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第十一幕 猫か太陽か

良好な人間関係を願って、人は自分の立ち位置を探す。相手を蔑ろにしないように。自分も蔑ろにしないように。

「……日向さんは、高月さんと仲直りできたでしょうか?」

「……あのねぇ、明日香ちゃん。さっきから何回同じ事言ってんのさ。その度に心配要らないって言ってるだろ?」

「うぅ……すみません……」

 猫宮が事務所を出て行ってからというもの、明日香は心配で心配で気が気じゃない。窓の外をぼ~っと眺めては思い出したように残ったコーヒーに口をつけ、何度も同じ事ばかり呟いている。

 福朗とて一応心配はしているものの、終始上の空の明日香を目の前にしては、落ち着いて構えているしかない。ついさっきまで優秀な助手ぶりを発揮していたのに、明日香がここまで腑抜けになるとは。状況としては福朗の予測範囲内だが、状態としては予測以上だった。

 すみませんと言って数秒後、明日香がまた窓の外を眺め出す。このままでは猫宮からなにかしらの連絡が来るまでエンドレスになる。そう悟った福朗は、頭を掻いてから明日香の気を紛らわせる事にした。

「なぁ明日香ちゃん。今回の仕事はどうだった?」

「はぁ……お仕事、です?」

「そうそう。やりがいみたいなものは見つかったかと思ってさ」

「はぁ……やりがい、です?」

 なかなか手強い明日香は、福朗の問い掛けに生返事しか返さない。明日香の気を紛らわせる為には、まずは気を惹く必要があるのだ。遠回しな表現では、今の明日香には届かない。今の明日香が見つめているのは、窓の外ではなく猫宮と高月なのだ。ならば福朗は、そのニンジンで意識を誘導するのが得策である。

「君が自分で言ったんだろ? 猫宮さんと高月さんの気持ちは同じだ、って。だったらそんなに心配する必要なんてない。すれ違ってた想いは、このハガキが繋いでくれたんだからさ」

「いいえ、それは違います」

 明日香が反応したのは福朗の思惑通りだったが、返答が予測とは異なっている。福朗的には賛同を求めた内容なのに、明日香は否定した。なにが気に入らなかったのか、と福朗は首を傾げる。

「なにが違うって? あの二人が仲直りできないとでも?」

「いいえ、私が言いたいのはソコじゃないです。日向さんと高月さんはきっと、いえ、絶対に仲直りできます。でも、お二人を繋いだのはハガキじゃありません。お二人の想いを繋げたのは、フクさんじゃないですか」

 明日香の真剣な眼差しが、真っ直ぐ福朗に向けられる。明日香は本当にそう思っているのだ。福朗には、人と人とを繋ぐ力がある、と。

 明日香の評価は素直に嬉しいし、福朗としても悪い気はしない。しかし、それが良いとも思わない。過大評価は尊敬を崇拝に変えてしまい、信頼を依存に変えてしまうからだ。妙なところで頑固な明日香に、押し切られる形でバイトとして雇う事になったけれど、福朗はやっぱり、自分の仕事が明日香の為になるとは思えない。

 明日香は女給として有能で、助手としても申し分ない。明日香のおかげで無駄遣いは減ったし、共に働く者がいると張り合いも出る。坂東にも色々と言われたので、一時は真剣に使おうとも考えた。それでも福朗は、そろそろ明日香の意識を変える必要がある、と思う。気立ての良い明日香なら、どこでだってやっていけるのだ。自分の元で囲う事は、明日香の為には決してならない。

 少しでも明日香の気を紛らわせられれば、と話し掛けたつもりだった。しかし福朗は考えを変えて、明日香の意識を本気で変えにかかる。

「あまり買い被らないでくれ。俺はハガキの意味を読み取っただけなんだから」

「それは、謙遜です?」

「バカ言うな。俺は褒められて伸びるタイプなもんでね。褒め言葉なら素直に受け取るよ」

「でも、受け取ってくれてないです」

「それは俺自身が、君の言葉を褒め言葉だと思わないからさ」

「私が褒め言葉として言っていても、です?」

「そうだ。結局言葉なんてものは、所詮相手がどう受け取るかに依るんだよ」

「それは……そうかもですけど……」

 納得のいかない明日香は、腕を組んで頭を捻っている。そんな明日香に、福朗は落ち着いた口調で持論を披露する。

「明日香ちゃん、俺はね。この世に真実なんてないと思ってる。真実ってのは、個人個人が見聞きした事を信じた時に、それぞれの心に生まれるんだ。冗談で言ったつもりでも、相手にとっては真実にだってなる。逆もまた然り。だから俺にとっては、君の言葉は褒め言葉じゃない」

「……なら、フクさんは私の言葉をどう受け取ったんです?」

「運によって割増された、過大評価ってトコかな」

「そんな……」

 福朗の返答に、明日香は驚いた顔をしてから悲し気に目を伏せた。普段の福朗であればフォローを入れるところだが、今はその反応を狙っていたのでなにも言わない。

 福朗の言っている事は、確かに一理あるのかもしれない。明日香にだって心当たりはある。でも、本当にそうだと言うのなら、全ての想いがちゃんと伝わらない事になる。文字や言葉、体の触れ合いでさえも。捉え方次第と言うのなら、込められた想いは蔑ろになってしまう。明日香はそれだけは信じたくなかった。それがレタリングの想いを受け取って猫宮に伝えた、福朗の言葉だとは思いたくなかった。

 頭を振った明日香は、福朗に断固として抗議する。明日香の真実もまた、福朗とは別のところにあるのだから。

「私は、そうは思いません。フクさんの言っている事が、たとえ一部当たっているとしても、全てが正しいとは思えません」

 明日香がここまで明白に福朗と対立した事は、今までになかった。世話焼きの明日香は注意や忠告が多いけれど、福朗の考え方に真っ向から反対するのはこれが初めてだ。

 福朗による明日香の意識改革プランその一、『考え方の違いを刷り込む』。が、見事に成功した。

「明日香ちゃんがどう思おうと、実際人間はそうなってんだから仕方がないよ。まぁ、なんだな。これが所謂真実ってヤツなのかもね」

「私は、そんな真実知りません。私はそんなの、認めません」

 さりとて、明日香はなかなかに手強い。それは福朗も重々承知していて、プランその一だけで明日香が折れないのは予測済みである。となれば福朗は、次なる一手に打って出る。

「そうかい? じゃあ一つ、例え話をしようじゃないか」

「いいですよ、受けて立ちましょう」

 まんまと乗った明日香に対して、福朗のプランその二が発動する。

「例えばの話、だ。俺が明日香ちゃんに、おっぱいを触られてくれ、って頼むとするだろ?」

「はい……はい⁉」

 思いも寄らなかった福朗の例え話に、明日香は顔を赤くして胸元を腕で隠す。

「そんで、明日香ちゃんが冗談で了承したとする」

「いやいやいや! ないですないですあり得ません!」

「まぁまぁ、これはあくまで例え話だからさ」

「例え話でも、です! 絶対に了承しませんからね!」

「わ~かってるよ。とりあえず聞きんさいってば」

「そんな例え話、サイッテーです!」

 ご立腹の明日香は、赤い顔のまま福朗を睨み付けている。これもまた、福朗の思惑通りだ。福朗は気にせず続ける。

「たとえ明日香ちゃんが冗談で言ったとしても、俺が真実と受け取ったとする。それなら俺には、明日香ちゃんのおっぱいを触る権利があると思わないかい?」

「思いませんよ! なんですかその極端な発想は! ただのセクハラじゃないですか!」

「だけど例え話の中では、確かに明日香ちゃんが了承したんだぜ? 一度発した言葉は取り消せないから、言質を取ったと言うんだよ。相手がどう受け取ろうが、言葉の責任は発した側にある。つまり、君だ」

