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第一幕 宛名だけのハガキ

宛先のない手紙などない。すべての手紙は、届ける相手の為に書かれるのだから。

 ここは境戸市。この国全体から見ればおおよそ中心に位置し、100万を超える人口を有している。首都ではないものの、都市と言っても過言ではない規模の町だ。俯瞰すれば、町の中央を南北に貫くのは片側4車線の中央大通り。東西に貫くのは様々な場所へと伸びる鉄道。そして中心には、福朗がさっきまで居た境戸駅が鎮座している。

 境戸駅周辺には大型商業施設やビジネスビルが立ち並んでおり、福朗の構える事務所はギリギリその一角に収まっている。駅から徒歩十分弱、十亀(とがめ)第七ビルの二階。そこが福朗の事務所兼住居なのだ。

 趣味の人間観察が誘拐犯の捕り物へと変わり、揚々とした帰途にて謎のハガキを拾う。そんな福朗が帰り着いたのは、時計の長針が八時を回り、半分以上九時に近づいた頃だった。七時に事務所を出た事を考えると、けっこうな時間が過ぎている。

 応接机にハガキを放り出して応接用のソファに腰掛けた福朗は、とりあえずテレビの電源を入れる。この時間はどの局もニュースばかりだ。二〇二〇年四月九日、世界は今日もそこそこ物騒で、そこそこ平穏らしい。

 ザッピングしても興味を惹くニュースはなかったので、福朗は再びハガキを手に取る。手に取ったハガキをまじまじと眺めながらソファに深く体を沈めた時、事務所の扉が開かれた。

「おはようございま~す。フクさん起きてます~?」

 元気な挨拶と共に入って来たのは、高梨明日香(たかなしあすか)である。この怪しげな『何でも屋』における唯一のアルバイトで、境戸造形美術大学に通う三回生になったばかりの女の子だ。明日香はこの国特有の綺麗で長い黒髪を靡かせ、慣れた調子で事務所に足を踏み入れる。

 ハガキに集中していた福朗は、意表を突かれたように驚きの視線を明日香に向けた。

「おんや? 今日は木曜なのに学校休みなの?」

「昨日ちゃんと言いましたよ。今日は1限目が休講です、って」

「そうだっけ?」

「そうですよ。ホント、聞いてるようで聞いてないですよね。フクさんは」

「それは違うな。聞いてる時は聞いてるし、聞いてない時は聞いてないだけさ。聞いてるようで聞いてない時なんてないよ」

「はいはい、屁理屈は沢山です。聞いていなかった事実は変わりませんからね」

 溜息交じりに回答する明日香は思う。この事務所に来てからというもの、溜息の回数が増えたのではないか、と。しかし明日香はこうも思っている。増えたのは呆れ交じりの溜息だけで、押しつぶされそうな不安からくる溜息は随分減ったのだ、と。

 明日香も福朗の助力により救われた一人だ。故によく分からない職種でも、福朗の元でアルバイトをしている。普段のマヌケぶりに多少なりとも目を瞑れなければ、ここではやっていけないと明日香は知っている。また、福朗が相応に頼れる事も知っているのだ。

 色々と思うところはあるが、気を取り直して明日香は聞く。

「朝ごはん、食べます?」 

「お、いいね。作ってくれるの?」

「はい。事務所の食材を使わせて頂ければ、私の朝ごはん代も浮きますから」

 笑顔で答える明日香に対し、福朗は苦笑する。

「ちゃっかりしてるね、明日香ちゃんは」

「しっかりしてると言って下さい」

 腰に手を当て胸を張る明日香。明日香の屁理屈は、きっと福朗譲りのものだろう。

「さすがはウチの助手兼女給だ」

「良いんですかそんな事言って。作ってあげませんよ?」

「むぅ……」 

 明日香の料理の腕なら福朗もよく知っている。素朴だが味は抜群なので、くだらない言い合いで食いっぱぐれるのは福朗にとって望むところではない。

「食べます。お願いします」

「よろしい。じゃあ、少しだけ待ってて下さいね」

 そう言い残して、明日香は満足したように給湯室に消えていった。

 暖簾の先に消えた背中を見届けて、福朗は初めて明日香に会った時の事を思い出す。あれから考えれば随分変わったものだ、と一瞬思いはしたが、本来の彼女に戻ったのだ、と思い直す事にした。

