第二十四話 霊薬
朱音さんが話している間にも鬼の拍動は弱まり、僅かに揺れる程度にしか動かなくなっていた。
「流石は大鬼ね。数分ではあるけれどよく持ってくれたわ」
鬼の心臓に感謝するかのように言葉を口にすると、朱音さんは玄君に背を向け私の瞳をじっと見つめた。
今の玄君に背を向けることも、目を反らすことも危険出はないのかと思いつつも、私は一点の曇りもない朱音さんの瞳に吸い寄せられるように、玄君から視線を外し見つめ返した。怨霊が叫ぶ地獄のような場所だと言うのに、その瞳は綺麗で私の心に僅かばかりの安寧を与えてくれた。
「青歌ちゃん。今から私の言う事を二つだけ聞いてもらえる?」
唐突な問いに私は目を見開いた。まるで助かる手立てがあるような言い方に私の中の生が騒ぎ立てた。
「……助かるんですか?」
蠱毒の術を撃ち破る方法などないと言われた直後だと言うのに、朱音さんの瞳に宿る希望に私は思わず聞いてしまった。
「蠱毒の術は私程度の力じゃ決して破ることは出来ないけれど……術から逃れる方法はたった一つだけあるの」
話ながらも朱音さんは刀の刀身に指を這わせると、刀は青白く発光した。
「お願い事の一つ目は青歌ちゃんに私の鞄の中に入っている小瓶の中の霊薬を飲んでもらうこと。中の青い液体を飲めば青歌ちゃんは助かるわ」
私はバックを漁った時の事を思い出した。確かに中には小さな青い液体の入った瓶があった。
「飲みますッ」
返事をする私に朱音さんは優しい微笑みを返した。「良かった。玄に青歌ちゃんを殺させるわけにはいかないからね」
呟くと、青い光を放つ刀で自身の掌を貫いた。刀身に血が付着し、赤と青のコントラストが描かれた。
「なっ!」
私が驚きの声をあげると、朱音さんは刀を抜き取る。
「供物よ。目覚め私に力を貸しなさい」
私にではなく、朱音さんは刀に向かい唱えると、青い光を飲み込むように刀身が赤く染まっていった。
「なっ!」
と、また私が声をあげると朱音さんは目付きを険しくし、玄君を振り返った。
「今から私が玄を抑えるわ。その間に青歌ちゃんはバックまで走って霊薬を飲み干してちょうだい」
刀の説明をせずに朱音さんは言ったが、私の頭からは刀の変化の事など抜け落ちていた。バックまで走る。その為には……玄君の側を通らなければならなかった。バックはリビングに置いてあるのだから。
「ひっ、一人で取りに行くなんて無理です!」
「行きなさい」
弱音を払い飛ばすように、朱音さんは強い口調で言った。
「あの玄を相手に、青歌ちゃんを守りながら一緒に向かうことは出来ないわ。生きるためにはあなた一人で向かわなければならないの。生きたいんでしょ!」
生きたいんでしょ。その言葉の答えは私の中にしっかりとあった。
「ッ! 生きたいです!」
私の生への切望の叫びと同時に生を諦めた鬼の心臓の拍動はピタリと止まり、砂の城のように崩れ落ち、心臓は姿を消した。
玄君は空になった手から視線をあげると、私をじっと見つめた。白い瞳だと言うのに、今までよりもずっと暗い光を発するその目が次はお前だと訴えてきた。
「おしゃべりの時間もこれで終わりのようね。お願い二つ目は……今から何が起ころうとも私の身の心配をし、立ち止まらないこと」
朱音さんは私の返事も待たずに続けた。
「蠱毒の呪いなんかにこの子は殺らせはしない。奇跡の少女が孤独から救ってあげるわ」
蠱毒から救うと私に言ったのか、孤独から救うと玄君に言ったのか解らなかったが、その言葉が私に力を与えてくれた。震えっぱなしで力もろくに入らなかった足がしっかりと床を捉た。
「行って!」
朱音さんの叫びと共に私は床板を蹴った。玄君を迂回するようにリビングに向かうため、客間に向け足を進めようとした瞬間、玄君が掴んだ鬼の生首を投げた。
苦悶の表情で固まった強大な頭が放たれた矢のように私に向かい迫ってくる。ぶつかると、思わず顔を覆おうとした瞬間、朱音さんは刀を一閃させた。鬼の頭は二つに別れ、私を割けて壁に衝突した。
「この子を殺らせはしないって言ったでしょ。貴方の敵は私よ」
赤い刀身を向けると、朱音さんは飛びかかった。「あぁぁぁぁぁっ」
雄叫びが私に進めと伝えた。私はお願い事の二つ目に従い立ち止まらずに駆けた。
心配か心配じゃないかで言えば、心配でしょうがなかった。玄君の力は大鬼を遥かに越えている。妖刀を持っていたとしても、朱音さんが勝てるとは思えなかった。
朱音さんの叫びと、それに呼応するような怨霊の怨嗟の声を聞きながらも私は足を止めはしなかった。
