第十幕 月の描いた想い
芸術家の作品を理解したいならば、その前に芸術家自身を理解する必要がある
四月二十二日。猫宮との面談を翌日に控え、福朗は一人、事務所で事務机に向かっていた。
昨日高月との接触を終えて事務所に帰り着くと、福朗は明日香に質問攻めにされた。そして一部始終を話すと、福朗は明日香に怒られてしまった。高月と口論になったのはおろか、ハガキの意味さえ聞き出せなかったからだ。
猫宮を事務所に呼んだ明日香としては、なにかしら報告事項がないと面目が立たない。話を聞けば、猫宮は差出人については既知との事。高月の言質を得たからと言って、それだけで猫宮を呼び出すのは気が引けたのだ。
猫宮を事務所に招く事を明日香は止めようと提案したが、福朗は却下した。これ以上、すれ違う二人を見ていられなかったからだ。
福朗はじっくり考えられるように、今日は明日香を休みにした。それで一人なのだ。しかし、日中マダムの対応に追われた福朗は、考える時間を十分に作れなかった。時間帯はもう夜だ。明日がすぐそこに迫っている。そんな中、事務机に並べられた七枚のハガキを見ながら、福朗は猫宮と高月について想いを馳せる。
パソコンの画面には、コンクールのサイトが開かれている。高月の言った『講評』は調べるとすぐに出て来たので、福朗も確認済みだ。高月の渋い顔を思い出して福朗も賛同したが、ハガキの意味には関係ないと、今は高月の絵を表示させている。
「猫の猫宮に月の高月、か。でも高月さんは、猫宮さんを太陽と言う。『日』のレタリングが太陽だとして、裏の黒塗りはなんなのかねぇ」
ハガキを一枚持ち上げて、福朗は一人呟く。そのまま表と裏を何度も確認し、空いている右手で頭を掻く。
「高月さんの言ったように、当てずっぽうや創作じゃあ猫宮さんは納得せんだろうな。なんにも思いつかんし、やっぱ最終手段で行くか」
独り言を言っている間も、福朗はハガキを何度も反し続ける。
「微妙に食い違ってすれ違う二人、か。まるで折り合わせる事のできない表と裏みたい……ん? まてよ――」
そう言って福朗は、他のハガキの両面も確認し始める。
「このハガキを書いたのが高月さんなら、いや、月の高月なら――」
なにかを思い付いてハガキの届いた日付を確認した福朗は、ブラウザに新しいタブを立ち上げて調べ物を始めた。
三十分後、調べ物を終えた福朗は、再び高月の絵を表示させて呟く。
「もしかしたら高月さんは、仕方なく猫を書いたのかもしれんな」
考えの纏まった福朗は、背もたれに深く体を預ける。そして両手を後頭部で組み、更に呟く。
「ま、あの講評じゃあ、猫宮さんが勘違いすんのも無理ないか」
やれやれ、と思いつつ、福朗はパソコンをシャットダウンした。ハガキを片付け、早く寝ようと椅子を立つ。
「『何でも屋』を舐めるなって言ったろ高月さん。明日必ず、猫宮さんを君の前に立たせてやる」
そう言い残した福朗は、事務所から居住スペースに移って行った。
福朗はハガキの意味を概ね理解した。残された福朗の役目は、どうしようもなく世話の焼ける女子大生二人を、仲直りさせる事だけである。
↓翌日↓
四月二十三日。福朗は予定通り、猫宮が事務所に来るのを待っていた。猫宮よりも一足先に帰らせた、明日香と共に。
十七時を過ぎた頃。気兼ねなく豪快に扉を開け、猫宮が姿を現す。
「よぉ、猫宮さん。よく来たね」
「日向さん、いらっしゃい」
明日香はすぐさま猫宮に駆け寄っていく。まるで飼い主が戻って来た犬のようだ。
「明日香に呼ばれたから来てやったのよ。なにかわかったんだって?」
「ま、そんな感じ。依頼の報告ってヤツさ。聞いてくれるね?」
「なによその愚問。その為に来たんじゃない」
呆れ顔の猫宮は、額に手を添えて溜息をついた。
交流を深めた明日香は、猫宮の扱いにもう慣れっこだ。猫宮の肩に手を添えて、ソファへと誘導する。
「まぁまぁ、日向さん。とりあえず座って下さい。すぐにコーヒーをお持ちしますから」
「ったく、わかったわよ」
明日香に促された猫宮は、仏頂面で福朗の向かい側にあるソファへ腰を下ろした。
猫宮を座らせた明日香は、パタパタと給湯室へ走り去って行く。猫宮が来るのは想定済みなので、明日香の準備は万端だ。一分と経たない内に、コーヒーを淹れたマグカップをお盆に乗せて戻って来る。
「どうぞ、日向さん」
「ありがと明日香」
猫宮の礼に微笑みを返した明日香は、福朗が座るソファの隣、定位置に移りお盆を抱えたまま待機状態に入った。
猫宮がコーヒーを一口飲んだところで、福朗はハガキを取り出して口を開く。
「さて、報告を始めようか」
福朗は一枚一枚、丁寧にハガキを並べていく。
