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第三幕 猫を自称する依頼人

猫は気まぐれとよく言われるが、大抵の場合、エサで釣れば寄って来るだろう

 明日香達が事務所に到着したのは、時計が十八時ちょうどから少し長針をズラした頃合いだった。

 道中の明日香達はと言うと、すっかり打ち解けて仲良し姉妹の体を成し、会話が随分と弾んでいた。その中で明日香は一度、美術室にあった猫と月の絵を話題に出したのだが、猫宮の顔が曇ったのをすぐに察して話題を切り替えた。

 明日香にはどれも素敵な絵に見えたけれど、作者にしかわからない不服でもあるのだろう。それよりも明日香が気にしていたのは、猫宮に嫌われてしまう事。サークルに所属していない明日香にとって、猫宮は他学科で初めての先輩だ。それに同学科を合わせても、ここまで会話した先輩は初めてだった。猫宮に嫌われたくない明日香は、猫宮の気に障る話題は当然のように避けるのである。

 猫宮は猫宮で気性の荒い質だ。それが理由で交友関係は広くない。まるで人との会話を久しぶりに楽しむかのように、移動中の猫宮は明日香に笑顔を向けていた。

 そんな猫宮も事務所のビルに入る時は、さすがに怪訝そうな顔を浮かべていた。猫宮の考えていた『バイト先』からは、随分とかけ離れていたからだ。

 福朗の事務所がある十亀第七ビルは、外観は小綺麗だが入口の階段は狭くエレベーターもない。一階の鍼灸整骨院はデカデカとした看板を掲げているが、上階にあるテナントのほとんどは、階段脇に小さく表示されているのみだ。よくよくその表示を見れば、二階が福朗の事務所、三階がヨガ教室、四階が高級そうなエステ店で、五階は空きテナントになっているのがわかる。確認さえできれば怪しいビルではないとわかるが、それを知らなければただ小綺麗謎ビルなのだ。隠れ家的と言えば聞こえはいいが、猫宮の反応も頷けなくはない。

 階段の前で立ち止まった猫宮を見て、明日香は微笑みながら手を取って階段を上る。外見も相まって、今だけは明日香の方が姉に見えるような光景だった。

「フクさ~ん。居ますか~?」

 事務所の扉を開けて福朗の名を呼んだ明日香だが、返って来たのは福朗の声ではなく、艶のある女性の声だった。

「あら~、明日香ちゃん。お邪魔してるわね~」

「あれ? マダム? こんな時間に珍しいですね?」

 明日香にマダムと呼ばれたのは、本名は十亀薫(とがめかおる)と言うこのビルのオーナーだ。オーナーならオーナーと呼ぶのが相応しいはずなのだが、福朗がマダムと呼称しているので明日香もそれに習って呼んでいる。齢四十半ばにしてやたらと若く見えるマダムは、いわゆる美魔女というヤツだ。今日もマダムは独創的な帽子を被り、高級そうなドレスにも見える濃い紫のワンピースを着ている。

「聞いてよ明日香ちゃ~ん」

 飲みかけだったティーカップとソーサーを応接机に戻し、マダムは明日香に向けて猫撫で声を出す。

 明日香は知っている。これはマダムの長い愚痴が始まる兆候なのだ、と。

 普段であれば、多少の気疲れを覚悟して臨む明日香ではあるが、今日は猫宮が居る。自分が連れて来た手前、放り出すのは失礼だ。そう判断した明日香は、愛想笑いを浮かべつつ入口から一歩横にズレて立ち位置を変えた。マダムから猫宮が見えるように。

「あらあら? お客様だったのね」

「は、はい。そうなんですよ」

 明日香の目論見は成功したが、まだ愛想笑いは崩さない。

 マダムから猫宮が見えるなら、猫宮からもマダムが見えるという事だ。残念ながら、猫宮は少々口が悪い。猫宮の呟きが明日香の耳に届く。

「マダムなんて生き物、本当に存在したのね。驚きだわ」

 猫宮の声がマダムに届きませんように、と。明日香は必死に乾いた笑い声を上げていた。

 幸いマダムには聞こえなかったらしく、普段通りの口調で明日香に問いかける。

「依頼人? それともお友達?」

「え~っと、どちらかと言えば依頼人、ですかね」

 不必要な一山を越えた気分で答えながら、明日香が事務所に踏み入れる。それを追って猫宮も入ったが、途中で明日香の上着を引いて耳を貸せとのジェスチャーをした。

「なんでしょうか?」

「ねぇ、依頼人ってもしかしなくてもあたしの事よね? そんな話聞いてないんだけど」

「あ、あ~……それは……その……」

 しどろもどろになる明日香に、またマダムの声が聞こえてくる。

「どうかしたの?」

「いえいえっ、なんでもありません!」

 クセの強いこの二人を同時に相手取るのは、明日香には非常に酷だった。永く思える一瞬の内に、明日香は死に物狂いで脳内の天秤を操る。

 マダムはオーナーだ。無視をして機嫌を損ねてはならない存在である。最悪の場合、福朗が追い出される可能性もなきにしも非ずだ。

 対して猫宮はせっかく仲良くなったほぼ初めての先輩だ。明日香としては絶対に嫌われたくない存在である。最悪の場合、誤解を孕んだまま帰られてしまえば、二度と話してもらえない可能性がなきにしも非ずだ。

