第12話 腕の一本
脳内を空白が埋め尽くす。
理解が追いつかない。
人形姫の憑依先は涼弥。
人形姫の憑依先は涼弥。
人形姫の憑依先は涼弥。
ダメだ。
何度復唱しても飲み込めない。
思考が硬直する。
着地と同時に右に大きく跳んだ自分の身体を認識し、ようやく我に返る。
つい先ほどの己の位置に、再びガラス片の雨が横殴りに降ってきた。
「……反応が、速い。 気づいてた?」
涼弥の口で。
涼弥の声で。
涼弥じゃない誰かが言った。
事実への納得が恐ろしく速い。
既に予想していた事態であるかのような口ぶりだ。
「疑念を抱いたのはつい先ほどなのだがな。 戦闘の邪魔にならぬように建物内の人間を操り、移動させる。 涼弥もその対象のうちの一人だと初めは判断した。 だが、どうせならそのまま涼弥を操ってヒイロを攻撃するべきだった」
ライの言う通りだ。
成人男性に比べれば腕力は劣るのかもしれないけど、意表を突く意味合いを考慮すればそれほどの最善手はなかった。
僕が今味わっている衝撃と、突然首を絞められた時の動揺が重なっていたらあれほどスムーズにライと身体を交代できなかったかもしれない。
「その手を取らなかったのには理由があるーー涼弥こそが貴様の憑依先であり、本体が自ら攻撃を仕掛けるのはリスクが高かったからだ」
「この身体の娘が、いなくなった後に、戦闘開始。 それがただの、偶然の可能性の考慮は」
「ゴーレムが現れた日のスズヤは挙動がどこかおかしかった。これを訝しむなと言うのは、先ほどの考察に至った身としては無理な話だ。」
ゴーレムが学校に降ってきた日。
涼弥は僕の教室に訪れながらも結局何もしないで退出した。
そしてゴーレムを倒し終わったあと、一人だけ校舎裏に潜んでいた。
追手の憑依と結びつけるには根拠が足りないけれど、不審に思うぐらいは当然なのかもしれない。
(でも、涼弥はライのために色々と協力をしてくれたじゃないか)
「己を前提にするな。 思考を広く展開しろ。 よいか、ヒイロと違って普通は身体を乗っ取られた場合その間の記憶は保持できない。 涼弥自信、自分こそが追手側の憑依先であった自覚はなかったということだ」
否定に否定で返され、僕は二の句を継げずにいた。
ライの言っていることは絶対的に正しい。
なぜなら、身体の支配権を奪われた状態の涼弥が、現にして目の前に立っているのだから。
僕がどんな反論を唱えようとも、圧倒的な事実が揺らぐことは決してない。
「トゥルよ。 スズヤの身体だからといって、俺が手を抜くことは期待せぬことだ」
互いの距離がここまで狭まると、剣士であるライの方に武があるのだろう。
容赦なく剣を向けるライと、一歩後ずさる涼弥の身体。
「貴様に逃げ道はない」
「……」
かなりヒヤヒヤしちゃう光景となってまいりました。
傷つけずに捕らえることが目的であると理解した上でも、後輩女子が刃物を突きつけられているという光景には流石に固唾を飲んでしまう。
「作戦、破綻。 」
呟きと共に、床のタイルがめくりかえった。
巨大な岩を人形のように操ることが出来るのだから、これぐらいの出力は当然なのかもしれない。
空中へ剥がされた床材はモーターを取り付けられたかのように高速回転。
そのまま手裏剣のようにこちらへと放たれる。
「ーー甘い」
それをたった一度、強く踏みつけて無力化するライ。
足元から射出されたタイルは、能力の餌食になるまでもなかったらしい。
「……っ。 まだ」
人形姫の瞳の赤みが増し始めると、剥離音が耳を劈く。
先ほどのタイル手裏剣が、次から次へと姿を円形にブレさせていた。
「これで、」
「無駄だ、たわけ」
こちらに矛先を向けようとする攻撃には目すら向けずに、ライはそのまま人形姫までの僅かな距離を詰めーー弾き倒した。
連動しているかのように能力で浮かび上がっていたタイルもその場に落ちる。
『物体を自由に操る能力』というのは万能そうに見えても、接近戦に持ち込めば本来の力は失われるらしい。
尻餅をついた相手を見下ろすライ。
勝利の構図が見えてきた。
ほっと一息吐く。
いや、身体はライに取られてるんだけど、こう、気を抜く的な意味でね。
破壊と破壊の応酬。
戦略と知略のぶつけ合い。
能力と能力の衝突。
平和な国で育った日本人には、鮮烈すぎる体験だった。
(……で、どうやって拘束するの?)
