第九幕 月と嘯く差出人
月はその表情を刻々と変えるが、なにも言わずに黙っている
四月二十一日。明日香は授業が終わるとすぐに、ダッシュで校門へ向かった。昨日の時点で猫宮にメールを送り、高月の行動パターンをそれとなく聞いたところによると、高月は授業が終わると大学に長居しないとの事だったからだ。せっかく福朗が与えてくれた役割なので、明日香はどうしても失敗したくなかった。授業の終了は学科や人によってマチマチだが、閑散とした校門付近を見るにこの日はどうやら明日香が一番乗りらしい。
運動が苦手な明日香は、走って乱れた息を校門に手をついて整える。四月のまだ少し肌寒い陽気の中で、久々の疾走に体が汗ばんでいる事はわかっていたが気にはしない。今はそんな事よりも、もっと大事な事があるのだから。
十分に息を整えた明日香は、大学の構内が見渡せるように校門の柱部分に背を預ける。体の方は気にしなかったが、せめて顔だけでもと思い、ポケットから取り出したハンカチで顔を拭う。幸いな事に涼しく吹き抜けていく風のおかげで、顔から汗が引くのにそう時間は掛からなかった。
ハンカチをポケットに戻した代わりにスマホを取り出し、猫宮と高月の写真を表示させる。写真と多少違ったとしても、同じ女性である明日香には高月を見分けられる自信があった。だが、自信は保証を生むものではなく、過信にとって変わるものだ。頭を振り、頬をはたいて、明日香はお役目に集中する事にした。
五分が過ぎ、十分が過ぎた頃、校門に人波が押し寄せ始める。とは言っても、明日香の居る地点から見逃しが出るほど多くの人が歩いているわけではない。明日香は注意深く慎重に、人混みの中から女性だけをピックアップして写真の高月と照らし合わせていく。ざっと二、三十人が通り過ぎたところで、一旦人混みが途絶えた。
一息つけた明日香は祈る。今の第一陣に高月が居ませんように、と。
明日香の検索で高月はヒットしなかったが、もしもの可能性だってある。そのもしもの方はとりあえず神様に丸投げしておいて、明日香は次の軍勢を前に大きな深呼吸を挟んだ。
第一陣と同じ規模の集団が、また明日香の目の前を通り過ぎていく。明日香はせわしなく目を動かして、この第二陣にも高月は居ない、と判断を下した。
第二陣も余すことなく校門から出て行った時、群れからはぐれたように歩く一人の女生徒が校舎の方から姿を現す。
「あ……」
明日香は小さく声を上げた。遠目からでもなぜか、それが高月であるとすぐにわかったからだ。福朗の言いつけ通り、明日香は高月の服装を確認していく。
本日の高月のファッションは、腰より高い位置から伸びる真っ白なロングスカートにクリーム色のインナーを合わせ、黒くて厚手のロングカーディガンを羽織っている。肩から下げた簡素なトートバッグは、白と水色のストライプ。全体的にモノトーンで統一され、落ち着いた感じのファッションは、明日香には大人っぽく思えた。
一方、本日の明日香のファッションはと言うと、普通のジーンズに白い無地のVネックTシャツ、丈が短めの灰色のパーカーを羽織っている。鞄はいつものお気に入りで、落ち着いた黒を基調とした大きめのハンドバッグ。ボーイッシュと言えば聞こえはいいが、高月のファッションチェックを行った後の明日香としては、自分の服装が子供っぽく思えた。
依頼とは全く関係ないのだが、大学に通うくらいでおしゃれする必要はないと思っていた明日香も、今後は高月を見習って大人っぽいファッションを心掛けようと密かに誓った。
明日香が勝手な誓いを立てている間に、高月が校門を通り抜けていく。バス停の方に向かう後姿を見送ってから、明日香は福朗に電話をかけた。
「……もしもし、フクさんです?」
「俺だよ、オレオレ」
「そんなオレオレ詐欺ごっこなんていいですから……」
「わかってるよ。ソッチの首尾はどうだい?」
「今さっき、高月さんが大学を出られました。これからバスに乗るんだと思います」
「了解。んじゃそろそろ俺も駅に向かうとするかね。服装はどんな感じ?」
「えっと……大人っぽい感じでした」