 明日香の脳内天秤が傾いた結果は、猫宮を優先せよ、との事だった。判断の決め手は猫宮に嫌われたくない一心。次いでマダムの機嫌を損ねてしまっても、福朗がなんとかするだろう、と思ったからだった。

 とりあえずこれ以上マダムの邪魔が入らないよう、明日香は口早にマダムを誘導する。

「私達の事はお気になさらないで下さい。どうぞ紅茶の続きを楽しんで頂ければと思います」

「そう? じゃあ遠慮なく」

 そう言ったマダムは明日香達から視線を外し、紅茶に向き直っていった。

 一難去ってやれやれな明日香の内心を、次の一難である猫宮の声が襲う。かわいそうに、明日香はまだ気を緩める事ができない。

「それで? 依頼人ってどういう意味よ?」

「だからそれは、どちらかと言うと、という意味でして」

「だからそれがわからないって言ってんでしょ? まさかアンタ、ハガキで釣ったあたしに変な事させようってんじゃないでしょうね?」

「ち、違いますっ! それだけは断じて違います!」

 一応マダムを気にして小声で話していたのに、段々と音量が上がっていく二人。

「どうだか。信用できないわね」

「そ、そんなぁ~」

「このビルもなんだか怪しいし、あそこの女も怪しいわ。あんなおばはんムッ――」

「わぁ~! わぁ~~~!」

 猫宮の口を手で塞ぎ、明日香は大声で誤魔化した。マダムの方からは、カチャリと食器のぶつかるような音がする。

 明日香が恐る恐るマダムに目を向けると、マダムは静々とティーカップに口をつけているところだった。さっきの音はきっと、ティーカップを持ち上げた時の音なのだ、と明日香は自分に言い聞かせる。

「ムゴゴムムメン」

 猫宮はモゴモゴ言いながら、明日香に不機嫌そうな眼差しを送る。それでも猫宮は、明日香の手を無理に振り払おうとはせず、口元を指さすだけだった。

「ああっ、ごめんなさい猫宮さん」

 猫宮の口を覆っていた手を、明日香は慌ててどかす。

「ったく、なんだってのよ一体」

「うぅ、ごめんなさい」

 しょんぼりする明日香に対しても、猫宮の指摘が即座に入る。

「ちょっとアンタ、あたしの言った事もう忘れたの?」

「え……あっ! すみませんでした」

「それでいいのよ……ったく」

 とてもわかり辛いけれど、猫宮はやっぱり優しい。そう思った明日香は、自然と笑顔で返事をする。

「はい!」

 明日香の笑顔に毒気を抜かれた猫宮は、額に手を添えて溜息をつく。こうなってしまったら明日香の勝ちだ。猫宮はもう、姉としてしか振舞えない。

「もういいわよ。アンタがそんなヤツじゃないのはわかってるつもりだから」

「は、はい。ありがとうございます」

「とにかく、ハガキを渡してくれないかしら。渡してくれたらあたしは帰るから」

「それが、その……猫宮さんに会って欲しい人がいて」

「会うって誰によ?」

「ここの店長、いえボス……いやいや所長に――」

「呼び方なんてどうでもいいのよ。あそこに座ってるお……んなじゃないの?」

 危ないところだ。猫宮はもう少しで『おばはん』と言ってしまうところだった。明日香の行動から察した猫宮は、すんでのところで言い換えたのだ。猫宮は口が悪くとも、空気は読める女なのである。

 猫宮の言葉に一瞬肝を冷やした明日香だったが、深呼吸を挟んでから口を開く。

「いいえ、あの方は違うんです」

「なら、アレは誰なのよ」

「あの方は、このビルのオーナーさんなんですよ」

「そ。なるほどね」

 そう言いつつ猫宮は、マダム、明日香、マダムと視線を移してから、目を閉じて一つ大きく頷いた。そしてもう一度明日香を見て続ける。

「それで彼女を立てようとしていたのね」

「ええ、それは、まぁ……」

 猫宮によるマダムの呼称が、『おばはん』や『女』から『彼女』までランクアップした。そして、

「なによ、貴女もやればできるんじゃない。ま、上手くやんなさいな」

 と、明日香の呼称も、『アンタ』から『貴女』にランクアップした。

 猫宮に認められたと感じた明日香は、嬉しくなって舞い上がる。

「はい! ありがとうございます!」

 明日香の満面の笑みが猫宮に向けられ、耐えかねた猫宮は顔を背けてしまった。

「別に。思った事を言っただけよ。礼を言われる筋合いはないわ」

「それでも、です。アドバイスしてくれてありがとうございます」

 明日香は素直だが猫宮は気難しい。気難しいが、ひねくれ者ではない。顔を背けられた明日香から猫宮の表情は窺えなかったが、素直に感謝を述べられた猫宮は照れていた。照れ臭かったので照れ隠しとして、猫宮は明日香から顔を背けていた。


