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樹林の見た夢 ~続・スーレの睡《ねむ》り~

作者:冬木洋子
 スーレの花が、咲かなくなった。
 そういえばいつのころからか、花枝につく蕾の数が徐々に減っている気はしていたのだ。
 臥所の枕辺に置くスーレの花に事欠くようになった集落からは、夜の間にひとり、またひとりと、子供たちが樹林に消え始めた。樹林の夢は、まず最初に年若いものたちから連れ去るのだ。
 大人たちは夜通し目覚めて子供たちを見張ろうとしたが、どんなに堅い意思を以てしても、数人で交代するように試みても、明け方近くになると、きまって知らぬ間に夢の無い眠りに引き込まれてしまうのだった。そうして、目覚めると、子供の姿が消えている。
 子を奪われた親たちは我と我が胸を打って嘆き悲しみ、我が子の返還を樹林に祈ったが、叶えられることは無かった。
 集落の周辺では咲かなくなったスーレの花が、他の集落や樹林のどこかにはあるかもしれないと、屈強の男たちが志願して探索に向かったが、花を求めて樹林に分けいったものたちは、誰ひとり帰ってはこなかった。
 やがて、幼子だけでなく若者たち、娘たちの中からも、夜のうちに樹林に消えるものが出るようになった。
 篭る熱気の中で、集落は不安と怯えに浸され、老人たちは息を潜めて樹林に祈り続けた。

 そんな中、若者たちの間で、一つの名前が密やかに囁かれ始めていた。
 リュバ・ジン――かつて夢に呼ばれて集落から姿を消した一人の戦士の名が。


 その名を最初に口にしたのは、子供の頃に夢の中でリュバ・ジンと会ったという若者だった。
 それは、リュバ・ジンが集落から消えてしばらく経った頃のことだったという。
 幼かった彼の夢にある夜訪れたリュバ・ジンは、巨大なドラカに乗って天を翔け来たり、スーレの花は夢を見ない為ではなく夢から醒めぬ為にあるのだと、彼に語ったというのだ。
 ならばスーレの香りに守られたかつての平和な集落はスーレの見せていた夢であり、スーレを失った後に立ち現れるものこそが、夢ではない、世界の本当の姿なのではないだろうか――と、その男、ケサル・シンは、仲間の若者たち、娘たちに語った。

 俺たちは今まで、スーレがもたらす夢の中で、安穏な日々という幻を見ていたのだ。俺たちが見ていた世界の姿の、すべてはまやかしだったのだ。
 では、本当の世界は、どのような世界なのか。リュバ・ジンのいる世界だ。竜のいる世界だ。
 その世界は、どのような姿なのか。乾いた砂礫に白熱の日の照りつける、はてしない熱砂の荒野だ。
 スーレを失った集落は熟した果実が腐り落ちるようにゆるやかに死に絶えて、滅びののちには、白日に曝された荒寥たる真実が立ち現れるのだ――。

 その言葉は、若者たち、娘たちのあいだをひっそりと駆け巡り、子供たちもしばしばそれを漏れ聞いて、幼い瞳にあやふやな熱を宿した。
 そうして、ケサル・シンの言葉を聞いた若者たち、子供たちの夢には、竜の咆哮が忍び込んだ。
 夢に竜の咆哮を聞いたものたちの多くは、幾夜か経るうちに日中も虚ろな眼差しで竜の夢を追うようになり、やがて樹林に消える。
 はじめは独り身のものたちが。
 やがては夫や妻を残して去ってゆくものも現れ、赤子を抱いて樹林に消えた若い母親たちも数多くいた。
 夜を忍び歩く獣のように、木漏れ日のまだらに紛れて林床を滑り抜けるくちなわのように、疫病えやみを運ぶ危険な風のように――リュバ・ジンの名がひっそりと集落を吹き抜け、夜の間に、ここでない場所を夢見る年若いものたちを攫っていった。
 昼のさなかにも、若者たちが見た竜の夢は集落の屋根屋根の上に靄のように垂れ込め、白熱の日射しのただ中に小暗い影を落としているかに思われた。
 竜の夢が、真昼の集落をひたひたと浸してゆく。一つの集落が、彼方から訪れた竜の夢に囚われてゆく。

