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幕間の追想 月に鳴く猫

手が届かないと知った猫は、ただただ月に鳴き声を上げる

 二〇十九年十月二十七日、日曜日。今日は境戸市美術館による、二〇十九年度学生絵画コンクールの結果発表の日だ。展示枠である各ジャンルの大賞及び副賞に受賞した計十二名の学生は、開館前の美術館に集まる手筈となっている。

 結果発表とは言え参集された受賞者達は、既に大賞か副賞のどちらかであると知っている。佳作の発表もあるが、その当事者達には後日通達が送られるのだ。よって結果発表のメインとなるのは、全十二作品の展示スペースをお披露目する事である。

 大学近くにある猫宮の住むマンションは、美術館からけっこう距離がある。それでも一応境戸市内には位置しているので、猫宮は隣町の実家に住む高月よりも少し早く美術館に到着した。

 高月も受賞しているのは知っていたのでエントランスで待っていてもよかったが、猫宮は先行して展示スペースを見に行く事にする。一緒にエントリーしたはいいものの、猫宮は高月の絵をまだ見ていないからだ。

 どんな絵を描いているのか、それを秘密にする必要なんてどこにもなかった。しかし今この瞬間、猫宮はワクワクしている。誘導看板に従って、展示スペースに向かう足取りは軽快だ。これでやっと、高月の絵が見られるのだ。期限付きの秘密もたまにはいいかもしれない、と猫宮は思った。

 自分の描く絵に芸術家としてそれなりの自負がある猫宮でも、そう易々と大賞を取れるとは思っていない。だが、負けず嫌いな性格である為、コンクールに参加するのであれば、目指すのも望むのもいつもは一番だ。しかし、今回に限っては大賞だろうが副賞だろうがどちらでもよかった。普段絵画を描かない高月と一緒に入賞できた事が、猫宮にはなにより嬉しかったからだ。

 高月がスランプだと悩んでいたから、猫宮は半ば無理矢理コンクールに誘ったが、結果としては上々に過ぎる。

「スランプなんて小難しく考えるからいけないのよ望深は。他人の土俵で入賞までしたんだもの、もうスランプなんて言わせないんだから」

 愚痴のように独り言を発した猫宮だが、その顔はニヤけていた。

 猫宮と高月は、昔からよく一緒に絵を描いていたが、大学で専攻したのは違う学科だった。同じジャンルで、同じテーマで絵を描いたのは久しぶりなのだ。コンクールだけを考えれば二人は競合にあたるけれど、そんなのは問題にならない。同じ場所で一緒に絵を描いたわけではないが、別々の場所でも同じものを目指して描いたのだ。二人にとって互いは、競争相手ではなく同士なのである。猫宮も高月と同じように、コンクールをただ楽しんでいた。

 ここは美術館。開館前だけあって人はほとんど居ない。今なら様々な展示品をじっくりと堪能できるはずなのだが、猫宮は目もくれずに通路を進んで行く。猫宮が見たい作品はただ一つ、高月の絵だけ。それ以外はどんなに高価な絵画でも、猫宮にとっては無価値に等しい。

 入口からはやる足取りで歩いて数分後、猫宮は観覧ルートから少し逸れ奥まっている場所に展示スペースを見つけた。遠目からでもどれが油絵かくらいはわかるので、後は作品下に小さく掲げられている作者名を確認するだけだ。自分の作品以外の3つの中に、高月の作品がある。

 近づいて行く猫宮は、作者名の更に下に、大賞、副賞の表示と講評が添えられている事に気付いた。一応真っ先に自分の絵に歩み寄り、猫宮は副賞だと確認する。そしてそのまま、隣の絵から確認していく。

 一枚目。描かれているのは幻想的なオーロラだ。乾燥の遅い油絵では比較的グラデーションが作り易いので、綺麗には見える。しかし猫宮は、もっとインパスト技法を活かし、厚塗りでオーロラを強調した方が良かったのに、と思った。これは高月の絵ではない。

 二枚目。描かれているのは都市部と思われる夜景だ。テーマは夜空で確かに夜空も描かれているが、緻密に描き込まれたビル群を見ると、そちらの方がメインとも取れる。しかし猫宮は、人の作り出す明かりによって淡くなった夜空が、上手く表現できているな、と思った。これも高月の絵ではない。

 最後の三枚目。描かれているのは月と猫だ。大胆に大きく描かれた月は何度も重ね塗りされており、抜群の存在感を放っている。対する猫は小さく描かれており、背景に溶け込むような黒猫だ。黒猫の表情までは描かれていないが、物寂しい雰囲気を感じさせる。

