最終章 〜 チョコレート
10月26日
冷静になってみると恥ずかしい。「幸せ」だの「死ぬ」だの、安っぽい歌謡曲でも聞かない。それを何度も繰り返すなんて。彰子が幸せだったから恭子も幸せになれ、なんて、こじつけだよな。第一、これからっていうときに、なんで「死ね」なんだろうか。よくわからない。何より、恭子より長生きしなくちゃならなくなったぜ。無理だ。あいつ以上の生命力が俺にあるはずがない。とんでもないこと言っちゃったような気がする。
まあ、いいか!
せつに恭子とのことを報告した。本当に喜んでくれた。ありがとう、せつ、お前のおかげだよ。
一応、安達にも恭子とのことを報告した。ちょっと喜んでくれた。ありがとう、安達、下手に首を突っ込まないでいてくれてよ。いや、本当に。
安達がこう言った。
「そうか。ついに恭子ちゃんの心をこじ開けたか。よくやったよ。褒めてやる。そういや Kim Carnesっていう女性歌手の歌で"ROUGH EDGES"ってのがあるんだよ。割とグッとくるんだけど、まるでその歌詞みたいなんだよ、お前と恭子ちゃんとは。まあ、聞いてみろ。とにかくおめでとうよ。お前達、お似合いかもな。そうだなあ、キャベツと青虫くらいにはよ」
早速、CDを買って、"ROUGH EDGES"とやらを聞いてみた。いい歌だった。安達、ありがとう。
当然のように減給処分をくらった。今回はさすがにこっぴどく叱られた。授業放棄だもんな。でも、いい。
授業中、生徒達が問題を解いている間、つい"ROUGH EDGES"を口ずさんでしまった。「機嫌が良さそうだ」と指摘された。「そうか」と、とぼけたが甘かった。
「恭子さんとうまくいったんだ」
井上が要らぬことを言った。どうせひやかされるのだ、
「ああ、うまくいった」
正直に答えた。「これで、もう授業にならない」と覚悟したが、生徒達は意外におとなしい。変だ。青山が口を開いた。
「先生、おめでとう」
拍手と歓声が湧き起こった。
何?こいつら、祝福してくれてるぜ。
「お前ら・・・・・・。ありがとう」
結局授業にならなかった。生徒達は落ち着いてたが、俺が壊れてしまった。
11月3日
アメリカ時代の友人、ブライアンから手紙が届いた。彼は現在、西海岸の大学で主に日本文化を教えているのだが、その大学で日本の社会や教育について教えないかという誘いだった。研究も十分にさせてくれるし、論文次第だが将来のポストも考えてくれるという。
すごい話だ。前向きに検討しよう。
11月5日
塾からの帰り、午後11時を回っている。携帯が鳴った。恭子からだった。酔っているようだ。ちょっとだけ。
「ヒロシーィ、お仕事終わったんでしょー。ご苦労だったねぇ。焼肉食べよー」
これが、つい先日まで、生きるの死ぬのと騒いでいた女のかけてくる電話か、いったい。
結局、呼び出しに応じてしまった。ブライアンからの誘いについても相談してみたかったし。でもやめておけば良かった。俺が焼肉屋に着いたとき、恭子はやっぱり酔っていた。それも、かなり。
「ヒロシーーーィ、おいでよ。食べよ」
恭子の席には何枚も皿がならんでいる。空のビア・ジョッキも。恭子の向かいに座った。
「なによーぉ。何か言いたそうじゃない」
「いや、別に。遠慮なくいただきましょうか。誘った方のおごりだろうから」
「おおぅ、遠慮なくいただいてくれぃ」
すでに恭子が頼んでいた肉などを網にのせて焼きながら、ブライアンの手紙の件を切り出した。
「ブライアン?何それ?ブライアン?ブラ、イアン。ブラ、イヤーン。アハハハ。ブラ、取っちゃイヤーン。イヤよ、イヤよ、アメリカなんか行っちゃイヤーン。アハハハハ」
この女が酒飲んでるときに真剣に相談を持ちかけた俺が馬鹿だった。話はあきらめて食べることに専念しようと思ったが、できるわけがなかった。恭子は、箸で網から肉を取るまでは普通にするのだが、自分の手元のタレが入った小皿に運ぶまでにポロポロと全て落としてしまうのだ。何もない箸にタレをつけて口に運び、何かに気付いて不思議そうに小皿を見つめる。俺は敢えて何も言わなかった。同じ事を何度も繰り返した後、肉を網から直接口に持っていく行動に出た。しかし、やはり途中で落としてしまう。これも同じ事を何度も繰り返した。恭子の前は落とした肉でいっぱいだ。テーブルは肉と油でギトギトだ。見ていて恥ずかしい。近くの席の客や、店の従業員も恭子を見て笑ってる。もう教えてやろうと呼びかけると、恭子はびっくりするほど真剣な表情で俺を見た。そして、これまた真剣な声でこう言った。
「わたしの肉がないの。ねえ、ヒロシ、わたしの肉知らない?」
11月6日
昨夜の「わたしの肉がない」事件を、絵を描きながら生徒に話してやったら喜んでいた。
11月8日
ブライアンからの誘いについてあれこれ考えてみた。
