序幕 的外れな観察眼
見るだけで全てがわかるなら、きっと言葉は生まれなかっただろう
推理小説の主人公と言えば、シャーロックホームズが有名だろう。卓越した観察眼と深淵なる知識を持ち合わせ、常人には理解の追い付かない推理力を通して複雑な論理の迷宮を掻き分け真実へと至る。それがシャーロックホームズだ。
名推理を行う一方、自分に不要な知識を持たないシャーロックホームズは、周囲の人々にしばしば呆れられるかたちで描写されている。飛びぬけた才能を持つ人材とは、いつだって他人とは相容れないのかもしれない。しかしそれは、あくまで物語の中での話。現実においては優秀な能力を持つ常識人だって存在しているのだろう。
さて、シャーロックホームズにわざわざご足労頂いたのは、有名小説の有名人には悪いが、単に彼との比較を行いたかっただけである。
彼との、飛鳥福朗との比較を行いたかっただけなのである。
彼はシャーロックホームズとは違い、的外れな観察眼を持っている。だが、どんなに他人に指摘されようとも、自分には優れた観察眼があると思って疑わない。
彼はシャーロックホームズとは違い、広く浅い知識を持っている。誰かに聞いた、何かで見た。そんな程度の知識と雑学を、いずれどこかで使えるやもと、後生大事に抱えている。
彼はシャーロックホームズとは違い、常人と同じ程度の推理力しか持っていない。しかし彼は、それなりの一般常識とそれなりに高い共感能力を持っている。その為、一度共に行動したり会話を経れば、その人間の心理と心情を予測演算する事ができる。それはあくまで予測であり演算に過ぎないが、他人の心に忍び寄るには十分な効果を果たす。
彼はシャーロックホームズとは違い、女性に対して苦手意識は持っておらず、人並みに興味を持っている。好きになるのは当然女性だ。性的な区別を排除して人間というカテゴリーで考えた場合は、彼は好きでも嫌いでもないと答えるだろう。もし、どうしてもどちらかを選べと問われるのであれば、彼は渋々好きと答える。なぜなら彼は人間と言う生き物に対して、一欠けらの同情と、一握りの猜疑心と、抱えきれない尊重の念を持っているからだ。
彼はシャーロックホームズとは違い、自営業ではあるが探偵ではない。細々と営んでいるのは、現代では謎の『何でも屋』。なんでも売っているイメージの『万事屋』ではなく、依頼があれば可能な範囲でなんでもする『何でも屋』である。まったくもって怪しく胡散臭い謎の職業ではあるものの、困窮しないくらいには生計が立っている。その意味するところは、彼の行動によって救われた人間が少なからず存在するからに他ならない。
彼はシャーロックホームズとは違い、犯罪を暴いたり謎を解き明かしたりはしない。それでも彼は誰かの為に、自分の意志で行動するくらいはできる人間だ。
彼は関わり辛い天才ではなく、関わり易い秀才でもない。
飛鳥福朗、三十二歳。身長は百八十センチ弱で細身体型。スポーツ刈りの黒髪で、良し悪しのつきにくい好みの分かれる顔つきをしている。体毛は薄い方ではあるが、髭は伸ばさない。清潔感を保つ為と公言しているが、その実は老けて見られたくないからである。
以上のように色々と上げ連ねてはみたものの、つまるところは彼、飛鳥福朗は、嫉まれる程の長所も異常だと呆れられる短所も持っていない。人並みに人の目を気にし、慎ましく生活を送る。職業だけが少し特殊な、ただの只人なのである。
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平日の朝はどこも大抵慌ただしいものだ。丹精込めて焼いたパンを必死に陳列するパン屋だったり。水揚げされた魚介類を我が物にせんと、声の飛び交う魚河岸だったり。各ご家庭においても、空しく鳴り響く目覚まし時計に変わり、起床を促す怒号が響き渡っている事だろう。とりわけ都市部の駅前たるや、数多の人々が紡ぎ出すのは喧騒と雑踏の塊と言っても過言ではない。
そんな駅前の片隅に、ひっそりと佇む一本の街路樹がある。その下にはベンチが設置されているのだが、通勤通学ラッシュの時間帯に目的地を目指して行き交う人々は、決してそこに腰掛けたりはしない。腰掛けるのは平日の朝でも暇な人間か、駅自体が目的地の人間だけ。
その限られた者だけが座る朝のベンチに、ジャージ姿の男が一人腰掛けている。そんな彼こそが、飛鳥福朗その人である。
福朗は朝早めに目覚めた時、雨でなければ決まって駅前に姿を現す。依頼がなければ暇人で、駅自体が目的地である福朗は、この時間帯に悠々と腰掛けられる選ばれし人間なのだ。しかし彼は、なんの目的もなくそこに居るわけではない。目的は人間観察。両膝の上に両肘を置き、組み合わせた両手の上に顎を乗せ、不必要にギラついた瞳で人々を観察している。荷物も持たず微動だにしない福朗は、傍目には不審者としか映らないだろう。
今日も福朗は自分だけが信じてやまない観察眼を介し、目に留まった人間を考察する。その結果は誰にも聞こえない声となり、福朗の口から勝手に漏れる。