「……いや……もうちょっとこう、具体的な情報が欲しいんだけど……」
「ああっ、すみません。ええっと、真っ白なロングスカートに同系色のインナーで、黒いロングカーディガンを羽織ってました。白と水色でストライプ柄のトートバッグを肩に掛けてます」
「はいよ、そんだけ情報があれば捕まえられるだろ。あんがと、明日香ちゃん」
「どういたしまして。私はこれからどうします?」
「そうだなぁ。明日香ちゃんはいつも通り猫宮さんのトコ行ってくれる? 高月さんから話を聞いた上で明日一日考えれば、なにかしら報告できると思うんだよね。だからさ、明後日事務所に顔出すよう伝えといてよ」
「わかりました。じゃあ頑張って下さいね、フクさん」
「あいよ。もうナンパの算段はついてるんだ、後は任せときなさいな」
「もうっ、軽口も程々にしておかないと、今度こそ逮捕されちゃいますよ?」
「わ~かってるってば。ほんじゃあ俺は決戦に向かうとするから、猫宮さんを頼んだよ」
「はい。では、失礼します」
こうして、さして長くはない福朗との通話を終え、明日香の初めての張り込み任務は終了した。
明日香は再び猫宮と高月の写真を表示させ、一人呟く。
「猫宮さんと高月さんが、またこの写真みたいに笑い合えますように……」
今度の明日香の祈りは神様ではなく、福朗に託されたものだった。
明日香は福朗を信じている。だから祈りが届き、成就されるまでを信じて疑わない。
福朗を疑わない明日香はスマホをポケットに突っ込んで、福朗の意向を伝える為に猫宮の元へと向かった。
↓境戸駅前にて↓
平日の夕刻、境戸駅はいつも通り雑多な雑踏で溢れかえっている。各々の目的地を目指して行き交う人々を、選ばれし者だけが座るベンチに腰掛けて眺める男が一人。福朗である。
事務所のソファに寝っ転がりながら電話を受けた福朗は、通話終了と共に動き出して駅前に来ていた。明日香から得た服装データを元にしてバス停に目を向け続けている福朗は、既に三台のバスを見送っている。
明日香の報告時刻から考えて、そろそろだと福朗が思っていた矢先、四台目のバスが到着した。次々と降りて来る乗客の中に目当ての人物を発見し、福朗は座り慣れたベンチから離れる。
高月望深。猫宮の幼馴染。福朗は依頼の内容を聞いていた時から、始めから差出人は高月だと思っていた。猫宮の言動から予測演算した結果なので、おそらくは猫宮自身もそう思っているのだろう。受取人が思い描いた差出人なのだ、選択肢としての三分の一以上、十中八九間違いない。
猫宮は『自己主張が足りな過ぎる』、と高月を表現していたので、福朗の印象として高月は気弱な女の子だ。普通に声を掛けるだけでは、怪しまれて話を聞いてもらえない可能性が高い。ともすれば、福朗の取る手段は一つだけ。高月の目の前に立ちはだかり、
「ちょいとソコのお嬢さん。コレ、落としましたよ」
と、あの日拾ったハガキをチラつかせる事だった。
案の定、驚愕の表情を浮かべて高月が立ち止まる。高月は驚きのあまり、口は動かせるが声は出せないようだ。
「高月さん、だよね? 悪いけど、少しだけ話を聞いてくれないかな?」
福朗はできる限り爽やかに話し掛けた。
数秒間が空いた後、ようやく高月の声が聞こえ始める。
「どうして……貴方が……それを……」
高月の言葉は途切れ途切れで、実に気弱そうな声色だった。
高月が少しでも安心できるように、福朗は知り合いの名前を出して誘いを掛ける。それはそれで、怪しい気もするが。
「俺は飛鳥福朗ってんだけど、猫宮さんの使いっ走りみたいなもんさ」
猫宮の名前が出た事で、高月の肩がビクンと反応する。
「飛鳥さん、ですか。話って、どんな内容、ですか?」
句読点の多いような高月の口調が話し始めたばかりの福朗には、まだ緊張しているのか、それとも普通なのか判別がつかない。どちらにしても、高月の小さい声は騒がしい駅前では聞き取り辛いので、福朗は場所を移したかった。
「ここじゃあ人が多くてなんだからさ。あんまり時間はとらないから、アッチの公園に移動しない?」
高月は福朗の持つハガキを見て逡巡していたが、やがてゆっくりと首を縦に振った。
