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第十二幕 事務所の名前

文字には意味が備わっている。よって文字により構成された名前にも、当然意味が備わるのだ

 五月の頭、世間的にはゴールデンウィークの真っ最中。そんな輝く黄金週間だというのに、今日も明日香は事務所へと向かっている。昼は事務所の食材を頂こう、との魂胆である。明日香がビルの前に到着して見上げると、珍しく事務所の窓が開かれていた。

「あれ? 開いてる……掃除でもしてるのかな?」

 少し不思議に思った明日香だが、福朗在中が外からわかったのは好都合なのでそのまま階段を上る。扉を開けて挨拶しようとした明日香は、嗅ぎ慣れない臭いがしたので顔をしかめた。

「う……変な臭い……」

「おんや、明日香ちゃん。いらっしゃい」

 明日香に気付いた福朗が声を上げる。明日香の予想通り在中はしていたようが、福朗は掃除をしてはいなかった。それどころか、来客用ソファの後ろに色とりどりの塗料缶を並べる姿は、今にも汚そうとしているように見える。

「うわ……なにしてるんです?」

「いやぁ、高月さんのレタリングを見てからさ。俺もやってみたくなっちゃって」

「え⁉ それでそんなにペンキ買ったんです⁉」

「いや~、まぁね~」

 頭を掻きながらヘラヘラしている福朗に、明日香は呆れかえってしまう。

「素人なんですから、ペンとかにすればいいものを……」

 溜息をついた明日香は、とりあえず鞄を置こうとソファの方に移動する。すると、応接机の上に油絵がある事に気付いた。

「うわぁ……」

 明日香の呆れた溜息は、油絵を見た事で感嘆の溜息に変わる。

「これってもしかして、日向さんです?」

「お、気が付いたね明日香ちゃん。そうなんだよ。二時間くらい前に猫宮さんが持って来てくれたんだ」

「はぁ~~、素敵な絵です~」

「依頼の報酬、って事らしいよ」

「へぇ~~~」

 猫宮の描いた絵に、明日香は早くも魅了されている。吐息のような恍惚とした声が、明日香の口から漏れ続ける。

「自分は貧乏な美大生だから、売れるかはわからないけど絵で勘弁してくれ、ってさ。」

「あ、じゃあ私が買います」

 即答した明日香は、既に絵の虜である。いそいそと鞄から財布を取り出して、

「おいくら万円でしょう?」

 と、福朗に聞いた。

 明日香の異常とも取れる迅速な対応に、福朗は顔の前でブンブンと手を振る。

「いやいや、売らないからね」

「え~、そんなぁ~」

 至極残念そうな明日香に、扉のすぐ左手を指さして福朗は言う。

「ソコに飾ろうと思ってんのよ。絵の有る事務所って、なんかカッコよくない?」

「う~、む~……ここに飾るなら私も見れますし。それならまぁ、良しとしましょう」

「ああ、はい。そりゃどうも……」

 さも自分のもののように言う明日香に、今度は福朗が呆れかえってしまった。

 財布を鞄に戻した明日香は、ソファに座ってじっくりと絵を観察する。

「この絵、題名とかってあるんです?」

「もちろん、猫宮さんから聞いてるよ。当ててみな?」

「え? 私がです?」

「他に誰も居ないだろ? 明日香ちゃんに言ってんの」

「え、え~っと。それじゃあ……う~ん……」

 腕を組み、右へ左へと頭を揺らす明日香は、うんうんと唸り始める。それを楽しそうに眺める福朗は、明日香がどんな答えを出すのか待っている。一発では無理かもしれないが、明日香なら当てられると思ったのでこんな問題を出したのだ。