 他の絵とは違い、猫宮はなにも思わなかった。いや、なにも思えなかった。ただ、鮮烈な月に魅了されたように見入っていた。

 これが最後の油絵なので、必然的に高月の作品という事になる。猫宮が視線を絵から下げていくと、そこには大賞と書かれたプレートが貼り付けられていた。隣には講評も書かれている。

 高月の大賞を誇らしく思った猫宮は、講評に目を通していく。そして、講評を読み終わった猫宮は、空気が抜けるような声でふと呟く。

「望深……アンタは……あたしを……」

 この時、『猫の猫宮』が誕生した。


 ↓高月、美術館到着↓


 高月は美術館のエントランスに入ると、一度足を止めて周囲を見渡した。十人と満たない人の中に猫宮の姿がない事を確認し、高月はまた歩き出す。

 特に待ち合わせはしていなかったし、猫宮はせっかちな性格だ。どうせ先に展示スペースに行ったのだろう。待っていてくれてもよかったのに、とも思うが、しかしそれは自分の我儘なのだ。猫宮は約束を守る女だ。最初から約束していたのなら、猫宮はちゃんと待っていてくれたはず。待ち合わせしようと言い出せなかった自分が悪いのだから、待っていて欲しかったなんて希望を押し付けるのは、猫宮に対して失礼だろう。そう高月は思い直した。

 自分勝手に落ち込んだ高月は、重い足取りで誘導看板に従って歩く。悶々とした心境により、通り過ぎていく作品群が目に入らない。猫宮とは違う理由で高月もまた、貸し切りに近い美術館を楽しめないでいた。

 とてもゆっくりとした歩調でも、高月は足を止めない。展示スペースに辿り着けば、きっと猫宮が居る。どんな顔して話そうかと悩んでいると、高月はふと思い出した。今日はなんの為にここに来たのか、と。

 猫宮に誘われてエントリーしたコンクール。その結果発表を聞く為に来たのだ。結果なんてどうでもよかったが、猫宮と共に入賞できた事がなにより誇らしい。ついでに猫宮と同じテーマで絵を描いた事を思い出し、高月の足取りは軽くなっていく。自己主張をしない自己完結型の高月は、勝手に落ち込むパターンも多いが、勝手に立ち直るパターンもままあるのだ。

 四つ目の誘導看板を追いかけ、三つ目の角を曲がった時、高月の目に展示スペースと思しき場所が映った。そこには肩まで伸びた茶色い髪を持つ、小柄な女性の後姿だけが見える。他には誰も居ないようだ。

 猫宮を見つけた高月は、足早に近付いていく。猫宮が自分の絵を見ている事に気付き、高月は後ろから声を掛ける。

「ヒナちゃん、おはよう。私の絵、どう?」

 急に声を掛けられた猫宮は、驚いて体を一瞬硬直させる。

 声の主が高月であるのはすぐにわかった。たとえ声でわからなくとも、自分を『ヒナちゃん』と呼ぶのは高月しかいない。だが、既に猫宮には、『猫の猫宮』が生まれてしまっていた。そんな猫宮は、高月と面と向かうのが怖かった。

 猫宮が振り向かないので、高月は自分の絵を見てくれているのだと思っているが、猫宮は高月から見えないところで目を泳がせていた。泳いだ目が捉えたのは高月の絵ではなく、講評の方だった。

 一息分の間を置いた猫宮は、意識して抑えた声で応じる。

「おはよ、望深。とても良い絵ね。特にこの月が素晴らしいわ。やっぱり望深は絵が上手いわね」

「あ、ありがとう、ヒナちゃん。ヒナちゃんに、そう言ってもらえると、凄く、嬉しい」

 猫宮の言葉を素直に褒め言葉と受け取った高月は、恥ずかし気に笑った。

 少しだけ漏れた高月の笑い声。その声は、高月の照れくさそうな表情を見ていない猫宮には、嘲笑に聞こえてしまった。高月がそんな事をしないのはわかっている。高月は生真面目で思いやりがあり、直情的な自分と長く付き合えるほど我慢強い。猫宮はそれを重々承知している。それでも『猫の猫宮』には、残念ながら高月の笑い声が嘲笑に聞こえてしまった。

 猫宮は内心ずっと思っていた。自分よりも高月の方が絵が上手い、と。圧倒的とは言わないまでも、届きそうで届かない。そんな思いを掘り起こしてしまったのが、高月の絵と講評だった。