 なにはともあれ、朝ごはんの心配がなくなった福朗は、待っている間ハガキとのにらめっこに従事しよう、と再びハガキに目を移した。


 ↓そして朝食へ↓


 明日香作の朝食は、二十分と経たずに完成した。ご飯は冷凍のものがあったし、みそ汁も昨晩のものが残っていたからだ。そこにだし巻き卵と焼き魚が加わり、朝食らしい朝食が応接机に並べられる。食事には少々低い机だが、福朗と明日香は特に構う事なく、朝食を食べながら言葉を交わす。

「その恰好、また人間観察に行ってたんです?」

「そうだけど、何か問題ある?」

「大アリです。朝っぱらからベンチに座って行き交う人を舐めるように見るなんて、どう考えても怪しいですもん」

「そいつは酷い言い草だな。そんなに怪しいかねぇ」

「ええ、とっても。どうせ当たりもしないんですから、人間観察なんて止めてジョギングでもしたらどうです?」

 福朗の観察眼の性能は、明日香の言う通りである。今朝の一件からでも十分に察せられるだろう。しかし、福朗自身は自信を持っているので、啜っていたみそ汁を置いて反論する。

「そりゃもちろん外す事だってあるかもしれないけど、そこまで言われる筋合いはないよ」

 福朗の反論に小さな溜息をついた明日香は、ゆっくり茶碗と箸を机に置く。そして右手の人差し指を天井に向け、ジト目で福朗を見ながら判例を上げ連ねる。

「では、この前迷子と称した男の子は?」

「……お使い中なだけだった」

 明日香の右手中指が持ち上がる。

「その後に見かけた、高所得者の妻と称したおば様は?」

「……ただの見栄っ張り女だった」

 更に明日香は、薬指までも天井に向ける。

「最後のお爺さんは?」

「……婆さんだった」

「ほら、先日だけでも三件は外してます。性別すらも判別できない観察眼なんですよ? 当たるなんてありえません」

 そこまで言い終わった明日香は、立てた指を戻して箸を取り直す。例を上げれば福朗も黙ると思ったのだ。

しかし福朗も負けてはいられない。何とか声を絞り出すが、その声はかなり小さい。

「だったら君は、あの婆さんが婆さんだってわかったの?」

「当然です。性別くらいなら私にだってわかりますよ」

「ぐぅ……」

 自信に満ちた明日香の回答を聞いて、福朗の口からはぐうの音しか出ない。しかしそれでも福朗は諦めない。自分の観察眼を諦めない。諦めないが参考までに、と明日香に一つ質問する。

「どこでわかったの?」

「え? それは……その……だって……」

 箸を軽く咥えたまま、明日香がモゴモゴと言い淀む。暫く考え込んでから、テレビの音に消されそうな声量で明日香が言う。

「だって、胸ありましたもん」

 その声は案の定、福朗には聞こえなかった。聞こえなかったので、福朗は悪意なく問い返す。

「ん? なんだって?」

 比較的純粋な福朗の問い掛けに観念した明日香は、頬を軽く染めながら、今度こそ福朗に聞こえる声量で回答する。

「胸があったからです。だからお婆さんだと思ったんです」

「ほぉ……胸、ね。そうかそうか」

 福朗の顔が悪い笑みに変わっていくのを見て、明日香はやってしまったという顔だ。

明日香は知っている。福朗が割と大人げない事を。

「へ~、そうか。明日香ちゃんは他人のそういうところを見てるんだねぇ」

「なっ⁉」

 今度こそ悪意ある福朗の発言に、明日香は思わず声を上げた。恥ずかしさと悔しさで、明日香の顔が赤くなっていく。

 形勢を覆し、してやったりの福朗は、気分良くだし巻き卵に箸を伸ばす。が、届かなかった。明日香が皿を動かしたからだ。

「セクハラ発言につき、だし巻き卵は没収とします」

「何っ⁉ そんな話は聞いてない!」

 福朗の箸が追いかけて、明日香の動かす皿が華麗に避ける。その動きに合わせ、柔めに作られただし巻き卵がプルプルと踊っていた。

 福朗と明日香の日常は、こんな感じで今日も平和である。


 ↓朝食後↓


「誘拐未遂⁉ フクさんが⁉」

「いやいや、そんなわけないでしょうが。君こそ俺の話をちゃんと聞いてた?」

 平謝りの末、なんとか卵を取り戻した福朗は、無事に朝食を終えていた。今朝の出来事を明日香に話終えたところで、今は二人仲良く食後の緑茶を啜っている。

「それで、どうなったんです?」

「犯人は捕まったし、女の子は母親の元へ帰ったよ」

「はぁ~~、それはそれは。朝からご苦労様でしたね」

 明日香は感嘆の吐息を漏らしているが、福朗としては特に自慢する事でもない。福朗の中で誘拐未遂云々は、少女の一言でもう片が付いているからだ。それよりも福朗が気になるのは、