猫宮はマグカップを持ったまま、それをしげしげと眺めている。福朗が並べ終えたところで、猫宮はもう一口だけコーヒーを口に含み、マグカップを机に戻した。
「それで? ハガキの意味、わかったの?」
「ああ、概ねわかったと言っていい」
「概ねって、なによそれ」
訝し気な猫宮が突き刺す視線を送るが、福朗は動じない。
「差出人本人が教えてくれなかったのさ」
「な⁉ ……んで……」
先に動じたのは猫宮の方だった。福朗を睨んでいた目が大きく見開かれる。が、福朗は構わず続ける。
「だから今から言うのはあくまで俺の予測で、推測になる。それで概ね、ってわけ」
「どう……して……」
福朗からすれば、猫宮の驚愕は予測の範囲内だ。猫宮は高月が差出人だと思っている。その高月が、猫宮の幼馴染である高月が、意味を隠したのだ。自分自身ではなく、福朗を差し向けたのは悪印象だとしても、猫宮が意味を知りたがっているのは伝わったはず。それでも高月が意味を隠した事に、猫宮は驚いたのだ。
「順を追って説明していくから、一旦コーヒーでも飲んで落ち着くといい」
猫宮の胸中を察している福朗はコーヒーを勧め、無言の猫宮は少しだけ震える手でマグカップを取った。一口飲み、マグカップを置いた時には、もう猫宮の手は震えていなかった。
「聞かせてもらうわ、アンタの話」
そう言った猫宮の表情はいつもより固いが、受け入れる準備ができたのだろう、と福朗は判断する。
「じゃあ、報告を始めよう。と、その前に、だ」
「は? なによ?」
出鼻を挫かれた気分の猫宮は、眉毛を片方だけ吊り上げる。
「今回の依頼だけど、猫宮さんは始めから、差出人は高月さんだと思ってたろ?」
福朗の言葉に、今度は猫宮の眉が両方とも吊り上がった。
猫宮は驚いているが、明日香はそうでもない。昨日の時点でそこまでは聞かされているので、黙って福朗達を見守っている。
「よく……わかったわね」
今更しらばっくれる必要もないと、猫宮は素直に認めた。
「どうしてわかったのよ」
「んじゃ、その辺りから話すとしよう」
自信有り気な福朗の口調に、猫宮は話を聞くのが少し怖くなり始めていた。
猫宮は始めから、福朗に期待なんてしていなかった。猫宮が望んだのは、あくまで明日香との関係を確立する事だけ。依頼を口実にして、望み通り明日香との接点を得た猫宮にとっては、福朗の存在は単なるオマケでしかない。そんなオマケである福朗に、呼び出されて早々心中を見透かされたのだ。見くびっていた猫宮の目には、福朗が心を読む妖怪の類に映ったのである。
福朗が静かに語り出し、猫宮が緊張の面持ちで聞く体勢に入る。
明日香もここからは初耳の領域だ。猫宮とは違って単純に緊張しつつ、福朗の声に耳を傾ける。
「猫宮さん。君は始めから、差出人が高月さんだと予想していた。一枚目のハガキが来た時は知らんけど、二枚目が届いた時点では既にそう思っていたんだろう。だから君は、謎のハガキを手元に取っていた。ま、一枚目も取ってあるんだから、本当に始めから気付いてたのかもね」
福朗の説明は、猫宮的にはなんだか拍子抜けするものだった。福朗の言う事に間違いはないが、誰にでも考えつきそうな内容でもあるからだ。
「それだけで、あたしが望深を差出人だと予想した、ってアンタは決めつけたの?」
溜息交じりの猫宮の問いに、福朗の自信有り気な口調はまだ続く。
「いんや、もちろんそれだけじゃない。そもそもが、だ。このハガキを届けるには、直接ポストに投函する必要がある。君の家を知っていなければならないわけだ。住所なんてもんは親しくもない真田君に明かしたりはしないだろうし、佐田君も知らないようだった。となると必然的に、幼馴染である高月さんしか残らないんだよ」
福朗の説明はまたも、誰にだって辿り着けそうなものだ。見透かされたと思ったのが悔しくて、猫宮は意地悪く聞く。
「なるほどね。なら、あたしはなんで、アイツらの名前を出したのかしら?」
「それは君が、『差出人は高月さんである』とする予想を、外れて欲しいと望んでいたからだ」
意地悪で言ったつもりの猫宮に対して、福朗は平然と答えた。そしてそれは図星だった。
驚きよりも混乱が勝っている猫宮は、震える声で問いを重ねる。
「どうして……そう思ったのよ?」
「依頼の話をしていた時、君は真田君と佐田君の名前をすんなりと出した。即興で出したにしては、申し分なさ過ぎる候補者達だ。前々から候補に挙げていたとしか考えられない。本命は既に高月さんなのに、どうしてそうしたのか。真田君と佐田君は、言わば保険だ。高月さんを差出人にしない為の、君が作り上げた保険としての候補者なんだ。そう考えれば、差出人が高月さんだと思いつつも、除外したいとも思っている、ってのがわかったんだよ」
