第十七話 肉
音の方向に目を向ける。
一階に何かいる。
私の家は入ってすぐ左におばあちゃんの部屋とその奥に階段があり、右に客間と仏間がある。廊下をまっすぐ進むと、奥にキッチンとリビングが並んでいる。音はキッチンかリビングのどちらかからしたようだった。
奥に目を凝らしていると、キッチンのガラス戸の奥で何かが動いているような影に気づいた。あそこに何かいる。
心臓がばくばくと鼓動を強める。
またゴトンと音がし、影が動いた。鼓動を強めながら、ガラス戸を凝視していると、ふと私はこの家に私以外に住人がいることを思い出した。
「お父さんは……?」
車も靴もあるのなら中にいるはず。それならば今どこにいるんだ。すると、私の止まっていた思考が回りだし、ガラス戸の向こうにいるのはお父さんじゃないのかと思えてきた。
そう思うと私は靴を脱ぎ、長い廊下の床板を踏み締めた。
進むべきじゃないと頭では解っているが、お父さんかもしれないと思うと、私は確認せずにはいられなくなった。
取り憑かれてはおらず、いつものお父さんであって欲しいと言う思いが私を進めた。
一歩進む度に床板がぎっとなり、私の背に汗をにじませる。
今まで気にしたこともなかった床板の音がやけに大きく聞こえる。
鉛のように重い足取りでキッチンのガラス戸の前まで来ると、私は荒い息を整えた。
震える指先をガラス戸の取っ手にゆっくりと伸ばす。
開けちゃいけないと脳が警鐘をならしているが、私は指先に力を込めガラス戸を横に開けた。
ゆっくりと、少しずつ開くと、見慣れたキッチンとダイニングテーブルが現れ、椅子に座るお父さんの姿を私の目がとらえた。
食事をする手を止め、お父さんは顔を上げ私を見ると笑みを送ってきた。
「帰っていたのか。お帰り」
いつもの笑みといつもの声だったが、それがお父さんではないと言うことに私はすぐに気づいた。
開ける前にも気づくことができたんだ。ただいまと言ったのに返事もなかったんだ。お父さんがいつも通りでいるはずないじゃないか。それなのに私は開けてしまった。開けてはいけない禁忌の小箱の蓋を。
お父さんの手には、かじりついた跡がはっきりと残っている生の鶏肉が握られていた。口許は鶏肉の脂がこびりつきテカっている。
ダイニングテーブルの上にも食べ掛けの生の豚肉が散乱していた。
先生のように顔が変化しているわけでも、真美の部屋のように悪臭がするわけでもないと言うのに、私は込み上げてくる胃液を堪えきれずに、その場で嘔吐した。
胃液で胸も喉も熱くなり、口の中には酸味が広がった。
痛みが走るほど嘔吐を続ける私をよそめにお父さんは肉を貪り続けた。
化け物の様相でもしていれば、耐えることも出来たかもしれないが、普段と何ら変わらない見た目であるからこそ、耐えられないほどの気持ち悪さとおぞましさを私に与えていた。
ぐちゃぐちゃと気持ち悪い咀嚼音が耳に届く。朝からなにも食べていない私の胃からは胃酸だけが逆流し続ける。
息苦しさとおぞましさから涙を流しながらも、私は何とか呼吸を整える。
悪霊なのか、化け狐なのか解らないが、何かに取り憑かれているのは間違い。
鶏肉を旨そうでも不味そうでもなく、真顔で貪り続けるお父さんから距離を取るべく、私はじりじりと後ろに下がった。
逃げろと、脳が体に指示を与える。逃げないと。荒くなっていく呼吸を必死に抑えていると、お父さんが顔を上げた。
「どこに行く」
「……ッ!」
心臓が跳ね上がった。
お父さんは貪っていた鶏肉から口を放す。
「父さん青歌に話したいことがあったんだ」
私の足はピタリと止まった。異質な状態だと言うのに普段通りの声が、私の脳に恐怖を植え込んでいった。
「この六日間ずっとお前に話そうと思っていたのに、中々言えなくてごめんな」
六日間と言う言葉に私はピクリと反応した。お父さんと口論した日でありお父さんが事故に遭った日が六日前の月曜だったからだ。
「本当は直ぐにでも言うべきだったのに、こいつが頑なに拒んでいてな」
「……こいつ?」
震えながら口にする。
「青歌……お前の肉を喰わしてくれないか?」
お父さんの声と笑みで妖は言ってきた。
「こんな肉じゃ腹の足しにもならない。血が滴る生娘の肉を……お父さんに喰わせてくれないか」
