月光
「新佐古伊藤早く来い!」
師匠の声! 2人は庭に飛び降り建物の裏側へ回り込む。ダン! ギン! 闘争が聞こえる。塀の向こうだ。
「師匠!」伊藤が叫ぶ。
門を抜けた先、亮之介がそこで見たものは、子牛ほどもある黒い影が、師匠を押さえ付けている情景だ。
雲が途切れ朧月が顔を出す。
影は師匠の首筋に噛み付いている。艶々で美しくうねる黒い毛並みが月光に浮かぶ。二筋の尻尾が踊るように陰影を刻んだ。亮之介たちを見るやわずかに身体を起こし、唸りを上げる。
黒猫だ。ギラリと光る双眸に敵意が漲る。
師匠はぴくりともしない。
絵画のように照らし出された、恐ろしくも美しい情景に亮之介は息を呑んだ。
遅れて駆け付けた者たちが弓を構える。
「師匠! 貴様この野郎!」伊藤が抜刀、威勢良く斬りかかった。
黒猫は難無く躱し、音無く塀の上に飛び上がるや夜風のように走り去る。
「大丈夫ですか!」伊藤が師匠を抱き上げる。師匠が弱々しく応じた。
亮之介は呆然としている。
「まさか」と呟いた。
「ギャアアアアアアア!」また流れ松の間の方から声が上がる。
師匠を伊藤に任せ、亮之介は戻る。
逃げる者と向かう者で騒然としていた。食器や死体が散乱している。暗いので蹴飛ばしてしまう。
騒ぎは奥の方へ移動していく。
亮之介は土足で追う。
悲鳴と怒号の中に藩主らしき声が聞こえた。
亮之介は殿の寝所へ走る。
「がばっ!」ひと際大きな悲鳴、また一人やられたか。近い。
襖を倒して誰か倒れこんでくる。血まみれの手が襖を汚す。
皆に守られ、藩主が月光射す奥庭へ出た。皆の刀がキラリと光る。
亮之介も抜刀した。
大きな影が飛び上がる。
「やめろクロ!」
亮之介は藩主とクロの間に割って入った。バキン! 必殺の攻撃を危うく弾く。
「シャアアアアアアアアアア!」
ふわりと宙返りから着地したクロが吠える。それから亮之介に気付いた。
「下がれ亮之介ぇ! こんなクズを何故守る! こいつは祐一郎の仇ぞ!」
その声は十六夜の方様のものだ。
亮之介は唇を噛んで無言。視線を外さずスラリと構えた。刃を返して前傾姿勢、応撃の気合いを充実させ、不退転の決意を全身で示す。
「仇ぞォッ!」
悲鳴のように歪んだ声音が殺気を叩きつけてくる。
藩主が恐怖に耐えかね殿上へ逃げた。
クロが反転、亮之介をぬるりと避けて追いかける。
「待て!」
新たな怒号と悲鳴が渦を巻く。それは立ち塞がる者全てを爪牙にかけるつむじ風だ。
廊下を過ぎ幾つも襖を撥ね飛ばしたそこは御千代の方様の寝所だ。
御千代の方様と侍女二人が居た。
侍女共は薙刀を持っていたがすぐ逃げる。
御千代の方様もクロだと気付いたか。短刀を構えていたがすぐ下ろす。ただ立ち尽くし泣きそうな顔で笑った。
猛り狂うクロが勢いそのまま飛び掛かる。
御千代の方様は逃げようとしない。
「馬鹿野郎!」
亮之介は捨て身で飛び込む。
クロが振り向き牙を剥く。
亮之介は無我夢中、弾けるように斬り違えた。
「亮之介様!」御千代の方様が声を上げる。
残心、亮之介はすぐ向き直る。血飛沫があがり頬を染めた。最初どちらのものか自分でも判らなかったが、クロの肩口が斬り割られていた。クロは悲鳴をあげて闇に消えた。
「大丈夫ですか!」
「触るなあっ!」
どうしようもない気持ちが胸に溢れている。肩で息をする。手の震えに気付いた。物凄い手応えの一撃だった。
亮之介は、数十人の同僚と共にまんじりともせず藩主の寝所を守り続けた。訊かれたので
「断絶した尾神家の飼い猫です」と教えると、誰もが言葉を失った。
朝になって交代が許された。一命を取り留めた師匠を見舞ってから、彼は安国寺、尾神家の墓に歩を向けた。予感がある。
尾神家に行く時もよく歩いた、久々の畦道を行く。ギラつく陽射しがきつくて、何度か立ち止まる。何も考えられない。もう積乱雲が湧き始めた。
行き合った農民が怯えるのに気付く。口元や額を触ってみるが、自分がどんな顔をしているのかよくわからない。
そして、少し隔離された木々の合間の尾神家の墓前に、子牛のように大きな黒猫が死んでいるのを、亮之介は見つけた。クロは祐一郎の小さな丸い墓石に覆い被さるようにして、力無く四肢を伸ばしている。傷だらけで血塗れで、恐ろしい形相だ。
しかし、そのだらりと弛緩した姿には覚えがある。
本来穏やかで賢く可愛い猫だった。撫でても揉んでも嫌がらず相手をしてくれた。たまに鳴く時はじっとこちらを見詰めてその気持ちを表した。丸くて大きな眼には親愛と稚気が込められていた。今その眼に残るのは憎しみしかない。
亮之介は呆然と見下ろす。
「クロ」
そっと腰を下ろし背を撫でる。滑らかな毛並みが所々分断されていて引っかかる。眼を閉じてやる。
「すまなかった」
さらさらと風が吹いている。
祐一郎とクロがいたあの穏やかな時はもう戻らない。亮之介は込み上げるものに堪えかねて眦を抑えた。
尾神家累代、全ての墓石が苔むしている。木々の合間なので陽当たりが悪いのだろう。
西国の小藩の話である。
精神を病んだ藩主は、異常な言動を繰り返して若隠居させられた。
皆の信頼を得た亮之介は、護衛として多少の出世をした。後年、御千代の方の御子に剣の手ほどきをしたのは彼である。
戦闘描写は難しいにゃん