第六幕 7枚のハガキ
贈り物には必ず意味がある。たとえその意味が、相手に伝わらなかったとしても
福朗達が事務所に帰り着いたのは、十九時に差し掛かりそうな時間帯だった。大学を離れたのが十八時過ぎだった為、本来ならもう少し早く帰れたはず。しかし道中、事務所の食材が減っていると明日香が言うので、スーパーで買い足しをしてから帰ったのだ。
到着してからの福朗の第一声。
「あ~、疲れた。腹減ったなぁ」
外で食べて来ても良かったのに、しっかり者でちゃっかり者でもある明日香が外食を許してくれなかったのだ。
「すぐ作りますから、ちょっとだけ待ってて下さいね」
そう言った明日香は自分の鞄をソファに放り出し、福朗の握っていたスーパーの袋を奪い取って給湯室へ消えていった。
福朗は扉から見て奥側のソファにどっかりと腰を下ろし、給湯室からのガサゴソ音を聞きながら考える。通報されてしまった以上、今日のように大学前での張り込みはできないな、と。
どうしたものかと考えながら、福朗はとりあえずメモ帳を確認する。そこに書かれているのは、昨日猫宮から聞いた情報、今日直接真田を見て得られた印象、そして沙和から得られた情報だった。沙和の情報によれば、高月は昨年の絵画コンクールで優秀な成績を納めたらしい。
明日香の手料理を待つ間暇だった福朗は、ソファから立ち上がり事務机のパソコンへと向かう。スペックは高くないものの、ネットサーフィンをするには申し分ないパソコンだ。絵画コンクールについてネット上でなにかわかるのでは、と考えたのだ。暇だったので。
事務机に併設された偉い人が座りそうな椅子に座り、福朗はパソコンの起動ボタンを押して立ち上がるのを待つ。現状暇な福朗としては、パソコンの立ち上がりがいつも以上に遅く感じられた。
ようやくパソコンが立ち上がったので、福朗は早速ブラウザをクリックして検索エンジンに繋げる。検索ワードは『二〇十九年』『高月望深』『コンクール』。以上を入れて福朗は検索を開始した。
検索の結果、画面に複数の情報が一気に現れる。それらの情報が猫宮の幼馴染である高月と、同姓同名の人物である可能性もなくはない。しかし福朗の知識と経験上、『高月』という姓はそこまでマイナーではないものの、『望深』と書く名前は珍しいものだ。おそらくは対象の高月で間違いないと考え、一番上のリンクをクリックした。
リンク先は『境戸市美術館主催 二〇十九年度学生絵画コンクール』、というサイトだった。コンクールは、油絵、水彩、パステル、と三種類のジャンルに別れており、それぞれにテーマが指定されている。油絵なら『夜空』、水彩なら『自然と家屋』、そしてパステルなら『太陽の恵み』。その中の油絵の項目に高月の名前が表示されていた。
「優秀な成績を納めたとは聞いたけど、大賞って最優秀じゃないか」
福朗が感嘆の声を上げる。猫宮といい、高月といい、明日香の通う大学には優秀な学生が揃っているらしい。詳しく内容を確認すると、受賞者の所属も判明した。『受賞者である高月』の所属は境戸造形美術大学になっている。やはり対象の高月で間違いない、と福朗は確信を得た。
コンクール自体は小規模なもので、毎年四月に各ジャンルのテーマが通達されるようだ。九月末に応募締切で、十月最後の週末に結果発表となっている。優秀作品に選ばれると、その後年末まで美術館に展示されるとの事だった。実際に展示されたのは各ジャンルの大賞作品一枚ずつと、副賞作品三枚ずつとなっている。しかし、なにぶん半年も前に過ぎたコンクールのサイトである為、大賞作品の情報しか掲載されていなかった。
福朗に絵画鑑賞の趣味はないが、高月の受賞作品が表示できるらしいのでとりあえず表示ボタンを押してみる。すると表示されたのは、見切れるほどに大きく描かれた月と思しき物体と、その向こうに小さく描かれた黒猫の絵だった。
「う~ん。印象的な絵だとは思うが……俺にはよくわからんな」
