第二十話 鬼
「ひぃっ!」
叫び声に私は実際に耳を塞いだ。痛くてあがる叫び声とは違う、辛さ悲しさ恨みと言った負の感情を混ぜ合わせたかのような、どす黒く濁ったその叫びは耳を塞いでも私の鼓膜から入り込み、心を恐怖に染め上げた。心の中で言葉にすらならぬ叫びが私に語りかけてきた。助けて。痛い。苦しい。憎い。怖い。許さない。
「あっあっうぅぅぅ」
黒く禍々しい何かが私の心の中で暴れまわり、何故だか解らないが、無性に私みたいな人間がこの世にいてはいけない気がしてきた。真美も先生も傷付けた私がなぜのうのうと生きてるんだ。死ぬべき人間なのに。死ななきゃ。と、私は自分の首に手を伸ばした。
「青歌ちゃん」
首に指先が触れるかどうかと言うタイミングで朱音さんは私の名を呼び、顔を覗きこんだ。
「落ち着いて」
「朱音さん……ッ!」
慌てて首に伸ばした手を下ろす。
「私は何を……」
「強すぎる妖気に当てられたのよ。青歌ちゃんなら気をしっかり持っていれば大丈夫」
微笑みを向けられたが、朱音さんの顔には何処か辛さのようなものが現れていた。
「それにしても……今日は凄い一日ね。化け狐だけでも厄介だって言うのに……こんな鬼まで出てくるなんて……そりゃ嫌な空模様になるわね」
私には鬼の厄介さなど知らないが、化け狐より、遥かに厄介だと言うことは予想する事が出来た。玄君の札二枚で抑えきれずに、体から追い出すために呪文のようなものを唱えさせるほどの存在だと。
黒い煙は一ヶ所に集まりだすと、部屋の空気が何処か血生臭い臭いを発するようになった。思わず鼻を押さえたくなったが、私は集まる煙に目を奪われ、それすらせずにただ立ち続けた。
「嫌な臭い。地獄のような臭い」
朱音さんは苦々しい笑みを浮かべた。
集合した煙の中から赤毛に覆われた丸太のように太い腕が現れた。まるで熊の腕のような太さと鋭い爪が生えてはいるが、骨格は人のようで、五本に別れた指が確認できた。腕がもう一本現れると、続いて足が現れた。長く逞しく脚は熊と言うよりも、馬のような引き締まった筋肉をしていた。そして煙から這い出すように顔と体が一斉に出てきた。
「チッ」朱音さんは舌打ちすると苦虫を噛みきったような顔をした。「武宮本家が壊滅したとはいえ、こんな大鬼の復活を許すなんて……宮家は何をしているんだか……」
武宮家等聞いたことのない単語があったが、私にはそれが何なのか聞き返す余裕はなかった。
「あっ……あっ……」
悪霊も化け狐も見た目は怖かったが、それは霊的な怖さでしかなかった。
現れた顔は人に似てはいるが、肌は赤黒く、鋭い瞳には眼球がないのか、暗い空洞のような黒一色だった。口は大きく、犬のように鋭く長い犬歯と、ギザギザの歯が生えていた。その歯だけが白く、赤毛が栄えていた。額には瘤のような短い角があった。現れた胴は腕や足に比べ怪我少なく、力強そうな赤黒い肌が露になっていた。
私も朱音さんも玄君も、現れた鬼を見上げた。鬼の大きさは、天井に角が着きそうな程だった。
悪霊や化け狐は霊的な、見た目では判断できない強さのような恐怖があったが、この鬼はそれは勿論あるが、それ以上に物理的な強さも感じとる事が出来た。
私は、まるで森で餓えた熊にであったような、圧倒的力で蹂躙されそうな恐怖を、太い腕と鋭すぎる爪から感じ取った。
あの腕で捕まれたら、あの爪が食い込んだら、あの人の頭など一呑みにしそうな大きな口と牙が襲ってきたら……私も朱音さんも玄君も一たまりもないだろう。
