第四幕 猫と自嘲する依頼人
満月を見上げて手を伸ばす猫は、決して届かないとは知らない
依頼の話を聞いた明日香は、メモ帳片手にニコニコ顔で福朗の隣に座っている。
「そんなに笑ってて疲れない?」
「なに言ってるんです猫宮さん。嬉しい時は笑うものですよ」
明日香の返答に、猫宮は一瞬驚いてから苦笑する。猫宮はやっぱり、明日香には敵わないようだ。
「さてと。んじゃ、残りのハガキは明日にでも受け取るとして、差出人の心当たりを聞こうか」
マグカップを置いた福朗は、依頼内容の詳細を聞きにかかる。
猫宮としては福朗が邪魔に思えたが、依頼するとして事務所に残った以上は話さねばならない。腕を組んで暫く考えた後、考え得る差出人候補を語り出す。
「あたしの交友関係は広くないけど、その中でも差出人として思い当たるのは三人いるわね」
「ほほぅ、三人、ですね……それでそれで?」
鼻息荒く張り切る明日香は、猫宮に先を促している。
「そもそもこのハガキが始めて来たのは、去年の十一月頃だったわ。それから大体月一間隔で届いて、今この場にあるハガキを合わせると合計七枚ってわけ」
「ふむふむ。始めが十一月。月一回のペースで届く。全部で七枚。っと」
明日香のメモを待つように、猫宮はゆっくりと話し続ける。
「悪戯であれなんであれ、去年の十一月に来始めた事から考えると、差出人の動機としてはそれ以前にあたしとなにかあった人物でしょうね。ま、あたしはこんな性格だから、良く思ってない人なんて手足の指以上いて当然かもしれないけど」
「そんな事ありません! 猫宮さんは良い人です!」
急に大きな声を出した明日香に、福朗と猫宮は驚く。驚いた後、二人は目を見合わせて苦笑する。
笑われているのを察した明日香は、恥ずかしそうに縮こまってメモ帳で顔を覆った。
「あぅ……すみません」
「いいのよ別に。むしろありがとうと言っておくわ。それに、言いつけをちゃんと守ってるみたいね。感心感心」
「言いつけ? なんだいそりゃ?」
福朗が食いついて話が依頼から逸れて行く。だが、止める者は誰もいない。
「この娘の子供っぽい謝り方について、少し、ね」
「ちょっ、ちょっと猫宮さん⁉」
「ああ、なるほど。いいじゃないか可愛らしくて、『ごめんなさい』」
「気持ちはわからなくもないけどね、もう成人してるんでしょ? だったら相応の礼儀は身に付けておかないと、困るのはこの娘じゃない。って言うか、本来ならバイトとして雇ってるアンタが、そういう事を教えるべきだと思うけど?」
「ありゃりゃ、これはとんだとばっちりだ。以後気を付けます」
「もうっ、二人共! 依頼の話はどこ行ったんですか!」
「分岐点を作ったのは明日香ちゃんじゃないか」
「そうそう、墓穴に誘導したのは貴女よ」
「うっ……それは、そうかもですけど……」
明日香が更に縮こまって、福朗と猫宮がドッと笑う。
笑われるのは恥ずかしかったが、福朗と猫宮が仲良さそうにしているのを見て、メモ帳の向こう側で密かに明日香の口元も緩んだ。
「あたしが嫌われ者なのは事実よ。でも、少しでも理解者がいてくれるなら、それで十分」
笑いが納まってコーヒーを一口飲んだ猫宮は、明日香の要望通り話を依頼へと戻す。
「差出人の心当たりだったわね」
「それです、それそれ!」
依頼内容に話が戻ったので、明日香が鼻息荒く復活する。
「ちゃんと話すから、しっかりメモ取んなさいよ?」
「お任せ下さいっ!」
自信有り気に胸を張る明日香を見て、猫宮はまた笑ってしまう。こんなに笑ったのはいつぶりなんだろうか。
「あたしを良く思ってない人達の中で、去年の十一月より前にあたしとなにかあって、且つこんなレタリングが描けるって考えると」
「三人までは絞れる、ってわけだ」
「そうなるわね」
「容疑者は三人ですか。少ない……です?」