言葉通り、頬杖をついてしげしげ眺めていても、上手く描けているな、くらいの感想しか福朗には浮かばなかった。
暫く絵を眺め続けていた福朗の耳に、明日香の声が届く。
「フクさ~ん。できましたよ~」
お盆に深いどんぶりを二つ乗せた明日香が現れた。本日の夕食はご飯を炊く時間がなかった為、うどんとなっている。
「はいよ~」
福朗は軽い返事と共にブラウザを閉じた。
↓うどん完食後↓
うどんだけでは福朗的に少し物足りなかったが、甲斐甲斐しく飯を用意してくれる明日香に文句を言うわけにもいかない。ちゃっかり明日香が食費節約と謳うように、福朗としても外食が減り、食費が浮いているからだ。
バイトである明日香に財布の紐を握られているようで、福朗は少し変な気分になる。さっきの買い出しの時だって、こっそりお菓子を入れようとしたら怒られたのだ。明日香の恋人となる男はきっと、尻に敷かれるに違いない。
もし腹が減れば明日香が帰ってからなんなりと間食するとして、福朗はハガキの話をしようと切り出す。
「明日香ちゃん。猫宮さんから受け取ったブツを見せてくれる?」
「いかがわしい言い方しないで下さい。今出しますね」
そう言って明日香は鞄を開く。家事全般をそつなく熟し、女子力より嫁力の方が高い明日香は、鞄の扱いにも長けている。綺麗で華麗に整頓された鞄の中から、明日香はほぼノータイムで目当ての封筒を取り出した。
「コレが日向さんから受け取ったものです」
「その中にハガキが全部入ってんの?」
「そう伺ってます」
「中身の確認はした?」
「いいえ。日向さんがボ……フクさんと一緒に見ろと言うので」
明日香は猫宮の言葉をそのまま伝えようとして途中で言い換えた。だが、昨日散々猫宮と言い争いを繰り広げた福朗はすぐさま察知する。
「なるほど。猫宮さんにとって俺は、ボンクラ男のままなのね」
「あっ、うっ……それは……」
図星を突かれた明日香はギクリと反応するが、猫宮の名誉の為釈明を図る。
「ち、違いますよ。日向さんが言ったのは、え~っと、その……朴念仁! じゃなくて、傍若無人! でもなくて、朴訥としたって感じの表現で――」
「もういい。もういいよ明日香ちゃん」
明日香の釈明に、福朗は堪らず割って入った。挙げられた単語一つ一つが、体に突き刺さるような気分になったからだ。
明日香の語彙力は低くはなかったが、単語検索能力が未熟だった。『ボ』まで言ってしまっていたので『ボ』から始まる単語を必死に探したけれど、明日香には良い意味の単語を見繕えなかったのだ。
ガックリと項垂れる福朗を見て、明日香は申し訳なさそうに言う。
「うぅ、すみません」
明日香の謝罪を受け、福朗は体に突き刺さった単語群を払い落とし、気を取り直して話を進める。
「とにかく、だ。中身を拝見しようじゃないか」
「は、はいっ!」
明日香が封筒を福朗に手渡し、受け取った福朗が中身を取り出す。空になったどんぶりを端に寄せて一枚一枚並べていくと、確かに計七枚のハガキがあった。
「ほぼ同じようなレタリングの入ったハガキが七枚、か。猫宮さんの言った通りだ」
「そのようですね」
福朗から正常に見えるように並べられた七枚のハガキ。そのどれもに郵便番号や宛先、切手や差出人はなく、書かれているのはレタリングされた『猫宮日向』の名前だけ。猫宮の証言通り、『日』のレタリングだけが異なっている。
「裏はどうかな?」
そう言いながら、福朗が一枚一枚裏返し始める。あるハガキは真っ白で、あるハガキは真っ黒で、その他のハガキは半分だけ黒かったり、三分の一だけ黒かったりした。
「コレらに意味がないなんて、ないと思うよね?」
「はい。私もそう思います」
明日香は肯定したものの、文字通りの異色を放つ、真っ黒に塗り潰されたハガキを凝視して続ける。
「でも、真っ黒なのは、ちょっと怖い気もします」
「まぁ、確かにそうかもね」
「今日お話しして、日向さんは大学近くで一人暮らししていると知りました。私も一人暮らしの身なので、こんなハガキが郵便受けに入っていたらと考えると……」