聞いている間に、我ながら今更な質問だと思った。
拘束といえばロープで縛るみたいなイメージがあるけれど、そんなものは手元にない。
「そんなもの、俺の能力で地に縫い付ければよい話だ」
「あっ、そっか……あれ?」
よく考えたら目の前の女子に縛り上げたところで、意味がないのではないのではないか。
人形姫さんは魂だけの存在なのだから。
「ライがタクの身体に乗り移った時みたいに、彼女も身体を手放せば簡単に逃げられちゃうんじゃ……?」
「ほう、中々良い着眼点だ」
少し意外そうな声色を上げるライ。
流石は王子様、ちょっぴり偉そうな口ぶりから察するに、答えは持ち合わせているらしい。
(そ、そうかな)
褒められると素直に嬉しくなるね。
ここのところ、思考力に関しては涼弥とライに置いてけぼりにされていた感覚があった分、なおさらだ。
「ああ、何せこの俺ですらその発想には思い至らなかったのだからな」
(へへ、それほどでもな……え? 今なんて?)
「いやはや、困ったな。 たしかに魂だけの存在、捕らえようがないではないか」
(何でそんなに余裕なの!?)
この人しれっと何言ってんの。
『ほう、中々良い着眼点だ』じゃないよ。
何でそんな見透かした風なんだよ。
「あっ……そう、私の、有利性、依然変わりなし」
(今『あっ』って言ったよね。 絶対自分でも気づいてなかったよね)
僕の言えたことじゃないけど、人形姫さんは案外頭が回らないのかもしれない。
涼弥という想定外の本体と、そのチートじみた能力を使えばもっといいやり方はいくらでもあった筈だ。
「有利性、とな。 ふっ、もう少し頭を働かせるがよい。 同じ魂だけの存在なのだから、貴様に出来ることは俺にも出来る。 万が一、いや兆が一の可能性で、仮に俺が命の危機に瀕した場合は、身体を乗り替えればよいだけだ。 貴様に俺を始末することは一生不可能だ」
「!!……」
(いや、乗り替えないでね。 最後までちゃんと頑張ってね)
とんでもないことをしれっと言う王子。
それ、僕が死ぬやつだよね。
しかし、ここに来て一気に戦況が膠着してしまった。
ライを始末したい人形姫さんと、人形姫を拘束して元の世界に戻るための切符を奪いたい王子。
そのどちらの目論見も、叶わないことが判明してしまった。
「いや、まだ結論を出すには早かろう」
首を横に振るライ。
何か作戦を思いついたのかな。
この王子はノープランでも自信満々に振る舞うものだから、中々油断ならないけど。
「ではトゥル、よく聞け。 もし貴様が元の世界に戻る方法を言わなかったら、涼弥の腕を一本斬り落とそう。 その娘に少なからず愛着があるのなら、速く口を割るがよい」
(ちょちょちょちょちょ、何を言ってるの!?)
急にゲスなこと言い始めたよこの王子。
いくら何でも洒落にならない。
冗談にしてはたちが悪い。
もはやただの脅しだよ。
はっ、もしや腕を斬り落とす云々はブラフ……?
それなら一応納得できなくもない、かな。
もう少しマシなのはなかったのかとも思うけど。
「……会話は、不要」
しかし冷酷な返事を返す。
はったりがバレたか。
いや、そもそも涼弥の腕の有無なんてどうでもいいと思っているのかもしれない。
気の抜ける会話で忘れそうになるけど、この子はライの命を取りに来たんだ。
まともな命の価値観を持ち合わせていないことが伺える。
「そうか……」
ライは残念そうに目を伏せる。
「では、宣告通り、斬るとしよう」
そしてそのまま前方へ一歩踏み込み、刃を振り下ろした。
真紅の雨が視界に舞い踊る。
暴走した噴水のように、鮮やかな血が飛沫をあげている。
ーーそんな幻覚を見た。
瞬きを挟むと、血はどこにも流れてなどいなく。
寸での所でもう横に跳びだした涼弥の身体に、ほんのり掠った程度の切り傷が出来ていた。
「ほう、存外に速い反応速度であるな」
「……」
……え?