またも平然と答えた福朗を直視できなくなった猫宮は、俯いて目を閉じる。やっぱりこの男は、自分の全てを見透かしている。そう思った猫宮は、次の問いも言い当てられるとわかっていながら口を開く。
「あたしはなんで、望深を除外したがったのかしらね……」
「それは、高月さんからのメッセージが受け取れない自分を恥じたから。いや、信じたくなかったから、かな」
これは猫宮の話だ。猫宮が一番よくわかっている。福朗の言葉、その一つ一つが、猫宮の心そのものだった。
全てを言い当てられた猫宮に、もう反論の余地はない。高月のように小さな声で言う。
「両方アタリよ。恥じたのも、信じたくなかったのも、ね」
項垂れる猫宮を明日香は心配そうに見つめているが、なにも言わない。明日香の出番はまだ来ていないからだ。今はまだ、福朗のターン。福朗に全てを任せ、明日香は待機状態を貫く。猫宮と高月の心を、福朗が必ず繋いでくれると信じて。
「ここからが本題だ。続けるよ猫宮さん」
福朗はハガキの意味を概ね理解している。最終的に手段を選ばないつもりの福朗だが、それまではフェアに事を運びたいと思っている。よって福朗には、猫宮に伝えるべき事が一つだけあった。
「因みに、高月さんが意味を教えてくれなかった理由を言うと、猫宮さんが気付いてくれるまで待つ、だそうだよ」
福朗の言葉に、猫宮は勢い良く顔を上げた。その表情は驚きに満ちている。
「なん……ですって?」
そう呟いた直後、猫宮は福朗を睨み付けて声を荒げる。
「なんでよ⁉ どうして今、そんな事言うのよ⁉ せっかくアンタの話を聞く気になったのに、今更そんな事言わないでよ!」
猫宮の叫びに福朗は動じない。明日香もなんとか、目を閉じてお盆を握り締める事で耐え、声は上げない。
「それが望深の意思なら、知ったあたしはアンタの話を聞けなくなるじゃない⁉ そうは思わなかったの⁉」
「当然思ったさ。猫宮さんの性格なら特にね」
責め立てているのは自分のはずなのに、福朗があまりにも態度を変えないので、猫宮は逆に気圧されてしまう。だから猫宮は、歯を食いしばって福朗を責め続ける。
「アンタもアンタよ! 望深から直接言われたのに、それでもあたしに話をする気⁉ 望深の意思を踏みにじってるとは思わないの⁉」
「当然それも思ってるよ。だが、俺には俺の意思がある。依頼の為に話す必要がある、と判断したまでさ」
福朗の言い分に、猫宮の怒りは頂点に達した。振り上げた拳を思い切り机に叩きつけ、今日一番の大声を出す。
「アンタの勝手な判断なんて知ったこっちゃないのよ‼」
猫宮の拳が盛大に机を揺らし、マグカップが倒れた。残されたコーヒーが流れ出て、始まりのハガキを侵食していく。
福朗は動かない。猫宮の出方を待っている。
明日香も動かない。今にも泣きそうな表情で、コーヒーが滲みゆくハガキを見つめている。
猫宮は小柄な体を暫く震わせていたが、突然並べられたハガキを回収し始めた。コーヒーの付いたハガキ諸共、全てのハガキを鞄に突っ込んで立ち上がる。
「帰るわ!」
そう言って怒れる足取りで歩き始めた猫宮の目に映ったのは、扉の前に立ちはだかる明日香だった。
「そこ、退きなさいよ」
「嫌、です」
これが明日香の役目だった。明日香は事前に福朗から聞かされていたのだ。激情に駆られた猫宮が、話を聞く前に帰る可能性がある、と。本当なら明日香は、猫宮の隣で手を握ったりして、一緒に話を聞いてあげたかった。コーヒーが届く前に、ハガキを救い出したかった。それでも明日香は、福朗の言い付けを優先して我慢した。そして今、猫宮の前に立ちはだかる。
明日香は猫宮が大好きだ。だからこそ、高月と仲直りする事を望んでいる。
明日香は福朗の助手だ。だからこそ、目的の為なら疎まれようとも行動する。
「退きなさいって言ってんのよ!」
猫宮の怒号が明日香に向くのは出会った時以来だ。明日香は肩をビクンと震わせるが、足は決して動かさない。両手を広げて精一杯の抵抗を体で示す。
「嫌です!」
福朗は知っている。自分が立ちはだかるなら殴られて終わりかもしれない。しかし明日香相手であれば、猫宮が強攻策に出る事はない、と。明日香には正直酷な役目だ。それでも明日香なら、猫宮を必ず止められる。福朗はそう信じている。
今は明日香のターンなので、福朗は黙って見守っている。
猫宮は鞄を持つ手に力を込めて、明日香を睨み付けている。
明日香は瞳に涙を浮かべているが、猫宮から目を逸らさない。
膠着状態が数秒続いた後、声のトーンを少し抑えた猫宮が先に口を開いた。