「うぐぅ、それは……」

「な、わかったろ? 自分がどんな想いを持っていたとしても、相手に正しく伝わらない事は多い。それが全てとは言わないけれど、ほとんど全てと言っていいだろう。俺が言いたいのはそういう事さ」

「だとしても……です……」

 福朗の極論に、明日香の体がワナワナと震えだす。そして、

「だとしても! それはデリカシーと常識がないからそう思うんです! 普通の人は冗談だって気付くに決まってるじゃないですか‼」

 と、オーバーヒートした明日香が物凄い剣幕で大声を上げた。

 福朗による明日香の意識改革プランその二、『デリカシーのない嫌なヤツアピール』。も、見事に成功した。最もこのプランは、考えなしに言葉を紡げば事足りる。要するに、素の福朗なのである。

 明日香は依然として、胸を抱えたまま福朗を睨み付けている。それは明日香の中の福朗株が、大暴落している事を意味するのだ。

 福朗のプランは上手くいっている。後は最後の一手を残すのみ。

「ま、とにかくだ。俺はそんな考えを持った、こんなふざけたヤツなんだよ。明日香ちゃん、改めて聞こう。君は今後も、ここでバイトをするつもりかい?」

 プランその三は、『突き放し作戦』だった。福朗はまず、遠回しに明日香の意思を確認する。しかし裏にある意味は、『バイトを辞めた方がいい』。

 悲しいかな、こんな時だけ想いは上手く伝わってしまうもの。明日香には裏の意味も含めて、正確に伝わってしまった。赤くなっていた明日香の顔が、徐々に青ざめていく。

「どうして……そんな事……」

 先程までとは一変して、明日香は小さな声しか出せなくなる。福朗は悪いと思いつつも、これも思惑の一部として続きを畳みかける。

「君は、この仕事が自分に向いてると思う?」

「それは……」

「君は、この仕事を好きだと言える?」

「私……は……」

 福朗の質問は詰問のようで、明日香はただただ言葉に詰まる。それでも明日香は必死に頭を回転させて、今自分がここに居る理由を、福朗の向かいに座る理由を探す。

 動機とはなんだっただろうか?

 それは自分を救ってくれた福朗が、同じように他の人を救うのを近くで見ていたかったから。

 仕事に向いているか、助手としての自信はあるか?

 正直言って自信はない。たとえ向いていなかったとしても、少しでも福朗の力になりたい。

 この仕事を好きだと言えるのか?

 嫌いではない。それは坂東にも言った事だ。けれど好きかと問われれば、自信を持って答えられない。だが、仕事については曖昧でも、福朗の事は好きだ。それが恋愛感情かはわからない。それでも自分は福朗が好きで、側に居たいと思っている。それだけでは、いけないのだろうか?

 自問自答を繰り返し、明日香の頭には数々の思考が飛び交っている。考えが多すぎて纏められない明日香は、待っている福朗に答えられない。

 福朗は固まった明日香の葛藤を察している。こうなる事までを予測して、プランを実行したのだから。

 福朗の待ちは、実際にはフリである。明日香にある程度考えさせた上で、締めの言葉を送るつもりだった。十分に溜めを作った福朗は、そろそろ頃合いだと思って口を開く。

「明日香ちゃん。俺の仕事は特殊な業種なんだよ。君みたいな普通の学生がバイトするところじゃない。こんなところに居たって、君にはなんの得もないんだ。迷惑とは言わんけど、そもそもバイトが居なくたって、仕事は俺一人で回せる。俺はできる事しかやらないからね。だから君は、他のバイトを探すといい。試しに猫宮さんのファミレスにでも行ってみなよ? そしたら一緒に働けるだろ? その方が絶対に、君の為になるんだから」

 福朗は長々と、トドメの言葉を言い切った。つもりだった。だが、明日香の受け取り方は違う。『君の為になる』。その言葉一つで、明日香は息を吹き返した。

 明日香は知っている。福朗が優しい事を。他人の為に動ける人間である事を。そうでなければ、こんな仕事をしようとは思わないはずだ。そうでなければ、猫宮と高月の想いに気付けなかったはずだ。明日香の真実は、福朗を信じる事にある。ならば明日香にとっての真実は、『福朗は自分勝手に私を追い出そうとはしない』、となる。

 明日香はなかなかに手強い。福朗の助手として福朗を見て来た明日香は、福朗にとって難敵だ。

「フクさんの言いたい事はわかりました」

 福朗の思惑を見抜いた明日香は、そのままの言葉を口にした。しかし、福朗としてはまだ引っ掛けたつもりでいるので、明日香の言葉をプラン通りだと勘違いする。

「わかってくれたならよかった。んじゃ、契約は今日までにしよう。今月分の給料を今――」

 そう言いながら立ち上がった福朗を、明日香の声が遮る。

「なに言ってるんです? 私は辞めませんよ」

「ん? あれ⁉」

 プラン外の明日香の反応に、福朗は困惑を隠せない。立場が逆転した明日香の方は、落ち着いた口調で続ける。

「どうせ私の為に勧めてくれたんでしょうけど、そんなのじゃ私は辞めませんから」

「いやいや、そうは言ってもだな……」

「迷惑じゃないって言ってくれましたよね? 私は確かに聞きました。私にとってはそれが真実です。言ったのはフクさんですから、責任もフクさんにあります。そうでしたよね?」

「ぐぅ……それは……」

 福朗のプランによる言い回しが、今となっては全て牙を剥く。信じる事で真実が生まれるのなら、明日香の真実は明日香の手の内にあるのだ。福朗がなにを言ったところで、明日香の真実は変えられない。目論見の崩れ去った福朗からは、苦し紛れの言葉しか出ない。

