am 7:45
鶴見課長がフェイクヘアだという事実は、公然の秘密だ。
まだ30代後半の課長だが、若い頃から薄毛だったらしい。
本社採用された後、何ヶ所か支店を転勤して、本社に戻ってきたときには、別人になっていたという――毛髪量が。
『鶴見の奴、北海道で結婚したんだよ。それで……被ったんだろうなぁ。あ、これは秘密だぞぅ』
マーケティング部の蒲田部長が、去年の忘年会の3次会でポロリと溢した「秘密」は、翌日には「公然の秘密」になっていた。実際、課長のビフォアーアフターを知る者はほとんど居ないので、長らく河童や天狗みたいな懐疑的な扱いだった。むかーし目撃者は居たようだが、久しく目にした者は居ない、というアレだ。
だけど――伝説上の生き物は、実在した。もとい、噂は本当だった。
だって、ほんの5m先のデスクトップの向こうから、違和感たっぷりに地滑りした髪が、チラチラとこちらを窺っているのだ。
「課長、中央線で人身事故があって、皆から出社が遅れるかもしれないって連絡がありました」
「えっ、参ったなぁ」
参ったのは、私です。
朝から、何たるプレッシャー。しかも、室内には2人切り。この緊張感は、半端ない……。
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スマホを覗くと、同僚達から、ぽつぽつとLINEが入っていた。
『風が強かったですねぇ。って言いながら、自分の髪を直す振りをする、っていうのは?』
今朝は、風なんて吹いてないし。第一、そのアプローチは、挨拶の直後じゃないと不自然でしょ。
『あ、ゴミが……って、さり気なく髪を触って、直しちゃえば!』
そんな器用に出来ないし! そんな度胸もないよぉ。
『窓開けるか、エアコン付けて、強風に晒してみたらどう?』
今は冬ですよ? それも無理があります……。
同僚達の協力は有難いけれど、そのアイデアを実行するのは、私なのだ。皆、我が身に置き換えてみて欲しいなぁ。
『ナナちゃん。鏡作戦、どうなった?』
タイムラインの最後に、ユミちゃんから質問があった。
『ダメ。ネクタイだけ見て、肝心な部分は気付いてくれなかったぁ』
『そっか。手強いねぇ』
温くなった紅茶を飲んで、こっそりと溜め息を吐いた。
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鶴見課長が嫌な上司なら、こんなに悩むことはなかったと思う。
社内外に不自然な髪型を晒し、思いっ切り恥をかいてしまえばいい、と割り切れる。
だけど、課長は良い人なのだ。仕事も出来るし、部下の面倒見もいい。失敗しても一方的に責めたりしないし、変なオヤジギャグで場を凍らせたりもしない。大人の対応が出来る、穏やかな性格の人なのだ。
だから、彼のことを表立って悪く言う人はいない。
マーケティング部の女の子達は、彼女達の上司を引き合いに出して、『企画部は、上司に恵まれているわねぇ』と羨んでいた程だ。
だから、恐らく本人が気にしているであろうデリケートな部分で恥をかかせたくない。出来ることなら、そっとしておいてあげたい。
だから、皆が出社する前に、気付いて欲しいのに。
「あ、9:30から会議があったんだ。このネクタイじゃマズいなぁ」
えっ。会議?!
「社長もいらっしゃるんですか?」
「いや。でも第三部署は、部長以下が出席するよ。このネクタイはマズいなぁ……」
マズいのは、ネクタイだけじゃありません、課長。
頻りに胸のネクタイを気にする彼を見ながら、ますます焦りがつのる。
部長以下の会議ということは、広報部の堂門課長も居るということだ。あの「拡散屋」の異名で煙たがられている、お喋りオヤジが。
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その情報伝達の速さから、Wi-Fiを飛ばしてるんじゃないかとさえ恐れられている、広報部の堂門課長。
『よりによって、ヤバい人と会うねぇ』
ユミちゃんも、「青ざめた猫」のスタンプを付けている。
『いや、いっそのこと、拡散屋に指摘してもらったら?』
『馬鹿だな。何で教えてくれなかったんだ、ってナナちゃんが恨まれるだろ』
『うちの部内で収めた方がいいって!』
ですよね……。
『私には、このミッション重すぎます~。皆さん、早く出社してくださいよお~』
泣き言を入れてみるが、
『ごめん!』
『そうしたいのは、やまやま』
『無理ー』
『まだ動かないんだわ』
分かってます……。言ってみただけですよぅ。
『頑張って、ナナちゃん。課長を救えるのは、ナナちゃんだけだよ!』
ユミちゃんの励ましに、LINE上は一斉に「拍手」のスタンプが踊った。