『形代とは小癪な真似を』
足下に倒れたお父さんの頭を持ち、引き上げると、口の端に引っ掛かった紙を見る。
「お父さんッ」
呼び掛けるが、お父さんからの返事はなく、手足を力無く垂らしていた。その姿に私の頭には最悪の言葉が浮かんできた。
「衰弱が酷いようね」
そう言うと朱音さんはテーブルに飛び乗り切っ先を向ける。
「お父さんは生きてるんですか?」
答えを知りたい思いが早口にさせた。
「生きているわ」
顔を向けずに答えた。朱音さんの顔は鬼を向いていた。
「いつの時代のどんな鬼かは解らないですが、その身から発せられる禍々しい妖気。大変名を馳せた御方とお見受けします」
鬼は朱音さんに顔を向けると、じっと見つめ、鼻を寸寸させた。
『ほう。美しい陰陽の娘だ。そこの女と同じ生娘の臭いがするのう』
そう言うと下卑た笑みを浮かべる。
『今宵はなんと素晴らしき日か。平安の世では、我を狩るために男の陰陽は数えきれないほどやって来たが、女の陰陽はただの一人のみだった。それが今日は二人も……なんと素晴らしき日であり、素晴らしき世か』
私と朱音さんを交互に見ると下卑た笑みをまた浮かべた。
『臭いに導かれたかいがあった』
「臭い?」
と、私は呟く。
「私や青歌ちゃんみたいに力がある者には臭いがあるみたいで、妖には嗅ぎとれるようよ」
朱音さんは答えるが、やばり私を向くことはなかった。一瞬でも目を離しはしないと、その背から発せられる殺気のようなものが語っていた。
『小さきものを喰らい小腹を満たしはしたが、やはりもう堪えられんのう。さて、誰から喰ろうてやろうか』
「やっぱり。あなた様が学校の妖を喰った犯人なんですね」
朱音さんは刀の柄を両手で握る。
「どおりで化け狐が喰われたくないと騒ぎ立てるはずですね。大鬼が自身の縄張りを荒らしていたんですからね」
『化け狐? あの子鼠の事か。喰ろうてやっても良かったが、畜生を喰ろう趣味はないからのう』
今の鬼の言葉ではっきりと化け狐よりも鬼の方が格上だと言うことがわかった。
先生に取り憑いた化け狐を前に、朱音さんは破れている。あの時玄君が来なければ私も朱音さんも死んでいたはずだ。
そんな化け狐より格上を相手に朱音さんが戦えるのかと不安になった。
『喰らうならやはり人の肉。人の魂』
鬼は掴んだお父さんを顔の位置まであげると、頬を舐めた。お父さんの顔が唾液でびっしょり濡れ、部屋の明かりを反射していた。
「お父さんッ」
叫ぶがお父さんからの返事はなかった。
『そして、それが陰陽の者のならば……言うことはない』
舌を離すと、空洞のような瞳の中心が赤く輝いた。その光を見て私は鬼が襲い掛かってくると察した。光に呼応するかのように、地獄のような臭いと例えられた、血生臭い臭いがより強烈になった。
「私も玄も食べたらお腹を壊しますーーよッ!」
朱音さんも察したのか、鬼に向かい飛び掛かる。
テーブルから飛び上がり、空中で刀を振りかぶる朱音さんの動きは直線的で、鬼は朱音さんを捕まえようと腕を伸ばす。巨大な手が朱音さんに迫るなか、小さな声を私の耳はとらえた。
「縛」
声に併せて鬼の腕に札が貼り付いた。
「払いたまえ、清めたまえ。浄」
玄君が唱えると、青白い光が腕を弾いた。
「ナイスよ」
玄君に礼を言うと、朱音さんはお父さんを掴む腕めがけ、刀を振り下ろした。
丸太のような太い腕が、両断され、支えを失ったお父さんがごとんと絨毯に倒れた。切り落とされた腕がごろんと床に転がった。。
『があぁぁぁぁぁ』