「まぁね。この町に居る人の数を考えると、三人を調査するくらいは楽っちゃ楽だね」
「でしょうね。それより容疑者って、なんか物々しくない?」
「あっと、そうですね。う~ん……じゃあ差出人候補にします」
明日香はメモした『容疑者』の文字に取り消し線を引いてから、その下に『差出人候補』と書き直した。
「続けてもいいかしら?」
「はい、すみませんでした。どうぞ」
明日香の対応もなかなか様になって来たと思いつつ、猫宮は話を先に進める。
「まずは一人目。同じ大学のデザイン科に所属する、四回生の真田ってヤツね」
「真田さん、っと」
「真田ってのは男? 女?」
「男よ」
「男性、っと」
いちいち繰り返しながらメモを取る明日香に、福朗と猫宮はいい意味で小さな溜息をつく。
「明日香ちゃん。熱心なのは嬉しいし、口に出しながらメモを取るのは間違いが少なくて助かるんだけど、今はちょっと」
「うっ……すみません」
「あら、厳しい事言うのね」
「君の忠告を実行したまでさ」
しゅんとした明日香をよそに、福朗は話を続ける。
「その真田君とやら。デザイン科ってんならレタリングの腕は申し分なさそうだが、動機になりそうなエピソードってのは?」
「真田はデザイン科の中でも上手い方なのよ。SNSに自作のデザインをアップしまくる程にね。それで去年の中頃辺りからSNS上で評価され始めて、時々だけどデザインの発注が来るまでになったのよ」
「うわぁ、それって凄くないです?」
「凄いとは思うわ。天狗にさえならなければね」
猫宮はあさっての方向に吐き捨てるように言った。
福朗と明日香は思う。真田とやらはたぶん、猫宮の嫌いなタイプなんだな、と。
「校内でも自慢していたようだから、一時期噂になってたはずよ。貴女は知らないの?」
「それがその、噂には疎い方でして。私、文芸科ですし」
「そっか、そう言ってたわね。ちょっと待ってて」
猫宮は突然スマホを操り始めると、数秒後福朗と明日香に向けて机に置いた。
「SNSにアップされてる写真。コレが真田よ」
猫宮のスマホ画面には、どこかの店先で偉そうに腕組みをしている男の写真が表示されていた。短髪の黒髪で眼鏡をかけ、カッターシャツの上に薄手のセーターを着ている。下半身は見切れていたので背の高さはよく分からなかったが、後ろに写る扉と比較すると低くはないらしい。
「写真があるのはありがたい。顔がわかると調査も楽になる」
「その写真に写ってる後ろの店、真田がロゴデザインしたんだって」
「ふわぁ~、それは凄いです」
明日香は目を輝かせて食い入るように写真を見ているようだが、現状真田の実績に関しては割とどうでもいい。
「それはまぁ置いといて、彼とはなにがあったの?」
「去年の十月。ロゴデザイナーとして自信に満ち溢れた真田に誘われたのよ。一緒にデザイン会社を興さないか、ってね」
「ふわぁ~、それも凄いです~」
明日香の輝きに満ちた目が、今度は猫宮を捉える。視線に耐えられなくなった猫宮は、窓の外に視線を流した。
「ま、まぁ、あたしの技術もそこそこだし、真田が欲しがったのも当然かもね」
明日香はまだ羨望の眼差しを猫宮に送っていたが、福朗は平然とした口調で猫宮と真田の間にある問題を指摘する。
「でも、君は断ったわけだ」
「そ。真田に動機があるのなら、あたしはそれだと思う」
「え~、なんでです? 会社興すとかカッコイイじゃないですか」
明日香は随分と落胆している様子だが、明日香よりは現実をわかっているつもりの猫宮は知っている。
「貴女ねぇ、カッコイイとか簡単に言わないの。会社を一から興すのが、どれだけ大変かわかってる?」
「でも、フクさんにだってできるんですよ?」
そう言って明日香は福朗を指さした。それに釣られて猫宮も福朗を見る。福朗のぼんやりした顔を見ていると、不思議と明日香の言葉に説得力が生まれるような気がした。
