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第二幕 二人の姉御

姉御肌にも色々あるが、総じて頼りになる事には変わりない

 大慌てで学校に向かった明日香はなんとか二限に滑り込む事ができ、その後の授業も滞りなく終えていた。

 放課後、猫宮と接触するにはまず情報が必要だと考えた明日香は、情報通の友人に声を掛ける。

「ねぇ、沙和。ちょっと聞きたい事があるんだけど。いいかな?」

「ん? どうしたんだい明日香」

 明日香に声を掛けられたのは、七熊沙和(ななくまさわ)という女生徒だ。入学以来明日香と良好な関係を築いている友人の一人で、一時期は疎遠になっていたものの、最近はまた懇意にしている。お喋りな性格ではないはずなのになぜか大学内の事情に精通しており、ショートヘアと切れ長の目が特徴的な、姉御肌のカッコイイ美人である。

 回りくどい言い回しが苦手な明日香は、単刀直入に話を振る。

「沙和は猫宮さんって知ってる?」

「猫宮さん? 当然知ってるさ。有名人じゃないか」

「あ、あはは。うん、そうだよね~」

 なにを今更と言わんばかりの沙和に、猫宮の存在を忘れていた明日香は自分が恥ずかしくなった。誤魔化しの言葉と愛想笑いを浮かべはしたが、これでは福朗にバカにされるのも仕方がない。

 明日香の微妙な返答に一度首を傾げた沙和だが、嫌な顔一つせず、静かに微笑んで続きを促す。

「猫宮さんは知っているけれど、何か聞きたい事でもあるのかい?」

 明日香は取って付けたような沙和の男性口調が好きだ。なんだか心地良くて、安心して、話しやすいから。そんな沙和の誠実な言葉に答える為、明日香は先程の知ったかぶりを訂正しつつ話しを続ける。

「うん。実はド忘れしちゃってね。沙和ならなにか知ってるかと思って」

「ド忘れとは、明日香らしいね」

「ふぐぅ……知ったかぶってごめんなさい」

 しゅんとして縮こまる明日香の頭を、沙和が優しく撫でる。元々明日香の身長よりも、沙和の方が高い。でも今は、もう少し身長差があるように思えるし、年齢差もあるように見える。沙和の姉御肌も伊達ではないのだ。

「いいよ別に。それで、なにが聞きたいんだい?」

「う~ん。聞きたいというよりも、むしろ連絡を取りたいっていうのが本命なんだけど」

「連絡ねぇ」

「さすがの沙和も、知り合いじゃない……よね?」

「ふむ。そうだなぁ」

 顎に手を添えて暫し考え込む沙和。

 明日香は知っている。沙和はもったいぶって人をからかうような性格ではない。ともすればこの間はおそらく、勝手に連絡先を教える事に抵抗があるのか、あるいは――

「残念だが、知り合いではないね」

「そっか。そうだよね」

「でも、居場所ならわかるかもしれない。たぶんだけれど」

「ホントッ⁉」

 途端に明日香の目が輝く。それを見て沙和が苦笑する。

「こらこら明日香。たぶんって言っただろう? 確証はないんだよ?」

「うんっ、それでも教えて欲しい! お願いします!」

 明日香は手をパンッと拝み合わせて頭を下げた。

 沙和は自分が情報屋だとは思っていない。しかし、それなりに情報を持っている自負はあるので、確証のない情報を与えるのは主義に反する行為だ。さりとて沙和は、明日香の頼み事に弱い。

「ねぇ、ダメなの?」

 明日香の上目使いが、沙和のささやかな主義をグラつかせる。

 沙和は悩む。今情報を伏せて、目の前で明日香の悲しい顔を見るべきか。情報を与えて、無駄足を踏んだ明日香の寂しげな顔を翌日見るべきか。今情報を伏せれば、明日香は確実に悲しむだろう。ならば確証はなくとも、確率のある情報を渡した方が良いに決まっている。