 ↓数分後↓


 猫宮を立たせ続けるのも忍びないが、マダムの向かいに座らせるのも居心地が悪かろう。いやむしろ、自分の方が気を揉みそうだ。そう考えた明日香は、扉の開閉に支障のない壁沿いに、椅子を用意して猫宮を座らせた。

 コーヒー派だと言う猫宮に、明日香は急いでコーヒーを準備した。渡した際、猫宮が顎でマダムを示す。対応しろ、との事だろう。

 猫宮の好意に会釈をしてから、明日香はマダムの向かいにあるソファ脇に立つ。

「コソコソしたりバタついたりして申し訳ありませんでした」

 猫宮は明日香の言葉使いを聞いて、コーヒーに息を吹きかけつつ一人うんうんと頷いている。

「気にしなくていいのよ明日香ちゃん」

「でも……」

「どちらかと言えば、ここではわたくしの方が異物なのだから」

「そんな寂しい言い方しないで下さいよ、マダム」

 肩を落とす明日香に、マダムはティーカップから目を上げて大人の微笑みを向ける。

「あらあら、相変わらず明日香ちゃんは優しいわね」

「いえ……そもそもここはマダムのビルなんですから、異物と言うなら私達の方が……」

「そんな寂しい言い方をしないでちょうだい、明日香ちゃん」

 そう言ったマダムは、ティーカップの紅茶を飲み干して応接机に戻した。

「確かにここはわたくしの所有するビルよ。それにこのフロアは元々、わたくしの仕事場兼仮眠室用として誂えた場所なの」

「だったら――」

「でもね明日香ちゃん。ここはもう、飛鳥君に明け渡しているのよ。だからね、ここはもう飛鳥君の場所で、明日香ちゃんの場所なのよ」

 事情を知らない猫宮は、マダムの後ろで首を傾げていた。それも致し方ない。言葉で聞く限りは誰だって、飛鳥君、明日香ちゃんと言われても混乱してしまう。

 混乱中の猫宮は置き去りにして、明日香とマダムの会話は続く。

「だからって異物なんて……」

「そうね。異物は言い過ぎたかもしれないわ」

「そうですよマダム。いくらフクさんに明け渡したからと言っても、私達は所詮間借り人にすぎないんですから」

「あら? それは違うわよ明日香ちゃん」

「へ? なにが違うんです?」

「このフロアは飛鳥君に貸していないわ。飛鳥君にあげたのよ。明け渡すとはそういう事。当然お家賃も頂いてません」

「ええっ⁉ そんなのは初耳ですよ⁉」

 ビルの一室を簡単に『あげた』と言ったマダムに、明日香は目を見開いて驚いている。

 『飛鳥・明日香問題』を頭から放り出して話を聞いていた猫宮も、明日香の驚きに賛同すべく、一人うんうんと頷いている。実在したマダムは、斯くも豪気な女性だったのだ。と、一人コーヒーを静かに飲みつつ思う。

「ああ、そうそう。光熱費や水道代は飛鳥君持ちよ」

「もちろんですよ! そんな……フクさんがフクロウじゃなくて、ツバメだったなんて……」

 頭を抱える明日香の少し下品な言い回しに、マダムは上品に笑う。

「あらあら、面白い事言うわね明日香ちゃん。それ、頂いちゃおうかしら」

「笑い事じゃありませんよマダム! 頂かないで下さい! それにフクさんだって――」

「心配しないで明日香ちゃん。わたくしと飛鳥君はそんな関係じゃなくってよ」

「ああっ、今のは違っ⁉ あああぁぁぁ~~!」

 頭を抱えた明日香は、叫びながら蹲ってしまった。

 今日の明日香はよく叫ぶ。美術室といい、事務所といい。普段は大人しい部類なのだが、今日の明日香は叫ぶシーンが多い。

 普段の明日香を知らない猫宮は、心の中で明日香に自爆体質のレッテルを貼り付けた。だんだん見ていられなくなってきたが、猫宮にとっては他所事だ。口を挟むのも憚られると、黙ってコーヒーを口に含む。猫宮は、空気の読める女であるからして。

 事務所に響く明日香の叫びが消えかけた時、扉が勢いよく開かれて別の叫びが発生する。

「どうした⁉ なにかあったか⁉」

 福朗が返って来た。明日香の叫びが外で聞こえたので、急いで駆け込んできたのだ。事務所は二階なので大した運動量ではないはずなのだが、いい歳をした福朗は荒い呼吸で周囲を見渡している。その手には散歩用のリードを握っており、リードの先には小型犬が繋がれていた。犬種はポメラニアン。フワッフワのヤツ。シリアスムードの福朗と並ぶには、なんとも似つかわしくない。