「そういうのを、減らず口って言うんだよ」

「どの口が言いますか」

 明日香は福朗の足掻きを鼻で笑い、福朗にジト目を向ける。

「フクさんにだけは言われたくありません。さっきのセクハラ例え話が一番の減らず口です。私は忘れませんからね」

 福朗は自分でも、あの例え話はどうかと思っていたのだ。そこを突かれるのはかなり痛い。観念した福朗はソファに腰を下ろし、掌を明日香に晒す。

「わかったわかった、俺が悪かったよ。今後とも、よろしくお願いします」

「うむ、苦しゅうない、です」

 福朗の降参に、明日香は鼻を鳴らしてふんぞり返った。その後、深々と頭を下げた明日香は、改まって言う。

「私はまだ、辞めたくありません。役に立つ自信はありませんけど、それでもここで働きたいです。ですからこちらこそ、今後ともよろしくお願い致します」

 そう言った明日香の口調と態度は、まるで面接のように随分と丁寧なものだった。クビ宣告が偽りだと気付いても、相応に堪えたのだろう。もう福朗に思惑はないので、普段通りフォローを入れる事にする。というよりも、ヘコませたのは福朗なので、措置として当然である。

「迷惑じゃないのは本当だし、実際助かってる。変な仕事だけど明日香ちゃんがそう言ってくれるなら、俺としては嬉しいよ。ありがとう」

「ホントです?」

 上目遣いに福朗を見る明日香は、先程誘導されたばかりだ。福朗の言葉をそのまま鵜呑みにはし難い。福朗は頭を掻きそうになったが、グッと堪えて力強く肯定する。

「ホントだよ。これからも力を貸してくれると助かる」

「はいっ、任せて下さい!」

 明日香の顔にようやく笑顔が戻り、福朗としてはやれやれだ。自分の仕事のどこを気に入ってくれたのかはわからないが、明日香の気持ちは確認できた。なんだか気恥ずかしくなってきた福朗は体勢を立て直したくて、一度明日香を遠ざけようと申し付ける。

「なら、早速で悪いけど、コーヒーがなくなったみたいだ。どうせ猫宮さんから連絡が来るまで居るつもりなんだろうから、もう一杯淹れて来てくんない? 二杯目を飲みながら果報を待とうじゃないか」

「そうですね。じゃあ、すぐに淹れて来ますから、ちょっとだけ待ってて下さい」

 マグカップを回収した明日香は、鼻歌交じりに給湯室へと消えていく。それを見送った福朗は、小さく溜息をついて頭を掻いた。

「まったく。どいつもこいつも頑固で困る。最近の若者ってのは年長者の話を聞かないんだから。俺も昔はそうだったのかねぇ」

 明日香も猫宮も高月も、福朗にとっては皆頑固者としてカテゴライズされている。忠告を聞かない、進言を受け入れない、意地を張って話さない。そんな若輩達と過去の自分を比べながら、福朗はコーヒーが入るまで待つ事にした。


 ↓猫宮サイド↓


 猫宮は走っていた。最寄り駅から高月の家を目指して、ただひたすら走っていた。少しでも早く、高月の元へ辿り着く為に。

 猫宮は今までの人生の中で、今日ほど電車にイラついた日はない。高月に一刻も早く会いたいから事務所を飛び出して来たのに、なかなか電車が来なかったからだ。それになにより、降りもしない駅でいちいち停車されるのが非常に腹立たしかった。境戸駅から高月の最寄り駅までは三十分にも満たない。その間を猫宮は、終始イライラして過ごした。電車がホームについてドアが開くや否や、猫宮は弾かれたように駆け下り降車し、改札を飛び越える勢いで通過して、今現在の疾走体勢に至っている。

 猫宮は今までの人生の中で、今日ほど服装に拘らない自分を褒めた日はない。絵の具を使うのでどうせ汚れるからと、いつも簡素な服しか着ないのが功を奏したからだ。走るのにフリフリしたスカートや、フワフワした上着など邪魔なだけ。本日の猫宮は長袖シャツと薄手のジャンパーに、スキニーパンツというファッションだ。女子としてこんなに走りやすい普段着もなかなかないだろう。それに猫宮は、基本的にスニーカーを履いている。コンプレックスである背の低さが目立ってしまうけれど、普段履きの靴でスニーカーほど走りに長けているものもそうそうない。ヒールだの、サンダルだの、ミュールだの。そんなものを履いてなくて良かったと、心底思いながら猫宮は走り続ける。

 ここは猫宮が生まれ育った町。境戸市内と比べてしまえば、少し田舎に見える町だ。猫宮が舌打ちしながら駅に降り立ったのは十九時前の事なので、駅を飛び出して走り続けている今は十九時過ぎになる。外灯のまばらな田舎道は、舗装はされていても人通りが少なくて走りやすい。

 インドア絵描きの走り方は、スポーツマンからすれば不格好に映るだろう。小柄な体型は持久力に乏しく、相当息が苦しいだろう。しかし今の猫宮には、高月への想いによるブーストが掛かっている。周りの目なんかは気にしないし、自分の呼吸さえ気にしない。猫宮は足を止める事なく、高月の元へとひた走る。記憶に刷り込まれた地理から最短ルートを想定すると、このまま走れば後十分ほどで高月の家に着けるのだ。

 猫宮は反芻する。後十分、と。

 猫宮は思い返す。長かった、とても遠回りしてしまった半年間を。

 そして猫宮は心の中で叫ぶ。幼馴染の名を。親友の名を。今日の夜空に月は見えないが、後十分で出会える月の名を叫ぶ。

 そうしている間にも猫宮は進み、高月の家まで後九分。



 ↓福朗サイド↓


「……日向さんは、高月さんと仲直りできたでしょうか?」

 コーヒーを持って戻って来た明日香はソファに座って早々、また同じ事を呟いている。福朗としてはデジャヴュと言うよりも、リプレイを見ているような気分だ。さっきは要らぬ方向に力を入れてしまったが、福朗は今度こそ明日香の気を紛らわせる為に口を開く。

「俺達が気を揉んでも仕方ないだろ? 別の事考えたら?」

「別の事と言われましても、お二人の行方が気になって気になって……」

「だからそれ以外にさ。他に気になってる事はないの?」

「う~ん、そうですねぇ……」

 明日香がコーヒーを一口飲んでからマグカップを机に戻すと、猫宮の残したハガキが目に入った。そう言えばこのハガキたちも気にはなっていたのだ。それを思い出した明日香は、福朗に尋ねる。

「フクさんはどうして、ハガキの意味がわかったんです?」

「ん? どうしてと言われてもなぁ……そう描いてあったからとしか……」

 改めて理由を聞かれても、福朗は困ってしまう。福朗はただ、猫宮と高月を想いながら、ハガキを見ていただけなのだから。

「でも、私はまだしも、日向さんでさえ気付かなかったんですよ?」

「それは猫宮さんの考え方が悪かったからさ。結局コレも、捉え方の問題だったんだよ」

「でもでも、そうなるとフクさんの言った事がより不可解になります。フクさんは真実なんてないって言いました。それは自分の信じたものが、相手の真意に取って代わるって事ですよね? 捉え方が全てなら、込められた想いに意味がなくなってしまいません?」