 数秒後、手を打ち合わせた明日香は、人差し指を立てて回答する。

「わかりました! 題名は『友達』ですね?」

「あ~、惜しいけど違うね」

「え~……じゃあ『幼馴染』はどうです?」

「残念。それもハズレ」

「あれ~?」

 立て続けに答えを外し、明日香がまた頭を捻り出したので、福朗は少しだけヒントを教える。

「最初に言った方が近いよ」

 福朗のヒントにピンときた明日香は、今度こそ自信を持って、さっきよりも大きな声で回答した。

「わかりました! 題名は――」


 ↓二時間前↓


 今日も今日とて福朗に大した仕事はないので、朝からソファに寝っ転がってテレビを見ていた。すると突然事務所の扉が開き、福朗には予定外の来客が現れる。

「こんちわ~。誰か居る~?」

「おんや、猫宮さん? どしたの急に?」

 現れたのは猫宮で、肩にはやたらと大きなトートバッグのようなものを下げていた。

「あ、居た居た、良かった。依頼の報酬を持って来たのよ」

「報酬? そりゃまたご丁寧に」

「なによその反応。嬉しくないの?」

 福朗の間抜けな反応が気に食わないので、猫宮は少し顔をしかめた。依頼の件で感謝はしているが、猫宮は依然として福朗にタメ口である。

「いんや、嬉しいよ。ただ、律儀なもんだな、と思ってさ」

「なに? あたしが恩知らずに見えるっての?」

 今事務所に明日香は居ない。福朗に対してすぐケンカ腰になる猫宮を、止める者は居ないのだ。このままでは用件を聞く前にケンカ別れになりそうなので、福朗は宥めるように言う。

「待った待った、待ってくれ猫宮さん。落ち着いて。報酬の件で来たんだろ?」

「ああ、そうだったわね。フクさんと話してると、どうも調子が狂っちゃうのよね」

 猫宮のヒートアップは免れたものの、本当に自分のせいなのか、と福朗は思った。思ったが最後、福朗の口は軽口に対して軽いので、ついつい口から出てしまう。

「調子が狂うってより、調子が出てるんだと俺は思うけどね」

「なんですって?」

 猫宮は福朗よりも年下で、身長もかなり低い。しかしそんな猫宮の睨みは、なかなかどうして迫力がある。窮鼠ではない福朗は、猫宮に反撃をしたりはしない。愛想笑いを浮かべてやり過ごす。

「いえ、なんでも……」

「そ、ならいいけど」

 福朗の口ごたえがなくなったので、猫宮は改めて報酬の話へと移る。

「フクさんには申し訳ないんだけど、画材にお金が掛かっちゃうから美大生って貧乏なのよ。だから報酬はお金じゃなくて、これで勘弁してちょうだい」

 そう言った猫宮は、大きなトートバッグから布に包まれた大きな長方形を取り出した。

「ん? それは?」

「これね、あたしが描いた絵なの。売れるかどうかは微妙だけど、なにもないよりはマシだと思って……」

 照れ臭そうに目を逸らした猫宮を見て、福朗はようやく猫宮の『デレ』を見られたような気がした。

「そっか。もしかして、わざわざ描いてくれたの?」

「ええ。だから受け取ってもらえる?」

「もちろんだとも。中見ていい?」

「……どうぞ」

 包んだ布ごと受け取って、福朗は応接机に絵を置いた。作者の許可は得られているので気兼ねなく、しかし慎重に布を開いていく。

 中から現れた絵を一目見て、福朗はすぐに理解した。この絵に猫宮のどんな想いが込められているのかを。絵から猫宮に向き直った福朗の顔には、自然な笑顔が浮かんでいる。

「これ、本当に貰っていいの?」

「当然よ、その為に描いたんだもの」

「でも、これは猫宮さんか、高月さんが持ってた方がいいんじゃない?」

「いいのよ。フクさんのおかげであたし達はもう大丈夫なんだから。そう考えたら、むしろ貴方にこそ持っていて欲しい絵だわ」

「そうかい、そいつは光栄だ。なら遠慮なく受け取らせてもらうよ。ありがとう」

「ううん。こちらこそお世話になりました。ありがとう、フクさん」

 普段の仏頂面とは似ても似つかない、無邪気な顔で猫宮が笑う。童顔である事が、その表情を更に幼く見せている。明日香に習って『フクさん』と呼び始めた猫宮は、ほとんどの場合はケンカ腰だけれど、福朗にもよく笑いかけるようになった。