 才能の差から生じる憤りというものは、本来やり場のないものだ。しかし直情的な猫宮は、感情を上手く抑えられない。掘り起こされ、表面に浮き出てしまった憤りは、やり場を求めて高月へと向き始める。

「ねぇ、望深? この絵ってあたしと望深なんでしょ?」

 猫宮の問いに、高月は驚いた。確かに猫宮の言う通り、高月的には自分と猫宮を想って描いたものだ。しかし、まさか一見して言い当てられるとは思ってもみなかったのだ。

 高月は慌ててしまい、咄嗟に答える事ができない。

「え⁉ どうして、そんな……」

 それが不味かった。この時高月が慌てずに肯定し、なにを想って描いたのかを話しておけば、不要な誤解も半年の疎遠も生まれなかっただろう。だが、言葉の少ない高月にはたとえ慌てていなかったとしても、次の猫宮より早く回答するのは難しかったかもしれない。

 高月が言い淀んだのは図星を突かれたからだ、と猫宮は受け取った。今の猫宮は『猫の猫宮』として、誤った認識を持っている。その認識に対する肯定だ、と受け取ってしまったのだ。

「そ。望深はあたしを、ずっとこんな風に見てたのね……」

 拳を固く握り締め、猫宮は震える声を出した。

 長年付き合っている高月には、猫宮が怒っているのがすぐにわかった。しかし、なんで怒っているのかが全くわからない。理由はわからなくとも、怒りの矛先はどうやら自分らしい。そう感じた高月は、更に口籠ってしまう。

「ど、どうしたの、ヒナちゃん? 私にとって、ヒナちゃんは、その……」

 この高月の中途半端な言葉が、猫宮を更に誤解させる。誤解の誤解は二重否定のように、一周回って正解とはならない。誤解の誤解が生みだすものは、二倍離れた誤解なのだ。

 高月の絵の講評を見て、猫宮の中に『猫の猫宮』が生まれた。

 高月の絵を誤解して、猫宮の中で『猫の猫宮』が成長する。

 最終的には高月の想いを誤解して、猫宮は遂に『猫の猫宮』と化してしまった。

 猫宮は高月に向き直って睨み付ける。その目はまるで、獲物を狙う猫のようだ。

「あたしだってずっと思ってたわよ、望深の方が絵が上手いってね。だからってこんな当てつけみたいな絵を見せられて、あたしが気付かないとでも思ったわけ?」

 高月には猫宮の言っている意味が全くわからない。だが、猫宮の視線と強い語気が、元々少ない高月の言葉を更に減らしてしまう。

「ヒナちゃん……なんで……怒って……」

「とぼけるんじゃないわよ!」

 『猫の猫宮』が導いた誤解の果ては、感情の爆発だった。その声はまるで、夜中に突然ケンカを始めた猫の鳴き声のようだ。静寂に包まれた美術館に、猫宮の叫びが響き渡る。

「アンタはずっとあたしを見下してたんでしょ! アンタより絵が下手糞なあたしを、ずっと見下してたんでしょ! アンタが描いたこの絵のようにね‼」

 叫びの最後を一際大きく言い放ち、猫宮は荒ぶる手付きで高月の絵を指さした。

 高月は猫宮を見下した事など一度もない。高月はずっと、猫宮を追いかけて来たつもりだった。絵を描き始めたのも、美大に入ったのも、このコンクールにエントリーしたのも。もちろん絵を描くのは好きだけれど、高月の歩んで来た道は猫宮の先導によって成り立っている。猫宮が手を引いてくれるから、高月はここまで歩いて来れたのだ。猫宮を想って描いた絵に、見下した要素など塵の一つも込めたつもりはない。なのにどこをどう見れば、猫宮の言った意味に繋がるのだろうか。高月にはもう、なにがなんだかわからなくなった。ただただ混乱して、口を閉ざしてしまう。

 小柄な猫宮は体格に応じて肺も小さいので、感情的に叫ぶといつも息切れを起こしてしまう。小さな体全体で息を整える間も、高月は口を開かない。それをまた『猫の猫宮』が、言い当てられて息を飲んでいるのだと誤解する。