一人目。目新しいスーツに身を包んだ若い見た目の男性が、ビジネスバッグを抱えて走って行くのが見える。
「スーツは新しく見えるが靴は傷み気味だな。若い風体からして、就活に焦っている学生ってところか」
ハズレだ。走り去った男は、既に丸七年は会社に人生を捧げたビジネスマンで、童顔に見えてももう三十路である。焦っているのは合っているものの、理由はただの寝坊。靴にまで気が回らなかっただけだ。
二人目と三人目。カッコイイ先輩の話で盛り上がっている女子高生二人組が、福朗の目の前を通り過ぎた。
「仲は良さそうに見えるが、話しながら並んで歩くには違和感のある距離だな。二人の笑顔もどことなくひきつってる感じがする。痴情のもつれってところか。自分の方がその先輩とやらを知っているんだ、と牽制し合っているに違いない」
違いがない程違う。そもそも彼女たちが話している先輩は女子であり、いくら仲が良かろうとも、朝っぱらからくっ付いて登校する女子高生は少ない。なにより、彼女達の笑顔はひきつってなどいない。
四人目と五人目。横断歩道の向こうから、足元しか見ていない少女の手を引いて険しい顔をした男性が歩いて来る。
「親子なんだろうが娘に元気がなさ過ぎるな。風邪でもひいてるのか? いや、そんな状態の娘を無理矢理歩かせはしないだろう。となると……さては歯医者だな。駅前の歯医者は確か、平日は八時から開いていたはずだ。娘に嫌われてでも歯医者に連れて行く父親と、抵抗が無駄とわかって俯いて歩く娘ってところか」
かすりもしない的外れだ。彼らは親子ではなく、互いに見知らぬ大人と子供。福朗の平和な予測とは違い、状況は非常に芳しくない。少女は今まさに、誘拐されそうになっているのだから。
横断歩道を二人が渡り終え、福朗との距離が縮まっていく。自分の観察に満足した福朗が視線を外そうとした時、ふいに顔を上げた少女と目が合った。その瞬間、少女は渾身の力を振り絞って男の手を振り解き、福朗の元へ駆け寄って叫ぶ。
「助けておじさん!」
突然の出来事に困惑する福朗は、なんとも間抜けな声を漏らしてしまう。
「え? なんで?」
観察眼からはまったく読み取れなかった結果だが、間抜けな声とは裏腹に、福朗は頭の中で予測演算を始めていた。
助けてという言葉。
少女の悲痛な声色。
今にも泣き出しそうな表情。
見るだけではわからない、少女の言葉を耳にした福朗。予測演算の結果は、飛躍し過ぎともとれる回答を導き出す。
誘拐だ、と。
知ってか知らずか、本日初めての正解を手にした福朗は、睨みつけるように父親と思った男を一瞥すると、今にも逃げ出しそうな構えをしていた。その姿に確信を持った福朗は、もう一度少女に視線を戻す。そして少女の頭に手を置いてから、努めて優しい声を出す。
「お嬢ちゃん。ここに座って少しだけ待っててくれな」
言い終わった時には、福朗の目は既に誘拐犯を追っていた。少女の頭に置いた手に、弱々しくもしっかりと頷いた感触が伝わってくる。その感触を握り締めるように手を放し、福朗は走り出す。
「待て! 誰かソイツを止めてくれ!」
突如として張り上げられた大声に、一時騒然となる朝の駅前。焦る犯人に対して、福朗が目標を見失う事はなかった。
飛鳥福朗は的外れな観察眼を持っているので、そこから得られる結果はほとんどハズレと言っていい。
しかして飛鳥福朗は、想いの籠った言葉を聞き分け、相手の心理心情を予測演算できる共感能力を持っている。そこから得られる結果は、概ねアタリと言っていい。
↓数十分後↓
誘拐未遂の一件は割とすんなり片付いて、福朗は帰路についていた。駅前に交番がある事は知っていたし、あれだけ人が多ければ何人かは反応し、対応してくれるだろうと踏んでいたのだ。福朗の思惑通り、有志の心優しい一般人により、犯人はすぐ取り押さえられた。その後二人の巡査がすぐに駆けつけ、誘拐未遂は大事になる前に解決を見た。事情聴取としての質問攻めや、迎えに来た本物の母親に何度も謝辞を述べられたが、そんな事は福朗にとって大した事ではない。
別れ際に少女が言った、小さな『ありがとう』。それだけで十分なのだ。
晴れわたる空と同じように、清々しい気持ちで帰り道を歩く福朗。その気分を害したのは、顔面に飛んで来た一枚の紙だった。
「あいたっ」
厚紙程の硬度を持つ紙片の角が、福朗の額に強烈に刺さって思わず声を上げてしまう。
「まったく、何なんだ一体」
悪態ついでに福朗が視線を落とすと、一撃をくれたのが一枚のハガキである事がわかった。
「何だコレ?」
福朗はハガキを拾い上げ、表と裏を何度か確認する。
表には郵便番号はおろか、宛先の住所も差出人も書かれておらず、切手すら貼られていない。あるのは宛名と思しきものだけ。
裏にも文字は書かれておらず、右側の長辺に沿って、一センチに満たない黒い線があるだけだった。
「困ったな。どうしようコレ」
差出人不明で返せないハガキ。宛先不明で届ける事も叶わないハガキ。それでも一度ハガキを手にしてしまった福朗は、
「ま、なんとかなるだろう」
と、どうにも捨て置けず、余った手で頭を掻きながら一旦持ち帰る事にした。