切り落とされた腕が痛むのか、煙をあげる腕が痛むのか、悲鳴をあげ苦しむ。その隙に朱音さんがお父さんを引き摺り助ける。
「青歌ちゃん」
名前を呼ばれ私はお父さんに駆け寄る。顔は蒼白ではあるが、呼吸をしているのがわかった。
「良かった」
生きていて本当に良かった。私はお父さんを抱き締めると、安堵の涙を流した。
「嬉しいだろうけど、喜ぶのはまだ早いかな」
その言葉を受け私が鬼を振り替えると、鬼の目の輝きはより強まっていた。
『我に傷をつけるとは……許さんぞ』
鬼から発せられる圧が増し、鬼の腕の毛が逆立ち始めた。すると貼られた札がはらりと剥がれ落ち、空中で塵とかした。腕から上がる煙も瞬時に収まった。
すると、室内だと言うのに私は強風を浴び髪をたなびかせた。その風は生温く不愉快でしょうがなかった。
風を浴びる私の前に玄君が割り込み、札を掲げた。
「壁」
唱えると、壁が出来たかのように、風を防いでくれた。
「強い妖気は人には毒だから、長く浴びると死ぬよ」
「えっ、あつ、ありがとう」
さらりと死と言う言葉を使われ戸惑いながらも感謝の言葉を述べると、私の視界に刀を立てて必死に風を防ぐ朱音さんの姿があった。顔は険しく辛そうだった。
「玄君! 朱音さんが!」
「朱音は大丈夫」
私の質問にも慌てた様子もなく、さらりと答えた。しかし私には大丈夫そうには見えず、心が騒いだ。
「でも……」
「朱音は霊力も弱いし、札も陣も結界も下手ではあるけれど、あの程度の鬼に破れて死にはしないよ。朱音は奇跡の少女だからね」
玄君の言葉からは、安心できる点なんかどこからも読み取ることなど出来なかった。
「本当に嫌な臭いね」
奇跡の少女である朱音さんは、歯を食い縛り耐えながら言う。
『腕の怨み……許すまじぃッーー』
鬼が腕を真上に伸ばし天井を貫く。
「……ッ!」
朱音さんは何かに気付いたのか私達を振り向く。「玄!」
名前を呼ぶだけで、他には何も言わなかったが、玄君も何か察したのか、新たに札を取りだし、左右に一枚ずつ札を持ちしゃがみこみ唱える。
「護りたまえ。壁」
朱音さんも札を二枚床に宙に放り投げると、刀で絨毯に突き刺す。
「護れ」
言い終わると同時に鬼は腕を勢いよく振り下ろした。巨大な鬼の腕が朱音さんに迫った。天板を砕きながらもうスピードで迫ると、朱音さんの張った結界に触れバジッと言う音とバリンと言う音を奏でた。
「チッ!」
鬼の手が飴細工のように結界を容易く破った瞬間、朱音さんは舌打ちしながら後ろに飛んだ。
的を逃した手は絨毯に撃ち込まれた。爆破されたのような轟音を奏でながら、床板と絨毯を吹き飛ばすと、突風のような衝撃波が発せられた。
「きゃっ!」
轟音と衝撃波で飛ばされた木片に驚き声をあげ、とっさに顔を覆う。風も破片も玄君の張った結界が防いでくれたのか、私にもお父さんにも衝撃は届かず、怪我ひとつしていなかった。
しかし、鬼の一撃が生み出した威力は凄まじく、リビングは家族団らんなど不可能なほど破壊されていた。
食器棚のガラスも中に納められた食器は軒並み砕け、テーブルもソファも吹き飛ばされ、修理しても再利用は出来そうにないほど壊れていた。
被害はリビングだけには留まらず、廊下を挟んで向かいにある仏間と、その奥の客間に取り付けられた戸が吹き飛ばされていた。これだけの被害を生んだと言うのに、不思議と外に繋がる窓や壁は無傷であった。
部屋を見回した私はあることに気付いた。
「……朱音さんは?」