 沙和は小さく溜息をついてから、情報を明かす事に決めた。

「わかったよ。教えるから頭を上げておくれ、明日香」

 沙和のささやかな主義なんてものは、友人の懇願を前にすれば守る程のものではないのだ。

「ホントにっ⁉」

「本当さ。でも、無駄足になっても責任は取れないからね」

「それで十分だよ、ありがと沙和! 大好きっ!」

 沙和の薄い胸に明日香が飛び付いて、少しだけよろける二人。

「こらこら、恥ずかしいじゃないか」

「大好きだよ、沙和」

「ありがとう。ボクも明日香が大好きだよ」

 今までも何度か、こういった明日香のスキンシップはあったけれど、沙和は毎回思う。明日香の大きめの胸が当たってしまうと、女同士でもドキドキしてしまうものだな、と。


 ↓数分程後↓


 じゃれ合いを終わらせた明日香と沙和は、教室から出て廊下を歩いていた。

「それで沙和? 猫宮さんの居場所っていうのは?」

「ああ、そうだったね。確証はないけれど、猫宮さんは大抵あそこの教室で制作活動を行っている、という話なのさ」

 そう言った沙和は立ち止まり、廊下の窓を一枚開ける。隣の棟の最上階を指した沙和の手を追って、窓から乗り出すように明日香も立ち止まる。

「特別棟の四階にある、美術室G、だね」

「へ~、そうなんだ。美術室ってそんなにあるんだね」

「これでも一応美大だからね。最近は科が多くなって、少々手を広げ過ぎている感が強いけれど、結局は製作を行うのが主目的なのさ。だから美術室はいくらあっても足りないそうだよ」

「へ~、沙和は物知りだね。私も絵は得意な方だから、やっぱり美術科にしたらよかったかなぁ」

 明日香の何気ない一言により、沙和の表情が少しだけ曇る。

「そんな事言わないでおくれよ、明日香」

「え? どうして?」

「だって、明日香が文芸科に来てくれなかったら、出会えなかったかも知れないじゃないか」

「え? そうかなぁ」

 明日香の一言により、曇っていた沙和の顔が今度は驚きの表情に変わる。

「え? 明日香はボクと出会わなくても良かったのかい?」

「ん~ん、そんなわけないよ」

「じゃあ、どうして?」

「だって、だってさ。物知りの沙和ならきっと――」

 窓から離れた明日香は、くるりと沙和に向き直り続ける。

「きっと科が違っても、私を見つけてくれるもん」

 恥じらいの少し混ざった、無邪気な笑顔を明日香が浮かべる。向き直った反動で、明日香のスカートがひらりと舞った。その光景が沙和から言葉を奪い、反応を返せずにただ見惚れさせてしまう。

「沙和?」

「う……え?」

「見つけてくれるよね?」

 そうしてまた、明日香の上目使いが沙和を襲う。今度の沙和に守るべきものはない。ただ明日香の瞳に吸い込まれるように答えを出す。

「もちろんだとも、保証しよう。ボクは明日香がどこに居ようとも、必ず見つけ出すさ」

「うん! だったら何も心配しなくていいよね!」

 満面の笑みで明日香が歩き出したので、沙和は窓を閉めてからその背中を追う。夕日で明日香の黒髪が煌めき、沙和の目に眩しく映った。

 恥ずかしい事を言ってしまったと思い、明日香は目を伏せ気味にして歩いている。同じように、沙和も頬を掻きながら少し後ろを歩いていった。

 階段に着く頃には沙和が追い付いて、仲良く並んでから二人は降り始める。

「ありがと沙和。美術室を訪ねてみるね」

「すまない。ボクも一緒に行ければ良かったのだけれど、今日は予定があってね」

「ううん、教えてくれただけで十分だよ。後は一人で大丈夫だから」

「そうかい? 因みに言うと、猫宮さんは少々気難しい性格らしいよ」

「う、う~ん……だ、大丈夫だよ」

「本当に? 明日香は人見知りじゃないか」

 沙和の言葉は、単に明日香を案じるが故のものだったが、明日香の肩がピクリと反応する。

 明日香は人見知りだ。仲良くなればこそ世話焼き気質の良妻肌なのだが、そこに至るまでにはそれなりの時間が必要となる。初対面の人とまったく話せないとは言わないまでも、自分の意見を主張できずに流されやすくなってしまうのだ。