「うわわっ、フクさん⁉」

「あら、お帰り飛鳥君。ご苦労様」

 周囲確認を終えた福朗の視線が、蹲る明日香に固定される。福朗と目が合った明日香は目を逸らして赤面し、更に小さく縮こまってしまった。

 状況を把握したつもりの福朗は、呼吸を整えてから最後に大きく息を吐き出し、マダムを糾弾する。

「マダム。ウチの大事なバイトをあんまりイジメんで下さいよ」

「失礼ね。わたくしがそのような事をすると思って?」

「いやだって、この配置じゃあそうなるでしょうよ」

 福朗の観察眼にしては、的をかすめるくらいには良い線いっている。しかし現状は、明日香が真犯人兼被害者だ。マダムはさしずめ共犯者といったところ。これまでの流れを知らない福朗には部が悪すぎるが、判定を下すなら残念、ハズレである。

 福朗はマダムを疑っている。

 マダムは一応頬を膨らませて抗議の意を示しているが、実際は面白がっている。

 明日香は『大事な』、というフレーズに喜んでいる。

 いまだ蚊帳の外の猫宮は、ポメラニアンを見てかわいいと思っている。

 そんなグダグダの状況の中で、口火を切ったのはマダムだった。

「わたくしは普通に明日香ちゃんとお話していただけよ」

「本当ですかい?」

「本当よ。ねぇ、明日香ちゃん?」

「は、はい。そうです」

「ほらね?」

「ん~、言わされてないよね? 明日香ちゃん」

「はい。全然です」

「なんに対しての全然なんだか……」

 溜息をついた福朗は、リードを握っていない手で後頭部を掻く。

「因みに聞きますけど、どんな話をしてたんで?」

 福朗の問いに、マダムの面白がっていた内心が急浮上してしまう。今やマダムの表情は、とても悪い女の笑みに染まっていた。

「それはねぇ~、明日香ちゃんが~――」

「わぁ~~~、マダム~! それだけは言わないで下さ~い!」

「え~? どうしようかしら~」

「お願いします~!」

 明日香は半泣きになりながらマダムに縋りつく。

 そんな明日香を見て、福朗はまた後頭部を掻く。

 そんな明日香を見て、猫宮はかわいいヤツめ、と思った。ついでに、マダムには逆らわないようにしよう、とも思っている。

 一通りの茶番を終えて満足した表情のマダムは、縋りつく明日香の頭を数回撫でながら密かに耳打ちした。耳打ちされた明日香はなぜか凍り付いたように動かなくなったので、マダムは難なく明日香を引き剥がし、そのまま立ち上がって福朗に手を差し出す。

「それじゃあわたくしは、そろそろお暇するわね。飛鳥君、ポンちゃんをこちらへ」

「は……はぁ……」

 結局福朗はなにもわからず終いで、マダムに促されるままに握っていたリードを渡しただけだった。

 リードを受け取ったマダムは、ポンちゃんを抱き上げて福朗の横を通り過ぎ、扉に手を掛ける。

「では皆さん、ごきげんよう」

 そしてマダムはハイソサエティな挨拶だけを残し、事務所から出て行った。福朗、明日香、猫宮は、扉が閉まり切るのをただぼんやりと眺めている。

 優雅な嵐が過ぎ去った事務所内は、一時の静けさに包まれた。そんな中口を開いたのは、訳も分からずコーヒーだけを与えられ、待機させられていた猫宮だ。

「マダムを見たのは初めてだけど、ごきげんようってのも初めて聞いたわね」

 猫宮が呟いた事で、その存在をようやく認識した福朗は声を掛ける。まるで、小さな子供を相手するように。

「おんや? どうしたのお嬢ちゃん。迷子かい?」

 福朗の問い掛けにより、猫宮の眉間には深い皺が刻まれた。役立たずな観察眼しか持っておらず、まだ猫宮と会話をしていない福朗は、残念ながらそれに気付く事はない。

 猫宮はゆっくりと立ち上がり、コーヒーを零さないよう注意しつつ、座っていた椅子にマグカップを置く。それから福朗に歩み寄り、童顔ならではの子供っぽい笑みを浮かべて右手をゆっくりと差し出した。

