ハロー
草も生えないようなアスファルトの道中で、ふと、前を見ると電話ボックスが僕の目前にあった。その電話ボックスは新品同然のように綺麗で、なぜか周りにだけ草花が生えている。僕は興味本位でそれに近づいた。ボックスの扉が少し開いている。中に入ると綺麗に手入れされた公衆電話が、まるで、誰かが訪れるのをずっと待っていたかのように佇んでいた。よく街中で見かける物と全く代わり映えのない公衆電話。だけど、一つだけ街中にある物とは違うのは、既にお金が投入され電話番号も打ち込まれていたことだ。僕が受話器を外せば、この番号に電話が繋がる。気がつけば僕は受話器を外していた。受話器を耳元に当てる。繋がるまでに十秒ほどの時間がかかった。繋がってすぐに波のような大きな音と若い女性の小さな声がした。
『もしもし、湊です。どちら様でしょうか?』
女性の声はとても弱々しかった。僕は相手にどう言えば良いのかわからず、
「あ、ええと、桂木と申します。浅井音楽教室の体験レッスンの案内でご連絡しました」
と答えた。もちろん、浅井音楽教室の体験レッスンなんて嘘である。
『ええと、そういうのは結構です……』
「そうですか」
僕の嘘はあっさりと突き返されたが、一つ気になったことがあった。具体的な根拠はないが、この電話を切ったらきっと後悔するだろうという嫌な予感がした。だから僕はできる限り通話を続けようと思った。
「あのよろしければですが、そちらの家族構成を教えていただけないでしょうか?」
『どうして、ですか?』
「教室の今後の運営のためです」
すると相手は涙を堪えるような声で、
『父と母は、今朝、死んじゃい、ました。だから、これから、私も、私も!』
彼女の叫びが僕の耳元に届いた。そのあと、物凄い物音がした。おそらく携帯を投げたのだろう。携帯が投げられた後で、さっきまでとは違う声がいくつも入ってきた。
『女の子が海に飛び込んだぞ! 誰か、消防に電話! お医者さんはいませんか! ……』
そこで通話は途切れた。受話器を戻す。間に合わなかったのだろうか。ふと、目を上げると電話の上に一枚の切り抜かれた新聞記事が置いてあった。記事には今から五年近く前に起こった少女の入水自殺の物で、少女が入水した瞬間、一組の旅行客が近くまで来ていたが、誰も気がつかなかったということが記されていた。
この時、僕はこの電話がなぜ彼女に通じたのか理解した。僕が彼女に電話したことで、旅行客が気がついて、彼女が助かるものに過去が変わったのだ。
「ああ、良かった」
思わず、声が出た。僕はボックスを出た。すると、一本の電話が僕の携帯にかかってきた。恐る恐る、通話を始める。
「もしもし、桂木です。どなたでしょうか?」
『もしもし、湊と言います。もしかして、あの時の……』
朗らかな彼女の声がした。過去がほんのわずかに良いものに変わったのだ。電話ボックスの方を振り向くと、そこにボックスは無かった。
僕は迷わずに、
「はい、そうです」
と答えた。
(ハロー 完)