 明日香の胸中に不安が湧き出したものの、福朗との約束がある。と言うよりは、自分から言い出した話だ。それに、いくら気難しくても相手は女性。取って食われはしないだろうと、明日香は気合を込めた鼻息を吐いて拳を振り上げる。

「だいじょ~ぶ! 私ならできる!」

「どうだかね。空元気にしか見えないな」

 沙和の言葉が明日香に突き刺さり、今度は全身がビクリと反応した。

「うぅ……酷いよ沙和」

「ふふっ、すまない。我々はクリエイターを目指す者達だ。日々挑戦に生きるのは、悪い事ではないはずさ」

「そ、そうだよね。よ~し、がんばるぞ」

 その声に数秒前程の元気はなかったが、明日香が拳をもう一度振り上げた頃には、二階の渡り廊下前まで降りて来ていた。予定のある沙和とはここでお別れだ

「じゃあ、私は特別棟に行くね。またね、沙和」

「ちょっと待って明日香。一つ聞いてもいいかい?」

「ん? なぁに?」

 まさか呼び止められるとは思っていなかったので、明日香は少し出鼻を挫かれた気もしたが、無視する道理もないので立ち止まる。

「猫宮さんに会いたいだなんて、どうして急に?」

「ああ、それはフクさんが――」

 途中まで言った明日香はハッとなる。沙和の前で福朗の話は厳禁なのだ。明日香が傷心していた時期に力に成れなかった事を、今でも沙和は酷く後悔している。そんな明日香を救った福朗を、沙和は少し、いやけっこう、いやかなり敵視しているのを明日香は知っているのだ。逆恨みと片付けてしまえばそれまでだが、明日香はなんだか嬉しかった。不謹慎ではあるけれど、自分の為に後悔してくれる友達を明日香は誇りに思っている。