今、ライは何をしたんだ。
彼女に向けて、これ以上ない速さで剣を振るった。
もし、向こうの回避が少しでも遅れていたら。
幻覚では済まされなかった。
涼弥は肩から先を失くし、血の海を流していた。
(ライ、何してるの? そんなことしたら涼弥がーー)
「何を驚いているのだヒイロ。 口を割らなかったら斬る。 そう説明したではないか」
違う。
いや、違くないけど。
そういう空気じゃなかったじゃん。
「……何を言っているのかが分からぬぞ、ヒイロ」
心底不思議そうな声を出す王子。
本当に、僕の動揺を理解していないといった声色だ。
何を言っているのかが分からない?
こちらの台詞だ。
『そういう空気』を感じ取っていたのは、僕だけだったのか。
ライの脅迫はギャグで言ってると思っていたのは、僕だけだったのか。
本人は、初めから本気だった。
(で、でも、涼弥の腕を落とすだなんて。 彼女は何も悪くないじゃないか)
当然に思える僕の疑問に、しかし王子は首を傾げた。
「たしかに涼弥に非はないが……何人もの民を確実に救うためだ。 ーーたった一人の人間の、それも片腕ぐらい、安い代償であろう?」
ーー絶句する。
反射的に脳裏をよぎったのは、ライが涼弥を自動車事故の危機から救ったときの会話だった。
手ひどい怪我を負った運転手を見て、僕はライならあの男も救えたんじゃないかと聞いた。
あの時ライはこう言った。
『あの男を救おうとして失敗していたら、スズヤも死んでいた。 だから俺はスズヤだけを救った。』
「すまないヒイロ、話はあとにしよう。 今はスズヤを斬らせてくれ。 王子たる俺の要求を聞けない輩には、しかるべき教訓が必要だ」
王子はいつもと何ら変わりない喋り方をもってして、理解しがたいことを言う。
そして人形姫に向き直る。
「もう一度だけ問おう。 元の世界に戻る方法を教えるか、その娘の腕が失われるか……いや、それでは秤が後者に傾くということは今しがた把握した」
再び剣を構えた王子は。
臆面もなく言い放った。
「元の世界に俺を帰すがよいーーさもなくば、スズヤを殺す」
足元がなくなる錯覚を覚えた。
おかしい。
絶対におかしい。
これは悪夢だ。
僕はいつの間にか眠っていて、夢を見ている。
そう思わないと、信じられない。
でもたしかに機能している五感が、これは夢なんかじゃないと、完膚なきまでに現実なのだと、思い知らせてくる。
故に、信じられない。
ライの突然の言動が信じられない。
顔色のひとつでも伺えたらよかったのだけれど。
自分で自分の顔を見ることはできない。
ーー表情の見えない俺がいる。
「……状況は最悪。 撤退を推奨」
さらに一歩、後ろに身を引く人形姫。
それを見て二歩相手に近づくライ。
「貴様が魂のみの状態で逃げた場合も、スズヤは殺す」
「関係ない。 撤退準備を開始」
「ほう、関係ないか。 では、なぜ先ほどの一撃をわざわざ避けた。 あの時にすぐに身体を捨てればよかったものを」
一体、僕は今どんな表情をしているんだ。
この王子は、なんでこんな台詞を吐いているんだ。
何一つ理解できない。
「反射的回避。 脳を介さない命令は、私の判断と無関係」
王子の揺さぶりに、人形姫は表情を崩さない。
少しぐらい動揺の色を見せて欲しかった。
その無表情は、あまりにも似ている。
涼弥の顔で、涼弥の表情をされてしまったら。
得体の知れない靄が、心を包み始めてしまう。
「最後の機会を失ったな。 では、スズヤの命を」
(--返せ)
「ん? ヒイロ、今何かーー」
「僕の身体を返せ、と言ったんだ」
声は、自らの喉から発せられた。
(!!--何をしている、ヒイロ!!)