「ありがとね。じゃあ、移動しようか」
福朗はハガキをポケットに入れて歩き出す。その福朗について歩く高月の足取りは重い。福朗は高月のペースに合わせるように歩いたが、先日捕まえた誘拐犯みたいな気分になった。
↓駅前公園にて↓
境戸駅前には、福朗専用ベンチから少し歩いたところに小さな公園がある。公園とは名ばかりで、申し訳程度に土が敷かれ、数本木が植えられているだけのスペースだ。運動には不向きだが、ベンチだけは多く設置されている為、小休憩にはもってこいの場所である。
福朗は近場のベンチに高月を座らせて、自販機に走っていた。高月が途中で逃げ出さないかチラチラ確認しつつ、急いでホットドリンクを二本買って小走りに戻る。
「カフェオレかミルクティー、どっちにする?」
借りて来た猫状態でベンチに座る高月は、おずおずと口を開く。
「私、コーヒーは苦手、なので、ミルクティーの、方で」
「よしきた。んじゃ、はいコレ」
福朗が差し出したミルクティーを、高月は恐る恐る受け取った。
「ありがとう、ございます」
礼は言ったが一向に缶を開けもしない高月に、福朗は弱り果てる。呼び止めて、連れて来たまでは良いが、ここからどう聞き出したものか。
悩んだ末、とりあえず福朗は、
「隣、座ってもいいかな?」
と、物理的距離から縮める事にした。
「ど……どうぞ」
未だガチガチで言葉少なだが、高月から応答がないわけではない。
「ありがとう。んじゃ、失礼して」
そう言って福朗は、高月の隣に腰を落ち着けた。
高月をリードするように、福朗は手に持ったカフェオレの缶を開けて言う。
「付き合って貰ったお礼だからさ。遠慮なく飲んでくれると、俺も嬉しいよ」
「……はい」
福朗に促され、高月はやっとの事でプルタブを持ち上げ、ミルクティーを一口飲む。一口だけ飲まれた高月のミルクティーは、その後カイロの扱いに戻ってしまった。
高月は言葉が少なく、モーションも少ない。カフェオレを口に含みながらどう切り出したものか、と福朗が考えていると、意外な事に高月の方から口を開いた。
「あの、ヒナちゃ……猫宮さんの、使いっ走りと言うのは、どういった意味、でしょうか?」
高月の声は変わらず小さく、変わらず細切れになっている。だが、福朗達が今居る公園風憩いスペースにおいては、聞き取りに支障はない。明日香も時折、焦った時や困った時などに言葉が切れ切れになる事があるので、福朗は慣れている。どんな話し方であったとしても高月が言葉を交わしてくれるなら、福朗は高月の心に忍び寄れるのだ。
福朗は高月に合わせて極力驚かさないよう、ゆっくりと静かに、そして慎重に言葉を選ぶ。
「まず初めに、猫宮さんと接点を持った経緯から話そう」
高月は福朗の声に反応を示さない。両手を温めるように握ったホットミルクティーを、俯いて見つめているだけ。それでも逃げ出さないあたり、無反応は聞いている証だ、と福朗は受け取った。
ポケットから再びハガキを取り出して、福朗は続ける。
「このハガキね、拾ったのは俺なんだよ。四月九日の朝だったかな。宛名しか書かれてないから困ってたんだけど、偶然ウチのバイトが美大生だったもんで猫宮さんを知っていた。要は、このハガキが猫宮さんと俺を繋いだのさ」
「……」
ハガキを出しても高月に反応は見られなかった。無言の肯定を受け取った福朗は、更に続ける。
「次に、高月さんに声を掛けた経緯について話そう。俺は自営業をしてるんだけどさ、頼まれればできる範囲でなんでもやる、所謂『何でも屋』ってのをやってるんだよ。猫宮さんと直接会った俺は、差出人のわからないこのハガキを調べる、という依頼を受けた。実際のところは、俺が押し売りしたようなものなんだけどね。要するに俺も、そして当然猫宮さんも、このハガキを気にしている」
「……」
高月はまだなにも言わなかったが、まるで高温の飲み物を飲むかのように、冷めつつあるミルクティーに注意深く口をつけた。