 さっきも口に出したように、明日香は沙和が大好きだ。されど福朗にも恩がある。なのでどっちの肩も持たなくて済むように、明日香は誤魔化そうと考えた。

「な、な~んちゃってね~」

「それでボクを誤魔化せると思っているのなら、心外だな」

 明日香の渾身の誤魔化しは、いとも簡単に沙和に一蹴された。名前を出してしまった以上、誤魔化しが効くはずもないのだ。

 見事明日香の愚考は打ち砕かれ、沙和が大きな溜息をつく。

「あの男に頼まれたんだね?」

「え~っと……その……」

「あぁ、明日香に嘘をつかれるなんて。今夜は枕を濡らしてしまいそうだよ」

 男性口調でも沙和とて女だ。嘘をつかれて嘘泣きするのはお手の物。沙和に対して明日香の上目使いが強力であるように、明日香に対しては沙和の嘘泣きが強力なのだ。

 案の定、慌てふためいた明日香はすぐに観念する。

「ごめんなさい! フクさんに頼まれました!」

「やっぱりかい。バイト使いの荒いヤツめ」

「ち、違うの沙和っ」

「違う? 何が違うんだい?」

「今回は事情があるの。事情があって私から持ち出した話なの」

「ふ~ん、事情ねぇ……どんな事情なんだい?」

「それは、その……まだよくわかんなくて。もしかしたらプライベートな内容かもしれないから、今はまだ……」

「ふ~ん、そうかい……」

 沙和は顎に手を添えて、少しの間考える仕草をする。そして、

「あぁ、今夜は枕を――」

「もうっ、沙和⁉」

「ふふっ、冗談だよ冗談」

 沙和は嘘泣きをする嘘を演じて見せた。それから改まった口調で言う。

「あの男の宣う守秘義務だったらクソくらえと思うけれど、現状明日香が話さないのは、気遣いからくるものなんだろうね。なら、余計な詮索は止めておこう」

「沙和……」

「今日はこれで引き下がるよ。またいずれ、話せるようなら話しておくれ」

「うん、わかった」

 明日香はそっと胸を撫で下ろす。沙和の好意は素直に嬉しいけれど、福朗への敵意だけはなんとかならないものか。仲良くなってくれるに越した事はないが、どうにも上手く取り持てる気がしない。明日香にとっては悩ましいところだ。

「引き留めて悪かったね、明日香」

「ううん、別にいいよ。じゃあ、また明日ね、沙和」

「ああ、また明日」

 ようやく二人は別れ、沙和が階段を下りて行く。

 別れ際に沙和の浮かべた笑みが気になった明日香は、気付かれないよう登り階段の方に近づいて耳を澄ませてみた。すると、

「今度アイツの事務所に不幸になりそうな手紙か、呪われそうな文章を送り付けてやろう」

 と、のっぴきならない沙和の呟きが聞こえてしまった。心なしか、足音もいつもの沙和より大きい気がする。

 確かに呟きは聞こえたのだが、明日香は聞かなかった事にして渡り廊下から特別棟を目指す。

 いややっぱり、そもそも聞こえなかった事にしよう。と、明日香は歩きながら思うのだった。


 ↓明日香移動中↓


 特別棟の四階、むしろ特別棟全体は、主に美術科やデザイン科などの絵描きのテリトリーだ。文芸科である明日香はこの大学に丸二年在籍しているが、ほとんど足を踏み入れた事がなかった。絵描きのテリトリーだけあって、臭いからして一般棟とは違う。鼻につく色々な臭いは、絵の具やペンキ、シンナーとかなのだろう。絵を描くのは好きだったが、わざわざ絵の具を出してまで描くほどではなかった明日香には、嗅ぎ慣れない臭いが多かった。

 鼻を塞ぐまではいかずとも眉をひそめつつ階段を上り、明日香は四階に辿り着く。目当ての美術室Gを探して、廊下をとりあえず左に曲がった。

 一つ二つ教室を過ぎたところで、明日香は美術室Gを発見した。できれば廊下から中の様子を窺いたかったが、美術室Gは窓も扉も全てすりガラスになっていて無理そうだ。天井付近の小窓だけは透明だが、まさかよじ登って覗くわけにもいかない。音くらい聞こえないものかと耳を当ててみても、中からはなにも聞こえなかった。耳を離してから気付いたが、廊下に誰も居なくてよかった、と明日香は思う。傍から見れば、不審者と言われても不思議ではなかっただろうから。

 腕を組んで数秒考えた明日香は、扉を少しだけ開けて覗く事を思いついた。それはそれで不審者の行動に相違ないが、背に腹は代えられない。意を決した明日香は極力音を立てないよう、静かに扉をスライドさせていく。ほんの少し開いた扉からは、さっきから感じていたものよりも強い、油絵独特の臭いが押し寄せて来るようだった。

 しゃがみ込んだ体勢で不審者紛いの作戦を実行した明日香だったが、少し開いただけで中の様子がわかるはずもない。それに電気をつけていないのか、薄暗くて見えにくい。ともかく、今確認できる範囲に人は居ないので、『こっそり扉開け作戦』は続行となる。しかし、頭が入るくらいに扉が開いた時点で、自分の行為のバカらしさに気付いた明日香は立ち上がって普通に扉を開ける事にした。あくまでも音は殺してだったが。