「明日香。これはあたしと望深の問題なの。確かに依頼したのはあたしだけど、もういいのよ。貴女も聞いたでしょ? ハガキの意味は、あたしが自分で読み解かないといけないの。だからこれ以上、貴女達に頼るわけにはいかないのよ。わかるわね?」
諭すように言った猫宮に、明日香は震える声で答える。
「わかり、ます」
明日香が肯定した事で、説得が成功したと思った猫宮は表情を緩めた。
「だったらそこを――」
「退きません」
明日香は猫宮の言葉を遮って、キッパリと言い切った。
猫宮は一瞬混乱し、驚く。そして、込み上げる怒りを抑えきれなくなった。唇を噛み締めて下を向き、八つ当たりで床を踏み鳴らす。
「どうしてわかってくれないのよ!」
下を向いたままの猫宮は、また叫び声を上げ始めた。負けじと明日香も声を大きくする。
「日向さんの気持ちはわかりますが、私はここを動きません!」
「なんでよ⁉ アンタは望深の意思も、あたしの意思も踏みにじる気⁉」
「たとえそうなったとしても、私は譲りません!」
「だからなんでそうなるのよ⁉ なにがアンタをそうまでさせるのよ⁉」
「決まってるじゃないですか! 日向さんが大好きだからです‼」
二人の感情のぶつけ合いは、明日香の一際大きな告白により中断された。
ゆっくりと明日香に視線を向けた猫宮は、また混乱している。明日香が慕ってくれているのは、猫宮にもわかっていた。だが、こうも真っ直ぐに『大好き』なんて言われるとは思いも寄らなかったのだ。明日香とは出会ってまだ半月ほどで、大した話はしていない。それに猫宮は、自分が人に好かれない性格である事をよくわかっている。それでも明日香は、自分の事を『大好き』と言う。それなのに明日香は、反感を買おうとも自分の前に立ちはだかってくれる。
目の前の明日香の瞳から一筋の涙が零れ落ち、混乱の末猫宮は思い至る。この娘の行動は全て、自分と、そして高月を想っての事なのだ、と。
猫宮の体から力が抜けていくのを察した明日香は、広げていた両手を下ろして歩み寄る。体が触れ合う距離まで近づいて、小柄な猫宮を包み込むように抱きしめた。
猫宮が鞄を落とした音が聞こえるが、今はそんな事どうでもいい。明日香はそのまま猫宮の耳元で囁く。
「日向さんのお気持ちは、わかっているつもりです。高月さんの想いに応えたいと思うのは、当然だと思います。時間を掛ければきっと、日向さんなら必ず応えられますよ。でも、私は知っているんです。時間の怖さを、知っているんです。とても悲しい事ですが、時が経つほどに人の心は離れて行ってしまいます。そして、流れてしまった時間は、元には戻せません」
明日香の声は鼻声で、時折鼻水を啜る音が聞こえる。
「私は以前機を逃がしてしまい、すれ違い続けたまま亡くしてしまった人がいます。後にフクさんの助力によって全てを理解した時には、もう遅すぎたんです。後悔というものは後から重くのしかかって、絶対に消えてはくれません。だから、大好きな日向さんには、私と同じ思いをして欲しくはないんです」
明日香は思いの丈を一頻り語ったが、猫宮に反応は見られない。伝わり辛かったのか、それとも考えを変えるまでには至らなかったのか。明日香にはわからない。
やっぱり自分には猫宮を止められない。そう明日香が思い始めた時、
「わかったわよ明日香。あたしの負けね」
と、猫宮の声が耳元で聞こえた。
猫宮の手が、クシャクシャと明日香の頭を撫でる。
「ったく、なんて頑固な娘なのかしら。意地張るのがバカらしくなってくるわ」
「じゃあ……フクさんのお話、聞いてくれるんです?」
「わかんない娘ね。そう言ってんでしょ? ほら、もう離れなさい」
今の猫宮の声は、明日香にはもう聞きなれた、優しいものに変わっていた。
明日香は役目を果たせた事よりも、自分の想いが猫宮に伝わった事がなにより嬉しかった。嬉しくて、安心した明日香は、ここぞとばかりに猫宮に甘える。
「えへへ、もう少しだけ」
「ちょっと、こら。放してよ恥ずかしいから」
「ヤです~、離れません~」
明日香の方が猫宮よりも背が高い。ともすれば、体の構造的に明日香の方が猫宮よりも力が強い。故に猫宮は、なかなか明日香を振り解けない。それに気付いた明日香も、なかなか猫宮を放そうとしない。
「いい加減にしなさいってのよ」
「ヤです~。あ~、日向さんあったか~い」
正直なところ、猫宮にとって明日香のスキンシップは悪いものではない。しかし今は、福朗が見ている。ニヤニヤしながら、福朗が見ているのだ。それが猫宮には我慢ならなかった。
「こんのっ――」
猫宮は明日香の頭から顔面に手を移し、
「離れなさいっつってんでしょ!」
と、アイアンクローを極めながら、渾身の力で明日香を引っぺがした。
アイアンクローはすぐに取り外されたが、明日香は顔を抑えて鼻を啜る。