「もういい、あたし帰るわ」

 そう言って歩き出した猫宮の手を、咄嗟に高月が掴む。

「待ってヒナちゃん! 私は――」

「言い訳なんて聞きたくないのよ」

 混乱の最中なんとか絞り出した言葉でさえも、猫宮によって遮られる。猫宮は一旦立ち止まったが、高月の方を振り向こうともしない。

「あたしは所詮猫。猫の猫宮なのよ。猫は猫らしく、遠くから月を眺めるとするわ」

 高月に捕まれた手を、猫宮は思い切り振り解く。そして、

「アンタなんて大っ嫌い」

 と言い残し、猫宮は再び歩き出した。

「そ……んな……どう……して……」

 歩き去る猫宮の背中が、どんどん小さくなっていく。離れていくのは距離ばかりではなく、高月には心まで離れていくように思える。振り解かれて少し痛む手を見ると、繋がりを断ち切られたような気がする。これまで自分を引いていた手を失って、高月は絶望に打ちひしがれた。追い掛けたくても足が動かない。それどころか力が抜けてしまう。とうとう高月は床にへたり込んでしまった。

 非常に大きな悲しみが高月を襲う。だが、それ以上に愕然とし過ぎて、目からは涙も出てこない。猫宮の姿が視界から消え、高月は徐々に床へと視線を落とした。

 放心状態となって数秒後、猫宮の叫びを聞きつけたのか、女性職員が高月の元に駆け寄って来る。

「どうされましたか? 具合でも悪くなりましたか?」

 高月は虚ろな瞳で女性職員を見上げ、ゆっくりと首を横に振る。

「座り込んでおられますが、本当に大丈夫ですか?」

 高月は虚ろな瞳のままで、今度はゆっくりと首を縦に振った。

「手を貸しますので立ち上がれますか?」

 今しがた手を振り解かれたばかりの高月に、別の手が差し出だされる。高月は振り解かれた右手を差し出そうとしたが、女性職員に取られる前に引っ込めた。

「どうかされました?」

「……いえ」

 高月は右手の代わりに左手を差し出して、女性職員に引き起こされる。

「本当に大丈夫なんですね?」

「……はい」

「では、私は仕事に戻りますので、なにかありましたらいつでもお呼び下さい」

 そう言った女性職員は礼儀正しく一礼し、観覧ルートを逆走して入口の方へと戻っていった。

 再び展示スペースに一人残された高月は、自分の描いた絵にぼんやりと目を向ける。そこで高月はようやく知った。自分の絵が大賞に選ばれている事と、添えられた講評の存在を。

 講評は次のように書かれている。

『壮大な月が矮小な猫を見下ろしている構図は、猫が月を見上げる構図よりも、より大きな対比を見る者に与えてくれます。また、力強く描かれている月と、繊細に描かれている猫。両者の描き方の違いも、絶対的な差を浮き彫りにしています。夜空というテーマに対し、月と猫はありふれたモチーフと思われがちですが、構図の独創性と高い技量に評価が集まりました。よってこの作品を大賞とさせて頂きます』

 講評を読み終えた高月は、

「酷い……そんなつもりで、描いたわけじゃ……」

 と呟いて、呆然とした表情で立ち尽くす。

「こんな講評さえ、なければ……」

 いよいよ高月の目に涙が浮かび始める。滲んでいく視界で猫宮が立ち去った方向を見るが、そこに猫宮の姿があるはずもない。それに今更追いかけたところで、なんと声を掛ければいいのかわからない。

 『大っ嫌い』。猫宮のその言葉が、深く深く突き刺さっていた。

「コンクールなんて、出なければよかった……」

 大賞だろうがなんだろうが、猫宮が居ないのであれば、これ以上ここに居る意味はない。そう思った高月は、帰ろうと考えて涙を拭う。なんとか視界を確保して高月が歩き出そうとした時、他ジャンルの入賞作品が目に入った。それはパステルジャンルの作品群で、テーマは『太陽の恵み』。

 夜空がテーマの油絵は、どうしても全体的に暗い色調になってしまっている。それに対してパステルの絵は、どれもこれも明るく温かい色調だ。今の暗い気分とはあまりにもかけ離れた作品たちが、帰ろうとする高月の足を引き寄せる。

「こっちで、エントリーしていれば……」

 作品を見て呟く高月の目には、後悔と羨望が入り混じっている。

「私にとって、ヒナちゃんは、太陽なのに……」

 見知らぬ他人の描いた太陽の絵では、高月を引き寄せるまではできても、引き留めるまでには至らない。高月は数秒足を止めただけで、そのまま帰ってしまった。

 その後、二〇十九年度学生絵画コンクールの結果発表は、欠員二名のまま執り行われた。


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