高月が言葉を返してくれないのでは、投げ掛け続けるだけの福朗に予測する事はできない。猫宮の名を出してハガキを見せても、高月の反応はほぼないと言っていい。出会い頭の驚いた様子は、ただ見知らぬオッサンに声を掛けられた事に対してだけだったのだろうか。しかし、高月はまだ福朗の隣に居て、声に耳を傾けている。ともすれば、福朗はどんなに不安に駆られようとも、自分の予測を信じ、猫宮の予想を信じ、高月の想いを信じて、高月に揺さぶりをかけるしかない。
「最後に、このハガキについて話そう。このハガキ、差出人は高月さん、君だね?」
「……」
高月の口は固く閉ざされたまま、結局動く事はなかった。代わりに動いたのは、高月が持っていたミルクティー。高月は缶を取り落とし、残っていたミルクティーを盛大に零してしまった。幸いうまい具合に零れたので、スカートは汚れずに済んだようだ。
「す……すみま、せん」
高月は自分が動揺した事に動揺していた。福朗がハガキを持って現れた時点で、なにを聞こうと、なにを聞かれようとも、極力冷静に対処するつもりだったのに。
始めに聞いたのは猫宮と福朗の話。ハガキを落としたのは確かだが、宛名しかないハガキを誰かに拾われたところで、対処のしようがないだろうから問題ない。高月はそう思っていた。それがまさか、拾い主が猫宮まで辿り着いているとは驚きだ。だが、構えていた高月の心は、それだけでは乱れなかった。
次に聞いたのはハガキを巡る話。拾い主が猫宮に辿り着いただけでも驚きなのに、ハガキを調べられているとは更に驚きだった。福朗は押し売りと言ったが、承諾したのは猫宮に相違ない。猫宮がプライベートな事柄について赤の他人を頼るのは、心底意外に思った。それでも高月は、冷めても甘いミルクティーを飲んで気持ちを落ち着けた。
最後に聞いたのはハガキの差出人についての話。高月は声を掛けられた時点で、言及されるのは察していた。しかし、福朗があまりにも単刀直入に聞くので、なんとか口は噤んだものの、手にまでは意識を向けられなかった。故に高月は缶を取り落としたのだ。
高月の動揺。それすなわち、福朗の問いが図星であるという事。
高月の反応に確信を得た福朗は、缶を拾おうとする高月を止める。
「俺がやるから、高月さんは座っててよ。そんで、もう少し話を聞きたいからもう一本買って来る。時間はまだ大丈夫?」
前かがみの姿勢で固まった高月は、ゆっくりと目を瞑った。やがて深く皺ができるほど強く目を閉じた後、なにかを決意したようにゆっくりと目を開ける。
「わかり、ました」
そう言った高月は、背筋を伸ばしてベンチに座り直した。
↓福朗自販機へ、二回目↓
福朗は既に、猫宮の事であれば概ね予測演算が可能になっている。
ハガキの話を出した当初、猫宮はさも興味のない風を装ったが、手元に残している時点でなにかしら思い入れがあるのは明白だった。その後、依頼という体で話を進めたが、高月について話す時だけ、福朗には猫宮の反応が違って見えた。
明日香は幼馴染が差出人、言い換えれば怪しいハガキを送り付けた犯人であって欲しくないのだろう、と受け取ったようだが、福朗は違う。福朗は猫宮の反応を、ほぼ確信に近い予想を信じたくないのだろう、と受け取っていた。両者の見解は『高月を差出人だと思いたくない』という部分では同じだが、似て非なるものだ。三者の中から除外したいと受け取るのか、特定の個人であって欲しくないと受け取るのか、である。
猫宮は差出人を高月だと予想している。依頼を受けた時点で、福朗はそう予測していた。故に福朗も、差出人は高月であると当たりをつけたのだ。福朗にとっては始めから、差出人の捜索は問題ではない。問題なのはハガキに込められた意味。ただそれだけなのである。
福朗の予測と猫宮の予想は見事的中し、差出人は高月で間違いない。後は込められた意味、高月の想いを聞き出す為、福朗は自販機からミルクティーを取り出してベンチに戻った。
「お待たせ。ハイ、コレ」
「ありがとう、ございます」
高月は差し出された缶を恭しく受け取って、またカイロのように握り締めた。開けようとする気配は感じられない。
福朗は高月の隣に再び腰を下ろし、一応確認の為に聞く。
「もう一度聞くけど、このハガキは高月さんが描いたんだね?」
「そう、です」