 遂に通り抜けられるほど扉が開き、明日香は入室する。明日香が奮闘していた扉は前側だったらしい。だから見えなかった。美術室Gの後ろ側には、椅子に座ってキャンバスに向かう、一人の女性の姿があった。後姿しか見えなかったものの、肩まで伸ばした茶髪のウェーブヘアと小柄な体型から、明日香は女性だろうと判断する。

 静かに扉を開けたのもあるが、絵に集中していると思しき女性はまだ明日香の存在に気付いていない。邪魔をするのも悪いと思った明日香は、ゆっくりと女性に忍び寄る。女性は身近な窓だけを開けているようで、その一角のカーテンだけが風に揺れて夕日を誘い込んでいた。

 明日香が誘い込まれた夕日の線を目で追うと、女性の周りに描き終えたキャンバスがいくつも並べられている事に気付いた。そのキャンバスのどれもが、黒に近い暗色をベースに描かれているので気付きにくかったのだ。少しだけある明るい部分の輪郭を考えると、どうやらそれらの絵は満月を仰ぎ見る黒猫を描いたものらしかった。一つ一つ構図は異なるようだが、どれもモチーフは同じ。暗闇に浮かぶ満月と、寂しそうにそれを眺める一匹の黒猫の絵だった。

 哀愁の中にある美しさに惹かれた明日香は、思わず声を出してしまう。

「綺麗な絵……」

 明日香が声を発した途端、キャンバスに向かっていた女性が勢いよく振り向いた。始めは驚いたように目を丸くしていたが、それも一瞬の事。明日香を認識した女性は、敵意の籠った眼差しで明日香を睨みつけた。

「誰よ、アンタ」

「あ、えと、私は……きゃん⁉」

 不意を突かれた明日香は思わず後退してしまい、足をもつれさせて盛大に尻もちをついた。どちらかと言えば先に不意を突いたのは明日香の方なのだが、こういったケースは気弱な者が気圧されるのだ。

「ったく、なにしてんのよ」

 重い腰を上げた女性は、呆れ顔でキャンバスの前から明日香の方へ歩み寄る。

 怒られると思った明日香は、咄嗟に防御態勢をとって叫ぶ。

「ごめんなさい! ごめんなさい!」

 明日香の謝罪を気にも留めない足音がどんどん近づき、いよいよ明日香はパニックだ。口からはもう、『ごめんなさい』のワンフレーズしか出てこない。

 そんな明日香の『ごめんなさい砲』が気に障ったのか、女性の口調が更に荒くなる。

「うるっさいわね。あたしがなにしたって言うのよ」

「ひぃっ!」

 『うるさい』と言われた明日香は、小さな悲鳴を上げてから押し黙った。と言うよりも硬直した。そのままであればデッサンモデルとして優秀な、彫像のように硬直してしまった。

 硬直した明日香を暫く無言で見守っていた女性は、耐えきれなくなったのか吹き出して笑う。笑っている間も明日香の硬直は解けなかったので、痺れを切らした女性は声を掛ける。

「ほら、手、出しなさいよ」

「ふぁ……へ?」

 硬直中に話し掛けられた明日香は置かれている状況が飲み込めておらず、なんとも間抜けな声しか出ない。

 それがまた反感を買ったのだろう。女性の口調がまた荒くなる。

「手よ。手を出しなさいって言ってるの!」

「は、ふぁいっ⁉」

 脅されるように迫られたので、明日香はロクに確認もせずに左手を突き出した。悲しいかな、その左手は女性の腹部に突き刺さる。

「ぐふぅ……アンタ……なにを……」

 みぞおちにでも綺麗に決まったのだろう。女性は膝から崩れ落ち、そのまま蹲ってしまった。

「あ……あ……ごめんなさいぃ~!」

 夕暮れの美術室Gにて、蹲る女性が一人とへたり込む明日香が一人。鳴り響くは本日で一番大きい明日香の『ごめんなさい大砲』。僅かに開けられた窓からは、『ごめんなさい』が余韻を残しつつ出ていくのだった。


