第五話 悪霊
「少し離れていてね」
朱音さんは真美に近づくと、猿ぐつわを外した。
「外せ。外せぇぇぇ」外れたとたん口を開いた。
体を揺すりながら、真美の声だと言うのに、いつもより低く聞こえる腹の底から響かせるような声で言ってくる。
外せとは猿ぐつわではなく、拘束をと言うことだろう。
「外せないわ」
ハッキリと答えると、朱音さんは真美の顔の前にしゃがみこむ。
「この子の体から出ていきなさい」
「外せぇぇぇぇ。外せぇぇぇ」
冷房もついていないはずの部屋だと言うのに、真美が一言発する度に室温が下がっていくのを感じた。
「あなたが出ていかないのなら……」
朱音さんは真美の額にお札を貼り付ける。人差し指と中指を顔の前に立て念ずる。
「少女の体を明け渡せ」
「がぁぁぁぁぁぁぁぁ」
真美が呻き声を上げると、体を激しく揺すり出す。衝撃で羽毛が舞う。
「いやだぁぁぁ、いだいよぉぉぉ」
苦しみもがく真美を朱音さんは、酷く冷めた目で見下ろす。
「いだい、いだい、あぁぁぁぁぁぁぁぁーー」
わめき声が不意に止む。野蛮な瞳から普段の真美の瞳へと戻る。
「あれ……私……」
自分がおかれている状況が飲み込めないのか、目をキョロキョロと動かす。
「えっ、何これ……青歌なんで私こんなもの貼られているの?」
「正気に戻ったの?」
私は嬉しくなり真美に駆け寄ろうとしたーーが、朱音さんが私の前に体を割り込み、制止する。
「まだ出ていないわ」
「青歌、その人は誰なの? ねえ、この変な札外してよ。前がよく見えないよ」
「でも、声も目もいつもの真美ですよ」
私は強く言い返す。
「最初に約束したよね? 除霊が終わりと言うまでは近寄ってはならないって」
朱音さんは私に厳しい目を向けてくる。
「まだ終わってはいないわ」
言い終えると、また指を立て祈るように念じ始める。
「いやあぁぁぁぁぁ。いたいよぉぉぉぉ。青歌ぁぁぁぁぁ助けてよ」
真美はまた痛がるが、今度の声は真美そのものだった。
「朱音さん! もう真美ですよ。悪霊はどこかに行ったんです。止めてください」
腕に抱きつき、私は祈りをやめさせた。
「離して。出ていってないの。これは悪霊が使う常套手段なのよ。耳を貸しちゃダメ」
「青歌。おかしいよその人。怖いよ。助けてよ」
助けて。真美の言葉に私の心は揺さぶられた。
「ご免なさい」
謝りながら、私は朱音さんの胸を力いっぱい押した。
「なっ!」
と、声をあげながら朱音さんはバランスを崩し、後ろに倒れる。
「ダメよ!」
私の取る行動を予測したのか朱音さんは叫ぶ。私は瞬時に振り返り、制止の言葉を聞かずに真美の額に貼られた札に手を伸ばし、一気に引き剥がす。
すると札は何十年も風雨にさらされた紙だったかのようにボロボロと崩れる。
「早く。紐も外して!」
真美が懇願するように言ってくる。私は急いで紐を外そうと、真美に覆い被さった瞬間ーー脛に鋭い痛みが走った。
「痛っ!」
真美が私の脛にかじりついていた。
「チッ」
舌打ちが聞こえると同時に、真美の腹を朱音さんが蹴りつけた。
「ぐぅっ」
と、低い呻きと共に口を開いた真美は吹き飛ばされる。
「大丈夫?」
声をかけると、私の脛を見る。
「軽傷のようね」
脛には真美の歯形が残りうっすら血が垂れてはいるが、動けないような傷ではなかった。
「すいません私ーー」
「謝らなくても大丈夫。友達を心配してやったことを咎めることなんて出来ないわ」
謝罪の言葉を遮ると、朱音さんは私に笑みを見せ、直ぐ様顔を真美に向ける。いいや、真美ではなく、真美に取り憑いた悪霊へとだ。
「血ぃぃぃぃ処女の生きたぁぁぁ血ぃぃぃぃぃ」
悪霊の顔が歪み、下卑た笑みを浮かべる。
「もう喰われないぃぃ」
狂ったように叫ぶと、ぶちっと言う音が私の耳に届いた。
なんの音だと思った瞬間、悪霊を拘束していた縄が一斉に引きちぎられる。
「ッ! 逃げて!」
朱音さんが叫ぶと同時に、巨大な地震に襲われたかのように、ガタガタと部屋中の壊れた家具たちが揺れ出す。
「キャッ」
床に散らばった本が一斉に私達に向かい飛んでくる。私は頭を抱えて座り込む。本が何冊もぶつかり腕に鈍痛が走る。
「もっと札持ってくればよかった!」