 猫宮の笑顔と行動を初対面の握手と受け取った福朗は、自分も右手を差し出そうとする。しかし、握手が交わされる事はなかった。

 福朗の手が猫宮の手に触れそうになった刹那。猫宮の手、いや拳は、抉るように福朗の腹を捉える。

「ぐふぅ……お嬢ちゃん……なにを……」

 猫宮の拳は的確に福朗のみぞおちを射抜き、堪らず福朗は蹲った。

 デジャヴュのような光景を見て、マダムの耳打ちで金縛り状態にあった明日香が覚醒する。

「あわわっ、フクさん大丈夫です⁉」

 あわわと慌てて福朗に駆け寄ろうとする明日香を、猫宮は片手で制する。そして悪びれもせず、制していた手を動かして福朗を指さした。

「ねぇ? まさかとは思うけど、あたしに会わせたかったヤツってこの失礼な男なの?」

 福朗は心配だが、猫宮の立腹もごもっとも。明日香は愛想笑いで答えるしかない。

「あ、はは。えっと……そう、です」

 事務所内の状況は、時の流れに合わせて刻々と変化し続けている。現在の状況は次の通り。

 ・腹を抱えて蹲り呻く福朗

 ・ひたすらに愛想笑いを浮かべる明日香

 ・額に手を添えて大きな溜息をつく猫宮

 振り返るとここ十五分ほどの事務所内は、ほとんどグダグダのグズグズだった。


 *福朗回復中*


 福朗も明日香も、猫宮との出会いは最悪だとしか言えないものだった。一方は誤って猫宮を殴り、もう一方は猫宮に故意に殴られる。それが良い出会いだとは、この世の誰も形容したりはしないだろう。

 猫宮と仲良くなれた明日香としては、福朗と猫宮にもなんとか仲良くして欲しかった。その為に明日香は必死で仲を取り持ち、努力が実を結んだ結果、事務所の状況は次の通りに改善された。

 ・応接ソファ奥側⇒福朗

 ・応接ソファ奥側⇒の隣に立つ明日香

 ・応接ソファ手前側⇒猫宮

 注:扉から見て奥側のソファが事務所の人間用

   扉から見て手前側のソファが来訪者用

 一時期からすれば、至極まっとうな話し合いの様相を成している。この状況は明日香の奮戦による成果ではあるが、明日香の手腕というよりは、福朗と猫宮が明日香の懇願に折れただけだった。ともあれ話し合いの場は整ったので、福朗は大人の対応としてまず謝罪から切り出す。

「さっきは悪かったね猫宮さん。わざわざご足労頂いたのに」

「そうね、まったくだわ。アンタが高梨さんのボス?」

 猫宮はスマホを弄りながら、福朗には目もくれず応答した。

 猫宮より確実に年上である福朗に対しても、『アンタスタート』なんだ、と明日香は思う。あと、この人は自分に説教をした人と同一人物なのか、と目を疑った。

 福朗は福朗で、コイツかわいくね~な、と内心では思っている。しかしそこは大人の福朗。営業スマイルが多少引き攣ったものの、落ち着いた口調で話を続ける。

「ボスっちゃあボスかな。アルバイトとして明日香ちゃんを雇ってるのは俺だし」

「ちゃん呼びとか、キモッ」

 福朗の顔が更に引き攣る。それでも福朗は大人の対応を続けた。

 明日香は心の中で福朗にエールを送る。あと、もう少し態度を改善して下さい。と、猫宮にも念を送った。

「で? ここってなにしてるところなの?」

 猫宮はまだスマホから目を離さない。残念ながら、明日香の念は届かなかったようだ。

「俺は自営業をしていてね。まぁ、『何でも屋』ってところかな」

「今時『何でも屋』って……胡散臭っ」

 遂に『大人な福朗』が崩壊し、福朗は俯いてしまった。そして絞り出すような声で一時退席を申し出る。

「悪いんだけどさ。ちょっとトイレ行って来ていい?」

「は? 勝手にすれば?」

「ありがとう」

 噛み殺すように言い残した福朗は、ソファを立ってトイレの方に歩き出した。

 肩を落として歩く福朗をいたたまれない気持ちで見送っていた明日香だったが、福朗がトイレではなく、向かいの給湯室に入っていったのに気付いた。そして福朗の手招きが見える。

「あ、あの、猫宮さん。コーヒーのおかわりはいかがです?」

「ありがと高梨さん。お言葉に甘えて頂くわ」

 福朗への対応とは打って変わって、猫宮はスマホを置き、笑顔で明日香に答えている。

「じゃあ、ちょっとだけ待ってて下さいね」

 上手い言い回しで退席の機会を得た明日香は、マグカップを回収してそそくさと福朗の元へ向かった。その途中で明日香は思う。自分への対応を、ほんの少しでも福朗に向けてくれればいいのに、と。

 給湯室の暖簾を潜った明日香が目にしたのは、情けない顔の福朗だった。福朗は小声だが、もの凄い剣幕で明日香にせっつく。

「なにあれっ、なにあの娘っ。どうなってんのよ明日香ちゃん」

「ええっと、なんと言いますか……猫宮さんは気難しい性格でして」

「気難しいってレベルじゃないでしょうよ。なんであんなに態度悪いのっ」

「それはたぶん。フクさんが子供扱いしたからだと」

「それは確かに悪かったけど、もうよくない? 俺謝ったじゃん。最初に謝ったじゃん」

 普段の福朗からはそこはかとなく大人の雰囲気と余裕が漂ってくる、と明日香は感じている。しかし、福朗が稀にこうなってしまう事も知っているのだ。知っている明日香の役目は、福朗をなだめてもう一度猫宮に向かわせる事。これも助手の務めであると、明日香は福朗をなだめにかかる。