 ↓その後しこたま怒られて、更にその後↓


「本っ当にごめんなさいですっ‼」

「もうわかったわよ。わかったから――」

「ごめんなさいですっ‼」

「うるさいっつってんのよ! 少しは黙んなさいっ!」

「ひぃぃ」

 明日香はめちゃめちゃ怒られた。腹部の痛みから回復してどっかりと腰を下ろした女性に、始めは怒号、次にくどくど、最後はネチネチ怒られて、軽く十分は経過していた。

 平謝りの末、なんとか許してもらえそうな雰囲気だったのに、またも明日香の『ごめんなさい砲』が火を噴いて、女性の燻っていた火を炎に変える形となってしまった。

 明日香は半泣きだった。泣いてはいない。半泣きだった。半泣きでも、鼻水は出そうな勢いだった。

「ったく、そんな子供みたいな謝り方して。誠意が感じられないのよ、誠意が」

「ご、ごべんなざいぃ~」

 泣いた。遂に明日香は泣いた。そして鼻水も出た。

 明日香の姿があまりにも憐れだったのだろう。女性はポケットからハンカチを取り出し、明日香に差し出す。

「ったく、みっともないったらありゃしないわ。もういいからコレで拭きなさい」

「はいぃ~、ありがどうございまずぅ~」

「あ、鼻水は付けないでよね」

「はいぃ~」

 許してもらえて気が緩んだのか、女性の優しさに心打たれたのか、明日香の目からは更に涙が零れ落ちる。

「ちょっと⁉ なんでもっと泣いてんのよ⁉」

「ごべんなざいぃ~」

 明日香のおよそ大学生とは思えないあまりの不甲斐なさに、女性は額に手を添えて黙り込む。おそらくは、これ以上藪をつついても涙か『ごめんなさい』しか出てこない、と察したのだろう。

 五分ほどを要して、やっとの事で明日香は落ち着きを取り戻した。

 ようやく会話が成り立つだろう、と、最後に大きな溜息を一つついた女性は明日香に問う。

「で? 結局アンタは誰で、なにしに来たのよ?」

「え、えと、それは……その……」

「いい? ハッキリと喋んなさい。あたしそういうの大っ嫌いなの」

「うぅ……」

 沙和の言っていた情報は本当だった。気難しい人だ。やっぱり訪問は明日にして、沙和と一緒に来たら良かった。と、今更ながら明日香は後悔する。しかし、後悔の中で思いつく。猫宮さんは気難しい人、との情報だ。ならばこの女性が猫宮さんでは、と。

「あの……」

「なによ? やっと喋れるようになったの?」

 人見知りの明日香には、初対面で当たりの強いこの手の人物は荷が重い。しかし、折角の沙和に情報を貰い、がんばると言ったのだ。前で組んでいた手に力を込めて、明日香は質問する。

「貴女が、猫宮さんですか?」

「は? そうだけど。それがなに?」

 アタリだ。明日香は安堵して、足の力が抜けそうになる。沙和の情報は正しかったのだ。猫宮は情報通りちゃんと美術室Gに居て、猫宮は情報以上にスーパー気難しかった。だがまだだ。ここからが明日香にとっての正念場。もう一度手に力を込めた明日香は、猫宮に切り出す。

「猫宮さんに伺いたい事があったので、会いに来ました」

「その前に、アンタは名乗らないわけ?」

「あわわ、そうでしたね。私は文芸科の三年、高梨明日香と申します」

「そ。その文芸科の高梨さんが、美術科のあたしに聞きたい事ってなに?」

「ええっと、ですね。猫宮さん宛と思われるハガキを拾いましたので、お心当たりがないかと――」

 明日香が話している途中で、猫宮の座っていた椅子がバタンッと音を立てて倒れた。猫宮が勢いよく立ち上がったからだ。猫宮の表情はさっきまでの呆れ顔とは違い、第一声の時と同じ、敵意ある眼差しに変わっている。