福朗の問い掛けに、高月は言葉で肯定を示した。もう無言の返答をする気はないらしい。だからと言ってがっついて聞くのも憚られるので、福朗はとりあえず外堀から埋めるつもりで、猫宮の話題から入る。
「猫宮さんとは幼馴染なんだってね? いつから仲良しなの?」
「小さい、頃からです。家が、近所だったので、自然と」
「そうなんだ。性格は真逆っぽく見えるけどね」
「よく、そう言われます。でも、そんなの関係ない、です。私はヒナちゃ……いえ、猫宮さんが――」
「ヒナちゃんでいいよ」
「……はい。私は、ヒナちゃんが、大好きです。気が強くて、ちょっと、口が悪いけど、いつも私を引っ張ってくれて、いつも私を照らしてくれる。そんなヒナちゃんが、私は大好きです」
猫宮の話題が功を奏したのか、福朗は高月の言葉に句読点が少なくなったような気がした。警戒が薄れたと思った福朗は、少し聞きにくい話題に移る。
「仲良いんだね。でも、どんなに仲が良くても、いや、仲が良いからこそ、かな。去年ケンカしたって猫宮さんから聞いたよ。それっきり会ってないってね」
「そう、ですね」
「もしかして、学生絵画コンクール、ってヤツでなにかあった?」
福朗の問いに、高月の肩がビクンと跳ねた。今度は缶を取り落とさなかった高月だが、代わりに強く握り締めている。
「どうして、それを……」
「いんや、なんとなく、ね」
猫宮はケンカした理由を話さなかったが、沙和から聞いた情報を元に高月を調べると、出て来たのは学生絵画コンクールだった。時期的にハガキが来始める直前だったので、福朗には無関係とは思えなかったのだ。
「差し支えなければ、なにがあったか話して貰える?」
「……わかり、ました」
無言を止めても、高月は決して饒舌とは言えない。それでも高月は高月なりに、福朗の言葉に言葉を返す。
一つ大きく息を吐き出して、高月は語り出す。
「去年の中頃、私はスランプでした。自分のデザインに自信が持てなくて、嫌いになって、絵を描くのがだんだん、怖くなったんです。そんな時、ヒナちゃんに誘われました。一緒にコンクールに出ないか、って」
「生みの苦しみってヤツなのかね。どんなに好きな事でも、仕事になって追われるとなると、苦しくもなるさ」
「そう、ですね。私が絵を描き始めたのも、元を辿れば、ヒナちゃんとお絵かきするのが、好きだったからなんです。油絵は、あまり得意ではないですが、ヒナちゃんと同じ目的で描けば、昔の気持ちを思い出せる、と思ったんです。だから私は、コンクールに、出る事にしました」
「そっか。それで昔の気持ちは思い出せた?」
「はい。どんな絵を描いているのかは、互いに内緒にしていました。でも、ヒナちゃんと同じテーマで、絵を描いている。そう思うだけで、私は楽しく絵を、描けました。けれど、コンクールの結果が……私の方が……その……」
じっくりと、絞り出すように言葉を継いでいた高月の口が、一層重くなった。話の腰を折らないよう、細心の注意を払い相槌を打っていた福朗は、高月の代わりに口を開く。
「猫宮さんに勝っちゃったわけだ」
「……そこまで、知ってるんですね」
今しがた会ったばかりの福朗に全てを見通されているようで、高月は気分が悪くなる。しかし、これも自分への罰だと思い、観念して話を続ける。
「飛鳥さん、でしたね? 貴方の、言う通りです。コンクールでは、私の絵が、大賞を頂きました。美術科を専攻して、日々油絵を描いている、ヒナちゃんを差し置いて」
「それでケンカになった、か。猫宮さんの結果は?」
「副賞、でした」
「へ~、二人共凄いじゃない。ワンツーフィニッシュだ」
「ワンと、ツーには、明確な準位差が、有ります」
「そうだね。俺は絵に疎いからよくわからんけど」
「私にも、絵画の良し悪しは、よくわかりません。天の川を描いた、ヒナちゃんの絵の方が、私には、綺麗に見えたのに」
高月の眉間に皺が寄ったので、憤慨しているのだろうか、と福朗は思う。選考者に対してか、はたまた自分に対してか。まだそこまでは予測できないので、ありきたりな感想しか述べられない。
「そうなんだ。ホームページで見た高月さんの絵も、俺には十分綺麗に見えたけどな」