「そんなわけで、人間観察も悪くないだろ?」

 と、先程止めるようにと指摘された人間観察の方だった。

 それなりの重大事を事もなげに話し、どうでもいい話題に切り替えた福朗を見て、明日香はまた小さな溜息をつく。本来であれば、もっと評価を受けて然るべきなのに。しかし、福朗がそれを求めていない事も知っているので、明日香も事もなげに間違いを指摘する。

「でも、始めは親子だと思ったんですよね?」

「ぐぅ……」

 明日香の返しに福朗の顔が歪み、それを見て明日香は微笑む。無事に解決した誘拐事件の話は、こんなにもあっさりと終わってしまった。

 当事者である少女の事は知らないけれど、彼女もいずれ、こんな風に事もなげに話せればいいな、と明日香は思う。

 今目の前で不機嫌そうに頬杖をつく福朗。そんな福朗の事を、明日香は内心尊敬しているのだ。武勇をおくびにも出さないヒーローをいつまでも不機嫌なままでいさせるのも忍びないので、明日香は話題を変えようとして目についたものを指さす。

「ソレ、なんです?」

 明日香の言うソレとは、福朗が拾ったハガキの事だ。

「ああ、コレ? ちょうどいい、明日香ちゃんならわかるかも。ちょっと見てくんない」

 湯呑を置いた福朗は、ハガキを拾い上げて明日香に渡す。受け取った明日香は数秒眺めてから首を傾げて感想を漏らした。

「コレ、ナゾナゾです? それともクイズ?」

 初見である明日香の感想には頷けるが、福朗が聞きたかったのはそんな事ではない。

「面白い意見だがその疑問はさておき、美大生としての意見は?」

「う~ん、そうですね……たぶんコレは、レタリングだと思います」

 ハガキの裏面には謎の黒い線しかなかったが、表に描かれていたのは宛名と思しき絵に近い文字。美大生に意見を聞いてよかったと思いつつ、福朗は話を続ける。

「レタリングねぇ。それって明朝体とかゴシック体を手書きするヤツじゃなかったっけ?」

「それは基本中の基本ですね。既にある書体を手で描く、ハンドレタリングというものです」

「じゃあソレは?」

「レタリングというのは本来、文字自体に他の意味や目的を込めてデザインする事を指すんですよ。商標ロゴとかありますよね? ああいったものがレタリングになります」

「なるほど。ただ綺麗に文字を書くだけじゃないんだな」

「ただ文字として美しく綺麗にデザインして書くのは、カリグラフィーという手法です。手法と言うか書法に近いんだと私は思いますけど」

「なら、明朝体とかゴシック体ってのは?」

「そうですねぇ。明朝体やゴシック体は有名なフォントです。そういったフォントは使用文字全てを同じ法則に則ってデザインする、タイポグラフィーじゃないかと思います。文字の大きさに関わらず一枠を統一して扱うので、印刷物に用いられますね」

「へ~、勉強になるな。伊達に美大生やってないね、明日香ちゃん」

 福朗の発言に、明日香の眉がピクリと反応した。どうも腹の立つ言い草だが、助けた少女に免じてここは大人の対応をしておこう。

「一言余計ですが、褒め言葉として受け取りましょう」

 明日香は静かにそう言って、福朗にも見えるようにハガキを応接机に置いた。

「拾ったんです?」

「ああ、駅から帰る途中に俺のデコにぶつかって来た。角だったからけっこう痛かったよ」

「あらら、それは災難でしたね」

 ざまあ見ろと思ったが表には出さず、明日香は一応気に掛ける風を装っておく。想像したら吹き出しそうになったが、それも頭を振って腹に押し込めた。

 ハガキに目を落としたままの福朗は、明日香に提案する。

「とりあえず宛名の人物に渡したいからさ、俺の考えと合ってるか確認させてくれない?」

 そう言いつつ、福朗は後頭部を数回掻いた。それが困った時の癖であると明日香は知っている。福朗に頼られている事が、明日香的には嬉しかった。

「わかりました。私の考えで良ければ、いくらでも」

 明日香の意気込みを福朗は察していないようだが、了承が得られたので早速すり合わせを始める。

 宛名と思しきレタリングは全部で漢字4文字。その一番上を指さして、福朗は促す。

「コレは?」

「『猫』ですね」

 一文字目。漢字の左側は横向きの黒猫が『けものへん』を表しており、右側には正面からとらえたネコの顔が描かれている。耳が『くさかんむり』で、鼻や口が『田』に見えなくもない。