猫宮の視線に気付いた福朗は一応弁解を図る。
「あのねぇ、君達から俺がどんな風に見えてるかは知らんけど、これでも大人としてやる事はやってんのよ?」
「そんなくたびれたジャージ姿で言われてもねぇ」
「そうですよ。全然説得力ないです」
二人の若者の言葉に、福朗はガックリと肩を落とす。元々今日の福朗の予定は、ポンちゃんの代理散歩だけだったのだ。依頼人との面会があるならば、福朗だってちゃんとスーツに身を包む。なにか他に言い訳はないものかと考えはしたが、二人分のジト目を覆せる言い訳は思いつかなかった。
「俺の事はほっといてくれ。論旨はそこじゃないはずだろ?」
「そうね。それにあたしが断ったのは、会社云々が理由じゃないもの」
「え? じゃあなんで断ったんです?」
「単純よ。あたしは真田が嫌いだから。そんだけ」
福朗は思う。やっぱりな、と。
理由を尋ねた明日香も思う。やっぱりそうなんだ、と。
二人の呆れ顔に気付いた猫宮は、取り繕うように言う。
「だってそうでしょ? ちょっと世間に認められたくらいで、舞い上がって会社作ろうだなんて、現実見えてないと思わない?」
「そりゃそうかもしれんが、それだけで嫌いとまで言うかねぇ」
福朗は真田の事を全く知らないが、会話を経た猫宮の心情ならば概ね予測演算できるようになっていた。
「大方、真田君が自分の事を自慢げに語って勧誘するもんだから、頭に来たんだろ?」
「くっ……」
猫宮の反応を見るに、福朗の予測演算はアタリらしい。図星を突かれた猫宮は、言葉に詰まって言い返せなかった。
「真田君の情報はこれくらいでいいかな。二人目を頼む」
「え、ええ。わかったわ」
福朗に言い当てられて猫宮は少し困惑気味だったが、気を取り直して二人目の候補者について語り出した。
「二人目は、同じファミレスでバイトしてる佐田君ね。どこの学校だかは忘れたけど、同い年だったと思うわ」
「へぇ~、猫宮さんってファミレスでバイトされてるんですね」
「明日香ちゃん。今ソコ関係ないからね」
「はうっ⁉ すみません」
すぐに脇道を発見する明日香を見て、猫宮は心配そうな表情を浮かべる。
「貴女、このバイト向いてないんじゃない?」
「うぅ……それは言わない約束ですよ、猫宮さん」
「そんな約束知らないわよ、普段の仕事ぶりも知らないけど。今見た限りでは、ねぇ。アンタはどう思ってんのよ?」
不意に意見を求められた福朗は、頭を掻きながら必死に言葉を探す。
「いやぁ、まぁ、なんだ。至らない点を挙げてもしょうがないじゃないか。俺は長所を伸ばす方針って感じでやってるって言うかなんて言うか」
「超濁してんじゃないのよ」
福朗のまごついた回答に、猫宮も溜息が抑えられない。
明日香はと言うと、頭を掻きながら答えている福朗が困っているのだとわかっている。明日香にとっては福朗の濁した答えよりも、仕草の方が雄弁だった。ショックを受けてメモ帳を取り落とし、両手で顔を覆う。
「フクさんまで酷いです~」
明日香の反応に困った福朗と猫宮は、
「君のせいだぞ猫宮さん」
「アンタがトドメを刺したんじゃない」
と、互いに罪をなすり合う。
「うぅ~」
もちろんなすり合いで明日香は救われない。顔を覆った手の隙間からは、呻き声が漏れ続ける。
どうしたものかと悩んだ福朗は、猫宮を見て思いついた。
「確かに向いてない節もあるかも――」
「うわぁぁぁぁ!」
明日香の叫びが遮ったので、福朗は焦って捲し立てる。
「明日香ちゃん⁉ まだ途中! まだ途中だから! 最後まで聞きんさいな!」
必死の説得により明日香の声が小さくなっていくのを確認して、福朗はやれやれと溜息をついた。
猫宮に至っては、大変そうだな、と既に他人事だ。高みの見物を決め込んで、優雅にコーヒーを飲んでいる。