「それ以上に、ヒナちゃんの絵の方が、綺麗でした。貴方も見れば、きっとそう思います」
この返答に福朗は、高月という人間の片鱗を見た。自己主張をせず、それに伴って言葉が少なく声も小さい高月だが、気弱ではないのだろう、と。大仰に主張をしないだけで、自己はしっかりと持っている。他人に易々とは流されない。それが高月なのだ。
「ま、絵の評価なんて人それぞれだ。相応のセオリーはあるんだろうけど、選ぶ人によって結果が出るのがコンクールって場だ。誰が悪いってわけでもないさ」
福朗は励ましで言ったつもりだったが、高月は顔をしかめる。
「普通なら、そうでしょうね。あの講評さえ、なければ」
「講評?」
「いえ、別に。なんでも、ありません」
数瞬後には、高月は元のポーカーフェイスに戻っていた。沈黙を破って以降、ここまで語ってくれた高月だが、言いたくない事は言わない。高月が口走った『講評』については気になるが、高月の沈黙が一筋縄では破れない事はもうわかっている。だから福朗は少しだけ話題を逸らす。
「高月さんの絵を見たから、猫宮さんはあんな事言ったのかもねぇ」
「……ヒナちゃんが、なにか、言ってたんですか?」
「ああ。自分は猫の猫宮だから、月を見上げる事しかできない、ってさ。月ってのは君を想定してたんだと思うよ」
「そう、ですか」
ポーカーフェイスは崩さないが、僅かに頭を垂れた高月は、
「私にとっては、太陽、なのに」
と、これまで以上に小さく呟いた。
福朗は聞き洩らさない。どんなに小さな声でも、話を聞こうと思った相手が声を出すならば。それがたとえ自分に向けられたものではなかったとしても、福朗は決して聞き洩らさない。
福朗は考える。猫宮日向。日向とは本来、日の当たる場所を指す。しかし、それを生むのは太陽だ。だから高月は、猫宮を太陽と言ったのかもしれない。その証拠にさっき高月は、『私を照らしてくれる』、と猫宮を表現していた。
猫宮は自分の姓をもって卑下している。
高月は猫宮の名をもって仰いでいる。
どんなに巧みに言葉を操ろうとも、福朗は人間同士が完璧にわかり合えるなんて思っていない。些細なすれ違い、ちっぽけな勘違い。それが人と人との間に溝を作るのだ。
高月は猫宮を大好きと言った。今では猫宮の反応も、後悔が多分に含まれていたのだろう、と福朗には思える。
猫宮も高月も、心根では仲直りしたいと願っているはず。それを繋ぐのがきっとコレだ。と、ハガキを眺めて福朗は思った。
満を持して福朗は問う。どこにでもありそうな、ありふれた溝に橋を架ける為に。
「高月さん。猫宮さんはおそらく、差出人が君である事に気付いている。だから俺も、君が差出人だと思ったんだ。このハガキには君の想いが込められてるんだろ? それを教えてくれないかな?」
福朗の問いに、高月は更に頭を垂れた。
「……その口振りでは、ヒナちゃんにも、伝わってない、ようですね」
「残念だけどそうみたいだ。だから――」
「言いません」
福朗を遮って、高月はキッパリと拒絶した。垂れていた頭を上げ、ミルクティーをトートバッグに突っ込んで立ち上がる。
「え? ちょっと待ってくれ、教えてくれないのか?」
「はい。言いません」
二度目の拒絶を口にした高月は、出会った時以来初めて福朗と目を合わせた。右目の泣きボクロがあってもその決意に満ちた表情からは、気弱そうな印象は毛程も窺えない。
「これは、私とヒナちゃんの、問題です。だからこれ以上、余計な詮索は、止めて下さい」
「しかし、もう半年も会ってないんだろ? もう十分じゃないか」
「貴方にそんな事、言われる筋合いは、ありません。私は待ちます。ヒナちゃんが、気付いてくれるまで、待てます。それに、伝わらないのであれば、私の力がそれまで、という事です。私に、ヒナちゃんと居る資格は、ありません」
高月の声には元より抑揚が少なかったが、今の口調はそれ以上に、福朗には冷たく思えた。