「あ~~。ま、あの方便だけじゃそうなるよね」

「やっぱり私を騙す方便だったんですね。フクさんがあんな考え方するとは思えないですもん」

 明日香が責めの視線を送ってくるが、福朗に嘘をついたつもりはない。あの考え方は全て、福朗の考え方そのものだ。嘘ではなく、抜けていた部分があるだけで。

「いんや。確かに明日香ちゃんを誘導しようとは思ったけど、噓も方便って感じで言ったわけじゃない」

「え? それってつまり、本心って事です?」

「そういう事。俺は人間嫌いとは言わないけど、ギリギリ好きってだけだからね。どちらかと言えば、人の性質には否定的なんだよ。自我の強い人間同士が、わかり合えるなんて思っちゃいないのさ」

「そんな……フクさんが、そんな悲しい考え方をしてるなんて……」

 福朗の考え方は、明日香にはとても意外なものだった。人の想いを掬い取り、人の心を救い出す。それが明日香にとっての福朗なのだ。それなのに福朗は、人はわかり合えないと言う。その考えの元で、これまで自分と接してきたのだろうか。そう思うと、明日香は悲しくて仕方がない。それに福朗自身についても、その考え方が辛くはないのだろうか、と思う。人を信じるには勇気が要るけれど、疑い続けるのも重労働だ。信じるよりもずっと多くの事を考え続ける必要があるのだから。それではきっと、感情が摩耗してしまう。心が擦り切れてしまう。明日香にはそれが一番悲しい。自分の事よりも、自分の知らないところで福朗が傷付いてきたのかと思うと。明日香はそれが、一番悲しいのだ。

 表情を曇らせて俯いた明日香を見て、福朗は逆に微笑む。それは明日香が、なにを考えて沈んだのかを察しているからだ。それこそが、先程の話で福朗が抜いた部分だった。

「明日香ちゃん。俺の話には続きがあってね。わかり合えないと思ってはいるけど、別に諦めてもいないのさ。伝える術を多く持つ人間は、受け取る術も持っている。今の君のようにね」

「私……です?」

「そう。君はたぶん、俺の事を想って悲しんでくれてるんだろ? それこそが、人が人の想いを受け取る為に生まれた意志、共感能力だ。共感ってのは本来、他人の感情を共有する事だが、つまりそれは、他人の感情の機微を読み取る事なんだよ。人が人を想い、その想いを受け取る事なんだよ。人は自分ではなく、相手を想うからこそ並び立って生きていける。共に笑い、共に泣くから、支え合って生きていける。俺は人を好きとは言わないけれど、とても尊い生き物だと思ってる。たとえ完璧にはわかり合えなくても、想いは確かに伝わるんだ。このハガキのようにね」

 福朗がハガキに目を向けたので、明日香も釣られてハガキを見る。そこには高月によって描かれたレタリングが躍っている。全てを理解した今だからこそかもしれないが、じっと見つめているとレタリングたちが訴えかけてくるようだ。込められた想いはなくならないんだよ、と。そう感じ取った明日香は、自然と笑みが零れてしまう。

「想いを受け取る意志、ですか。なんだかいい響きですね」

 そう言った明日香は、福朗の拾った十六夜のハガキを手に取った。

「共感能力。想いを受け取る力。という事は、日向さんの考え方が悪かったのって、自分自身を猫だと思い込んでいた事じゃないんですね。高月さんの方が自分を猫だと思っている。そう思い込んだのがいけなかったんですね」

「共感は読み取りから始まる。読み取りを誤れば、そりゃすれ違いもするさ。俺は部外者だったから、猫宮さんを想う高月さんに、先入観なく共感できた。だから読み取れたんだよ」

「私も部外者ですけど、わかりませんでしたよ?」

「それは君が高月さんに直接会ってないからさ。高月さんと会って話していれば、明日香ちゃんにも読み取れたと思うよ」

「そう、でしょうか?」

「そうだよ。君は他人の事ですぐ泣いたり笑ったりするからね。共感能力が高いんだろう。人の想いを大切にする君の想いは、きっと人に伝わるし、人の想いも受け取れる。自信を持つといい」

「フクさん……」

 明日香には自信も実感もないけれど、福朗の言葉なら素直に信じられる。福朗がそうだと言うのなら、きっとそうなのだ。ならば明日香は、自信がないならそう成れるように努力すればいいし、そう在れるように頑張ればいい。そうすれば、もっと福朗の役に立てるかもしれないのだから。

 明日香は密かな決意を胸に、ハガキを置いて高らかに宣言する。

「わかりました。私、フクさんの助手として胸を張れるよう頑張りますね!」

「え? うん……あれ⁉ 俺そんな事言った?」

 明日香の決意は予測演算の守備範囲外なので、福朗は困惑している。福朗の予測演算が明日香に上手く作用していないからだ。それもまた、猫宮が高月の想いを読み違えたのと同じで、福朗が明日香の想いを読み違えているから。福朗は明日香が慕ってくれているのを知っているが、その度合いを読み違えている。過大評価と表現した福朗のイメージよりも、明日香の想いは更に過大なのである。

 頭を掻いている福朗がマグカップに手を伸ばし、笑顔の明日香もコーヒーに口をつける。時刻は十九時を回り、猫宮が高月の家に到着する頃合いだ。


 ↓高月サイド↓


 高月は自宅のリビングでテレビをぼんやりと眺めながら、夕飯ができるのを待っていた。十九時を過ぎてやっとニュースがなくなったのに、高月にはどの番組も面白いと思えない。意味もなくザッピングを繰り返していると、とある番組に出ている芸人が目についた。短髪で身長の高いその芸人を見て、高月は福朗の事をふと思い出す。

 一昨日、猫宮の使いと名乗る男が現れた。その男はくたびれたスーツを着ていて、『何でも屋』という怪しい職業をやっているそうだ。猫宮の知り合いなのは本当みたいだったが、胡散臭い人だったな、と改めて思う。

 他人の問題に首を突っ込んで、しつこくハガキの意味について問われた。高月としては教えなかった事を後悔していないし、意地を張ったつもりもない。だってあれらは、猫宮の為に書いたものなのだから。

 『期待して待ってるといい』。福朗のその言葉が思い出されて、高月は鼻で笑う。見ず知らずの人間に、なにを期待しろというのだろうか。自分達の事を知らない相手に、なにがわかるというのだろうか。高月は期待したつもりなんて微塵もなかった。でも、昨日は少しだけソワソワしてしまった。それが大変恨めしく思えてしまう。猫宮を待つと、そう決めたはずなのに。

 テレビは依然として面白くもないが、高月は薄く笑う。未練がましい自分と、待つ事しか選択しない自分と、直接気持ちを伝えられない自分を嘲笑って、高月は薄く笑う。

 福朗と重なる芸人が忌々しく思えてきた高月は、チャンネルを替えようとテレビにリモコンを向ける。その時、インターホンの音が家中に鳴り響いた。

 高月が時計を見ると、時刻は十九時十五分。来客にしては中途半端な時間帯だ。こんな時間に誰だろう、と一瞬考えはしたものの、どうせ自分には関係ないとばかりに、高月はテレビに戻っていく。すると、キッチンから料理中の母親の声が聞こえた。