 猫宮の笑顔に微笑み返してから、福朗はもう一度絵の方を見る。作者の想いを知るからなのか、福朗には猫宮の絵が、今まで見て来たどの絵画よりも素晴らしいものに思えた。

「この間まであんまり興味なかったけど、絵とかデザインって凄いね。人の創造性とか可能性とかがさ、まさに形を成してるって感じがするよ」

「そ? 絵に興味を持ってもらえるなら、絵描きとして嬉しい限りよ」

「こんな絵を見せられちゃあ、絵心のない俺だってなにか描いてみたくもなるさ」

「あら、随分と褒めてくれるのね。その絵以外に報酬はないわよ?」

「わかってるって。別にゴマをすってるわけじゃない。人を感化する力が君の絵にはある。単純にそう思っただけ」

「そ。それはどうも」

 口調は素っ気ないが、猫宮の頬は少し赤く染まっていた。絵を褒められるのは絵描きの猫宮にとって最大の賛辞だ。相手が福朗だとしても、嬉しくないわけがない。

「描きたいなら、教えてあげてもいいわよ?」

「う~んむ。そう言ってくれるのは嬉しいけど、やっぱ油絵はハードルが高いなぁ……」

「なら、デザインでもいいんじゃない? レタリングとか。そっちは望深に聞けばいいし」

「でもなぁ、レタリングも難しそうだしなぁ」

 描きたいと言ったのは福朗なのに、どうにも煮え切らない。芸術家の卵である猫宮は、思い悩むだけではいけない事を知っている。書くでも描くでも、作るでも創るでも、とにかく出力する大切さを知っている。

「ウダウダ言ってないで、思ったならとりあえずやってみなさいよ。レタリングなら文字として既存の形と意味があるんだし、とっつき易いと思うわよ?」

「お~、なるほど。確かにそうかもしれん」

「でしょ? どうせなら、この事務所のロゴとか看板でも作ってみたら? 外から見たら、ホントなにやってるかわからないんだから」

 猫宮は何気なく言ったつもりだったが、そのアドバイスは意外にも福朗にハマった。漠然としていた福朗の創作意欲に方向性が与えられる。

「おお、さすがは美大生! その発想頂きだ! やっぱ窓だな! この殺風景な窓に事務所名をドドンとでっかく描く! いいね! そいつぁいい!」

「ったく、単純なんだから……」

 急にはしゃぎ出した福朗を見て、猫宮は額に手を添えて溜息をつく。しかし福朗がやる気になったのなら、それはそれでいい兆候だ。後は始める為に必要なものを揃えるだけ。

「窓に描くならペンキとかがいいんじゃないかしら。ペンキなら川沿いのホームセンターにハケも含めて売ってるわ。あと、レタリングについては望深に聞くか、駅前のデパートに画材屋が入ってるからそこで資料を探しなさい」

「お~、いいね! なんか燃えてきたよ! サンキュー猫宮さん!」

「……どういたしまして」

 出力の大切さを知る猫宮だが、勢い任せだけでは失敗する事も知っている。しかし、今更水を差すのも憚られるので、福朗のハイテンションはとりあえず放置する方向でいく。

「じゃあ、あたしはそろそろ行くわ。この後望深と約束があるのよ」

「お? おお、そうか。猫宮さんが居れば明日香ちゃんが来た時喜ぶと思ったけど、用事があるなら仕方ないね」

「ええ、あたしも明日香に会いたかったけど、日を改めるわ。また今度、望深と三人でね」

「そうしてやってくれると助かるよ。俺が言うのもなんだけど、明日香ちゃんはここに入り浸ってるからね。学生としての時間をちゃんと楽しめてるのか、時々不安になるんだよ」