「イダイです~」
「ったく、アンタが悪いんでしょ? 自業自得よ」
「でも~」
「でもじゃないの……ったく」
猫宮は額に手を添えて大きな溜息をついた。そして改めて明日香の顔を見て、もう一度手を伸ばす。
「顔、グシャグシャじゃないの。鼻水付けてないでしょうね?」
そう言いつつ困り笑いを浮かべる猫宮は、明日香の涙を指先で拭う。
「付けてないですもん」
子ども扱いされ、明日香は頬を膨らませているが、
「たぶん……」
と、付け加えた。
明日香の回答に、猫宮は数回目を瞬かせる。そして明日香の顔から手を離し、溜息交じりに言う。
「あっきれた。もういいから鏡見てきなさい」
猫宮を信じてないわけではないが、明日香は一応聞く。
「でも、その間に帰っちゃったりしません?」
「今更そんな事しないわよ。ちゃんと待っててあげる。話は明日香が戻ってから聞くわ」
「でもでも……」
「ったく、ちょっと耳貸しなさい」
猫宮は煮え切らない明日香に内緒話を持ちかける。福朗には聞こえないように、応じた明日香の耳元で囁く。
「そんな顔のままで、いつまでもアイツの前に居るつもりなの?」
猫宮が言うアイツとは、福朗を指す。色々と必死だった明日香は、福朗の存在を完全に忘れていたいのだ。思い出した明日香の顔が、一気に赤く染まっていく。
「あうぅ……そんなに酷いです?」
「元々明日香は化粧が薄いからパンダみたいにはなってないけど、人前に出る顔じゃないわね」
「うわわっ、すぐに直してきますっ!」
明日香は猫宮の忠告により、弾かれたようにトイレへと駆け込んでいった。
明日香を見送った猫宮は、落とした鞄を拾い上げてソファへと戻る。
「良い助手を見つけたものね? ったく、あの娘には敵わないわ」
「だろ? 俺もそう思うよ」
同意した福朗のニヤケ面は気に食わなかったが、明日香に敵わない猫宮は、明日香を裏切れない。ソファに鞄を放り出して、再び福朗の向かいに腰を下ろした。
↓数分後↓
トイレで顔の修正を終えた明日香は、応接机が使えるように、とせっせと零れたコーヒーを片付けた。今度は三人分のコーヒーを福朗に仰せつかったので、急いで用意しているところだ。幸い準備していた量が多かったので、温めなおすだけで済んだ。
「お待たせしました~」
明日香がマグカップを机に並べ、福朗の隣に座ろうとすると、
「明日香ちゃん。君はあっちに座るといい」
と、福朗は猫宮の隣を指さした。
福朗の好意に明日香は笑顔で返し、そのまま猫宮の方を向く。
「日向さん、お隣いいです?」
明日香の問いに対して、猫宮には断る理由がない。それに、理由の有無に関わらず、明日香の笑顔には抵抗できないのだ。猫宮は照れくさそうに頬を掻いてから、座っている位置をズラした。
ニコニコ顔の明日香が猫宮の隣に座ったのを確認して、福朗は口を開く。
「さて、そいじゃあいよいよ、ハガキの意味について報告しようか。猫宮さん、ハガキを出してくれる?」
明日香の想いに触れた猫宮は、もう意地を張らなくなっている。福朗の呼び掛けに応じ、素直に鞄からハガキを取り出した。
滲み込んだコーヒーが乾き切る前に重ねられたので、七枚のハガキの内数枚に、濃い茶色の滲みができてしまっている。
「ハガキ、汚れちゃいましたね」
猫宮の手元にあるハガキを覗き込みながら、明日香は物悲しそうだ。しかし猫宮の方は、割と平然としている。
「いいのよ別に。全部あたしのせいだし。それに、望深のメッセージさえ受け取れれば、このハガキはお役御免になるからね。今更少し汚れたくらいで望深の想いが消えるわけないわ。そうでしょ?」
そう言って猫宮は、ハガキを福朗に差し出す。
「もちろんだとも。多少形が汚されようと、損なわれようと。込められた想いには傷一つ付きゃしないさ」
そう言って福朗は、ハガキを猫宮から受け取った。
そうは言っても生乾きのままでは具合が悪い。福朗はコーヒーの付いた部分を丁寧にティッシュで叩いていく。その間にも福朗は話を続ける。
「さっき猫宮さんに高月さんの意思を伝えたのは、高月さんの想いの全てを君に知っておいて欲しかったからなんだよ。君の事だ、一悶着起こる事はわかっていたが、それでも君には知る権利と義務がある。だからわざと伝えたんだ。そこは理解して欲しい」
知る権利と義務。確かにそうなのかもしれない、と猫宮は思う。自力がベストだとか、それを高月も望んでいるとか、そんな事に気を取られてはいけない。大事なのはあくまでも、ハガキのメッセージを受け取る事なのだ。全てを知った上で選択する義務。福朗が言ったのはきっとそういう意味なのだろう。
考え込んで無反応だった猫宮を心配して、明日香はそっと猫宮の手を握る。