 かつて、近隣の集落の一つが、熱病に冒されて潰えたことがある。
 無人となった集落は、またたきの間に樹林に呑み込まれ、今では場所さえ分からなくなっているという。
 この集落も、そのようにして消えてゆくのだろうか。
 けれど、この集落が熱病で消えた集落と違うのは、最初に消えてゆくのが体力の弱い赤子や年寄りたちではなく、ある程度まで育った子供や、体力盛りの青年たちだということだった。
 怯える大人たちをよそに、若者たち、娘たちは、もはや人目もはばからず、夢見る瞳で竜を語った。
 ――樹林の向こうで、竜が待っている。俺の竜が。運命に定められた、私の竜が――。


 そんな中で、若いオブ・シンだけは、ケサル・シンの言葉を耳にしてもリュバ・ジンの夢を見ることなく、竜の声を聞くこともなかった。
 オブ・シンは、幼い頃から、ここでない場所を夢見ぬ質の若者だった。仲間の若者たちの中で、おそらくただひとり、樹林の向こうに焦がれたこともなく、空の彼方に夢を描いたこともない。
 若者たちの誰もがどこかへ消えてしまったら、誰が残る年寄りたちの面倒をみるのだろう。彼は、竜の咆哮を聞かぬよう、夜ごと心の耳を塞いで眠った。そうして、ひとりまたひとりと消えて行く仲間たちから目を逸らし、心を鎧って、黙々と日々の勤めを果たし続けた。

 けれど、やがてほとんどの若者たちが姿を消した頃、オブ・シンの許婚である美しいノーマが竜の夢を見るようになった。
 年老いた親たちの嘆きをよそに夢見る眼差しをひがないちにち樹林の向こうにさまよわせたノーマには、もはや許婚の声も届かず、かつては愛に輝いていたその瞳にオブ・シンの姿が映ることも、もうなかった。
 娘が樹林に消えることを恐れた両親は、夜の間、彼女の手足を枷で縛め、その枷を家屋の柱に縄で縛り付けた。老いて力の弱った親たちの代わりに、オブ・シンがその仕事を手伝った。
 娘は遠くを見やる目のまま、抵抗するでもなく枷に繋がれたが、夜明け近くになると縄を引っぱって暴れ、もがいた。ノーマの両親は辛い思いでそれを見守り、最初のうちは朝になると縄を解いていたが、やがて娘が昼の間も夢の中のような足取りでふらふらと樹林に向かおうとするにいたって、昼間も縄を解くのを止めた。
 縛められ、狭い家屋の奥に押し込められた娘は、ものも食べずに日に日に痩せ細って、艷やかだった頬は窶れて目の下に隈が浮き、瞳ばかりが病に浮かされたように中空をさまよいながら、薄暗い家屋の中で獣のそれのように熱を孕んで光っていた。もはや目の前に立つ許婚の姿も目に入らず、親の言葉さえ聞き分けず、罠に囚われた獣のように暗がりに蹲るノーマの姿に、両親とオブ・シンの胸は痛んだ。
 それでもノーマは美しかった。竜の夢にうっとりと瞳をさまよわすノーマの、これまで自分には見せたことのないような、どこかなまめいた表情が、オブ・シンを苦しめた。

 やがて娘は、水すら口にしなくなった。
 このままではノーマは死んでしまう。
 日に日に弱ってゆく恋人の姿を見るに忍びず、オブ・シンは両親を説得して、ある夕べ、ノーマの縛めを解いた。
 朧な夕星ゆうづつの下、枷から解放された娘は、外した枷を手に目の前に立つ許婚にも、その後ろで両手をもみ絞って嘆く老いた父母にも一瞥すら向けることなく、ただ吸い寄せられるように樹林の奥にだけ眼差しを注いで、振り返りもせずに月下の樹林に消えていった。その首に、オブ・シンが婚約の証に贈った首飾りをつけたまま。
 オブ・シンは、去ってゆく恋人を黙って見送った。