『誰のせいだ』と福朗が猫宮を睨み、『知らない』とばかりに猫宮は目を瞑る。収集をつけるのは自分しかいないのだと悟った福朗は、もう一度溜息をついてから、さっき言おうとした続きを口にする。
「向き不向きは誰にだってあるんだ、だからそんな事はどうだっていいんだよ明日香ちゃん。大事なのは、君が居なければ猫宮さんは、こうしてここには居なかっただろう、って事さ」
猫宮は福朗の言わんとしている事を察し、言葉を受け継ぐ。
「そうね。貴女が声を掛けてくれたからあたしはここに来たんだし、貴女が居たから依頼する気になったのよ」
ようやく明日香の呻きは納まったけれど、まだ両手の覆いは外れない。体勢はそのままに、おずおずと明日香が言う。
「ホント……です?」
猫宮は明日香に嫌われたくない。だからマグカップを置き、手間のかかる妹を諭すように言う。
「本当よ。向き不向きなんて無粋な事を言ってごめんなさい。胡散臭いこの場所には、きっと貴女のような娘が必要なのね」
猫宮の言葉で、明日香のガードが少しだけ緩む。それを見た福朗は、ここぞとばかりに乗っかった。
「そうっ! 俺もそれが言いたかったんだ!」
「ちょっと、乗っかって来ないでくれる?」
「いんや、乗っかったのは君だろ?」
「アンタと一緒にしないでよ」
「そう言うなって、罪が等分なら手柄も等分だろ? 独り占めなんて大人げないじゃないか」
「大人げないとかアンタが言う? 恥を知りなさい」
「いやいや、猫宮さんだって十分大人だろ? そんな成りして成人してんだからさ」
「なっ⁉ 言ったわね、このボンクラ男!」
「俺はチビだからって子供扱いしませ~ん」
福朗と猫宮の次なるラウンドが始まった。ギャンギャン喚く猫宮と、華麗にあしらう福朗。放っておいたらいつまでも続きそうな言い合いだったが、意外とすぐに鎮静化される。なぜなら、
「ぷっ……あははははは!」
明日香が笑い出したからだ。明日香が笑っているのであれば、もう福朗と猫宮に言い合いする理由はない。
「明日香ちゃん。もう一杯コーヒー淹れてくれる? 今度は自分の分も用意してね」
「はいっ、わかりました。すぐ淹れて来ますね」
元気の戻った返答を残し、明日香は二つのマグカップを回収して給湯室へと消えていった。
明日香の後姿を見送った猫宮は言う。
「極端な娘。本当に大丈夫なの?」
苦笑を浮かべつつ、福朗はこう答えた。
「まぁ、大丈夫だろう」
福朗の優柔不断な回答に、猫宮は額に手を添えて深く溜息をついた。
今日会ったばかりの明日香を猫宮があまりにも心配しているので、福朗は付け加えるように言う。
「雇えと言って来たのは、明日香ちゃんの方なんだぜ」
「あの娘が⁉ 嘘でしょ⁉」
猫宮は顔を上げて目を丸くした。猫宮から見て明日香は、そんな行動力のある娘には見えなかったからだ。
「嘘じゃないよ。その時の事は、また今度にでも明日香ちゃんから聞いてみるといい」
「今、アンタが教えなさいよ」
「そう言わずに自分で聞きなって。バイトの件は、明日香ちゃんの決意の話でもあるんだ。だから猫宮さん自身が、明日香ちゃん本人から聞いた方がいい。その方が、君の為にもなる」
「あたしの為ってなによ?」
「明日香ちゃんを理解して、明日香ちゃんともっと仲良くなれるからだよ」
「くぅ……それは……」
心を覗かれたようで猫宮としては少々不快だが、今回はその提案に乗ってやろう。猫宮は明日香に嫌われたくない。同時に、明日香と仲良くなりたかったから。
「……わかった。今度、聞いてみる」
「ん。そうしてやってくれ」
「それはそれとして、バイトとしてはちゃんと使えてるの?」
「そんなもん、君の存在と君の言葉で証明されただろ?」
福朗の言葉により、猫宮は自分の言った言葉を思い出して気恥ずかしくなった。しかし、本心から出た言葉だったので、多少恥ずかしかろうが猫宮は撤回しない。
「そう、だったわね」