 猫宮は明日香の気持ちに薄々勘付いている。猫宮の予想が正しければ、明日香は望んでここに通っているはず。福朗の心配は無用な長物だが、猫宮とて明日香と遊びたい。だから余計な事は言わず、福朗の話に乗る。

「わかったわ。バイト先公認なら、あたしが明日香を誘った時はちゃんと都合付けてよね?」

「任せろ。どうせほとんど暇だから、いつだってウェルカムだ」

「それ、自信もって言う事? ったく……」

 猫宮はまた、額に手を添えて溜息をついた。明日香がどうして福朗の元でバイトを始めたのか。その経緯はまだ聞いていない。そこまでする理由は猫宮にはわからないが、明日香が福朗に惹かれる理由なら、依頼を通してなんとなくわかった気がした。

 できる事ならなんでもする。怪しい怪しい『何でも屋』。主は一見して胡散臭く、ふざけた男ではあるが、その実けっこう頼りになる。それがわかった猫宮は、再び福朗に笑い掛ける。

「それじゃあね、フクさん。またその内望深と一緒に寄らせてもらうわ」

「ああ、いつでもおいで。コーヒーくらいなら出すよ。明日香ちゃんが」

「なによそれ?」

 冗談交じりの福朗の言葉に、猫宮は苦笑しつつ扉へと歩き出す。猫宮が扉に手を掛ける間際、福朗はふと思い当たって猫宮の背中に声を掛けた。

「なぁ、猫宮さん? この絵って題名はあるの?」

「あ~っと……それ聞いちゃう?」

「そりゃまぁ、一応頂いた身としては、題名があるなら知っておきたいし」

「そ」

 猫宮は振り向かないまま、一言だけ、一文字だけ言ってモジモジとし始めた。そんなに恥ずかしい事を聞いたつもりはないが、芸術家にも色々あるのかもしれない。そう福朗が思った時、いつもより覇気のない、恥ずかし気な猫宮の声が題名を告げる。

「まぁ、あれよ……その絵の題名は――」


 ↓現在に戻る↓


「『親友』、ですね!」

「当たり。さっすが明日香ちゃん、よくわかってらっしゃる」

「えへへ、それほどでも」

 絵の題名を見事当てた明日香は、福朗のように頭を掻いて照れ笑いを浮かべた。猫宮の事をちゃんと理解できていたようで嬉しかったし、少しでも福朗に近付けた気がして誇らしかったからだ。

 気分の乗って来た明日香はソファ越しに振り向いて、福朗と並べられた塗料缶を交互に見る。

「なんか、楽しそうです。私も混ぜて下さいよ」

「おんや、明日香ちゃんもその絵に触発されたね?」

「はい。私も絵を描くのは好きですし、猫宮さん達ほどじゃないですけど、けっこう自信はあるんですから」

 鼻息荒く立ち上がった明日香は、塗料缶に近づいて色の確認を始める。

「赤、青、緑、黄色に茶色、それに白と黒。また随分と買いましたね」

「ま、ないよりはマシだろ?」

「捨てる時面倒ですけどね」

 創作意欲を掻き立てられても、家事に長けた嫁力の高い明日香は現実的だ。勢い任せの福朗とは違い、創作活動後までを見通している。明日香の指摘は正しく、実際問題として塗料の大量廃棄は、真面目に行うとけっこう面倒である。

「あ~~……そんなのは後で考えよう。今は色が充実してるって事が肝要だ」

 言い訳がましくそう言って、福朗は窓の方を見つめる。モチベーションが下がらないように、事務所名を掲げたところを想像しているのだ。

 買い揃えられた塗料たちは、ご丁寧に全てが開封済みである為、もう返品は利かない。福朗の無計画性に溜息は出てしまうが、自分も一枚かませてもらうなら廃棄ぐらい手伝おう。と、明日香は考える。