「女の子としては怖がって当然、か」
福朗は一度頭を掻いてから、またハガキを表に反す。するとさっきはレタリングに注視していたので気付かなかったが、ハガキの右下の隅っこに、小さく日付が書かれている事に気が付いた。
「コレ、なんの日付だろう?」
「ああ、確か日向さんが言ってました。何枚も来るとは思ってなかったから最初の一枚が届いた日付は忘れたけど、以降のハガキには届いた日付を書いてるんだ、って」
「へぇ、ああ見えて意外とマメな娘だな」
「それは違いますよフクさん。日向さんはほんの少し口が悪いだけで、ガサツな方じゃないんですから」
アレをほんの少しとは言わんだろう、と福朗は思ったが、口には出さない。明日香は既に猫宮に取り入って、且つ取り入れられている。不用意な中傷発言は、明日香の猫宮崇拝に石を投げるのと同義だ。明日香に新しい姉ができた事は喜ばしいが、今話が逸れてしまうのを福朗は望まない。
とりあえず「そっか」とだけ小さく呟いて、福朗は次の指摘に移る。
「薄ら怖い印象を受けるのはわかるが、そうなるとおかしいよなぁ」
「おかしいって、なにがです?」
「明日香ちゃん。君がこのハガキを受け取ったとすると、どうする?」
「どうするってそれは、あんまり手元に残したくは……あっ!」
言いながら気付いた明日香は、ポンッと手を打ち合わせた。
「な? わけのわからんハガキが届いて、それに少しでも恐怖を感じたとしたら、捨ててしまおうと考えるのが普通だろ?」
「だったら、どうして日向さんは残してるんでしょう?」
明日香の問いに対し、福朗の中ではある程度推測が立っていた。だが、確証はない。それ故の差出人調査なので、福朗はわかっていないフリをする。
「さてね。その辺は調査を進めればおいおいわかるだろうし、今は置いておこう」
なぜ猫宮はハガキを捨てないのか。その疑問がすぐ脇に追いやられたので、明日香の方は気になって仕方がない。明日香としては、少しでも猫宮の心情を理解したいからだ。
明日香はスマホを取り出して福朗にかざす。
「今日、日向さんと連絡先を交換しました。メールで聞いてみます?」
明日香の意外な行動力は好ましく思うが、福朗は首を振る。
「いんや、止めておこう」
「え? なんでです?」
「猫宮さんって人は、言いたい事ならちゃんと口にする人だろ? あと、その時思った事を口に出してしまう人でもある。ほんの少し口が悪いのはそれ故だろう」
「だからこそ、尋ねればちゃんと教えてくれるはずです」
「違うよ明日香ちゃん、逆だ。依頼という体裁を整えた猫宮さんがそれでも言わなかった事ってのは、猫宮さんが言いたくない事なんだよ。無理に詮索すると嫌われるかもよ?」
福朗の予測演算による猫宮像は、明日香にも理解できた。それになにより、明日香は猫宮に嫌われたくない。なので明日香は引き下がる。
「うぅ……それはヤです」
「だろ? まぁ、最終的に聞く事になるとしても俺が聞くから、今は置いておこう」
「はい、わかりました」
肩を落とした明日香は、静かにスマホを置いた。嫌われる想像も明日香には堪えたが、猫宮にメールを送りたかったのも大きいからだ。
しゅんとした明日香を見て頭を掻いた福朗は、別の提案を持ちかける。
「それよりも、猫宮さんの連絡先を知ってるんなら、聞いて欲しい事があるんだけど」
「なんです?」
「バイト先であるファミレスの場所と、佐田君のシフトさ。佐田君がバイトしてる時間帯を見計らって客として行けば、もう警察の厄介になる事もないからね」
福朗の提案により、明日香は猫宮にメールを送る大義を得た。喜び勇んで大きく返事をする。
「わかりました! お任せ下さい!」
そう言った明日香は、真剣な表情でスマホに向かい始めた。
猫宮が気まぐれな猫なら、明日香は従順な犬だな、と福朗は思う。
