祐一郎
西国、とある小藩の話である。
城から半刻(1時間)以上も歩いて田畑に囲まれた小さな村。
そこに尾神祐一郎という若い侍がいた。
背は低く小太り胴長短足、丸い顔は狸を思わせる髭面で太い眉、笑う時は大口開けて笑う。健康で朗らかで優しい男だった。
尾神家はわずか50石の貧しい家だ。父を早くに事故で亡くし、老いた母と二人でやりくりするしかない。非番の日は、晴れたら裏の小さな畑で豆や大根を世話し、雨なら傘貼の内職をした。たまに道場に出て木刀を振ったが、才能が無く何年やっても上達しなかった。
同僚、農民からさえも『狸殿』と揶揄されたが怒らない。
子供からは非常に慕われた。外を歩けば後をついてきたし、家に居れば入ってきてかくれんぼをしようと挑んでくる。彼の母も困ったものだと言いながら、たまには一緒になって遊んでくれた。
まったく、どうしようもなく冴えない男だったが、憎まれることもなかった。
一番の親友は、道場で知り合った新佐古亮之介だ。こちらも貧しい家柄だが、その剣でもって身を立てようと日々鍛錬を積む気鋭の男だ。まるで性格の異なる二人は不思議と気が合った。亮之介が皮肉たっぷりに祐一郎をやっつけると、祐一郎は笑いながらこの阿呆がと言い返す、そんな間柄。
そして祐一郎にも好いた娘がいた。二つ辻向かいの農家の娘でチヨという。幼馴染で大人になっても仲が良い。近所の者は二人がやがて夫婦になることを疑いもしなかった。武家と農家、身分違いを言う者もあったが、比較的身分の垣根が緩い藩風だった。どちらの家も貧しさでは大差無く、気にするほどの家柄でもない。からかわれると祐一郎は恥ずかしそうに笑い、チヨは真っ赤になって俯いた。
母は口癖のように言った。
「早く一緒になって孫の顔を見せておくれよ」と。
ところで祐一郎の家には、老いた大きな雌の黒猫がいた。
名をクロ。
齢は18を超えただろうか、猫にしては高齢だ。母も祐一郎もよく世話をし、その毛並みは艶のある見事な漆黒で若々しかった。さすがに近頃は日がな寝そべっていることが多くなったが、祐一郎が背中をなでると気持ち良さそうに小さく鳴いた。賢くて穏やかな猫だった。
その年の盛夏。
入道雲が沸き上がったと思ったら風が出た。空が一面真っ黒になり、夕刻を待たず大粒の雨が降り始めた。生温かい雨だ。
祐一郎はずぶ濡れになりながら歩いていた。雨に打たれるまま、黙々と歩く。雷が鳴り始める。彼は小さな屋敷の小さな玄関に帰りついた。呆然と立ち尽くす。雨滴が小川のように流れ落ちた。
母が台所から出てきて息子の様子に目を見張る。
「どうかしましたか」
「……母上……チヨが……」
「チヨさん、が?」
「御城に、上がることになってしもうた」
藩主が、何か外出の折にチヨを見初めてしまったのだ。かなりの支度金が渡されるというがそんな問題ではない。貧農の意思が反映される余地など無いのだ。
「そう、ですか」
母が力無く座り込んだ。庭と屋根を叩く豪雨が波濤のように繰り返し、やたら大きく響いた。
翌日、チヨの父母がやってきた。
「すまん!」
「ごめん」
と泣きながら、頭を土間にぶつけて土下座する。
祐一郎の母も「顔を上げてくらっしゃれ」と涙目でその肩に手を乗せる。
少し離れたところで祐一郎は無言。思い詰めた顔。時折歯を食い縛る。
チヨの父母はまともに彼の顔を見ることができない。
クロは縁の下からじっと眺めていた。
チヨは御千代の方様となり、祐一郎の前から姿を消した。別れを告げることすらできなかった。
チヨの家とは疎遠になった。もらった支度金はかなりの金額だったという。
母はすっかり気落ちしてしまった。
祐一郎はそれでも踏ん張った。お城勤めをなんとかこなし、家の手入れに野菜の世話。下手なりに食事も作った。ずいぶん静かになった家の中でクロの背中を撫でて話しかける。
「こらえねばならん、諦めねばならん。チヨも御馳走が食えてきっと幸せにしているはずだ」
子供も寄り付かなくなった。朗らかな顔ができなくなったからだ。
亮之介だけは変わらず接してくれた。
晴れた日に縁側でクロを挟んで座り、風に揺れる庭木とその向こうの田畑を眺めた。今年は天候に恵まれて豊作が期待できそうだ。山も田畑も輝いている。二人は穏やかに話し続けた。控えめだが笑い声も上がった。
クロは二人の間で寝そべっていた。だらしなく四肢を伸ばして祐一郎に身体を寄せる。
やがて秋が来て、事件が起こる。
祐一郎は御城では大蔵番を務めていたのだが、蔵に賊が入り込んだのだ。蔵の中が荒らされ放火された。祐一郎は賊と剣を交えたがまるで敵わず蹴飛ばされ昏倒した。早期に消火されたから大事には至らなかったが、当然責任を追及された。祐一郎が当番だったとはいえ他にも人はいた。しかし、祐一郎の受け持ちの蔵が被害にあったこと、賊を逃がしてしまったこと、以上をもって最も罪が重いとされた。祐一郎も一切の弁解をしなかった。
切腹が言い渡され、即日執行された。
皆の予想に反し、彼は取り乱すこともなく、躊躇わず己の腹に白刃を突き立てた。それを確かめて介錯の刃が振るわれた。首は申し訳程度に縫い合わされた。
数日前には元気だった息子が骸となって帰り、母は絶叫した。
その冷たい身体に取りすがる。呼びかけ揺らし号泣する。クロは怯えたのか姿を消した。祐一郎の骸は寺の墓地、父の隣に葬られた。母は終始無言で段取りした。参列した侍は亮之介ただ1人だったが、近所の村人はほとんど全員、百人ほども参列してくれた。
当然ながらチヨの姿は無い。祐一郎が死んだことさえ知らないかもしれない。
10日ほどして噂が流れた。御千代の方様が藩主を受け入れず、その理由が祐一郎の存在だったというのだ。今でも祐一郎を忘れることができていないから、藩主を受け入れないのだ、と。だから殺された、つまり今回の盗賊騒ぎは狂言だった、というとんでもない噂だ。
母も聞き、そして信じた。
ある月夜の晩。
真新しい、質素で小さな墓石の前で、母は自らの首に小刀を当て自死を選んだ。
倒れ伏した母が薄れゆく意識の中でふと横を見ると、クロがいた。クロはじっと母を見ている。歩み寄ろうとした体勢のまま静止。まともに食べてないのか随分痩せている。
母は優しく穏やかに呼び掛ける。
「クロや……わたしの、祐一郎の恨みを晴らしておくれ」
クロが一歩近づく。
母が震える手を伸ばす。
「わたしの血を飲むが良い。すべて飲み干し」
クロがさらに一歩近づく。
「恨みを、晴ら……し……て……」
翌日、母の亡骸が見つかった。家族の隣に葬られ、不名誉の家、尾上家は断絶した。
それから奇妙な噂が流れた。墓前で自死した母の周りにほとんど流血の痕跡が無かったというのだ。
人はあれこれ考えたが、やがて忘れられた。
尾神家の小さな屋敷は埃にまみれ、雑草が茂り、人の出入りは完全になくなった。老いた黒猫もどこに行ったのやら、全く見かけなくなった。