福朗が関与し、猫宮の状況を伝えた事で、高月は諦めた。差出人が高月である事に気付いても、猫宮は動かなかった。高月は猫宮の優しい部分を知っているので、たぶんハガキの意味まで理解してからでないと会いに来ない。そう悟った。しかし、今の猫宮の考え方では、一生掛かっても意味は伝わらないだろう。高月はそれがわかったから諦めたのだ。猫宮との仲直りを。猫宮との関係自体を。
高月が諦めようと、福朗は諦めない。たとえ完璧にわかり合えなくとも、ちょっとした事で生まれる溝もあれば、ちょっとした事で消せる溝もある、と思っているからだ。それでも、時には取り返しがつかない溝がある事も知っている。猫宮と高月の関係がそうなってしまう前に、なんとかしてやりたかった。それになにより、高月の言い方が福朗は気に食わない。
立ち上がった福朗は、少しだけ声を荒げて高月に食い下がる。
「資格とかふざけた事言うな。どんな時でも気軽に会えるのが友達ってもんだ。下らない意地張ってないで意味を教えてくれ。意味さえわかれば猫宮さんに伝えられる。どうしても猫宮さん自身に気付かせたいのなら、ヒントを出す事だってできるんだから」
福朗が声を荒げて問い詰めても、もう諦めた高月は揺るがず、顔色一つ変えない。自己主張しないはずの高月が、力強く饒舌に主張する。
「ヒントを貰わないと伝わらないデザインになんて、存在価値はありません」
福朗も自分の主張を曲げるつもりはない。押し通す為に反論する。
「そういうトコロを意地張ってるって言ってんの」
「なら、私とわかって会ってくれないヒナちゃんも、意地を張ってますよね?」
「それは君もだろ?」
「私は少なくとも、ハガキを送りました」
「その意味が伝わってないのが問題なんだ。だから大きなお世話と思いつつ、俺が――」
「そう思っているのなら、これ以上詮索しないで下さい。さっきも言いましたが、これは私とヒナちゃんの問題です。それに、これもさっき言いましたが、意味の伝わらないデザインなら、その意味も含めて価値はありません」
主張と主張がぶつかり合い、最早水掛け論の様相である。
「堂々巡り、だな」
「私は折れません。これ以上引き留めるつもりなら、人を呼びますよ?」
「どうせなら、猫宮さんに泣きついてくれよ」
「そんな事はしませんし、警察の方が早いです。駅前に交番があるの、知りませんか?」
「知ってるよ。この間行ったからね」
福朗は頭を掻いて思う。さすがは猫宮の幼馴染だ、と。猫宮よりも随分と殻が分厚いけれど、なんの事はない。中身は猫宮そっくりだ。他人には言いたい事を言えるのに、いざという時は大切な人に委縮する。このままでは本当に溝が深まるばかりだ。
高月は口を割りそうもない。となると、福朗が自分で答えを見つけ出すしかない。これまでは本人に聞けばいいと思って真剣に考えてなかったが、本腰を入れて意味を追求しよう、と強く頭を掻いて福朗は決めた。
「もういい、わかった。俺が意味を理解すれば事足りる。自分で考えるよ」
そう言った福朗の言葉に、高月は久々に表情を変えた。自分と違って諦めたようで諦めてない福朗に驚いたからだ。「どうしてそこまで?」と言いかけたが、高月は飲み込む。福朗が急激に自分の中に入ってくるようで気分が悪い為、これ以上の会話を高月は望まない。代わりに、牽制するような挑発の言葉を送る。
「当てずっぽうや創作では、ヒナちゃんはきっと、納得しないでしょう。貴方に頑固なヒナちゃんを、動かせますか?」
「どっちもどっちだよ。猫宮さんも君にだけは言われたくないだろうな」
聞き出しの件で折れた福朗は、挑発でまで折れるつもりはない。水掛け論から一転し、今度はなじり合いが始まる。
「貴方も大概頑固者だと、私は思います」
「かもね。けど、『何でも屋』を舐めるなよ? 依頼を受けた以上は、必ず達成してみせるさ。明後日には猫宮さんと会う予定だから、期待して待ってるといい」
「期待なんてしません。それは、私の負けを意味しますから」
「どちらかと言うと、君のデザインが勝つんだと思うけどね」
「いいえ。ヒナちゃんに直接伝わらないのであれば、私の負けになります」
「いやはや、芸術家ってのは頑固で困るねぇ」
「そうかもしれませんが、他人の事情に頑なに介入したがる貴方にだけは、私も言われたくありません」