 機転の利く明日香は、応接机に設置されたメモ用紙に『猫』と書く。書き終えるのを待ってから、福朗は次を指さした。

「次、コレは?」

「『宮』だと思います」

 二文字目。『うかんむり』を屋根に見立て、その下にある大きさの違う二つの四角が『呂』なのだろう。全体で見れば昔の蔵みたいに見えなくもない。

「じゃあ次、コレは?」

「『日』でしょうね。かわいい太陽みたいです」

 三文字目。円で表現された『日』の周りに、雫型の点が複数並んでいる。明日香の言うように子供の描く太陽みたいだが、頂点が雫一つ分空いていた。

「最後のコレは?」

「コレは少し自信ありませんけど、たぶん『向』じゃないですかね。それなら名前として成立しますから」

 四文字目。下から左に向かって曲がった矢印が、『向』の『口』以外を表しているのだろう。明日香が確信を持てなかったのは、おそらく『口』が欠けていたからだ。

 四文字全てをメモ用紙に書き終えて、明日香は福朗に向ける。

「全部合わせると『猫宮(ねこみや)日向(ひなた)』、ですね。フクさんの考えと合ってます?」

 福朗は偉そうに腕組みをして頷く。

「ああ、俺も同じ考えだ。さっき調べたら猫宮という姓も実在している事だし、それで間違いないだろう」

「やった~」

 正解を喜んで明日香は腕を振り上げたが、福朗はそんな明日香を制するように言う。

「おいおい明日香ちゃん。本題はここからだぞ?」

「へ?」

「その人物を探さにゃあならん」

「あっと、そうでしたそうでした。じゃあ、猫宮日向さんを探しましょう!」

 グッと拳を握り締め簡単に言ってのける明日香に対し、福朗は溜息が漏れてしまう。それもそうだろう。名前からしてこの国の人間である事に間違いはないが、どうやって探すというのか。この町だけでも相当な人数だし、国単位で考えると気分が悪くなりそうだ。昨今では電話帳に個人名を載せるのも珍しいし、福朗にとってはここからが頭の痛い問題なのだ。

 福朗の心配を他所に、明日香はなにやら頭を悩ませている。悩むだけでどこの誰かがわかれば苦労はない、と福朗はもう一度溜息をつく。しかし明日香が次に呟いたのは、福朗にとって意外な言葉だった。

「猫宮日向……猫宮日向さん……う~ん、どこかで聞いたような~」

「なんだって⁉ 本当に⁉」

 思いがけず前のめりになった福朗が、明日香の思考の邪魔をする。

「うわわっ、大声出さないで下さいよ。折角思い出しかけたのに」

「お、おお、悪い悪い。続けて下さい」

 福朗にとってはとんだ朗報だ。明日香の言が正しいのなら、電話帳の猫宮さんに片っ端から連絡を取らなくて済むのだ。顎に手を添えて呻る明日香を、福朗は緑茶を飲んで待つ。数秒後、明日香の頭に電球が灯った。ように福朗には見えた。

「思い出しました! 猫宮日向さんって、私の一つ先輩の人ですよ!」

 そう叫んだ明日香は、スマホを取り出して操作を始める。そして目当ての項目を見つけたのか、ズイッと画面を福朗に向けた。

「見て下さい、この人です! たぶん!」

「そんな力強く『たぶん!』って言われてもねぇ。なになに……」

 明日香のスマホ画面には、とある絵画コンクールの詳細が書かれているようだ。そこには確かに、猫宮日向の名前が載っている。

「大賞か、こりゃ凄いね」

「ですです。油絵がとっても上手で、学校の有名人なんですよ!」

「へ~、そうなんだ。忘れてたのに?」

「うぐぅ……それを忘れて下さい」

 むくれっ面でスマホを引っ込めた明日香に、福朗は苦笑する。

「悪い悪い。猫宮という姓は少ないらしいから、同姓同名の可能性は少ないだろう。たぶんその子でアタリだ。お手柄だぜ明日香ちゃん」

「ホントにそう思ってます?」

「思ってるさ。助かったよ、ありがとう」

 嘘臭いと思った明日香だが、『ありがとう』という言葉は素直に嬉しかったので機嫌を治して話を進める。

「猫宮さんには学校で会えると思いますから、私がお渡ししましょうか?」

「なにソレ、ダジャレ?」

「もうっ、真面目に聞いて下さいっ!」

 怒った明日香の両手が応接机を揺らし、湯呑に残った緑茶が揺れに合わせて波紋を立てる。暫く笑っていた福朗は、波紋が納まるのを見計らったかのように湯呑を取り上げ、そのまま口をつけた。