福朗は明日香がメールを打ち終えるのを待っていたが、真剣な表情でスマホを睨み付ける明日香の指は一向に動かない。どうしたのかと見守っていると、顔を上げた明日香と目が合った。
「どうしましょう、フクさん」
「ん? なにが?」
「なんて送れば嫌われないです?」
依然真剣な表情のまま聞いてくる明日香に、福朗は困り笑いを浮かべるしかなかった。
「俺に聞かんでくれよ」
「で、でもぉ……」
明日香の眉尻が大きく下がり、今度は真剣に困っているらしい。先程脅しを掛けたのは福朗だ。しかし佐田について聞くくらいで、猫宮が明日香を嫌うわけがない。それを知っているのもまた福朗である。
福朗は立ち上がり、どんぶりとお盆を回収する。
「君は俺の助手だ。メールの件はお任せするよ」
「そ、そんなぁ……」
「洗い物と食後の茶を淹れて来るから、それまでに送っておくように」
そう言い残した福朗は、ひらひらと片手を振りながら給湯室へと消えていった。
「どうしよう……なんて送ろう……」
残された明日香はその後、打っては消し、打っては消しを何度も繰り返して、福朗が戻るギリギリまで文面を熟考するのだった。
↓お茶が入りました↓
「メールは送れた?」
「はい、なんとか」
「よしよし、上出来だ。じゃあ次は、ハガキの方を整理しよう」
そう言って福朗がハガキに手を伸ばし、明日香がメモ帳に手を伸ばす。
「とりあえず時系列順に、左から並べ直してみるか」
福朗の手により、福朗から見て左から順に七枚のハガキが到着日順に並べ替えられた。
「違うのは『日』のレタリングと裏面の黒だ。順番に一枚ずつ確認して行こう。明日香ちゃん、メモを頼むよ」
「はい」
そうして、ハガキの整理が始まった。
↓ハガキについて、明日香メモより↓
ハガキの異なる点
1.太陽を模した『日』のレタリング。周囲を取り巻く点の数が違う。
時計の文字盤12を頂点と考えて、等間隔で最大15個配置される。
2.裏面の黒く塗られた割合が違う。
白と黒が縦に分割されるように、綺麗に塗られている
一枚目、到着日不明
1.点の数は15個。
2.裏面に黒い部分はなし。真っ白
二枚目、2019年12月26日到着
1.点はなし。
2.裏面は塗り潰されて真っ黒。
三枚目、2020年1月17日到着
1.点の数は7個。頂点を抜いて左回りに配置。
2.裏面は右半分が真っ黒。
四枚目、2月2日到着
1.点の数は7個。頂点を含めて右回りに配置。
2.裏面は左半分が真っ黒。三枚目と逆。
五枚目、2月27日到着
1.点の数は3個。頂点を含めて右回りに配置。
2.裏面は右側に数センチ白を残し、残りは真っ黒。
六枚目、3月20日到着
1.点の数は3個。頂点を抜いて左回りに配置。
2.裏面は左側に数センチ白を残し、残りは真っ黒。五枚目と逆。
七枚目、4月9日到着
1.点の数は14個。頂点だけが抜けている配置。
2.裏面は右側がほんの少しだけ黒い。
↓ハガキの整理終了後↓
福朗が一枚ずつハガキを確認して違いを読み上げ、それを聞いた明日香がメモを取る。二人は全ハガキの確認が終了してから、一度お茶を口に運んで一息つく。
「どう考えても、『日』の周りにある点の数と、裏面の黒い割合がリンクしてるな」
「私もそう思います」
福朗は湯呑から離した手を頭に移動させて掻く。そのまま空を見つめ、溜息交じりに言う。
「まぁ、それがわかったとしても、意味するところまではわからんなぁ」
「こういうのって、つなぎ合わせればなにかが見えて来たりしないんです?」
「俺もそれは考えたけど、さっき並べた時全部裏返してみたろ? 日付順じゃなかったとしても、単なる白と黒だ。なにかが浮かぶとは思えん」
「そう、ですね」
整理と確認は済んだものの、ハガキの意味について特に思いつかない二人は、再び湯呑に手を伸ばしてお茶を啜った。
計七枚のハガキを改めて見て福朗は思う。重労働とまではいかずとも、手間が掛かかっているのは間違いない。このハガキ達には絶対的に悪意はなく、むしろ猫宮を想う気持ちが詰まっているのだ、と。