反論すれば堂々巡りだし、貶したら貶したでブーメランだ。明日香しかり、猫宮しかり、果ては高月まで。女性に口で勝つのは一生無理そうだ。そう思った福朗は、二の句が継げなくなる。
福朗が言葉に詰まったので、高月はいよいよ帰る姿勢に移る。
「私はそろそろ、帰らせてもらいます。さようなら、飛鳥さん」
振り向いて立ち去ろうとした高月の背中に、
「まったく。どうして君は、そこまで教えてくれないんだか」
と、福朗は悪あがきのつもりで最後の言葉を掛けた。すると意外な事に、高月は足を止めて口を開く。
「そうですねぇ……」
少しの間考えた後、高月はくるりと振り返る。人差し指を口元に当てて、悪戯な笑みを向けて福朗に言い放つ。
「私は月です。月の高月。月は黙って、空から見下ろしているだけなんです。知っているでしょう?」
高月は猫宮と似た、見事な捨て台詞を残し、そのまま歩き去ってしまった。
↓残された福朗↓
高月は福朗よりも随分と年下だ。だが、右目の泣きボクロの魔法か、高月の悪戯な笑みは福朗には色っぽく見えてしまった。
福朗は一度頬をつねってから頭を掻く。
「猫の次は月ってか……」
まるでホームページで見た高月の絵のようだ、と福朗は思う。
今回の依頼の主目的は、ハガキの意味の究明だった。その為の差出人調査だ。差出人調査についての三分の二が徒労に近いと知っていても、猫宮が依頼として話した以上、福朗は手を抜かなかった。しかし、本命である三分の一の高月も、ハガキの意味まで教えてはくれなかった。ならば福朗は、ハガキとにらめっこしてでも閃きが降臨するのを待つのか。答えは否である。
福朗は探偵ではないので、他人の素行調査などしない。
福朗は名探偵ではないので、他人の秘密を推理によって暴いたりもしない。
福朗は『何でも屋』である。自分の力を持ってして、受けた依頼を達成する。ただ、それだけなのだ。
猫宮と同様、福朗は高月とも口論した形になってしまったが、これで高月の殻と中身は大体わかった。猫宮とも直接話したので、既に予測演算は可能となっている。それに猫宮の情報は、なにも言わずともこのところ毎日、明日香が楽しそうに話してくるので増え続ける一方だ。結局のところ猫宮も高月も、福朗にとってはただ意地っ張りなところが玉に瑕な、良い子達なのである。
大きなお世話と揶揄されようと、そんなのは福朗には関係ないし諦めない。福朗は会話したなら相手の心情を予測演算できるし、それによって心に忍び寄れるのだ。それは高月の想いが込められた、ハガキの意味とて同じ事。
高月の背中はもう見えないが、福朗は歩いて行った方向をボンヤリと眺めながら、ポケットに手を突っ込んでハガキに触る。
ここに一枚のハガキがある。似たものが後六枚ある。宛先は猫宮で、差出人は高月だ。ならば福朗は、ハガキの意味を考えるのではなく、猫宮と高月の事を考えればいいのだ。それが福朗のやり方である。
福朗はポケットから引っこ抜いた手をそのまま持ち上げ、頭を掻きながら一人呟く。
「やれやれ、どいつもこいつも。つまらん意地張っちゃってまぁ」
先程捨て台詞を吐いた高月。福朗の予測演算によれば、あの笑顔は自分を奮い立たせる為のものだ。虚勢に過ぎない。
先日ハガキの話題で激昂した猫宮。福朗の予測演算によれば、目を逸らしたかった問題を突き付けられたので、振り払うように大声を上げた。それも虚勢に過ぎない。
意地と虚勢と性格と、その他諸々に縛られて、猫宮と高月はすれ違い続けている。二人を円満に結びつけるには、ハガキの意味を探るしか方法はない。しかし円満を望まないのであれば、方法なんていくらでもある。
「ま、なんとかなるだろう」
福朗も捨て台詞を残し、事務所へ向かって公園を後にする。
猫宮への報告予定は明後日だ。それまでにハガキの意味がわかれば良し。わからなければ引きずってでも、猫宮と高月を合わせればいい。福朗はそう思っていた。
依頼の主目的はハガキの意味の究明だが、真の目的は猫宮と高月の仲直り。自分がどんなに疎まれる事になろうとも、依頼を達成させる為なら方法を辞さない。それが福朗のやり方なのである。