「大丈夫ですよ日向さん。フクさんは冗談を言う事も多いですが、本当に意地の悪い事を言ったりはしません。わかり辛いかもしれませんがフクさんはちゃんと、日向さんと高月さんの事を考えてくれています。だからなにも心配要りません。フクさんに任せておけば大丈夫なんです」
明日香が懇切丁寧に説明してくれたが、猫宮はもうわかっているつもりだった。福朗は食えない男だが、依頼に対しては真摯であり、信用に足る男なのだ、と。かと言って猫宮は、福朗の全てを信じるわけではない。福朗に対する信の大部分には、明日香による大幅補正が掛かっているからだ。福朗の扱いは、猫宮も沙和と大体同じである。
猫宮は福朗の手元を見つめたまま、明日香の手を握り返す。
「大丈夫よ。心配なんてしてないわ。あたしはハガキの意味を知って、望深のメッセージを受け取る。そう、決めたんだから」
「はいっ、そうですね」
明日香は明るい声を出し、猫宮の手を一層強く握った。
ようやくハガキを拭き終えて、福朗がハガキを並べ始める。猫宮の方から正しく見えるよう、左から日付順にレタリングを上に向けて。
「んじゃ、本題といこうか猫宮さん」
「ええ、よろしく頼むわ」
猫宮はもう揺るがない。それを察して、福朗は報告を始める。
「まず初めに言っておくと、このハガキのレタリングと裏面の黒塗りの意味は、大して難しいものじゃない。問題だったのは、猫宮さんの考え方なんだよ」
「考え方? どういう意味?」
「君が猫の猫宮と言っている内は、一生読み解けないだろう、って意味さ」
福朗のもったいぶった言い回しに、猫宮も明日香も首を傾げる。
「よく、わかんないわね。ならあたしは、どう考えれば良かったのよ?」
「高月さんは君を指して太陽と言った。高月さんにとって君は猫の猫宮じゃなく、太陽の日向なんだよ」
「太陽って……あの娘が、そんな風にあたしを?」
「そうだよ。そして高月さんはこうも言った。私は月の高月だ、とね。要するにこのハガキは、太陽を想う月が描いたものなんだ。だから残念ながら、猫のままの君では受け取れなかった。コレはそういうものさ」
「そう……なんだ……」
『太陽』と言うワードが、猫宮にはいまいち飲み込めない。コンクールに出された高月の絵が思い浮かんで、どうしても邪魔をしてしまう。
自分で自分に植え付けてしまった劣等感は、そう簡単には払拭できないものだ。それを知っている福朗は、猫宮の意識自体を変えなければならない。
「ハガキの意味を考える上で必要なのは、太陽と月だ。相違点は『日』のレタリングと裏面の黒塗り。レタリングを太陽とすれば、裏面が月って事になる」
「レタリングが太陽なのはわかるけど、黒塗りがどう月になるのよ?」
猫宮の疑問に賛同し、明日香は声には出さずコクコクと頷いている。
福朗は頭を掻いてから、三枚目のハガキを裏返してみせた。
「コレが月だ。と言われたらどう見える?」
右側半分が黒く塗られた裏面。それを改めて提示された猫宮は、月と言われてふと思い至った。
「あ……陰、なのね?」
「あ~、なるほど~」
猫宮の回答に賛同し、明日香は声を上げてコクコクと頷いた。
二人が理解し始めたので、福朗は裏返したハガキを一度戻す。
「そう。裏面の黒塗り部分は、月の欠けた部分を表している。ならばレタリングの違いはなんなのか。この『日』の周りにある点の数、これは月齢を表しているんだよ」
そう言いながら、福朗は一枚目のハガキを指さす。
「このレタリングには、全部で十五個の点がある。よって月齢は十五。つまり――」
福朗は話しながら一枚目のハガキを裏返し、
「満月を表している。だからこのハガキには黒塗りがないんだ」
と、説明した。
福朗はその後も、話の途中でハガキを裏返しながら説明を続けた。
↓以下、福朗の説明↓
二枚目。『日』のレタリングに点はなし。よって月齢は0。新月に当たるから裏面は真っ黒に塗り潰されている。
三枚目。点の数は0から時計回りに増えていき、最大の15以降は、時計回りに消えていくんだ。そうなると、左回りに7つの点が残されたこのハガキは月齢23。下弦の月だから右半分が黒くなっている。
四枚目。コレは三枚目とは逆だね。右回りに点が7つあるから月齢7。上弦だ。よって左半分が黒い。
五枚目。右回りに点が3つで月齢3。右側に少しだけ残された白い部分は、三日月を表している。
六枚目。コレは五枚目と逆。左回りに点が3つで月齢27。これもまぁ、三日月だね。
最後に七枚目。頂点だけを抜いて点の数は14。よって月齢は16。十六夜ってヤツだ。満月から少しだけ欠けさせているのが、この申し訳程度に塗られた右側の黒だね。
ふぅ……とりあえずそんな感じだ。ハガキの直接的な意味はわかったかい?