「今、なんて言ったの?」

「へ? ですから、猫宮さん宛のハガキを……レタリングされた……」

「どうしてアンタがソレを知ってるのっ‼」

 急激に明日香に詰め寄る猫宮。その声は、これまでも大きかった声の中でも、輪をかけて大きな声だった。

 明日香は驚きはしたものの、恐れはしなかった。猫宮の大声が怒声ではなく、焦りからくるものだと察したからだ。

「なんで知ってるかって聞いてんのよ‼」

「いえ、それはあの、今朝偶然拾って」

「ドコよ! ドコにあんの⁉ 寄越しなさいっ!」

 猫宮はいよいよ明日香に掴み掛かる。改めて近くで立ち並んでみると、猫宮の身長は明日香より頭一つ分は低い。それに顔も、およそ年上とは思えない童顔で、猫のように目じりの吊り上がった大きな瞳をしている。

 揺さぶられて寄越せと言われても、明日香の手元に今ハガキはない。明日香がどうしようか考えている間にも、揺さぶりは強くなっていく。

 冷静に、そして正直に話す為、明日香は必死で猫宮の手を振り解こうともがく。

「話を聞いて下さい!」

 揺さぶりは強かったが体格差からか、明日香は意外と簡単に猫宮の手を振り解く事ができた。

「イッタイわねぇ、何すんのよ!」

「冷静に聞いて下さい! 今私は持ってないんです!」

「なんですって⁉ ならドコにあんのよ⁉」

「それは……その……」

「ハッキリ喋れって言ったでしょ! まさかアンタ、家に持ち帰ったんじゃないでしょうね⁉」

「違いますよ! ハガキは今、バイト先に保管されてます!」

「なんでそんなトコにあんのよっ⁉」

「それは拾ったのが私じゃなくて、バイト先の店長みたいな人が――」

「店長みたいな人って誰よ! 店長代理なの⁉」

「いえ、それも違くて。店長って言うかボスって言うか」

「ボス⁉ なによソレ! アンタふざけんのも大概にしなさいよっ!」

「違うんです~! 冷静に聞いて下さいってば~!」

「腹出しなさいっ! さっきのお返しをくれてやるわっ!」

「うわあぁ~~ん!」

 こうしてまた、今度は明日香が腹を抱えて蹲り、夕暮れの美術室Gに叫びがこだまする。因みに明日香が蹲っているのは、殴られたくない一心からである。


 *冷静と饒舌の間*


「悪かったわね、取り乱したりして」

 勢いのあり過ぎた饒舌な言い合いは、叫び疲れた猫宮が我に返った事で終戦となった。今は二人共、冷静に話ができる状態まで漕ぎつけている。

「いえ、私こそ口答えしたみたいで。ごめんなさい」

「なに言ってんのよ。アンタはただ説明してただけでしょうが」

「でも……」

「グチグチ言うのもあたしは嫌いよ。それにその、『ごめんなさい』ってのも止めなさい」

「あ、え? ごめんなさい」

「ほら、また言ってる」

「あ……ごめウッ」

 条件反射で出そうになった『ごめんなさい』を、明日香は手を使って無理矢理押し込めた。

「いい? 自分の非を認めるのはとても重要な事だとは思うけど、謝罪の連呼は安売りと同じなの。謝れば謝るほど、誠意が薄く取られる場合があるから気を付けなさい」

「は、はい」

「それとね、別に先輩風吹かせたいわけじゃないけど、一応はあたしの方が目上にあたるの。だったらごめんなさいじゃなくて、申し訳ございません……は少し硬いわね。せめてすみませんって言いなさい。そんなんじゃあ社会に出てから痛い目見るわよ? いいわね?」