「まぁまぁフクさん。そうクサクサしないで下さい。猫宮さんは良い人ですよ?」

 柔らかく語り掛けた明日香に、福朗は大きな溜息で答えた。

 福朗は明日香が言うなら信用するし、今さっきのやり取りも陰ながら見ていたのだ。猫宮が良い人なのは事実だと思うが、気乗りしないのもまた事実。

「んなこたぁわかってるよ。明日香ちゃんに対しては、良い姉ちゃんでいようと思ってるんだろうさ」

「それがわかってるんでしたら、ね?」

「でもなぁ……あ~、くそっ」

 福朗がいつも以上にガシガシと頭を掻く。それを見て明日香が微笑む。

 明日香は知っている。福朗が頭を掻くのは、困っている時のクセである、と。また、強く頭を掻いた場合は、困っている中での決心の現れなのだ、と。

 もう大丈夫だと判断した明日香は、福朗の背中を押す。

「ささっ、フクさん。第二ラウンドです。頑張って下さい」

「わかったわかった。まったく、依頼人でもないのになんでこんな――」

「愚痴は後で聞きますから、早く早く」

「あいあい、了解。こんな思いするんなら、初めっから明日香ちゃんにハガキを託せば良かったよ」

 ブツクサ言いつつも、福朗は暖簾を潜り抜けて給湯室から出て行った。その姿を見送ってから、明日香は言い分けに使ったコーヒーを淹れるべく、鼻歌交じりにやかんを火にかけた。

 一方で足取りの重い福朗は、ハガキを出して猫宮の気を惹こうと思い、事務机に置きっぱなしだったハガキを手にしてソファへと戻る。

「お待たせ猫宮さん」

 そう言いながら福朗は応接机にハガキを置いた。

 スマホを見ていた猫宮からもハガキが確認できたのだろう。猫宮はスマホから目を離し、ようやく福朗を視界に入れる。

「ソレ、アンタが拾ったんだって?」

「ああ、そうだよ」

「いつ? ドコで拾ったの?」

「拾ったのは今朝。場所はハッキリとは覚えてないけど、ここから駅までの東側で拾ったんだ」

「そ。じゃあ返してもらうわね」

 猫宮がスマホを置いてハガキに手を伸ばしたのと同時に、福朗もハガキに手を伸ばす。二人の手がハガキに触れ、互いに引く。同じ力で引きあっているので、ハガキの位置は動かない。

「なによ?」

「確認をまだしていないよ、猫宮さん」

「確認? なんの?」

「このハガキは、君宛のもので間違いないんだね?」

 福朗の問いに、即応タイプの猫宮が一瞬間を空ける。その間は本当に一瞬で、すぐと表現しても差し支えない程度のものだった。

「そうよ。コレはあたし宛の、猫宮日向宛のハガキ。これで満足?」

「十分だ」

 確認を終えた福朗が手を放したので、ハガキは猫宮の手に渡っていく。

「手間を掛けて悪かったね。拾った手前、どうしても持つべき人に渡したかったからさ」

「へぇ、なかなか殊勝な事を言うじゃないアンタ。少し見直したわ」

「そりゃどうも」

 まだまだ打ち解けたとはとても言えないが、もう十分だろう、と福朗は思った。レタリングの事はどうにも引っ掛かるが、これで猫宮も帰ると判断したからだ。

 年下に横柄な態度を取られたのが久々だったからか、福朗は存外堪えていた。福朗は一息ついて一息吐く。

 そんな福朗の耳に、ハガキを手にした猫宮の呟きが聞こえてきた。

「これで七枚目、か」

「何だって?」

 思わず福朗は聞き返していた。猫宮は『七枚目』と言ったのだ。ともすれば同じようなハガキが、既に猫宮の手に六枚は届いている事になる。福朗にとってそれは、レタリングの意味以上に引っ掛かる内容だった。

「同じハガキが、後六枚もあるの?」

 ハガキの両面を確認した猫宮は、事もなげに答える。

「正確には、全く同じではないわね」

「どこか違うのかい?」

「裏面の黒の割合と、『日』のレタリングが違うのよ。正確を期した表現をすれば、似ているようで全部違うハガキが七枚ある、ってところね」

「ほぅ、それはそれは……随分と手の込んだ手法だな。どんな意味があるのか聞いても?」

 福朗としては興味本位だけで聞いたつもりはなかったが、なにぶんプライベート寄りの質問だ。猫宮が嫌がるのは目に見えていたが、つい口をついて質問してしまった。

 案の定、猫宮は顔をしかめる。しかし、次に猫宮が吐き捨てたのは、福朗が予想していた返答とは異なるものだった。

「意味? 知らないわよそんなの。どうせ嫌がらせの悪戯なんでしょ」

 さも興味がないとばかりに、猫宮は手に持ったハガキをプラプラと振る。

「ちょっと待ってくれよ猫宮さん。レタリングってのは、なにか意味を込めてデザインされた文字なんだろ?」

「そうよ。普通なら、大勢の人に伝わる意味を込めてデザインする。それがレタリングの意義。でもごめんなさいね。あたしにはわかんないわ」

「バカ言うなよ。そのハガキに描かれたレタリングは、君の名前を使ってデザインされているんだぞ? どう考えたってソレは君宛のハガキで、君の為に作られたレタリングだと――」