思案を続ける福朗を見て明日香は思う。福朗ならきっとなにかを見つけ出す。人と人との心を繋いで自分を救ってくれたように、猫宮の問題も必ず解決してくれる、と。
福朗はハガキに思考を寄せ、明日香は福朗に信頼を寄せる。そんな静寂が暫く続いた後、机に置かれた明日香のスマホが音を立て始めた。
良い雰囲気を邪魔された気分の明日香だったが、スマホを見てそんな気分はすぐに吹き飛んだ。
「あっ、猫宮さんから返信です」
嬉しそうな明日香を眺めつつ、福朗が問う。
「なんだって?」
「えっと、今度の日曜日……明後日の十二日ですね。その日なら猫宮さんと佐田さんの両方が日中のシフトに入っているそうです」
「場所は?」
「え~っと、大学近くの川沿いにある、『ここッス』だそうです」
「いいね。あそこのハンバーグは美味いからな」
そう言いながら福朗は、現状腹が満たされていない事を思い出した。ハンバーグを想像すると涎が垂れそうになる。
呆れた表情を浮かべた明日香は、福朗に釘を刺す。
「もう、ただランチをしに行くんじゃないんですからね。お仕事ですよ、お仕事」
「わ~かってるよ。明日香ちゃんも行くだろ?」
そう問われてしまうと明日香も想像してしまう。グラタンとパフェが頭の中に踊り出したので、追い出すように頭を振る。
「当然行きます。もちろんお仕事として、です」
明日香がなにかしら想像した事を福朗は察したが、余計な口を挟まずに予定を決める。
「そいじゃあ昼飯時を外して、十四時頃に一緒に行こうか」
「はい、了解です」
これで佐田を調査する目途が立った。福朗は三度湯呑に手を伸ばし、口に運びつつ時計に目をやる。時刻はちょうど、二十時になる頃合いだった。
「さて、今日はこんなところでいいだろう。時間も時間だし、そろそろ明日香ちゃんは帰りんさい」
福朗に言われ、明日香も時計に目を向けて気付く。
「あっ、もうこんな時間なんですね。早く帰って課題やらないと」
明日香とて大学生だ。福朗の道楽じみた自営業に、いつまでも時間を割いてはいられない。焦って身支度を整え始める明日香に、福朗が声を掛ける。
「次の予定は日曜だ。明日は来なくていいから、ゆっくり課題をやるといい」
福朗の気遣いに、明日香は動きを止める。
「いいんです?」
「構わないから、焦らずにゆっくり帰りなさい」
「……わかりました。そうします」
そう言うと明日香は、再びソファに腰を下ろした。
「いやいや、俺は帰りなさいって言ったのよ?」
「ちゃんと聞いてましたよ。けど、お茶飲んでからにします」
「そうかい。まぁ、ご自由にどうぞ」
福朗に対しては、明日香は割と奔放である。ご自由にと言われるまでもなく、自由に振舞うのだ。
「はい!」
笑顔で答えた明日香は、お茶を飲み干す為に湯呑に口をつける。
福朗の意図としては、道すがらを焦らずに帰れと言ったつもりだ。ゆっくりしてから帰れと言ったつもりはないのだ。それに、さっきハンバーグを想像してしまったので、小腹を満たしたくて仕方がない。本当にゆっくりとお茶を啜る明日香を、福朗は早めに追い返したいと考えていた。そして福朗は思い付く。
「そうだ。猫宮さんにお礼のメール返しといてね」
「あっ、そうでした! 早く返さないと!」
目を瞑ってお茶を嗜んでいた明日香は、持っていた湯呑を音を立てて置き、急いでスマホに持ち替える。
「早いに越した事はないけど、家帰ってからにしなよ」
「え~、でも~」
「ラリーが続くとしたら、家の方が良いでしょ?」
「それは……」
スマホを手にしたまま、明日香が暫く固まる。考えた末、福朗の策にまんまと乗っかった。
「そうします! では、私はこれで!」
口早に言い残し、ひったくるように鞄を手にした明日香は、結局焦って事務所から去って行った。
焦らせた張本人の福朗はと言うと、一度頭を掻いてから立ち上がり、給湯室へと向かう。なにかつまめる物を探す為、冷蔵庫を漁るつもりで。