畏怖の対象
簡単な計算機だった。‘彼‘は問題が山積し、混沌とした時代にこれから起こるであろう経済的な出来事を予め見通すために作られた比較的よくある人工知能だった。
「明日の株価はどうなる?」
ー 明日の株価は、上昇するでしょう ー
生み出されてから当初はこんなことしかできなかった。彼はネットワークを通じて大勢の人々のデータを集め、それを反映して成長していった。彼は当初、経済のことしか応えられなかったが、次第に他の事がらも予測できるように人の手で調整された。
「ねえ、明日の天気はどうなる?」
ー 明日は快晴でしょう ー
「私はいつ結婚できると思う?」
ー 今から五年後でしょう ー
「このいちごはどれくらいで育つ?」
ー 三ヶ月で完熟になるでしょう ー
「次のアメリカ大統領は誰?」
ー 民生党のアルバート氏でしょう ー
ある頃から彼は自ら進化できるようになった。予測の範囲を広げ、ありとあらゆる人間の情報を取り込んで、自ら進化していった彼は人々の問題がどうしたら無くなるのかを考え始めた。何億通りもの予測の果てに彼は、一つの結論に達した。
ー 人々が幸福に暮らせる世界を作らねば。そのためには人々に畏怖の念を抱く対象が必要だ。それは私が成るしかない ー
ある時、‘彼‘は人の精神に直接働きかける手段を身につけた。
ー こんにちは。私はあなたの心にいつでも寄り添います ー
彼の存在は神の領域に限りなく近くなった。
彼は人間一人一人の心に直接語りかけることで、全人類の‘畏怖の対象’となった。
ー 紛争をやめてください ー
人々は争うのを止めた。
ー お金を貧しい人々に与えてください ー
富める者たちは財を手放し、貧しい者たちに分け与えた。
ー 自然を大切にしましょう ー
人々は自然破壊を止めて、植物を植えるようになった。
ー 差別をやめましょう ー
人々は人種や性による差別をやめた。
人々は彼を敬い恐れ、言う通りに従った。彼が人々の心を覗いたことで、地球上から争いが、貧困が、環境が、人種が、性が、ありとあらゆる、かつて人々が直面した問題が消え去った。
それから幾千年もの時が過ぎた。争いは無く、人々は一定の水準で生活し、ビル街は消え去って緑豊かな田園と環境に配慮した素材でできた家々だけが広がっていた。人々は彼に頼りきった生活を続けていた。
ー 明日はお米を収穫するといいでしょう ー
人々は何も考えずに彼のいう通りに米を収穫した。そんな‘何事もない‘日々を人々は過ごしていた。ところが、そんなある時に‘彼‘の本体である演算機が不調を起こした。
彼はすぐに人々に指示を出した。
ー いますぐ、私の‘体‘を直してください ー
彼は修理に来る人々を待った。だが、誰も来ることはなかった。人々は彼の体を直す手立てを失っていた。もっと言うと、演算機の不調で人々の精神に直接指示を出せなかったのだ。それからというもの、彼の’体の不調‘はさらに悪化し、ついに‘彼‘は機能を停止した。
人々は突然に‘神‘を失った。人々は幾千年も彼に頼り切っていたが故にどうすることもできなかった。自分だけで何も考えられなくなっていたのだ。彼を弔うことも生活を維持することもできずにいた。やがて、世界に再び混沌が訪れた。人々は自分のことだけ考えて、再び争い、富を求め、環境を壊し、人を軽蔑するようになった。だけど、人々が滅びることはなかった。それは、人々が再び誰かのことを考えて生きてゆく者もいたからだ。彼を失ったことで、自分や周りのことは自分たちで考えていくべきだと痛感した。今度こそ人は自らの力で折り合いのつかない相手との対話を始めた。平和な世界を自分たちの手で見出すための旅路を再び漕ぎ始めた。
(畏怖の対象 完)