「うるっさいわね! わかんないって言ってんでしょ!」

 福朗の言葉を、荒ぶる猫宮の声が遮る。ソファから腰を浮かした猫宮は、ハガキもろとも諸手を机に叩きつけた。

 声を聞きつけた明日香は、給湯室から顔だけを覗かせて福朗達をハラハラ顔で窺っている。

 やっと軌道に乗り始めた会話のキャッチボールは、鋭い目つきで強い球を放る猫宮により再びけもの道に逸れて行く。

「レタリングの意味なんか考える前に、あたしの気持ちを考えなさいよ! こんな差出人もない手紙を郵便受けに入れられたあたしの気持ちを! 怖いと思うのが普通でしょ! 気持ち悪いと思うのが当然でしょ! あたし宛だろうがあたしの為だろうが関係ない! あたしにとっては迷惑以外の何物でもないんだからっ!」

 机に手をついたまま叫ぶように言い切った猫宮は、荒げた声の影響で酸欠となり、小さな体全体を使って呼吸しているようだ。始めこそ福朗に向かって放たれていた言葉は、猫宮が途中から視線を落とした事で、別の誰かに向けられているようにも聞こえた。

 猫宮の呼吸が整うのを待つ間、福朗は猫宮の放った強い球を受け止めようとしていた。

 福朗は思う。猫宮の恐怖心も想像はできる、と。それ以上に福朗は思う。差出人が誰であれ、込められた意味、想いが伝わらないのは寂しいのではないか、と。

 猫宮の呼吸が落ち着いてきたのを見計らって、福朗は促す。

「猫宮さんの言い分はわかったよ。とりあえず座りんさい」

「そう、ね」

 猫宮は倒れ込むようにソファに腰を下ろしたが、小柄で体重が軽いせいか、ポスンッと軽い音がしただけだった。

 ソファに体を沈めながら、猫宮は反省する。頭に血が昇ってしまうと、いつも抑えきれずに怒鳴り散らしてしまう事を。そうして何人の人が、自分から離れてしまっただろう、と。

 猫宮は給湯室の方へチラリと目を向ける。そこに明日香の姿は確認できなかったので、内心でホッとした。猫宮はさっきのような自分を明日香には見られたくなかったし、聞かれたくなかったのだ。

 明日香が猫宮をすぐさま特別認定したように、猫宮も明日香を特別視し始めていた。出会いは悪く、怒鳴り、説教し、疑い、責めたのに、明日香がまだ猫宮に笑顔を向けるからだ。

 猫宮はちゃんと自覚している。気難しく、強気で口の悪いところが自分の短所である事を。だから広い人間関係は望めないし、性格上望みもしない。それでも猫宮にだって、他人嫌われたくないと思う心はあるのだ。

 猫宮は福朗を一瞥して考える。初対面で子供扱いしてくれた目の前の男は、まったくもって気に食わない。だが、明日香は高く評価しているらしい。あまり不躾な態度を取り過ぎれば、明日香に嫌われかねない、と。

 今度は猫宮の方が大人の対応を取る事に決め、大きく息を吐き出してから福朗に向かって謝罪の言葉を贈る。

「大声出して悪かったわね」

 猫宮の、少し上からの謝罪を受け止めて、福朗は答える。

「そんなの、俺は構いやしないよ」

 福朗は福朗で猫宮がソファに沈んでいる間、猫宮に踏み込む事を決めていた。その第一声を福朗が口にする。

「俺はそれよりも、君に構って欲しい事ができた」

「は? なによ?」

 怪訝そうな顔をして、猫宮はつっけんどんな返しをしてしまう。猫宮の大人の対応は早くも崩れそうだ。

「レタリングの意味さ。それについてもう少し考えちゃあくれないか?」

 猫宮の表情が怪訝なものから、目と口を開いた驚きのものに変わる。年下である猫宮があれだけ無礼な態度をとって、更には怒鳴りつけたのに、福朗が平然と話してくるからだ。

ハガキを渡しさえすれば、福朗が猫宮に関わる必要などどこにもない。ハガキを受け取ったら、すぐにでも帰されると猫宮は思っていた。

 猫宮が驚いたのは、福朗の言葉が自分の考えと真逆だったから。真逆過ぎて、福朗の言葉の意味がわからなかったから。

 猫宮は福朗を見誤っている。福朗にとっては罵声や怒声も会話の一部でしかない。精神的に堪える事があっても、福朗という人間は今まで猫宮から離れて行った人間達とは全く違う。会話を経る程に忍び寄る。それが福朗なのだ。