猫宮は撤回こそしなかったが、カッコつけた言い方がなんだか気に食わなかったので、持ち前の負けん気で福朗を切りつける。
「あの娘が緩衝材にならないと、こんな寂れた怪しい場所に人なんて来ないものね」
「ぐっ……君は痛いトコを突くね」
「お互い様よ」
やっと福朗を言い負かした気分になって猫宮は笑う。こんなに笑ったのはいつぶりだろう、と猫宮はもう一度思うのだった。
↓明日香一杯目、福朗二杯目、猫宮三杯目のコーヒー到着後↓
「どこまで話したかしらね?」
「えっと、二人目の佐田さん、です」
明日香がメモを見ながら即答したので、猫宮は感心する。
「そうだったわね。やるじゃない貴女。向いてないなんて言ったけど、やっぱりあたしの思い違いだったようね」
「えへへ、ありがとうございます」
猫宮に褒められたので、明日香は大変嬉しそうである。それはそれで結構な事だが、明日香がバイトを始めてからというもの、まともな依頼は今回が初めてだ。今までの経験から鑑みると、今日はどうにも話の進みが遅い。だが、福朗はその思いを決して口には出さなかった。口に出すと、隣で嬉しそうにしている明日香がまたへこんでしまい、更にペースが落ちてしまうのは明らかだったからだ。
さっきの件で学習した福朗は話の進行役に努める事に決め、猫宮に先を促す。
「佐田君だと考えた根拠を教えて貰える?」
明日香と笑い合っていた猫宮は、邪魔すんなとばかりに福朗を睨んだ。
福朗は睨まれてもなにも言わない。なにか言うと、また進行が遅れるとわかっている。
睨んだ猫宮の方も無視はしなかった。当然だ。依頼すると決めた理由、そのほとんどが明日香の存在であれ、体裁は整えておく必要があるのだから。
「佐田君の話だったわね。佐田君は美大生じゃないけど、絵は上手なのよね。ファミレスでいくつかポップを描いてるのを見たから、このレタリングも描けると思う」
「技術は及第点、か。なら動機の方は?」
「告白されたからフッたの。その逆恨みじゃないかしら?」
猫宮があまりにもあっさり言い放ったので、福朗は少しだけ佐田に同情する。猫宮は接続詞として『から』を選んだ。その意味するところは、勇気を振り絞ったであろう佐田の告白に一考の余地すらなかったという事だ。
そんな福朗の同情をよそに、明日香の疑問が放たれる。
「佐田さんってブサイクなんです?」
「明日香ちゃん……なんて事を……」
明日香の衝撃発言に、福朗は進行役である事を忘れて愕然とする。女性の怖さは知っているつもりだったが、明日香でさえも面食いだとは思ってもみなかったからだ。故に福朗は、佐田に更に同情する。
福朗の反応に気付いた明日香は慌てて取り繕う。
「違います違います! なんでフッたのかと思っただけで!」
「なら、そう聞きておやりよ。佐田君が不憫で、俺は涙が出そうだ」
「えっ⁉ あっ! そうですね! どうしてフッたんです猫宮さん!」
明日香の言葉はあくまで問い掛けのはずなのだが、猫宮はなんだか怒られたような気分になった。告白を袖にした理由を、こんなにも力強く尋ねられたのは初めてだ。
反応に一瞬困った猫宮だったが、素直に答えようとして口を開く。
「タイプじゃなかったのよ。あたし、チャラチャラした男嫌いだから」
「あ~、それは私も苦手ですね~」
「でしょ? 因みに言うと、顔自体は悪くないわ。イケメンの部類に入るんじゃないかしら」
「いくらイケメンだからって、私もチャラ男さんはヤです~」
「ね~」
同じ男として佐田を思うと、いよいよ福朗は涙で目が霞みそうになった。
福朗は気を静める為にコーヒーを一杯飲んでから、これ以上見知らぬ佐田像がズタズタにならないよう進行役として振舞う。
「技術と動機は大体わかったから、容姿を教えてくれ」
「だからそこそこイケメンのチャラ男だってば」
「いやいや、もうちょい詳しく。写真とかないの?」
