第2話
王城のバルコニーから眺める景色は、壮大で、この広さに比べて自分はなんてちっぽけなんだと朝からぼんやりと思うような感傷的な部分は、残念なところ私にはない。
ああ、無駄にでかいわよね、ここは。
そう思うだけなのだ。土地が広かろうが狭かろうが私に何か関係がある? 別にこの土地の全てが私のものなわけではないのだから。例えばこの目の前に広がる土地の全てが私のものだったとしても、私はきっと興味がわかないだろう。そもそもそんな地位を頂きたいとは思えない。そんなものより、あの子の怯えた顔を拝んでいる方がよっぽど楽しいというものだ。
今日はどんな風に可愛がってあげようか……。
私にとってそのことの方がよっぽど重要事項なのだ。
「結月様っ。そんな姿でバルコニーに出てはいけないと何度も申し上げたではないですか。誰かに見られたらどうするのです」
「リュリュ。小言の前に言うことがあるんじゃな~い?」
朝目覚めてそのままバルコニーに出た私を咎めるのはメイド服を着た少女だった。身に纏っているのか解らないほどに薄く軽い寝間着から見える私の体を見て、視線を逸らしながら頬を染めている少女にくすりと笑んだ。
私にとって自分の体など大して大切なものでもない。誰かに見られて困るものでもないのだ。しかしながら、私自身よりもこの少女の方が私の体を神聖視しているようで困る。
「おはようございます、結月様」
「おはよう、リュリュ。それから、私に様はいらないと何度も言ってるじゃない? 私は敬われるような存在ではないんだって何度も言っているでしょ。あなたは私の友達なのよ。公の場では仕方ないにしても、二人きりの時にそんな態度を取られるのは寂しいなぁ」
心底傷ついたと言いたげな暗い顔をすれば、慌てたように対等な言葉遣いに直してくれる。リュリュとは必ずこの会話から入るのがいつしか二人の決まりのようになってしまっていた。リュリュとしても私の言葉を聞かないうちは言葉を崩すことは憚れるのだろう。
敬われるのは好きじゃない。私はそんな身分の高い地位にはいないのだから。ただたまたま王城に住む経緯になっただけ。本来なら侍女だってつく筈はないのだ。
もう、日本に帰りたいとは思えない。ここの暮らしは気に入っている。日本での私は毎日が孤独だったのだから。人は滑落しようと思えばいくらでも落ちていけた。立ち上がろうとするのにはどんなにか苦労するのに。
私はここで第二の人生を送らせてもらえるのだ。そう思うようにしていた。
扉を開けて、その背中がびくりと強張るのを見て私はこっそりと小さく笑った。
「魔王様。おはよう。昨日はよく眠れた?」
魔王であるヴィルジールの部屋に私が姿を現すと、控えていた者たちはスッと部屋を出ていく。暗黙の了解といった風に私とヴィルジールの二人だけの空間が出来上がる。
「おはっ、おはっ、おはよう……ございます」
口籠りながらも懸命に口にする姿は、愛らしくてキュンとしてしまう。
23歳の私よりも5歳下の18歳のまだまだ少年ともいえるヴィルジールを私は大いに気に入っている。
「ヴィル。私の目を見て言ってはくれないの?」
ふるふると肩を震わせ、両手を膝の上で力いっぱい握りしめたヴィルは、俯いたままいまだに私を見てはくれない。
ビィルが対人恐怖症なきらいがあるのは承知しているが、少しでもこちらを見てほしいと思うのだ。それは、その怯えた瞳を見たいと思うのも一つではあるが、私という存在をその瞳の中に捉えてほしいという私の我が儘も含まれている。
「私がまだ怖いの? そんな怯えた顔を見せられると、食べたくなっちゃうじゃない」
「食べ?」
「んふふっ。お子ちゃまじゃないんだから、意味くらい解るでしょう? ああ、可愛い。私の胸の中で逃がさないように閉じ込めてしまおうかしら。そして……ふふっ」
ヴィルがいっそう体を強張らせたのを確認した。隠された顔は恐らく真っ赤に染まっているのだろう。
半分は冗談だが、半分は本気だ。
私は、この年下の少年を可愛いと心底思う。
早く懐いてくれないかな、と思う。今みたいに怯えた視線を気付かれぬように投げ掛けられるのも悪くはない。いじめ倒したい、と思いながら、笑顔も見せてくれたらいい、と思わずにはいられない。我ながら矛盾しているとは思うけれど。
私が王城に住むことになってまだ2週間。けれど、毎日顔を合わせている二人にとっては、それなりに長い時間だと思うのだ。それなのにヴィルは未だに私を恐れている。
ヴィルの対人恐怖症には、彼の出自が係っているように思えるが、どんな過去があったのかは聞いてはいない。宰相が私にそのところを話そうとしたが、私は敢えて遮った。そういうプライベートなことは、ヴィルの口から聞くべきものだ。
私は待とうと思う。ヴィルが本当に私に気を許してくれるまで。その時は本人から色んな話を聞こう。
指導係に任命されたものの、かれこれ2週間これといって何もしていない。とにもかくにも人に慣れることから始めるべきだと考えた私は、まず私に慣れてもらおうとしたのだ。まあ、一番最初に慣れなければならない相手が私というのも結構大変なものがあるのかもしれないが。
部屋の中に私という存在がいることに慣れてもらうため、朝食を食べたあとはずっとヴィルの傍にいる。
ヴィルはまだ執務をするだけの状態にいたっていないので――なにせ人を寄せ付けないのだから――、いつも部屋で一日中過ごしている。所謂ニートという存在だ。
私はヴィルの部屋で本を開き、ゆっくりと時を過ごす。時折、ヴィルが私を気にしているのか視線を感じるが、顔を上げたりはしない。私がここへ来た当初、私が部屋の真ん中にあるソファーに腰かけているのに対してヴィルは部屋の隅にへばり付いていた。今、ヴィルは向かい側のソファーの後ろに隠れて、こそこそとこちらを窺っている。少しずつ距離を詰めようとする姿は、警戒心の強い猫にしか見えない。
「おいで」
本から目を放し、怯えさせない程度に微笑んで声をかけた。今まで一切声をかけてこなかっただけに、びくりとしたが決してその場から逃げようとはしない。
「おいで」
もう一度呼びかける。
戸惑いながらも、じわりじわりと距離を詰めてくる。手を伸ばして抱きしめたいのを懸命にこらえて、私はひたすらに待った。
とうとう私の足元まで来た。何故か床の上に体操座りをして、私を見上げている。
「本を読んであげようか? それともお話を聞かせてあげようか? この世界ではない世界の話。聞きたい?」
まだ表情は硬いままだが、わずかに頭を縦に振った。
無性に愛しく思える。これは俗にいう母性というものなんだろうか。イヤ、違う。母性であるのなら、この相反する想いの説明がつかない。
ああ、苛め倒したい。