そう言うと持っていた肉を握り潰した。
飛び散った肉片が私の頬にぶつかるが、私は避けようともしなかった。
真美の家とも学校とも違いここには私を守ってくれる朱音さんも玄君もいなかった。たった一人で悪意のある妖を前にし、私は身動き一つ取れなくなっていた。
お父さんは椅子から立ち上がると、私に向かってきた。
「うっ……あっ……うっ……」
逃げないと。逃げないと。逃げないと。頭では解っているのに、体がピクリとも動いてくれない。
瞬き一つ出来ずに私はただただお父さんが近づいてくるのを見つめ続けた。指先一つ動かせずにいると、お父さんは私の顔を覗き込み、鼻をすんすんと鳴らし匂いを嗅ぎだした。
「おお……忌々しき陰陽の血の匂い。喰らい、その血を浴びることをどれだけ焦がれた事か」
お父さんが喋ると血生臭い息が顔にかかる。しゃべり方が変わると、お父さんの顔が徐々に変わっていく。黒目が赤黒い血の色に代わり、口が歪み、だらしなく舌を垂らした。
「ーーひぃっ」
お父さんは声を上げる私を赤黒い眼で見ると、楽しげに歪んだ笑みを浮かべた。
「血で渇きを潤し、肉で腹をいくら満たしても得難い悦楽の味。暗き穴の中に閉じ込められ、幾十万の月日がたとうとも一日たりとも忘れられぬその味」
以前食べたであろう人を思い浮かべたのか、笑みは恍惚へと変わっていった。
「身が燃えようとも、魂が削られようとも堪え忍んだかいがあった」
喰われる。喰われる。喰われる。喰われる。恐怖で脳がシグナルのように延々と唱え続ける。
お父さんは口を大きく広げた。人の限界まで開けると、ピッと言う音と共に口角が裂けボタボタと血が零れた。
「……!」
逃げないと。逃げないと。逃げないと。逃げないと。固まる体に必死に指示を出すが、金縛りにあったかのように、私の体は微動だにしなかった。いや、震えることすら出来てないんだ、実際に金縛りにあっているのかもしれない。
けれど、そんなの金縛りだろうがなかろうがどちらでもいいことだ。動けないことには代わりはないのだから。
「はじめは腕か、それとも足か」
赤い瞳が私の体を舐め回すように見てくる。
「首を喰い千切り生き血を浴びるか。いいや、頭にかじりつき脳髄をすするか」
血と混ざりあった泡立つ赤い唾液を垂らす。
「徳の高い僧の生き胆を食えば寿命が千年伸びるとも言われておる。ならば血潮たぎる心の臓を喰らうか」
私をどこから喰らうか口に出し迷うと、妖は私の喉元で視線を止めた。
「生き胆なぞ他の者でよいか。まずは……喉の渇きを潤そう」
まるで口裂け女のように開いた口が斜めに傾いた。
私はもう助からないんだと唐突に実感した。目は妖を捉えていると言うのに、頭の中では過去の思い出が流れ続けていた。
走馬灯と言うものなんだろう。私の脳が心が逃れようのない死を受け入れ、映像を流し続けた。お父さん、おばあちゃんとの思い出が十六年と短い年月の分だけ流れ続けた。
喧嘩もたくさんしたし、何度も怒られたけれど、走馬灯として流れていくと、どれもいい思い出に思えた。
妖の歯が私の首を喰いちぎろうと迫ってきた。
そして走馬灯にお母さんとの思い出が流れた。病室で私の手を取ったお母さん。優しくて綺麗だったお母さん。
走馬灯は映像だけでなく、お母さんの声も再生してくれた。六歳の頃の記憶は薄ぼんやりしたもので、声も私は忘れていたが、再生された声を聞き、ああ、これがお母さんの声だったと思い出した。
走馬灯は私にお母さんの最後の言葉も思い出させてくれた。
『青歌……幸せに……ね……』
生きも絶え絶えで、痛みが走るのを必死に堪えて言った言葉を。
お母さんの言葉を思い出し、私は死にたくないと心の底から思った。私は幸せにならなくちゃいけないんだ。ここで死んでなんかいられない。お母さんの願いを叶えるためにも。
「いやだぁぁぁぁぁぁ」
金縛りにあっていたはずなのに、私の体の拘束は突如解け、一言も発する事が出来なかった口からは、今の感情が叫びとなって現れた。
が、同時に妖は私の喉にかじりついた。
鋭くもない人の歯が喉元を捕らえると、ぶしゅっと血が吹き出し、ごきごきと骨の砕ける耳を塞ぎたくなるような、異音が首から発せられた。