「望深~。今手が離せないから出て~」

 母の用命に従い、高月はリモコンを置いて立ち上がる。謎の来客を応対するのは嫌だったが、眺めていただけで観てはいなかったテレビを言い訳にもできない。高月は特に返事する事なく、ドアホンへと向かう。

 高月は言葉が少ない。人と多く話さない。それは家中でも同じ事で、むしろ家での方が話さない。家族とは便利なものだ。なにも言わなくても察してくれる。主張をせずとも主張が通るのであれば、高月にとってこれほど楽な空間はない。

ドアホンの前に立った高月は、おずおずとボタンに手を伸ばす。誰が映るのかわからない画面は、外の世界に繋がっているのだから。

高月の指がボタンに触れ、画面が起動する。そこに映し出されたのは、高月がなによりも望む太陽の姿だった。


 ↓福朗サイド↓


「……日向さんは――」

「お~い、もういいってば。会話が途切れるとすぐそれ言うんだから」

「うぅ……すみません」

 未だ猫宮からの連絡は来ず、明日香の意識はすぐさまどこかへ飛んでいく。福朗が多少出しゃばったものの、仲直りの行方は本当に猫宮と高月の問題だ。これ以上気にしても、もうどうしようもないのだ。小さく溜息をついた福朗は、三度明日香の気を紛らわせる。

「明日香ちゃんはさ、想いの込められたモノってなんだと思う?」

 福朗が珍しく積極的に話を振る。それは自分を気遣っての事だ、と明日香は既に気付いている。もう生返事を返したりしない明日香は、窓を眺めていた視線を福朗に向けて首を傾げる。

「モノ、です?」

「そう、モノ」

「そうですねぇ……やっぱり、人の手で作られたモノに、想いが宿るような気がします」

「俺もそう思う。それに量産品でも、プレゼントなら想いが籠ってる感じがするかな」

「あ~、確かにそうですね。選んでくれたって考えると、嬉しいですもんね」

「後はあれだ。形見、かな。君はあの耳飾りは付けないの?」

 福朗が指しているのは、明日香が祖母から受け継いだ形見のピアスだ。福朗の尽力によりわだかまりは消えたはずなのだが、明日香が付けているのを福朗は見た事がない。

因みに言うと、福朗の尽力についてはまた別の物語である。

「私、ピアスって苦手なんですよね。だって耳に穴開けるんですよ? 怖いと思いません?」

「ま、俺も苦手だけどね。好きな女性には、あんまり付けて欲しくはないかな」

「な、なんでです⁉」

 亡くなった祖母を思い出して少し気落ちしていた明日香だったが、福朗の発言に思わず食いついてしまった。なぜなら、福朗が女性の好みについて語ったのは初めてだったからだ。

 明日香は身を乗り出し、食い入るように福朗を見つめる。

「え⁉ ソコそんなに気にするトコ?」

「いいから言ってみて下さい! さぁさぁさぁ!」

 明日香の剣幕に福朗はたじろいでしまうが、別段隠す事でもないので素直に答える。

「俺、耳たぶって結構好きなんだよね。感触とか。ピアスされてると触れないだろ? だからあんまり好きじゃない。それだけ」

「それって、フェチって事です?」

「いんや、そこまでじゃないよ。好まないだけで、嫌いとは言ってないだろ?」

「ふ~ん……そう、ですか」

 そう言いながら明日香は、今日帰ったら鏡で耳たぶを確認してみよう、と密かに思った。

 明日香が身を引いたので、福朗は改めて話を振る。

「俺の話はいいんだよ。明日香ちゃんはどうなのさ。怖いからって開けないのかい? 女の子なんだから、お洒落には興味あるんだろ?」

「う~ん。でもやっぱり私はヤですね。それに、失くしたらもっとヤですもん」

「失くすリスクはわかるけど、使われる方がモノにとって良いと思わない?」

「別に使わなくても、大事にすれば良いと私は思いますから。だからあのピアスは、大事な宝物入れにしまってあります」

「そっか。そりゃ明日香ちゃんらしいね」

 形のない想いを大切にする明日香なら、形有るものも大切にできる。そう思って福朗は納得した。

「大事なものは使わない派なんだね。という事はもしかして、俺が前あげたハンカチもしまわれてたりするの?」

 福朗が指しているのは、明日香がバイトを始めた当初にプレゼントしたハンカチだ。渡してから早二ヶ月弱、ほぼ毎日明日香と顔を合わせているが、使っているところを福朗は見た事がない。

「あ~~、え~っと……あれは……」

 福朗の質問に対し、明日香はバツが悪そうになんだかモゴモゴ言いだした。ハンカチなんて消耗品だ。どんなに大切にしていても、汚れもすれば失くしもする。どうせ後者の方だろう、と福朗が思っていると、

「あのハンカチは、その……以前ポンちゃんが大きい方の粗相をした時に、ティッシュを持ってなくて……その……」

 と、なかなかの返答が返って来た。要するに、ポンちゃんのアレを包んでそのまま捨ててしまったのだ。

福朗は少し驚いたが怒りはしない。ちゃんと使ってくれたのなら、福朗としてはそれでいい。

「あらら、そりゃまた壮絶な末路だったね」

「うぅ……すみません」

「構いやしないよ。また機会があれば買ってあげるから、気にしなくていいよ」

「はい……」

 明日香は申し訳なさそうにしている。だが、悲惨なハンカチの末路は、実は嘘である。福朗に貰ったハンカチは、実際には形見のピアスと共に大切に保管されている。福朗に図星を突かれた明日香は、照れ臭くて咄嗟に嘘をついたのだ。しかし、思い付いた嘘の内容があまりにもあんまりだったので、明日香は恥ずかしくてしょうがない。申し訳なさそうに見えるのは、実は恥ずかしいからなのだ。

 ハンカチの話題から早く逃げ出したい明日香は、強引に話を戻そうとする。

「とにかく、です! 人の手が入れば、どんなものにも想いは込められる、って事ですよね? あれ? 籠る、かな?」

「込められたから籠るんだ。今の話の流れでは、どっちだって似たようなもんさ。ま、人の想いだからね。人が関われば、そりゃあなんにだって想いは籠るだろう」

「でも、やっぱり一番は手作りって気がします」

「ああ、俺もそう思う。高月さんのハガキが、それを教えてくれたよ」

 そう言った福朗は、ハガキを手に取ってしげしげとレタリングを眺め始める。

「それにしても、レタリングって面白いよね。そもそも文字とは意味を与えられた図形だ。そこに更に意味を上乗せするなんて欲張りな発想に思えたけど、これを見てると素晴らしい技法なんだなってつくづく思うよ」