「ないわよ、あんなヤツの写真なんて」
「わかった、わかったから。口頭でいいから。これ以上無暗に佐田君を傷付けないでやってくれ」
福朗は両手で顔を覆い、心の中で佐田に謝罪する。なんかごめん、と。
一度告白を受けたのに未だ佐田の事を気にも止めない猫宮は、それどころか、口頭で答える為に必死で思い出している始末。存分に頭を捻った末、なんとか説明を始める。
「髪は、少し長めの茶髪で……身長はえっと……あたしよりは高いわね」
「ふむふむ、それでそれで?」
熱心にメモを取る明日香は気付いていない。告白してきた相手、且つ同じバイト先の相手を語るのに、ここまで時間を要する猫宮がけっこう酷い事を。
「他に特徴ってあったっけ? う~ん……そうだ。気持ち悪いくらいピアスしてる」
「あちゃ~、それは大減点です~」
「ね~」
これで佐田の情報はもう十分だ、と福朗は判断した。というよりも、早く佐田の話題から離れてやりたかった。同じ男として。切に。
「うん。二人目の候補は佐田君でいこう。さぁ、三人目の説明を頼む」
福朗の求めに、佐田談義で盛り上がっていた猫宮の顔から笑みが消えた。明日香との談笑に割って入ったのは悪く思うが、福朗としてもここは譲れない。佐田はもう、十分に傷付いているのだから。
「それで、三人目ってのは?」
「随分と急かすじゃない?」
「一応コッチも仕事なもんでね。続けてもらわんと困るのよ」
「はいはい、わかったわよ。最後の候補ね」
「そそ。どちらさんで?」
「三人目、最後の差出人候補は――」
猫宮は言い辛そうにして一度言葉を切った。ほんの少しの間を開けてから、続きを口にする。
「高月望深。真田と同じ、デザイン科の四回生で、あたしの幼馴染よ」
「幼馴染さんが……それはあまり、考えたくないですね」
明日香は猫宮の心中を察して悲しげな表情を浮かべる。福朗も猫宮が言い辛いのだろうと察して、無理に先を促すようなマネはしなかった。
そんな二人の気遣いを察した猫宮は、コーヒーを一口飲んだ上で大きく息を吐き、訥々と語り出す。
「あたしも考えたくはないんだけど、技術と動機があるってなると、どうしてもあの娘の名前が浮かぶのよ。技術はデザイン科ってのでわかると思うけど、望深の方が真田よりも上だわ。望深はデザイナーとして自己主張が足りな過ぎるから、実力を知ってる人が少ないだけ。望深はこんなあたしにも優しくって、根気強く接してくれて、ずっと仲良くしてくれてたの。でも、去年の十月にケンカ別れしちゃって、それ以来会ってない。写真ならあるわ。今見せる」
そこまで言い切って、猫宮はスマホに手を伸ばした。操作する猫宮の手つきは、心なしかさっきまでよりも遅い。
猫宮が写真を探す間、福朗はケンカの理由を聞こうか迷っていた。半年も会わなくなる程のケンカだ。無理に理由を聞かずとも、動機と判断するには十分に思えたからだ。
明日香も同じように迷っていた。しかし明日香は福朗と違い、猫宮の事をもっとよく知りたかった。猫宮の幼馴染である高月の事も知りたかった。だから聞く。
「猫宮さん。ケンカの理由を聞いてもいいです?」
スマホを操作していた猫宮の手がピタリと止まり、重苦しい沈黙が三人を包む。沈黙に耐えかねた明日香は、下を向いて申し訳なさそうに言った。
「あ……えと……無理にとは……言いませんけど……」
猫宮は言いたくなかった。だからケンカと言うだけに留めた。でも、明日香が知りたがっている。明日香の言葉には正直に応えたい。
明日香は猫宮を知りたくて。
猫宮は明日香に好かれたくて。
二人の気持ちは少し表現が異なるけれど、根っこきっとは同じもの。近づきたいのは、歩み寄りたいのは、どちらもきっと同じなのである。
「ケンカの理由。例え話でもいい?」
顔を上げた明日香は、猫宮の言葉の意味がわからなかった。しかし、話してくれるならなんでも聞くと、真剣な表情で明日香は頷く。