「それで? 結局コレで、なにをするんです?」

 明日香の問い掛けに現実逃避から帰還した福朗は、視線はそのままに力強く窓を指さす。

「猫宮さんのアドバイスにより、窓に事務所の名前を描こうと思ってね。テナント物件によくあるヤツ。あんな感じにしたいんだよ」

「おぉ~、カッコイイじゃないですか」

「そうだろう、そうだろうとも」

 福朗が自慢げに高笑いを始めたが、上の階のヨガ教室がそうしているのだから、明日香としては今更な気もする。むしろ、どうして今までやらなかったのか不思議なくらいだ。さりとて、明日香としても賛成なので、福朗のやる気を削ぐような事は言わない。代わりに明日香が言ったのは、

「そう言えば、事務所の名前ってあったんです?」

 と、バイトとしてあるまじき内容だった。

 福朗は思わずズッコケそうになったが、なんとか堪えて明日香に向き直る。

「初めて会った時名刺渡したろ? そこに書いてあるから見てみなよ」

「あ~~、え~っと……あれは……」

 福朗の言葉に対して、明日香はバツが悪そうにしている。このパターンは前にも見たな、と福朗は察した。すなわち名刺はもう、明日香の手元にはない。

「もしかして、捨てた?」

「だって、その……初めはフクさんの事、怪しい人だと思って……」

 初対面における福朗の第一印象を、明日香は怪しい人だと思い、猫宮はボンクラだと思い、高月は胡散臭いと思った。その三人の株は持ち直したけれど、明日香の友達である沙和には依然として嫌われている。とある婦警に至っては、福朗を守るべき市民ではなく、警戒すべき不審者と見ている。つくづく福朗は、どうにも女性受けが悪い。福朗自身が悪いのか、それとも『何でも屋』という肩書が悪いのか。どっちがどうと言うよりは、相乗効果が発生しているのだ。

 福朗は少し傷心気味だが、怒ったりはしない。今までも似たような事が数々あったからだ。『何でも屋』という職業の一番のリスクは、一般的ではない響きによって信用を買うのが難しい事。福朗はその辺りを重々理解している。しかし、理解はしていてもショックなのに変わりはないので、多少の傷心はやむを得ない。それでも福朗は『何でも屋』をやっているのだ。自分にできる範囲で、少しでも誰かの力になれるなら、と。

「ま、気にしなくていいよ。そんな事もあるさ」

「うぅ……すみません……」

「いいっていいって。でも、君はウチの看板娘だ。これからはちゃんと覚えておいて欲しい」

「か、看板娘……」

 沈んでいた明日香は名誉称号を与えられた事で気持ちが浮上する。目指していたのは『有能な助手』だが、『看板娘』も悪くない。いや、むしろ良い。頭の中で反復すると、顔が勝手にニヤケてしまいそうだ。

「二度と忘れませんので、看板娘のわたくしめにお教え下さい!」

 明日香の切り替えの早さは、福朗も好むところだ。スイッチがゆるゆるなのか、感情の誘導も比較的しやすい。時に手強い場合もあるが、福朗は明日香の扱いにもう慣れている。曇った顔を晴らす事など容易いのだ。騙され易そうで心配にはなるけれど、それも明日香の個性だ。福朗は明日香を好み、尊重している。