一秒でも早くたどり着き、バックから霊薬を取り出すんだ。私の分と朱音さんの分を。
足の裏に木片が刺さり痛みが走るが、私は立ち止まることなく客間仏間と駆け抜け、リビングにたどり着いた。
「どこ! どこにあるの」
首を慌ただしく動かし、私は残骸の中から鞄を探した。
「あった」
ソファの瓦礫に埋もれるように、鞄が倒れているのを見つける。ボロボロになり、取っ手も千切れてはいるが、鞄はファスナーが閉められた状態で、中の物が外に飛び出ているような事はなかった。
ソファだった物を押し退け、私はファスナーを強引に開けた。
化け狐と大鬼によってファスナーが歪んでしまったのか開きにくくはあったが、壊れることも厭わずに私は開き、中を漁った。
手鏡が割れていて、指先を切ったが、私は構わずに探した。
「あった……ッ!」
青い霊薬の入った小瓶を一つ見つけることができた。手鏡とは違い、割れることもなくなかったが、一つ見つけ、私はあることに気づいてしまった。もう一つが何処にも無いことに。
「嘘だ……嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ」
呟きながら私は何度も中を漁った。見つからなく焦り、鞄をひっくり返し、中の物を全て外に出し探しても、霊薬は愚か、他の小瓶すら見付けることが出来なかった。一つしかない。そう思った瞬間、朱音さんの短い声を私の耳が捉えた。苦痛と苦悶が現れた、堪えきれない叫びを。
「っう、あぁぁっ」
「朱音さ……やぁぁぁぁぁぁぁッ」
名前を呼び振り替えると私の目は朱音さんを捉えた。
客間の中心で玄君の腕に胸を貫かれている朱音さんを。
貫いた玄君の手にはおびただしい血が付着していた。私のために刀を握り戦ったその手は、両手ともに引きちぎられたかのように二の腕から先が欠損していた。
誰が見ても致命傷とわかる傷だった。誰が見ても死んでいるとわかる傷だった。
私の為に、朱音さんは戦い……私の為に死んでいた。たった数十秒で物言わぬ屍に変わり果てていた。
「嘘……」
私が力なくその場にへたりこむと、玄君は胸から手を引き抜き、白い瞳を私に向けた。怨霊が次の仲間を見つけたかのように私の頭上を飛び回る。
涙が溢れてくる。今日一日何度も涙を流したが、この涙はそのどれとも違うものだった。痛みや恐怖から溢れる涙ではなく、喪失感から流れ出る悲しく冷たいものだった。
私の為に朱音さんは死んでいった。今日会ったばかりだと言うのに、その身をていし私を助けようとしてくれた。
きっと朱音さんは知っていたのだ、鞄の中に霊薬は一つしかないことを。
だから、中の青い液体を飲めば青歌ちゃんは助かるわと言ったんだ。私達はではなく、青歌ちゃんはと言ったのは、私の分しか霊薬が無いことを知っていたからの発言だったんだ。
「……私は生きます……必ずっ!」
生かされた命の重みを感じながら呟き、私は小瓶のコルクを外し霊薬を喉に流し込んだ。
口の中に甘い花の香りと少しばかりの土臭さが広がり、霊薬が喉を通りすぎると心臓がドクント脈打った。
「ッ!」
喉に焼けるような熱さを感じると、私の手から空の小瓶が滑り落ちた。
その音が届いたのかどうかは知らないが、玄君は私に飛びかかった。が、その足を死んだとばかり思っていた朱音さんが、床に倒れた体勢のまま掴んで止めた。
不意に足を捕まれた玄君は顔から床に倒れ落ちると、蛇のように這いながらも腕を私に伸ばした。
朱音さんが生きていた喜びも、伸ばされた手への恐怖も今の私には感じる余裕はなかった。脈打った心臓が肋骨を押し退けて外に飛び出しそうなほど高鳴ると、不意に締め付けられるような苦しさが胸を襲った。
「あっ……くっ………………」
痛みで、呼吸が満足にできなくなり、私はその場に倒れ胸を押さえうずくまった。
苦しさと、痛みが頂点に達すると、意識が遠退く感覚が襲ってきた。すると視界が靄の中のようにぼやけだし、胸の痛みも息苦しさも引いていった。
ああ、私は死ぬんだ。遠退く意識の中そんな思いが頭に湧いた。走馬灯は見えなかったが、私は朱音さんのある言葉を思い出していた。そっか。そう言うことか……。
『玄に青歌ちゃんを殺させるわけにはいかないからね』
確かに玄君は私を殺してはいないな。
まるで毒リンゴを食べた白雪姫のようだ。それなら魔女の老婆は朱音さんか。
思わず苦笑しそうになったが、私の顔はもう微動だにしなかった。死の間際私は全てを察した。
視界が白一色に染まると、私の心臓は鼓動を止めた。




