを毎年食べないといけないなんて、そちらの世界も大変よね」
愕然とする俺へ向けて、ミラは解説を始める。彼女によると、これはこの世界において、子供が成人した時に食べさせられる伝統料理なのだそうだ。それを食べれば栄誉を手にすると伝えられる六匹の魔獣――その血を固めた『だけの』食べ物。味は――話すまでもない。
さしずめ、『血誉来冷凍』とでもいったところだろうか。食べ物と呼ぶのもおこがましいと思う。
「…………」
とはいえ、わざわざ彼女が作ってくれたのだ。食べないわけにはいかないだろう。
俺は渋々とソレを食べ続ける。
「――お、おいしいよ……」
これが俺に出来る精いっぱいだ。正直、今すぐにでも吐きたい。
「そう?良かったわ。……まだまだたくさんあるから、いっぱい食べてね?」
――はい?
思わず口に出そうになる言葉をぐっと飲み込む。にしても、たくさん……?これを、『たくさん』……?
そういえば、たかがチョコ一つを作るには分不相応なくらいに袋は膨れていたっけ。
「はは、ははは……」
もはや、乾いた笑いしか出てこなかった。
――どうやら、俺はバレンタインデーチョコとは縁が無いらしい。
キミはこれをIFの物語と考えてもいいし、そうでないと考えてもいい。