猫宮はそんな明日香を見て微笑む。悲しみの混ざった微笑みで、猫宮はケンカの理由を語る。
「さっきも言ったけど、あたしは猫。猫の猫宮なの。猫はね、いつだって月を見上げる事しかできないのよ」
猫宮の例え話を聞いて明日香は思い出す。美術室で見た、猫と月の絵を思い出す。綺麗な絵だと思ったのは本当だ。けれど、遠くの月を見上げる猫の絵は、どこか寂しいものにも思えていたのだ。
一方福朗は絵の事を知らない。知らなくとも、猫宮の心情をある程度予測演算する事ならできる。猫宮の例え、ケンカの理由を、福朗は絶対に届かない憧れから生じたものなのだ、と予測した。
「わかった?」
と、猫宮が聞く。
「はい……たぶん……」
と、明日香が答える。
明日香に伝わったのがわかったので、猫宮はスマホの操作に戻っていった。
明日香は無理に聞いた事を後悔して、嫌われてなければいいな、と思う。
猫宮は自分のカッコ悪い一面を話して、嫌われてなければいいな、と思う。
両者の思いはまた同じ。距離が縮まったかは微妙だが、決して離れてはいない。
ようやく写真を見つけた猫宮は、真田の時と同じようにスマホを机に置いた。
「コレが望深よ」
写真に写っていたのは、眼鏡をかけた女の子だった。笑顔のはずなのに、右目にある泣きボクロが気弱そうに見せてしまう、そんな女の子。黒く長い髪は、まるで明日香のようだ。
隣には猫宮も写っていた。福朗はもちろん、明日香も見た事がないくらいの笑顔で、猫宮が写っていた。
「明日香ちゃん、メモは?」
「……はい、大丈夫です」
福朗は一つ頷いてから、スマホを拾い上げて猫宮に差し出す。
「ありがとう猫宮さん。確認は以上だ」
「そ」
猫宮は一言だけ、一文字だけ言ってスマホを受け取った。暫く写真を眺めてから、画面を下に向けて脇に置く。
猫宮は一度俯いたが、数秒後顔を上げた時にはもう、猫宮の表情から悲しみは消えていた。
切り替えの早い娘だな、と福朗は思う。気丈な猫宮に敬意を持って、福朗は最後の詰めに入る。
「猫宮さんの意見を参考にして、三人をちょっと調べてみるよ。ハガキはどうする?」
「明日、大学に持って行くわ」
「なら明日香ちゃん、受け取って来てくれる?」
「は、はい。わかりました」
「よしっ、決まりだ。解決の保証はできないが、依頼は承った。今日はこれでお開きだ。あ~、腹減った」
依頼についての話し合いが終わったのは、時計の針が二十時に迫りつつある頃だった。
福朗の腹減り発言を受けて、明日香が猫宮に尋ねる。
「猫宮さん。ご一緒に夕飯はいかがです?」
猫宮は一瞬迷ったが、首を横に振った。
「お誘いは嬉しいけど、今日はもう帰るわ」
「そう……ですか……」
明らかに落胆する明日香を見て、猫宮は言う。
「明日ハガキを取りに来てくれるんでしょ?」
「そうですけど……でも……」
「そんな顔しないの。あたしは美術室で待ってるから、ね?」
「はい、わかりました。我儘言ってすみません」
猫宮は立ち上がり、荷物を持って出口に歩き出す。見送りの為、明日香も猫宮の後をついて歩く。扉の前まで来て猫宮が振り向いた時、明日香の顔はまだ晴れていなかった。
猫宮は小さく溜息をついてから、自分よりも背の高い、明日香の頭を撫でて笑う。
「また明日ね。高梨さん」
明日香の表情がみるみるにやけていく。それを確認した猫宮は、明日香の頭から手を離して扉のノブへと伸ばす。
猫宮が扉を開ける前に、明日香はもう一つだけ我儘を言った。
「猫宮さん。私の事は、明日香って呼んで下さいませんか?」
明日香の言葉が嬉しくて、でも気恥ずかしくて、猫宮はノブに手を掛けたまま固まってしまう。名前呼びは、仲良しの証拠みたいなものだから。
明日香は猫宮の硬直を拒絶と受け取った。でも明日香は諦めない。恐る恐る、もう一度聞く。
「嫌……です?」