「よく言った、それなら教えよう。この事務所の正式名称は、『何でも屋 トマリギ』だ」

「『トマリギ』?」

「そう、『トマリギ』」

「あっ、もしかして。疲れた人達を癒せるように、休めるように、って意味です?」

「いんや、そんなカッコイイ理由じゃないよ。明日香ちゃんは『フクロウ』ってどう書くか知ってる?」

「え? 幸福の『福』に朗らかの『朗』ですよね?」

「いや、俺の名前じゃなくて、鳥の方の『フクロウ』だよ」

「そっちですか。え~っと、鳥の方は確か……あっ!」

「わかったかい?」

 鳥の『フクロウ』は『梟』と書く。その文字は、木に佇む鳥を模している。

「なるほど。フクさんの『福朗』とかけて『梟』。それで『トマリギ』なんですね」

「そういう事。誰かの為の止まり木と言うよりは、俺が居る止まり木なんだ。だから意味を追加するとしても、明日香ちゃんが言ったようなカッコイイものじゃない。俺はいつでもココに居るから、いつでもおいで、って感じかな」

 明日香は木の枝に座った福朗を想像する。そこは福朗の特等席で、いつでも福朗はそこに居る。行けば福朗に会う事ができ、相談すれば耳を傾けてくれる。福朗崇拝の明日香にとって、それほど魅力的な場所はない。

「私は、そっちの意味の方が好きかもです」

「そう? 待ちの姿勢は怠惰の現れだと思わない?」

「いいえ、待ち続けるには忍耐が必要です。忍耐って美徳の一つとも言われるんですよ?」

 悪徳の大罪に反する美徳は諸説あれど、その中には確かに忍耐が含まれている。忍び耐える、耐え忍ぶ。忍耐は全てに通じている。機を待つ姿勢や行為の持続、あらゆる痛みに耐える事もまた、忍耐を必要とするのだ。受けた依頼を諦めずに解決する、福朗にぴったりな言葉だと明日香は思う。

「美徳ねぇ……過大評価だろ?」

「フクさんがどう受け取るかは自由です。ただ、私にとってはそれが真実ですから」

 信じる事が真実となる。その福朗の考え方は明日香に伝播し、元々頑固な明日香を更に頑固にしてしまったらしい。こんな事なら話すんじゃなかったと、福朗は今更ながら後悔する。

 しかしもう遅い。明日香に取り入れられたものは浸透し、既に要素の一部となっているのだから。福朗に付き従う明日香は福朗に学び、福朗もまた、明日香の成長に学んでいる。

 人間関係は煩わしく、面倒なものである。かと言って関係を断ち一人になってしまえば、多くの成長は望めない。人は共感によって相対性を得るからこそ、あらゆる方向に成長していけるのだ。それ故に、明日香のバイトは明日香にとって無駄ではなく、福朗にとっても決して無駄ではない。

 福朗についての新たな真実を胸に、明日香はにこやかに笑っている。それに釣られた福朗も、次第に笑顔になっていく。良好な人間関係は、互いの成長を加速させる。成長とは、可能性が広がる事だ。ともすれば、次の依頼がどんなものであったとしても、福朗と、そして明日香が居れば、解決できるのだろう。

「さて、とにかく買っちまったもんはしょうがない。早速やってみようぜ明日香ちゃん」

「え⁉ いきなり本番です⁉ 下書きは⁉」

「この手の思い付きは思い立ったが、ってヤツさ。とりあえず始めてみるのが吉だってば」

「ダメですよ! 失敗したらどうするんですか!」

「ダ~イジョブだって、拭きゃあいいのよ、拭きゃあ」

「ダ、メ、で、す‼ ちゃんと構想を練ってからにして下さい! それまでこれはお預けです!」

「あっ、ちょっ⁉ そんなに引っ張ったら――」

「あっ!」

「あぁ~~~~‼」

 大型連休ゴールデンウィーク。外はお出かけ日和の快晴だ。そんな中でも事務所に籠る福朗と明日香は、零れたペンキを前に慌てふためいていた。零れたペンキは青。空の色よりずっと濃い青色が、まるで雲を押しのけるかのように、白い床を染めていく。依頼がなければ暇なはずなのに、今日も今日とて事務所は騒がしい。ともあれ依頼が舞い込むならば、二人はペンキそっちのけで対応するだろう。

 『何でも屋 トマリギ』は、これでも絶賛営業中である。


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