↓福朗、説明終了後↓
一通り説明し終えた福朗は、一息ついてコーヒーを飲んでいる。
明日香は福朗の説明に納得したようで、コクコクと頷いている。
猫宮も福朗の説明には納得したが、
「太陽と月、月齢はわかったけど、つまりはどういう意味なのかしら?」
と呟いて、首を捻っている。ハガキの表裏が表す意味はわかっても、高月のメッセージが見えてこないのだ。
高月が伝えたかった事はなんなのか。福朗の本領はここから発揮される。高月の心情を予測演算できる福朗だからこそ、猫宮を動かすに足る意味合いを伝えられるのだ。
コーヒーで喉を潤した福朗は、マグカップを置いて再び話し始める。
「俺が思うに、高月さんは君と仲直りしたくてハガキを送り始めたんだろうね。届いた日付と月齢カレンダーってヤツを照らし合わせると、届いた日に見える月に合わせて、高月さんはハガキを描いている。そうなると一枚目のハガキは、たぶん去年の十一月十二日に届いたものだろう。君達がケンカしてからそんなに日が経っていないだろ?」
「確かにそうだけど、それだけで望深が仲直りしたいと思ってるなんて言える?」
「言えるさ。何枚も届いたのが良い証拠だよ。おそらく高月さんは、君に気付いて欲しくて何枚もハガキを描いた。届くペースが少しずつ短くなったのもそれ故だ。比較的有名な月の見え方に合わせて、高月さんはハガキを送り続けたんだ」
福朗の自信に満ちた口調は、猫宮の疑いを薄れさせてゆく。福朗を信じるとして高月が仲直りしたいと思っていた場合、ハガキの意味に気付けなかった猫宮としては、自分が恨めしくて仕方がない。
「そ……あたしはそれに気付けなかったのね」
小さく呟いて、猫宮は肩を落としてしまった。
明日香は猫宮を支えるように、そっと身を寄せていく。
体の方は明日香に任せ、福朗は猫宮の心を支えるように言葉を継ぐ。
「ま、コンクールの結果とか、講評とか、不運続きだったんだろう。それがケンカの発端になり、また、ハガキを見る目も曇らせてしまったんだ。猫宮さんは悪くない。なんて言うつもりはないけど、高月さんも高月さんだ。もっとわかりやすい方法を取ってくれてたら、半年も経たずに済んだろうね」
「ホント色々知ってんのね、アンタ。でも、あたしも同罪よ。いいえ、なにもしなかった分、あたしの方がよっぽど悪いわ」
「む……そういう考え方もあるね」
「そうとしか考えられないじゃない。励ましのつもりなんだろうけど、余計惨めになるから結構よ」
自責モードに入った猫宮には取り付く島もない。福朗の気遣いは一蹴されて、明日香が責めの視線を送ってくる。
福朗は頭を掻いてから付け焼刃の慰めは諦め、ハガキの意味と高月の想いに話を戻す事にした。
「高月さんは高月さんで、葛藤があったんだと思う。猫宮さんに気付いて欲しいけど、あんまり多くハガキを送り付けるのも迷惑だと考えた。月齢は総計30あるが、三十枚はさすがに多すぎる。有名どころの新月、満月、半月、三日月を網羅したところで、高月さんは一旦止めようと思ったんだろう。でも、遂に年度を跨いでしまい、大学も残り一年しかない。最後の一年間をケンカしたままで過ごすのは嫌だった。だから高月さんは、もう一枚だけハガキを作ったんだ」
「でも、それはアンタが拾ったんでしょ? あたしに直接来なかったのはどうして?」
「言ったろ? 高月さんにも葛藤があったんだ、って。俺が拾ったのは十六夜のハガキだ。十六夜の語源を調べたところ、一説によれば『ためらう』って意味の『いざよう』が名詞化したものらしい。そんな事まで高月さんが知ってたかは知らない。けど、ハガキを作ったはいいものの、高月さんは出すのを躊躇った。躊躇う内に落っことして、それを俺が拾った。そんなトコじゃないかな」
猫宮は高月の幼馴染だ。福朗よりも遥かに長い時間を高月と過ごしている。高月を知っている猫宮には、福朗の話がもっともらしく聞こえた。内なる意志は強くとも、いざ表に出す時に躊躇ってしまう。それが猫宮にとっての高月像なのだ。
一度高月と会話しただけの福朗に、どうしてそこまでわかるのかが猫宮には不思議だった。それに、先程自分の心情も言い当てられたばかりだ。猫宮はだんだん悔しくなってきたが、それが悪い癖なのだと気持ちを静める。福朗に対する猜疑心や対抗心も、自分への不信や責めも、今は脇に置かなければならない。自力で受け取れなかったのは惜しまれるが、それでもハガキのメッセージを受け取ると決めたのだから。
猫宮は自責モードを解除して福朗に向き直る。
「もう余計な事を考えるのはヤメにするわ。望深の想いを聞かせてちょうだい」
猫宮は明日香の手を強く握り、明日香も同じように握り返した。二人分の真剣な眼差しが福朗に注がれる。
二人の視線に催促され、福朗はコーヒーに侵されていない七枚目の、十六夜のハガキを手に取った。猫宮の想いに応え、高月の想いを答える為に。