「そっちこそ何考えてんの!? 涼弥を殺そうだなんて、正気じゃないよ!!」
たまらず身体の支配権を奪い返した僕は、そのままライに言葉をぶつけた。
ぶつけずにはいられなかった。
「!!--状況が変化。 撤退の成功率上昇を確認、撤退に移る」
中身が入れ替わったことに気が付いたのか、人形姫はすぐに立ち上がった。
脱兎のごとき勢いでそのまま店外へと駆け出す。
苦労して追い詰めた敵の筈なのに、それを追いかける気にはなれない。
(そちらこそ何をしているヒイロ!! 逃げられてどうする!! 今すぐ後を追え!! いや、その前に身体を俺に返せ!!)
「返せ、じゃない。 元々僕の身体だよ。 それより答えてーー何考えてんの!?」
衝撃と憤怒を露わにする声は既に頭の中へと引っ込んでいる。
何もない空間に向かって問いかける。
(何とは何だ。 そのままであろう。 涼弥を人質にして元の世界に戻る方法を聞き出そうとした。 存外に効果があったというのに、それを無に還すとはどういった猟犬だヒイローー速く身体を寄越せ。 今ならまだ間に合うかもしれん)
「寄越さない。 人質ってどういう意味!? 涼弥を殺そうとするだなんて、正気じゃないよ!!」
何で急にそんなことを言い出すんだよ。
涼弥は僕達のために頑張ってくれたじゃないか。
信じられないことをのたまう僕達を、信じてくれたじゃないか。
「たわけ、俺を至って正気だ。 気が動転しているのはヒイロの方だ。 ……致し方ない。 トゥルを追いかけるのはひとまず後にするとして、よく聞くがよい」
落ち着きはらった様子で、まるで子供に諭すようにライは続けた。
「俺が一刻も速く帰還することに、アケルの民たちの幸福な暮らし、そして数多の志願兵達の命がかかっている。 涼弥一人の命を代償とし、圧倒的な人数の命を救うのだ。 だから、涼弥を殺そうとした。 どうだ、分かったか?」
ーーああ。
僕は酷い勘違いをしていたらしい。
身分が違えど、国が違えど、世界が違えど、戦場という場所で心身を削ってきたといえど。
ライは、僕と同じだと思っていた。
同じ、ただの子供だと思っていた。
ーー的外れもいいところだ。
そこまで条件の揃わない二人が、同じである筈がないのに。
異世界の王子様が、強めのオタク気質というだけでどこにでもいる男子高校生と、同じだと根拠もなく信じていた。
僕とライは違う。
決定的に違う。
身分も国も世界も。
常識的な考え方が、根本からして違う。
「人でなし……」
(ふむ? 突然の罵倒は不可解であるが、あながち間違った表現でもない。 俺は人である前に、王となる者であるからな)
この男は。
この王子は。
人を救うために、人を見殺しにできる。
誰かの命の恩人となるために、誰かの仇になる。
そこにあるのは、個人的な感情で動く人間などではなく。
全体の利益を最優先とする、王の在り方。
トラック事故の時から、その片鱗は現れていたというのに。
今まで気がつけなかった。
「……ライ」
(どうした。 俺の言いたいことが分かったか)
「……うん、分かったよ」
絶対に分かり合えないということが、ね。
見えている世界がまるで異なっているということを、今更ながらに悟った。
(では情報の整理が終わったところで、早速トゥルの後をーー)
「ちょっと待って」
トゥルの後を追いかけて、その内追いつけたとして。
何が起きるのかは既に分かっている。
ーー涼弥が殺される。
この王子が。
僕自身の手が、彼女を殺めることになる。
言葉を紡ぎだした唇は、震えていた。
「ライには、もう、協力できない」
(……は?)