 感慨深げな福朗の口調に、明日香はコクコクと頷く。

「ですです。高月さんの技術があってこそ、だとは思いますけど」

「元々の意味と付与された意味、そして想いまで込められるときた。これこそ一石三鳥ってもんだ」

「普通の手紙はどうなんでしょう。文字にデザイン性はありませんけど、想いは籠ってますよね?」

「そうだなぁ……込められた想いを付与された意味とするならば、それもまた、レタリングと言っていいのかもしれない。ともすれば、世の中にはレタリングが溢れてるって事になる」

「え? 手紙だけじゃなくてです?」

「レタリングの定義を拡張すれば、ね。明日香ちゃんが学校で取っているノートだって、見方によっちゃレタリングだよ」

「う~ん……カテゴライズするなら、カリグラフィーになりません? 一応綺麗に書こうとは思ってますし」

「いんや、いくら綺麗に書いたとしても、文字は文字だ。そこにデザイン性まではないだろ? でも、自分が見返した時に伝わるように、と思って書いているなら、想いを込めて書いてるのとなんら変わらないよ」

「なるほど。文字は誰かに伝える為に書くものだから、その想いを付与された意味とすれば、手書きの文字は全てレタリングになりますね」

「そういう事。ま、実際には違うけどね」

「でも、私はその考え方素敵だと思います」

 『全手書きレタリング論』は、福朗にとっては言葉遊びみたいなものだ。『素敵』だなんて過大評価されても、福朗は反応に困ってしまう。

「褒めてもなにも出ないよ」

 苦笑いを浮かべるしかなかった福朗は、ハガキを置いて頭を掻き始めた。そんな福朗を見た明日香は、

「あ、今のは素直に褒め言葉として受け取るんですね」

 と言ってクスリと笑う。

 揚げ足を取られた気分の福朗は、コーヒーの方に手を伸ばす。二杯目ももうすぐなくなりそうだ。明日香と長話を始めて随分と経つが、まだ猫宮からの連絡は来ない。

 福朗がコーヒーを飲み始めたので、少しの間会話が途切れる。すると、ハガキをぼんやり見つめていた明日香が、例の言葉を呟く。

「……日向さんは――」

 また始まった。と思った福朗だが、次に続いた言葉は、これまでとは違う内容だった。

「猫か太陽、どっちを選んだんでしょうか……」


 ↓猫宮、高月サイド↓


 都心から少し離れた猫宮達の地元は、小スペースでも庭付きで、塀付きの家が多い。高月の家も例に漏れず、玄関から二メートルは離れた門にインターホンが設置されている。

インターホンの前で膝に手をついている猫宮は、荒い呼吸を整えるのに必死だった。はやる気持ちを抑えられずに走って来たが、これでは上手く話せない。もう少し落ち着いてから押すべきだった。と、苦しい表情を浮かべながらインターホンを見つめている。

 十秒ほど経った頃、マイクの繋がるような音が聞こえた。まだ呼吸が荒れたままの猫宮は、家人からの応答を待つ。しかし、マイクから声が聞こえる事はなかった。

 昔から高月家と懇意にしていた猫宮は、家庭事情をよく知っている。家族構成は両親と兄、そして高月の四人家族。兄は家を出たと聞いているし、車がないので父親もまだ帰っていない様子。母親は本当に高月の母親なのか、と疑いたくなるくらいにお喋りな人だ。ともすれば、今無言のマイクの向こうにいるのは高月に違いない。そう思った猫宮は、荒い呼吸の中になんとか声を乗せる。

「……の……ぞみ……」

 苦し紛れでも、なんとか伝わる程度には声を出せたはず。猫宮は再び応答を待つが、マイクから声は聞こえない。結局マイクは無言のままで、最終的にブツッと切れる音だけが聞こえた。

 拒絶としか思えない高月の反応に、猫宮は絶望して下を向いてしまう。息苦しさが一気に増して、今にも酸欠になりそうだ。酷使した足が一気に震え出して、今にも崩れ落ちそうだ。満身創痍の中で歯を食いしばり、猫宮は最後の力を振り絞って空を見上げる。そこにはやっぱり、月を見付ける事はできなかった。

 猫宮の目に涙が浮かび、上を向いていても零れ始める。荒い息遣いが嗚咽へと変わりそうになった時、扉の開く音が聞こえた。猫宮は音に反応してゆっくりと顔を向ける。

空を仰いで月を探しても仕方がなかったのだ。猫宮の求める月は、玄関から現れたのだから。

「ヒナ、ちゃん……」

 猫宮を呼ぶ高月の表情は、驚きに満ちている。猫宮が来てくれるなんて思いも寄らなかったから、目の前の光景が信じられないのだ。

「のぞ、み……」

 高月を呼ぶ猫宮の表情もまた、驚きに満ちている。拒絶されたと思った矢先に高月が現れてくれたから、目の前の光景が信じられないのだ。だが、信じられなくても現実は現実。猫宮の涙は悲しみのものから、いつの間にか喜びのものへと変わっていた。

 猫宮と高月は驚きのあまり、間抜けに口を開けたまま暫く見つめ合う。そうしている内に猫宮は思い出した。高月との会話が途切れた場合は、いつも自分がリードしていたのだ、と。

 猫宮は急いで涙を拭う。自分から声を掛ける為に。ようやく呼吸も整ってきて、普通に声が出せそうだ。満を持した第一声に悩む必要はなく、ここは明日香に習うだけ。『ごめんなさい』の一言が、きっと元の関係に導いてくれる。そう思った猫宮は、涙の処理を終わらせてもう一度高月に顔を向けた。

「ヒナちゃん、知ってる? 今日は、新月。太陽の光が、月に届かない日」

いざ猫宮が謝ろうとした時、先手を取ったのは意外にも高月の方だった。

 高月は月の話を切り出したが、空には一切見向きもしない。ただ猫宮のみを見つめている。

 月の高月を照らすのは、宇宙の太陽ではない。そして高月を救うのは、全能の神様ではないのだ。それらは全て、猫宮だけができる事。高月にとっての太陽である、猫宮だけにできる事。ともすれば、猫宮を目の前にした高月が、言いたい事はただ一つ。

「空の月が、輝かなくても、私はもう、大丈夫。ヒナちゃんが、来てくれたから。ヒナちゃんが、居てくれるなら」

 そう言って高月は笑った。満月のように明るい笑顔で。

 自分に向けられた高月の笑顔を見て、猫宮はやっと理解した。どうしてあんなにも、自分が明日香に惹かれたのかを。元々身長や髪形が似ているとは思っていた。けれど、久しぶりに見た高月の優しい笑顔は、明日香の笑顔にそっくりだった。明日香を高月の代わりだなんて思った事はない。しかし、高月の笑顔を改めて見ると、重ねていたのは明白だった。記憶は忘れていたとしても、気持ちの方は憶えていたのだ。