もちろん猫宮は嫌じゃない。猫宮は明日香に好かれたい。明日香が手を伸ばしてくれるなら、猫宮だって手を伸ばす。
「なわけないでしょ? なら、あたしの事は日向でいいわ」
「はいっ! 日向さん!」
明日香がすんなりと、元気に名前を呼んでくれたのが、猫宮はとても嬉しかった。嬉しくて、調子に乗って、悪戯な笑顔を浮かべて。猫宮は余計な事を口にする。
「もしくはお姉ちゃんでもいいわよ?」
「良いんです? じゃあ、お姉ちゃんで!」
「え⁉」
まさか本当に呼ばれるとは思っていなかった。自分で言ったのが恥ずかしくて。明日香に呼ばれたのが恥ずかしくて。猫宮は顔が熱くなるのを感じる。
「ごめん。冗談のつもりだったの。だから、お姉ちゃんは勘弁してくれない?」
「そう、ですか。残念です」
コロコロ変わる明日香の表情を見て、本当に極端な娘だな、と猫宮は思う。顔に感じる熱さが消えなかったので、猫宮は逃げ出す事にした。去り際、明日香に一言だけ残して。
「また明日ね、明日香」
勢いよく出て行った猫宮に、明日香は反応できなかった。別れの挨拶が言えなかったのは悔やまれるが、猫宮に名前を呼んでもらえたのが嬉し過ぎて、明日香はにやけた笑い声が漏れるのを抑えきれない。
福朗はと言うと、二人の若者のやり取りをおじさんとして黙って見守っていた。そして、明日香に新しくできた姉貴分の為に、依頼達成に向けて気合を入れなおす。メモ帳を手に取って眺めながら、福朗は依頼内容について振り返る。
七枚のハガキ。三人の候補者。そしてレタリングの意味。
候補者三人の中にアタリが居るとすれば、アタリを見つけて問うだけで万事解決だ。福朗は猫宮の言動も含めて考えた結果、
「まぁ、なんとかなるだろう」
と、判断した。
本格的な調査は明日からにするとして、今日の出来事を振り返り過ぎた福朗は、依頼とは別の気になる事を思い出してしまった。扉を見つめて不気味に笑い続けていた明日香の背に尋ねる。
「そう言えば明日香ちゃん。マダムになんて耳打ちされたの?」
福朗の何気ない質問で、明日香の笑い声がピタリと止む。代わりに、明日香の体が小刻みに震え始めたようだった。
「それ……聞いちゃいます?」
「個人的な内容ってんなら、別に言わなくてもいいけどさ」
「そうじゃないんです。そんなんじゃ、ないんです」
そう言いながら、明日香は福朗の方を向いた。体だけではなく声まで振るわせた明日香は、強張った表情で真相を語る。
「それは、フクさんがポンちゃんの散歩から戻られる前の事でした。初めてマダムを見た猫宮さんが、誤って『おばはん』と言ってしまったのです。気付いた私はすぐに猫宮さんの口を塞ぎ、大声を出して誤魔化しました。その時マダムはなにも仰らなかったので、私はてっきり誤魔化せたのだと思い込んでいました。でもそれは、大きな間違いで……帰り際、マダムは言ったのです。『わたくしって、おばはんじゃないわよねぇ?』と。私の耳のすぐそばで、酷く冷たく思える声で、マダムは、言ったのです」
明日香が怪談口調で語り終えた内容を聞いて、福朗は聞かなければよかったと後悔する。
「なにソレ……こわぃ……」
「私……今度からどんな顔してマダムに会えばいいのか……」
マダムにトラウマを植え付けられた明日香はカタカタと震えていて、さっきまでの笑顔が嘘のように遠い目をしている。
福朗は何か言ってやりたかったが、上手い言葉が思いつかない。とりあえず、明日香の意識を他に移そうと話を変える。
「明日香ちゃん。夕飯はどうする?」
「あ……はい……今から……作りますね……」
生気は全く感じられないが一応返事をした明日香は、フラついた足取りで給湯室へと消えていった。そんな明日香を福朗が心配し始めた矢先、給湯室から食器の割れる音と叫び声が聞こえる。
福朗は頭を掻きながら立ち上がり、その日は外食となった。