一歩引いた所から見透かしているかのように振る舞る王子から、初めて動揺の声が漏れた。
(なぜだヒイロ。 一体どうしたというのだ)
「涼弥を、こ、殺そうだなんて言う奴に、協力はできないよ……」
責め立てるように問いかけてくるライ。
その剣幕に怖気づいたのか、返事の言葉には我ながら覇気がともっていない。
(ーー馬鹿をいうな。 ヒイロ、理解しているのか。 貴様は数多のアケルの民達の命を、見殺しにするというのか)
「え? いや、そういうわけじゃなくてーー」
やけに刺々しい言い方だ。
単に僕はライの行動についていけないだけだ。
別に見殺しにしようだなんてーー
「お……」
思っていない。
そう弁解しようと開いた口は、ひどく乾いていた。
そんなのはただの言い訳だ。
僕の取ろうとしている選択は、事実として、人を見殺しにする行為だということに気が付く。
(目を覚ませヒイロ。 アケルの民達のために、ヒイロの力は必要だ)
まるで僕が悪者みたいな言い方をするライーーいや、『まるで』ではない。
僕から見たこの異世界の王子は、酷く歪んでいる。
歪んでいるけれど、正しい。
より多くの人間を救うために少数の人間を殺す彼は。
狂っていると同時に、絶望的なまでに正しい。
それに比べた僕は、圧倒的な悪だ。
たった一人の女の子のために、何人もの異世界人の死を見過ごそうとしている、悪だ。
……いや、何を言っているんだ僕は。
そりゃたしかに数字的に見ればライの行動は最良だけど。
道徳的に見て、知り合いの女の子を人質にするだなんてことが正しい筈はない。
「何と言おうと、ライのやり方の僕は賛同できない」
姿勢を持ち直して、僕はきっぱりと言い放つ。
流されてはいけない。
ライにしたいがままをさせたら、必ず後悔してしまう。
そう思った矢先に返ってきたライの言葉は。
やはり、どうしようもなく正しかった。
(ヒイロ、アケルを取り戻すために協力するという発言はーーあの騎士の誓いは、噓だったのか)
「--え?」
思わぬ論点の提示に、虚を突かれた気分を味わった。
(俺が世界を取り戻すために協力する。 貴様はたしかにそう言った。 あれは、出まかせであったのだな)
失望が滲み出た語調。
ーー噓なんかじゃない。
僕はたしかにライの世界のために力を貸したいと。
錆びかけた、青臭い正義感を思い出して。
ライの差し伸べた手を握った筈だ。
筈なのに。
開いたまま言葉を発さない僕の口はーーやはり乾いていた。
何も言い返そうとしない自分に気が付いて、背筋が凍る。
僕があの時放った言葉が噓だと、自分自身が認めてしまっている。
では、僕が本当にライに協力した理由はなんなのだろう。
ーー簡単なことだ。
涼弥の家で冷水を飲み交わしたのは、ついこの前のこと。
思い返すのはそう難しくなかった。
(貴様の中に、正義などなかった)
僕がライの手を握った理由。
それはーー
(なんとなく、その場の勢いだけで、俺の協力要請に応じた。 そんなところか)
ライの声には激情が含まれておらず。
愚民をただひたすら冷ややかに見下すような、無機質さしかなかった。
正解だ。
正しい解だ。
ノリ気じゃなかった僕の心に火をつけたのは、再起した正義感などではなく。
後輩からじっと見つめられて感じたーー気まずさ。
『ああ、これ、僕が協力する流れだな』
『ノーと断ってしまったら、涼弥からの評価を損なってしまうな』
そんな、『察し』と『下心』が僕を突き動かしていた。
「……」
水分が枯れても尚開けていた口は、とうとう閉じられてしまった。
王子は正しくて、僕は間違っている。
その答えに至ってしまえば。
もう、何も言えない。
(……さらばだ、貴様の身体に残る理由はない)
「え? ライ、何を言ってーー」
(身体を譲り渡す気のない貴様に、もはや用はない)
言葉を聞き終えた瞬間。
僕の中で、決定的な何かが失われた。
短い間ながらも、存在を誇示し続けていた異質感が、完全に消滅する。
本能的に理解する。
ライの魂が、僕の身体から消えた。
居候王子は、違う物件に移動した。
床に散乱するクレーンゲームの景品。
ひしゃげた箱を拾ってみると、その中には見覚えのあるネックレスがあった。
僕はそれを、なんとなくポケットにしまいこむ。