 無意識下で求めていたもの。その本物が、今まさに猫宮に向けられている。猫宮の目にはせっかく拭い去った涙が、再び浮かび始めた。

「望深!」

 直情的な猫宮は、感情の抑制が苦手である。今回は特に、半年分の想いが溜まりに溜まっているのだ。たとえ猫宮でなかったとしても、押さえつけるのは難しかっただろう。大声を出し、門を乱雑に開け、高月に飛び付いたとしても、一体誰が責められよう。

 もちろん高月が責めるはずもない。ずっと求め続けた太陽が、自ら飛び込んで来てくれるのだから。高月は猫宮を受け止めて強く抱きしめる。その温もりを全身で感じ取るように。もう二度と離さないように。高月の目からも涙が溢れ、零れた分は猫宮へと落ちていく。

「ごめんね、望深。酷い事言って、本当にごめんね」

 高月より頭一つ分低い猫宮は、高月の胸元で謝罪する。吐いた言葉は取り消せないから、高月を傷付けた事実は変わらない。

「私の方こそ、ごめんなさい。あんな絵さえ、描かなければ……」

 猫宮より頭一つ分高い高月は、猫宮の頭上で謝罪する。過去の出来事は取り消せないから、猫宮を苛んだ事実は変わらない。

「ううん、あたしが勝手に勘違いしただけよ。望深はそんな娘じゃないって、知ってるはずなのに」

「ううん、私も、いけなかった。ちゃんと言葉に、できていれば、勘違い、されなかったのに……」

「ううん、自分の事だからわかるのよ。あの時のあたしは、きっと聞く耳を持たなかったでしょうね」

「ううん、そんな事ない。どんな時でも、ヒナちゃんはきっと、私の話を、聞いてくれる」

「ううん、あたしが――」

「ううん、私が――」

 謝罪の重ね合いは、押し付け合いのようになっていく。通常ならばこのまままた、ケンカに発展しそうなものだ。しかし一度間違えた二人は、もう同じ過ちを繰り返さない。

「どっちもどっち、なのかしらね」

 と、猫宮が軽く笑う。

「そうなの、かも」

 と、高月も軽く笑う。そして高月は、福朗の言葉を思い出す。

「あの男の人に、言われたの。私とヒナちゃんは、どっちも頑固だ、って」

「あたしも言われたわ。あたしと望深は、大切な人の前では言葉が出てこないんだ、ってね」

 福朗の見立てがあまりにも正しくて、二人は抑えた声で笑い始めた。

「変なところで似てるのね、あたし達」

「変なところでも、私はヒナちゃんと同じなら、嬉しいよ」

「あたしもそう思うわ。大嫌いなんて言ってごめんなさい。大好きよ、望深」

「私も、ヒナちゃんが、大好きだよ」

 半年分の溝を、福朗の架けた橋が繋いでいく。触れ合う肌と同じように、二人の心にもう距離は感じられない。

 猫宮と高月。仲直りの完了である。

 一頻り抱き合った猫宮と高月は、玄関前に腰を下ろした。互いの存在を確かめ合うように、体重を預けて寄り添い合う。

 会話がなくともただそれだけで十分に心地よかったが、猫宮には一つ聞いておく事があった。

「結局望深の絵には、どういう意味があったの?」

 過ぎた事実は変えられなくても、勘違いは正せるのだ。始まりの絵の意味を、猫宮はちゃんと聞いておく必要がある。

 高月としてもちゃんと聞いて欲しかった。絵の意味を、込めた想いを。半年前に言えなかった言葉を、高月はゆっくりと紡ぎ出す。

「あの絵は確かに、私とヒナちゃんを、描いたつもり。でも、私はヒナちゃんを、見下ろしてない。見下しても、ない。私はずっと、ヒナちゃんを、追いかけてる。いつも私の前を歩いて、遠くにいるヒナちゃんを、追いかけてるの。遠い先を歩いてても、ヒナちゃんは振り向いて、いつだって私を、気にしてくれる。あの絵は、そんなヒナちゃんを想って、描いたつもりだった」

「猫だったのは、あたしが猫宮だから?」

「うん。本当は、太陽を描きたかった。でも、テーマが夜空だったし……だから、猫にしたの。猫なら、小さくてかわいいヒナちゃんに、ピッタリだと、思って」

「そ。ならあのハガキは?」

「あれも、私とヒナちゃん。月の私には、ヒナちゃんの光が、必要なの。だから、私にとってヒナちゃんは、太陽だよ、って。そう、伝えたくて……やっぱり、わかりにくかった?」

「ん。ちょっと、ね」

 本当に全てが、福朗の言った通りだった。ハガキの意味も、込められた想いも、コンクールの絵でさえも、だ。全てを言い当てた福朗に、猫宮は少しひく。

「全部アイツの言う通り、なのね」

「そう、なの?」

「ええ、そうよ。望深の事も、あたしの事もね。当たり過ぎてて気持ち悪いくらいよ」

「でも、あの人のおかげで、こうしてヒナちゃんが、来てくれた。胡散臭い、人だけど、私は、感謝してる」

 直接言い当てられてない高月は、猫宮と違ってひいていない。胡散臭い印象はそのままでも、それ以上に感謝の念が大きいのだ。今でこそ高月は思う。ハガキを落として良かった、と。拾ったのが福朗でよかった、と。

「そうね。全部アイツのおかげ。今度改めて紹介するから、一緒にアイツの事務所に行かない?」

「うん、わかった。そうすれば私も、お礼が言えるから」

「望深にそっくりな明日香って助手もいて、あたし達の後輩なのよ。そっちも紹介するわね」

 高月は明日香の存在を知らない。それでも自分たちの問題に対して、大きな一役を買ってくれたのだろうと思う。でなければ気難しい猫宮が、怪しい『何でも屋』に頼るはずがない。名称は怪しくとも、その実績は実感済みだ。見事猫宮を動かしてみせた『何でも屋』に、高月は素直な感謝と興味を持った。

「うん。楽しみに、してる」

 見知らぬ相手に紹介されるのを、高月は苦手としている。それを知っている猫宮は、高月の反応を意外に思う。しかし猫宮としても、高月と明日香を合わせるのが楽しみだった。付き合い辛い自分と付き合える。そんな二人なら、必ず仲良くなれると猫宮は確信しているのだ。

「じゃあ明日はどう? 時間ある?」

「うん、大丈夫。特に予定は、ないから」

「なら明日ね。授業が終わったらメールするわ」

「うん」

 仲直りを経て、メールが解禁となった。電話とて同じである。こうして並んで座り、直接話ができているのだ。間接手段のどこに尻込みする必要があるというのか。二人の距離はこんなにも近く、隔てていたものは取り払われたのだから。

 猫宮が高月に寄り掛かったまま目を瞑る。そんな猫宮を、高月は愛おしそうに覗き込む。

 高月は考える。猫宮は昔から、自分にとっては太陽だった。けれどあの時猫宮は、猫宮自身を猫と言った。自分の絵と講評が原因なのはわかっているが、今隣に居る猫宮はどう思っているのだろう、と。それが気になった高月は、願うように猫宮に問う。