 今や、集落に残っている若者は、オブ・シン一人となった。
 他に残っているものは、老人たちばかりであった。
 オブ・シンは、ただ独り、それまでと同じように許婚の老いた父母に尽くし、老人たちのために狩りをし、老いて動作が不自由になったものたちの手助けをした。
 何も変わらぬように黙々と働くオブ・シンの中で、ただ一つ、変わったことがあった。
 ノーマが樹林に消えたその夜から、彼も夢に竜の咆哮を聞くようになったのだ。

 けれど彼は集落を離れなかった。
 彼には父母は既に亡かったが、世話してくれる娘を失った許婚の父母を護る者は彼しかいなかった。
 老人ばかりになって滅びを待つ集落を、己が看取らずして誰が看取るのだろう。淀んだ熱と衰退の気配ばかりが重く垂れ込める集落で、彼は毎夜、老人たちに頼んで我が身を臥所の柱に縄で繋いでもらって眠った。そうして眠りの中で竜の咆哮に耳を塞ぎ、人知れず樹林の夢に抗い続け、一夜の苦しみの後に、朝には縄を解いてもらった。
 生温い雨の中で咲きながら腐れてゆく花のように、生きながら死臭を放ち始めた不治の病人やまいびとのように、ゆるやかに滅びゆく集落で、彼は幾年もの間、祖霊の国に旅立つ老人たちを静かに見送り続けた。

 やがて最後の老人が旅立つと、魂送りの儀式を終えた後の集落中央の広場で、オブ・シンは、祖霊を祀った聖木柱に己を縄で幾重にも縛り付け、その後、あらかじめ用意していた石を左手に握りこんで、利き手である右手を叩き潰した。これから訪れるであろう竜の夢に浮かされて、自ら縄を解いてしまうことがないように。
 そしてそのまま、飢えと乾きでゆっくりと息絶えて、獣と禽と虫たちにその肉を与え、僅かな衣服の痕跡だけが纏いつく乾いた白骨となった。
 まもなく巨大な柱には蔓草が這い上がり、やがて腐り落ちた縄に代わって愛撫するように骸に絡みつき、血の色をした大輪の花を無数に咲かせた。花は一日で萎んだが、日々途絶えることなく次々と湧き上がるように開き続け、朽ちゆく柱と白骨を彩り続けた。その周囲では、人々の営為の跡のすべてが猛々しい緑に覆われて埋もれていった。

 こうして、一つの集落が樹林に呑まれた。



 ある日、かつて集落であった場所の上空を、竜に乗った黒い膚の精悍な戦士たちの一団が通りすぎていった。
 その中の一人、ゆるやかに波打つ長い黒髪を豊かにたなびかせた女戦士が、天翔ける戦士たちの隊列をふと離れ、竜の首を巡らせた。表情のない美しい顔を下界に向け、高度を下げて旋回する。やがて地表に何かをみとめると、つけていた首飾りを片手で器用に外し、漆黒の美貌の中の琥珀の瞳をふと伏せて、外した首飾りにくちづけた。そうして、躊躇うことなく、それを地上に投げ落とす。
 美しい女戦士は、落ちてゆく首飾りの軌跡に謎めいた眼差しをつかのま投げると、あとは振り返ることなく、隊列を追って、そのまま何処へか飛び去っていった。

 しなやかな腕から無造作に放たれた首飾りは、樹林の一点、樹冠の網目が僅かに途切れる場所に吸い込まれるように落下して、その僅かな破れ目の中心、朽ちた柱に緑の蔓草の鎖で縛り付けられた白骨の上に落ち、肋に絡みついた蔓草にひっかかって、心臓があったはずの辺りで留まった。
 その首飾りも、すぐに緑の鎖に絡め取られ、次々と開き続ける緋赤の花に埋もれた。

 それ以来、この地に竜たちが戻ることは二度となかった。
 だが、あるいはそれもまた、樹林の見た夢の一つであったのかもしれない。

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