「あれ? 猫宮さん?」

「え?」

「俺の話聞いてた?」

「ああ、うん」

 意表を突かれた猫宮は、直前まで呆然としていたので間抜けな受け答えしかできなかった。気に食わないのは変わらないけれど、猫宮は幾分福朗に興味を覚えて興味本位で聞く。

「どうしてアンタがそんな事を気にするのよ?」

「そんな事って、アンタなぁ」

 あまりにもハガキを蔑ろにする猫宮の言葉に、福朗は少し憤っていた。憤っていたから、猫宮の呼称が『君』から『アンタ』に降格される。

 前かがみに姿勢を変えた福朗は、ゆっくりとした口調で語り出す。

「確かにアンタの置かれている状況を考えると、ハガキを恐れるのは無理もないだろう。無理もないが、それでもそのハガキはアンタに向けられたメッセージなんだ。わけのわからん裏面を脇に置けば、表のレタリングが丁寧に描かれている事くらい俺にだってわかる。素性を隠すのは褒められないが、そのハガキに悪意が籠っているとは到底思えない。だから俺はアンタに、ちゃんと考えて、ちゃんとメッセージを受け取って欲しいんだよ。メッセージを受け取った上で拒絶するのはアンタの自由だが、なにも考えずにただ否定するのだけは、俺としては許せないと思っている」

 福朗の口調はゆっくりとしていたが、強い語気を感じた猫宮は気圧されてしまった。

 一通り言い終えた福朗はソファにもたれかかり、気圧されている猫宮を嘲笑うかのように先程の口調とは一変した軽い口調で言う。

「気にする理由ってんなら以上かな」

 福朗の言葉に猫宮は困惑する。冴えない顔つきの、一見頭の悪そうな福朗を読み切れず、猫宮は困惑する。しかし、福朗の言葉を一つ一つ思い返すと、猫宮はだんだん腹が立ってきた。猫宮の負けん気が首をもたげ始める。

「初対面のアンタにそこまで言われる筋合いも、初対面のアンタがそこまで言う筋合いも、両方ないと思わないの?」

 猫宮は努めて冷静に言ったつもりだが、眉がヒクついているのが自分でもわかっていた。

 福朗はそんな猫宮を見て吹き出すように言う。

「そりゃそうだ。不快にさせたなら悪かったよ」

 朗らかな笑いを浮かべる福朗に、猫宮はどうしても毒気を抜かれてしまう。福朗といい、明日香といい、どうもここの人間は変わっているらしい。

 落ち着きを取り戻した猫宮は、溜息と共に呟きを零す。

「ったく、あたしにどうしろってのよ」

 耳聡い福朗は、猫宮の呟きを聞き洩らさなかった。

「そこで提案だ」

「提案?」

「そう、提案。俺は自営業の自由人である『何でも屋』なもんでね。他のハガキも見せて貰って、一緒に考える、ってのはどうだい?」

 猫宮は額に手を添えて、溜息交じりに言う。

「アンタ、プライバシーとデリカシーって知ってる?」

「もちろんだとも。簡潔に言うなら、私情と配慮、だろ?」

「知ってるだけで、持ってないって事ね」

「落っことした覚えはないんだけどなぁ」

 そう言った福朗は、苦笑しながら頭を掻いた。

 猫宮にはまだ福朗がわからない。福朗の提案は、猫宮にとって謎だった。興味本位だけでない事はなんとなく理解したが、なにぶん提案が急すぎる。福朗の距離の詰め方が気に入らなかったので、猫宮は断る事にした。

「結構よ。どうせお金取るんでしょ?」

「それは別に気にしなくてもいい。なにもわからなければ当然取らんし、なにかわかったとしても催促なんかしないよ。成功報酬としてのお心付けならありがたく頂戴するがね」

「そんなんでよくやっていけてるわね」

「お陰様で、細々とは」

 猫宮は無償ならどうかと一瞬迷ったが、やっぱり福朗は怪しいと考えて意見を変えようとは思わなかった。

「それでも結構よ。丁重にお断りを――」

 猫宮が本腰で断りを入れようとしていたまさにその時、コーヒーを淹れ終えた明日香が登場する。

「お待たせしました~」

 福朗に女給と言わしめる明日香は、マグカップを危なげない手つきで福朗と猫宮の前に並べる。そして、猫宮に微笑みかけて言う。

「お話は進んでます? 猫宮さん」

 明日香の声は明るくて、気が抜けてしまうような声だった。

 猫宮は思う。依頼という形を取れば、もう少しこの娘と――

「いいわ。依頼する」

「あれ? マジで?」

 猫宮の急激な心変わりに、福朗は間抜けな具合で驚く。元々ダメにかなり近い、ダメ元での提案だったのだ。まさか了承されるとは、福朗は思ってもみなかった。

「聞こえたでしょ? 依頼するって言ったの」

「そりゃ嬉しい限りだが、なんでまた急に?」

 完全に乗り遅れている明日香は、福朗と猫宮を交互にせわしなく見やっている。

「え? え? なんの話です?」

 そんな明日香の姿が可笑しくて、かわいくて、猫宮は思わず笑ってしまう。

「あたしは猫。猫の猫宮なの。猫は気まぐれって知らないの?」

 こうして福朗は、自称猫の依頼人、猫宮日向の依頼を受ける事と相成った。


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