 落ち着いた表情で緑茶を啜る福朗を見て、馬鹿馬鹿しく思った明日香も湯呑に手を伸ばす。

 二人して一息ついたところで、福朗が話を再開する。

「明日香ちゃんの申し出は嬉しいんだけど、同姓同名の可能性も捨てきれんからなぁ」

「だったらとりあえず、心当たりを伺う感じでどうです?」

「でも、猫宮さんとは知り合いじゃないんでしょ?」

「それはそうですけど、聞くだけならタダですよ」

「それもそうか。なら、お願いできるかな?」

「はいっ! 私にお任せ下さい!」

 湯呑を置いた明日香が胸に手を添えて答えたので、

「頼りになる助手で助かるよ」

 と、福朗は笑い返した。

「本当は少しこのハガキが気になるんでね。まだ手放したくなかっただけなんだ」

「と言うと?」

 福朗の言葉が意外だったので、明日香は小首を傾げる。

「いやね、コレがレタリングだったらさ。何かしらの意味があるはずなんだろ?」

「う~ん。レタリングはあくまで私の私見ですからね。本当はカリグラフィーなのかもしれませんよ?」

「そうなのかねぇ」

 と言いつつ、福朗がまた頭を掻く。

「さぁ、どうなんでしょうねぇ~」

 と言いつつ、素知らぬ顔の明日香は湯呑に口をつけた。明日香が緑茶を口に含んでいる間、福朗は思案気な顔を続けていた。

 今朝のように助けを求められない限り、福朗は厄介事に自分から首を突っ込む質ではないのだ。それを知っている明日香は、一抹の不安を覚えてしまう。だから聞く。

「なにが気になるんです?」

 福朗は答える。レタリングの一文字を指さして。

「この『日』の周りの点々、頂点の部分に隙間があるだろ? これが敢えて空けられているなら、いやむしろ、欠けているならって考えると、どうにも気になってしゃあないのよ」

「なるほど……」

 そう指摘されてしまうと、明日香まで気になり出してしまった。数えてみると、『日』を取り巻く点は全部で十四個。欠けている分を足せば、全部で十五個の点が輪を成す事になる。

「それとコレ」

 福朗がハガキを裏返すと、長辺に沿った黒線が見て取れる。それは明日香も先程確認している。

「それらに意味があると?」

「わからん。でも、カリグラフィーだとしたらこんな中途半端にはせんだろう。『向』の『口』がないのも気になるし」

 そう言ってまた、福朗は頭を掻いた。

 明日香は福朗のその仕草が嫌いではなかった。困っている時の癖を好きだと思うのは違う気がして、嫌いではないと思うようにしていた。

 明日香は微笑みつつ提案する。

「そんなに気になるんでしたら、その辺りも含めて伺って来ますよ?」

「そうかい? なら、その方向で頼もうか」

「了解、ボス。その任務、承りました」

「ああ、よろしくね、明日香ちゃん」

 こうして、謎のハガキをめぐる方向性が決まった。残った緑茶を飲み干す為、二人の間に暫しの沈黙が流れる。その沈黙を破ったのは、福朗の一言だった。

「そう言えば明日香ちゃん、時間は大丈夫?」

「時間? あっ、もうこんな時間⁉ 早く行かないと二限に遅れちゃうっ!」

「やっぱりか。皿洗いはやっておくから、早く行きんさい」

「ごめんなさいっ! じゃあ後はよろしくお願いします!」

 さっきまでの静かな時間はどこかに消え、平日の朝らしい慌ただしさを明日香が演出する。

 鞄と上着を引っ掴み、出口を目指して駆け出す明日香。そんな背中に福朗が声を掛ける。

「気を付けて行っておいで」

「は~い、行ってきま~す!」

 明日香が出ていって、事務所の扉が大きな音を立てて閉まった。階段を下りる音が福朗の耳にバタバタと聞こえて、落ちやしないかとハラハラする。

 すぐにその音も聞こえなくなり、福朗は一人呟く。

「若いっていいねぇ」

 中年である福朗には、いつだって明日香がフレッシュに見えてしまう。しかし、決して羨ましいとは思わない。歳を重ねるのは経験を積むのと同じだから、悪い事であるはずがない、と自分に言い聞かせているのだ。けれども体は正直なもの。食器を片そうと立ち上がると、腰が少し痛んで泣きそうになった。

 沈んだ気持ちを紛らわす為、福朗は鼻歌交じりに食器を運び始める。しかしその後ろ姿は、普通にオッサンのそれだった。


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