「このハガキ、表と裏に太陽と月が描かれている。言い換えれば猫宮さんと高月さんだ。表裏一体という言葉がある。言い換えれば一心同体だ。太陽と月で構成された一枚のハガキ。これって一見対照的に見えても、ずっと一緒に過ごしてきた君達にそっくりじゃないか。そして、月は太陽があるからこそ夜でも輝けるんだ。ともすれば高月さんの伝えたい想いはこうだ、『貴女がいるから私は輝ける』。或いは『貴女がいなければ私は輝けない』。どちらにしても高月さんは君を、猫宮さんを求めている」
これはあくまでも、福朗の予測演算から得られた解釈だ。本当の意味を知っているのは高月だけ。しかし重要なのは、猫宮を高月の元へ向かわせる事。
高月は言った。『貴方に頑固なヒナちゃんを動かせますか?』、と。
福朗は言い返した。『期待して待ってるといい』、と。
『期待なんてしません』、と高月は更に言い返したが、福朗の解釈は確実に猫宮を動かしつつある。話の途中から目を見開いているのがその証拠だ。
「このハガキ達に込められているのは、そんな高月さんの想いなんだよ」
そこまで言って福朗は、手にしていたハガキを元の位置に戻した。計七枚のハガキが、再び机に並べられる。
猫宮は見開いていた目を細め、並んだハガキに視線を落とした。潤んだ瞳で一枚一枚じっくりと眺める姿は、まるで高月の想いを改めて受け取っているようだ。
一通り眺め終えた猫宮は、小さく溜息をついて言う。
「ったく望深ったら……言ってくれれば……それで……」
猫宮の発言に、福朗は堪え切れずに苦笑してしまう。福朗にとっては猫宮も高月も、どっちもどっちなのだから。
「それを君が言うのかい?」
「そう……ね。それこそ同罪だわ」
猫宮は自嘲気味だが、福朗の意図は別にある。
「いんや、同罪って言うか、同類なんだよ君達は」
「同類?」
「そうさ。君達は他人には強く言えるのに、大切な人の前では言葉が出ない。そういう同類なんだよ。君が言い出せなかったように、高月さんも言い出せなかった。だから『向』のレタリングに、『口』がないんじゃないかな?」
『口』のない、矢印だけで表された『向』のレタリング。それはまさに、殻に籠った高月そのものだ。たとえ口では言えなくとも、想いは確かに届ける先に向いている。
「なんだか、バカみたい」
そう言った猫宮の瞳からは、遂に涙が零れ始めた。
「直接じゃなくても、電話でもすればよかった。メールの一つでも送ればよかったのに……半年も、あたしはなにやってたのかしら……」
涙を流す猫宮に、明日香がハンカチを差し出す。
「過ぎた時間は戻せません。ですから、そんな事はどうだっていいんです。これからの時間を大切にすれば、それでいいんですよ」
「でも、今更何事もなかったように、元通りになれると思う?」
「思いますよ。だって、お二人の気持ちは同じですもん」
明日香が猫宮に微笑み掛ける。それを見ていると、猫宮は弱気な気分が和らいでいくようだった。渡されたハンカチで涙を拭っていると、今度は福朗の声が聞こえてくる。
「満ち欠けする月ってのはさ、成長のシンボルにあたるらしい。けど、俺からすれば再生のシンボルに見えるんだよね。太陽が戻れば、月は満ちるに決まってる。そうだろ?」
「でも……あたしは太陽なんかじゃ……」
猫宮はハンカチで顔を覆ったまま答えている。どうやらもう一押し必要らしい。
「高月さんがそう思ってるんだから、君がどう思おうが関係ないさ。猫の猫宮は、君が勝手に作ったレッテルに過ぎない。コンクールの絵だってそうだ。高月さん言ってたよ。スランプだったけど、君と同じ題材で、君を想いながらだと、楽しく絵を描けた、ってね。あの猫が君を思い描いたものだとしても、もしかしたら高月さんは、仕方なく描いたのかもしれない」
「仕方なくって……なによそれ?」
「だってさ、テーマは夜空だったろ? 夜空の絵に太陽は描けないじゃないか。それに太陽は、他ジャンルのテーマになっていた。自分の分身とする月は容易に描けるが、太陽はそうはいかない。だから高月さんは、太陽の代わりに仕方なく猫を描いた。と、俺は思うけどね」
福朗の意見は、高月の絵が生み出した猫宮の劣等感を根底から覆すものだった。心にずっと巣食っていたモヤモヤが、一気に晴れ渡っていくような気がした。
これまでの福朗の話を、全て鵜呑みにするわけじゃない。だが少なくとも、猫宮を素直にさせるには十分な内容だった。
「行かなきゃ」
ハンカチを明日香に返し、猫宮は呟いた。猫宮の目から涙は消え去り、もう高月に会う事しか考えていない。ハガキは必要ないと思ったのか、猫宮は鞄だけを持って立ち上がり、明日香の頭を撫でつつ福朗に言う。
「ありがと、フクさん。あたし、行くわね」
もう止める必要のない福朗と明日香は、笑顔で言う。
「行ってきな」
「行ってらっしゃい」
福朗と明日香に見送られ、猫宮は足早に事務所を後にした。
目指すは高月の居る隣町。電車一本ですぐ行ける。その物理的な距離とは関係なく、猫宮と高月の仲直りは目前である。