「ねぇ、ヒナちゃん? ヒナちゃんは、私の太陽で、いてくれる?」

「ん~、そうねぇ……」

 高月の問いに、猫宮は考え込んでしまう。福朗から話を聞いても、高月の言葉を直接聞いても、猫宮には自分が太陽だとは思えなかった。劣等感に囚われた猫は、誤解が解けてもう居ない。高月を想うのであれば、その望みに応じて自分は太陽となるべきだ。しかし猫宮に、高月を照らし続ける自信などなかった。猫か太陽か。猫宮は自分の立ち位置を探している。

 人は人と関係を持つ時、いつだって立ち位置を探している。ありのままの自分でいるのか。それとも相手の望む姿でいるのか。どちらも加減が重要だ。前者に偏り過ぎればただの自分勝手だし、後者ともなれば自分を偽って嘘をつく事になる。個の認識が強い人間という生き物は、元より共存が難しい。だがそれでも尚、共に居られるとするならば、そこには確固たる繋がりが生まれる。人はそれを絆と呼び、支え合って生きると言う。

「あたしは猫。やっぱり、猫の猫宮でいいわ」

 考え込んだ末、猫宮は猫でいるという選択を伝えた。それを聞いた高月は悲しそうに目を伏せるが、猫宮が言いたい事はまだ残っている。

「あたしは猫、猫の猫宮。たとえ月が輝いていなくても、あたしには見つけられる。いいえ、見つけてみせるわ。猫って夜目が効くのよ、知ってるでしょ?」

 そう言って猫宮は、悪戯っぽい笑みを高月に向けた。

 猫宮が選んだのは、月を照らす太陽でも、月を見上げる猫でもない。月に寄り添う猫。それが猫宮の選択だった。

「そっか、そうだね!」

 猫宮の言葉に対して、高月は珍しく大きな声で頷いた。猫宮がなんと言おうとも、高月にとっては太陽なのだ。猫宮が側に居てくれるなら、見付けてくれると言うのなら。高月がそれ以上を望む必要はない。

 半年の空白は長く、過ぎた時間は戻らない。だが、埋め合わせはできる。明日香が言ったように、これからの時間を大切にすればいい。

「ねぇ、望深? 今日泊めてくれない?」

 猫宮の実家はすぐそこにあるけれど、猫宮は帰りたくない。積もる話が沢山あって、高月と離れたくないのだ。

「もちろん、いいよ。私も同じ事、考えてた。ちょうど夕飯が、できると思うから、一緒に食べようよ」

 高月も猫宮と離れたくない。食べ物で釣ってまで、強引に引き留めようと考えていた。一見すると二人の性格は正反対に思われがちだが、中身はそっくりだ。考える事が似通うのも当然である。

「いいの? じゃあお言葉に甘えて」

「今日は、シチューだって。ヒナちゃん、好きでしょ?」

「ええ、大好きよ。もしかしたら望深より好きかもね」

「もう……そんな事言うなら、お預けだよ?」

「お預けって……そんなペットみたいに……」

「だってヒナちゃんは、猫の猫宮、なんでしょ?」

「確かにそうは言ったけど……ったく、言ってくれるじゃない」

「あぁ……その仕草、久しぶりに見た。ヒナちゃん、って感じがして、安心する」

「そ? まぁいいわ。とにかく走ってお腹が空いちゃったのよ。早くエサを頂戴な」

「はいはい。じゃあ、ハウスしましょう、ね」

「ったく、アンタって娘は……お邪魔しま~す」

 笑い合う二人が、家の中へと消えていく。あの日明日香が祈ったように、その笑顔は写真の二人と同じになり、どちらも屈託のない笑顔を浮かべている。離れていた時間が長くとも、それは仲直りに必要な時間とは無関係だ。

 こうして明日香の祈りは現実のものとなり、福朗は見事依頼を達成した。


 ↓福朗サイド↓


 明日香が気にしているのは、猫宮の考え方、猫宮の立ち位置について。ハガキに触発されて考え出したのだろうが、福朗としてはどちらでもいい問題だった。なぜなら猫も太陽も、そして月も。それらはいつだって比喩に過ぎないのだから。本物の猫と月は遠く、太陽と月はもっと遠い存在だ。しかし猫宮と高月は、同じ地上で暮らす人間なのだ。会おうとすればいつでも会えた距離で、会わなかったからこじれただけ。人間関係における立ち位置の重要性は福朗も理解しているが、それだけではない事も知っている。

「猫だろうが太陽だろうが、猫宮さんは猫宮さんだ。それに、高月さんも高月さんでしかない。ハガキの意味については太陽でいる必要があったけど、直接会えば関係ないさ」

 福朗の言う通り、猫宮は猫宮として、月に寄り添う猫を選んだ。それは猫宮にしかできない事で、高月に対する最適な立ち位置なのだ。

「そっか、それもそうですね」

 納得した様子の明日香は、ハガキから福朗へと目を移す。

「じゃあ改めて。日向さんは、高月さんと仲直りできたでしょうか……」

「いやいや、別に改まって言わなくても――」

 福朗が呆れ顔で言っていた時、明日香のスマホが震え出した。瞬時に反応した明日香は、急いで着信を確認する。

「あ……」

 小さな声だけを上げて固まった明日香は、食い入るように画面を見つめている。その瞳にはみるみる内に涙が溢れ、ポロポロと零れだした。

 猫宮からの連絡だろう、と当たりをつけた福朗だが、まだ明日香の涙がどちらの意味かわからない。急かすわけではないが、福朗としても気になるところ。聞かずにはいられない。

「猫宮さん、なんだって?」

 福朗の呼び掛けで動き出した明日香は、零れ続ける涙を気にも留めず、

「写真が……」

 と言って、画面を福朗の方に向けた。そこに表示されているは、新しく撮影されたであろう猫宮と高月が笑っている写真。仲直りの証明写真だ。

「仲直り、できたみたいだね」

「はい……」

「良かったね、明日香ちゃん」

「はい!」

 一際大きな返事をした明日香はスマホを手元に戻し、再び写真を眺め出した。

 明日香は嬉しくて泣いている。泣いているが、笑顔でもある。そんな明日香を見て、福朗は改めて思う。やはり明日香は共感能力が高い、と。

 ようやく一息つけた福朗は、体を深くソファに沈めた。写真に夢中な明日香を暫く眺めてから、役目を終えたハガキに目を移す。

「想いを込めたレタリングが描かれているハガキたち、か。差し詰め、レタリングレターズ、ってところか」

 未だ明日香は写真に夢中なので、福朗の呟きはあくまで独り言。そろそろ腹が空いてきた頃合いだが、明日香の気が済むまでは我慢するしかなさそうだ。福朗は窓の外を見上げ、月を探して待つ事にした。今日が新月である事を福朗は知らない。

 今日は新月。福朗の目に月は見付けられない。しかし猫ならば或いは、本当に月を見付けられるのかもしれない。


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