第十八話 音
妖はかじりついたまま、血をすすり続けた。
砂漠で遭難し、丸一日水を飲んでいなかった人のように、喉を鳴らしながら飲み続け、力を失いぶらんと垂れた腕を掴み、二の腕にかじりつき、肉を引きちぎりながら貪った。
クチャクチャと音を立て、咀嚼し飲み込むと満面の笑みを浮かべる。
妖は掴んだ腕を放すと、力を失った体が床に倒れる。喉と腕からおびただしい血を流し、首は力なく横に倒れ、一目で死んでいる事が解った。
妖は服を掴むと、引きちぎり、露になった小ぶりな胸の間に腕を突き刺すと、心臓を引き抜いた。肋骨が飛び出し、血がごぼごぼと吹き出す。
妖は心臓についた血を舌で舐めとると、大口を開き、心臓を呑み込む。
「うぉぉぉおぉぉぉぉぉぉ」
歓喜の雄叫びをあげると、肉をかじり、内蔵を抉り出し、食べ続けた。食が進む度に体は欠けていき、人の体からはかけ離れていった。
口に手を当て、吐き気を必死に抑えながら私はその様子を見続けた。
脳がパニックで酸素を欲し、荒くなりかけるが、私はそれも必死に抑えた。
妖に食べられているのは私だった……いや、私と同じ見た目をしたなにかが妖しに食べられていた。
同じ服の同じ顔をした何かを妖は貪り喰っており、隣に立つ私が全く見えていないようだった。
どうしてこんな事が起きているのか解らないが、私は喋ったり音を出せば妖が本物の私に気付いてしまうと、直感的に理解していた。
私と同じ見た目をした者の頭にかじりつき、頭蓋骨ごと脳を食らうと、血と脳髄が妖の口にこびりついた。
頭の半分を失った私の死体と目があった。
動かず瞳孔が開いた目が意思などもうないはずなのに、私に逃げろと訴えていた。
逃げないと。
もう一人の私が食べられている今を除いて、逃げるチャンスなどあり得なかった。
妖に悟られないように私は一歩下がると、床板がぎっと音を立てた。
小さな音に私の心臓が跳ね上がると、妖はかじりついた頭から口を離し、私の方を向いた。
赤い目を見開き、音が鳴った方向を凝視する。気づかれたと思い、唇がプルプル震えた。
しかし妖は気のせいだと思ったのかまた、頭をかじり美味しそうに脳をすすった。
築年数の古い家は歩く度に軋み音を出してしまう。私は身動きが取れなくなり固まってしまいそうになったが、混乱する頭を必死に働かせ、なんとかこの場を離れる方法を模索した。
下がれば床板を踏み、音を立ててしまう。それならば……前に進むしかない。
私は恐る恐る足を伸ばし、キッチンの引き戸のレールの上に足を置き、ゆっくりと体重をかける。
レールは凹凸があり足の裏に鈍い痛みを与えては来るが、音を立てることはなかった。
キッチンの隣はリビングになっており、二部屋は引き戸で繋がっている。リビングにはガラス戸があり外に出ることが出来た。
玄関の戸は開かなかったが、リビングならばと、私は淡い期待を胸に、音を立てないように、レールの上を進み、妖の後に立ち引き戸に指をかける。
音よ出ないで来れと心の中で叫び、ゆっくりと開いていく。貪り骨を砕く音の中に、戸が開くごく小さな音が混じる。
神経を集中させている私にはハッキリと捕らえられる音ではあったが、妖には届いてないのか気づくそぶりを見せなかった。
戸の三分の一ほど開いたので、私は体を滑り込ませ、また音を立てないようにゆっくりと閉める。
戸が閉じられても妖は気付かなかったようで、廊下からはまだ骨を砕く音がした。視界から妖が消えても私は安心することなく、ガラス戸に向かった。
リビングは古いテーブルとソファに、テレビや食器棚が配置されいて生活の中心になる場所であり、廊下やキッチンとは違い、絨毯が敷かれている。
そっと絨毯の上に足を乗せると、床板とは違い音は出なかったが、私は油断することなくゆっくりとガラス戸に向かい歩を進めた。
ガラス戸にかかっている錠を音が立たないよう上げ、ガラス戸を横に引くが、戸はピクリとも動かなかった。
「……ッ!」
やはりここも開かないのかと思いながらも、諦めることができずに、力を込め引く。
「お願い開いて」
呟き私は何度も何度も引く。ここが開かなければ、もう外に出ることなど出来ないという思いが、私力を込めさせる。
すがるような思いで私は腕だけではなく、体重をかけながら、力一杯引っ張る。
「開いてーーッ!」
すると、ピクリとも動かない戸に掛けた指先が滑り、体重をかけた体が倒れていく。背中が壁にぶつかり、ドンという音を立てた。
床板を踏む音など比べるべくもなく、それは大きな音だった。妖が気づかないはずない程の大きな音。
ごくんと唾をのみ、私は戸を凝視する。
廊下からは突如ガタンと言う大きな音が鳴った。
妖が私の立てた音に気づいた。