「は、はい。すみませんでした。それにありがとうございます」

「ん。わかればよろしい」

 明日香と出会ってから初めての笑顔を猫宮が浮かべる。その笑顔は童顔であるはずの猫宮を、なぜだか明日香よりも年上に思わせるオーラを纏っていた。おっかない人だと思っていた明日香はその笑顔を見て、猫宮は沙和とは違うタイプの姉御肌なのだ、と気付く。

 沙和は静かに見守りつつ、困った時に手を貸してくれるタイプ。

 猫宮は間違えれば厳しく叱るけれど、その後丁寧に指摘してくれるタイプ。

 冷静に話し合ったのはまだほんの数分だが、猫宮とは仲良くなれそうだ、と明日香は直感した。なにぶん明日香は世話焼き気質であると同時に、妹気質でもあるからだ。教えを乞えて尊敬できる年上という存在は、明日香にとっては初めからほぼ無条件で好感度が高い相手なのである。という事で、明日香は早速猫宮と仲良くなりたくなった。出会いはなかなか最悪ではあったけれど、あれだけの言い合いを繰り広げたのが、かえって明日香の人見知りの壁を粉々に打ち砕いていた。

 思い切って明日香は提案してみる。

「あの、もしこの後お時間があるなら、私のバイト先に一緒に来て頂けませんか?」

「は? なんでよ?」

「大切なハガキだと感じたので、お返しするのは早い方が良いと思って」

「ふんっ。大切? アレが? ったく、冗談じゃないわよ」

 そう言った猫宮は、また態度を不機嫌なものに変えてしまった。あれだけ焦って突っかかってきた割に、大切ではないと言う。事務所への同行を断られるだけであれば、翌日にでも返却すれば良い。だが、捨てろと言われたらどうしよう、と明日香が不安に思っていると、猫宮から意外な答えが返って来た。

「ま、いいわ。取りに行ってあげようじゃない」

「え? ホントです?」

「なに疑ってんのよ? そんなバカみたいな嘘、つくわけないでしょうが。色々と片付けがあるからちょっと待ってなさい」

「はいっ! じゃあ、待ってますね!」

 急に元気良く返事をした明日香に、猫宮は驚く。手間のかかる妹を見るような、少し呆れた表情で猫宮は言う。

「なんでアンタがそんなに嬉しそうなのよ?」

 それを受けた妹気質の明日香は、無邪気な笑顔で答える。

「いえいえ、別に。気にしないで下さい」

 明日香の笑顔を見た猫宮は、妹の笑顔に逆らえない姉のように、額に手を添えて小さな溜息をついた。パワーバランスは徐々に明日香に傾きつつある。

「あっ、バイト先は境戸駅近くなので、あんまり焦らなくても大丈夫です。ゆっくり道具のお手入れをして頂ければと思います」

「言われなくてもやるわよ。絵描きにとって道具は命なんだから、手を抜くつもりなんてサラサラないわ。だから少し時間がかかるけど、大人しく待ってるのよ?」

「は~い。お待ちしてま~す」

「『はい』は伸ばさないの。ったく」

 明日香のペースにすっかり飲まれた猫宮は、今はもう、明日香の姉みたいに振舞う事しかできなかった。

 猫宮は宣言通り、手を抜く事なく手慣れた手つきで次々と道具を片付けていく。まずは筆とパレットを、ウエスで丹念に拭って絵の具を落とす。次にパレットには、揮発性油を別のウエスで丁寧に塗り付ける。その次に筆は、一本一本を小分けした筆洗油に浸けて揺り動かし、また丹念にウエスで拭う。そして最後に、部屋の隅に据え置かれていた電気ポットから小さなバケツにお湯を入れ、猫宮は筆とバケツを持って美術室から出て行った。

 猫宮の手際の一部始終を、明日香は猫宮が退室するまで羨望の眼差しで見守っていた。油絵具や猫宮が使った手入れ用油類の独特な臭いが、今の明日香の鼻には少しだけ心地良く思えた。


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