朱音さんは本の嵐を受け続けると、雨が弱まった瞬間、ポケットに手を突っ込み、匂袋の封を千切り、悪霊に向かい投げ付ける。
「浄化せよ」
粉がかかると、部屋の揺れは収まり、飛び交う本は床に落ちた。
「ああぁぁぁあぁぁぁぁぁぁ」
悪霊は悲鳴を上げると、痛みが走っているのか、床を転がる。体からは蒸気のような煙が上がっている。
「浄化せよ……ッ! 弱いか」
祈りを続けるが、体から上がる蒸気の量はどんどん減っていく。
「青歌ちゃん」
名を呼ばれ私はビクンと体を震わす。
「はいっ」
「木箱を開けて中の物を私に」
視線は悪霊から逸らさずに、祈りを続けながら私に言ってくる。
「木箱、木箱」
と、私が木箱を探し首を降り探す。直ぐに木箱を見つけ固く結ばれた紐を爪を立てながら必死にほどくこうとする。
「早くっ」
焦った声が私の耳に届くと、立ち上がっている悪霊の姿が私の眼に飛び込んだ。口は人としてはあり得ないほど開き、おびただしい涎が滴り落ちていた。
「……ッ!」
全身の毛穴が一斉に開いたのがわかった。体がガタガタと震えだし、紐に爪がかからない。
「もっど血をぉぉお肉をぉぉぉぉ。もう喰われないぃぃぃぃぃぃぃぃ」
首を傾け、顔を歪めながら私を見る。またガタガタと家具の残骸が揺れ出した。
「ひぃぃぃぃぃぃ」
思わず声が上がる。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。私の感情が恐怖一色に塗りつぶされかけたその時「青歌!」と言う朱音さんの叫びが私に届く。
「真美ちゃんを助けたくないの?」
「……助けたい!」
叫ぶと心に希望の火を灯らせ、恐怖と言う闇を明るく染め上げる。
私は助けるんだ。
今度こそ、真美に手を指し伸ばすんだ。
爪でほどけなかった紐に力の限り噛みつき、引きちぎる。
「取れた」
私は一気に木箱を開けると、中に納められていたものに思わず声をあげてしまった。
「えっ」
「投げて」
私の声が聞こえたのか、朱音さんが声をあげる。
驚いている時間はなかった。私は木箱から取り出し、朱音さんに向かい投げ渡す。
箱と同じ長さの一メートル弱はありそうな日本刀が、放物線を描く。すると、悪霊が縛り付けられていた椅子が浮き、放たれた矢のような勢いで朱音さんに迫った。
「朱音さん!」
避けて欲しい一心で私は叫んだ。
しかし、朱音さんは振り向くこともせずに投げられた日本刀の柄を掴むと、迫り来る椅子を一閃した。
黒い鞘と、斬られた椅子が同時に床に落ちる。
凄いと思う反面、あの刀で悪霊を真美事切り落とすんじゃないかと思い、私は焦った。そんな私の考えが分かったのか、朱音さんは答えた。
「大丈夫。斬るのは悪霊だけよ」
日本刀の刀身に指を這わせると、刀身がぼうっと青白く輝いたように見えた。
「名も分からない悪霊さん。奇跡の少女が裁きを降してあげます」
刀を構えると、冷えきったはずの部屋の温度が戻ったように感じた。
「うぅぅぅ」
刀に怯えたのか、悪霊はじりじりと後退すると、不意に窓に向かい飛んだ。
逃げた。と、私は思ったが、悪霊が窓に触れた瞬間、バジッと放電したような音と青白い火花が散り、悪霊はボロボロのベッドの上に落下し、体から蒸気をあげた。
「がぁぁぁぁぁぁぁ」
ベッドでのたうち回る悪霊に朱音さんは近づくと、日本刀の切っ先を向ける。
「終わりにしましょうか」
「うああぁぁぁあぁぁぁぁぁっ」
恐怖で悪霊が叫び声をあげると、真美の口から黒い靄のようなものが飛び出してくる。靄は徐々に人の形に変化していくと、痩せこけた顔の男へと変わった。白目まで黒く染まった瞳を私に向けた。
「あああぁぁぁぁぁぁ」
悪霊は怨嗟の声をあげながら、突如私に襲いかかってきた。
「……ッ!」
真っ黒な目と口を大きく開きながら迫り来る。思わず目をつぶりかけたその瞬間、朱音さんが悪霊の胸に刀を突き立てた。
「死者は死者の世界に還りなさい」
「おおおぉぉぉぉぉぉぉぉーー」
悪霊が断末魔の叫びをあげると、突如煙のように霧散し、その姿を消した。
落ちていた鞘を拾うと、刀を納める。
「ふう。除霊完了だね」
笑みを向けてくると、私の目からポロポロと涙が溢れ落ちてきた。それは、悲しみでも恐怖でもない、真美が救われた嬉しさからくる温かい涙だった。