「英語」、何とかなる。「専門知識」、一応大学院で勉強したし、何とかする。「アメリカでの生活」、留学してたし、平気。「お金」、詳しくは聞いてないけど、栄明塾より給料が安いことなど有り得ない。問題なし。「家族」、俺などいてもいなくても関係ない。安心。「恭子」、そのうち仕事でアメリカだ。好都合。
なんだ、風はもうアメリカへアメリカへと向かって吹いてるよ。
でもなあ、教え子達がいるからなあ。
11月22日
恭子は来年の4月からロサンゼルスで仕事だそうだ。
「お前、俺のところにずっといるんじゃないのかよ」
「心はずっと一緒よ。置いておくわ」
「昔どっかのサッカー選手が代表をはずれるときに言ったような言葉だな」
「ヒロシこそアメリカに来れば。あなたの1人くらい養ってあげるわよ」
こいつは、ブライアンの件などこれっぽちも頭に残っていないんだ。見事なものだ。よくわかった。こいつと何か交渉するときは、酒飲ませて、どさくさに紛れにサインなり捺印なり」させればいいんだな。
「ヒロシ、聞いてるの?」
「ああ、それ、いいね。俺が家事一切してやるよ」
「ふうん。本当にこの国が、生徒達が捨てられたらね」
「『捨てる』ってのは何かトゲのある言い方だな」
「でって、そうでしょ。それにね、これまでもずっと離ればなれだったんだからね。別々の国に住むことが今更どうだって言うのよ」
「そりゃそうだ。だが、お前、俺と一緒にいるのが本当は嫌なんじゃないか?」
「そんなことないわ。でもね、ヒロシにはヒロシの大切なものがあるでしょう?」
「恭子もずいぶん大切なんだけど」
「ありがとう。だけど、自分の生き方を捨ててまでわたしを大切にしてくれなくてもいいのよ。わたしにだって自分の生き方があるし」
「何だよ。結局今までのままか」
「違うわよ」
「わかってるよ」
12月1日
うーん。決めた。アメリカに行こう。
12月3日
休憩時間、ふと教室をのぞいて驚いた。大野(中2女子)が自分のおっぱいを机の上に乗せて安らいでいたのだ。この大野は、はっきり言うと太っている、並ではなく。おっぱいも並ではない。確かに普通の状態だと重かろう、肩も凝るだろう、邪魔にもなるだろう。でも、普通するか?体をずらして、首は椅子の背もたれの上、おっぱいは机の上なんて。注意もできないよな。
「最近、おっぱいを机の上に乗せてくつろいでいる人がいますが、見苦しいのでやめるように」
なんて、絶対言えない。
女子生徒だって、そりゃ、何も言えないよな。男子生徒なんか見て見ぬ振りしてる。俺も見なかったことにしよう。
恐るべし大野。
12月13日
珍しく仕事が早く終わったので、北と進藤、片桐さんと一緒に飲みに出た。鍋をつつきながら、ビールや日本酒を飲んだ。
隣では普通のサラリーマン達(俺達、少なくとも俺は普通ではない)が鍋を囲んでいる。子どもの学校や塾の話をしているから、苦笑しながらもつい耳を傾けてしまった。
「だけど課長、課長のとこはもうすぐ中学受験じゃないんですか?」
「ああ、上の男の子がな。しなくてもいいのになあ。女房が受かれば儲けものだって」
「僕は中学受験なんて考えもしませんでしたよ」
「僕も公立だった。金なかったし」
「課長、またまた」
「いや、本当なんだ。うちは、僕が小学生のときに、親父がよそに女作って出て行ったからなあ」
「え、そうなんですか?初耳だなあ」
「うん、だから『モチヅキ』っていうのも母方の姓なんだ。小学校の途中で名前が変わっていじめられたら困るって、中学に入るときに『モチヅキテッペイ』になったんだよ」
「へえー。因みにそれまではどういう名前だったんですか?」
「『カヤマテッペイ』だよ」
俺は思わずむせてしまった。片桐さんが背中をさすってくれた。
「親父は単身赴任したイギリスで女作って、会社も辞めちゃって。日本に帰って来るには来たらしいけど。どうしているか。母親は何も言わないし、僕も聞いちゃいけないって思ってたし」
「全然音沙汰なしですか?」
「何でも、娘ができたとかちらっと聞いたことはあるけど。僕の妹だな」
「課長、親父さんのこと恨まなかったんですか?」
「そりゃ恨んださ。母親が可哀想だったし。だけど、今はなあ、親父の生き方もわからないでもない。そんな風に生きてみたいなあ、って、たまには思う」
「浮気したいってことですか?課長もてるからなあ」
「からかうな。でも、浮気じゃないんだよ。親父は本当にその人を好きだったんだよ。だから、母親も気持ちの区切りがついたんだろうなって。いい加減な浮気くらいで別れるような女じゃないからな、うちの母親も。今は孫に囲まれて幸せそうにしてる」
「へぇー、知らなかったなあ。でも会いたくないですか、親父さんや妹さんに」
「あってみたいなあ。親父はぶん殴ってから、その後一緒に酒でも飲みたい。妹には『初めまして、兄です』なんて挨拶して、照れたりしてなあ」
「妹さん、美人なんですかね?」
「僕の妹だよ、美人に決まってる!」
「課長、是非紹介してくださいよ」
「もし会えてもお前にだけは紹介しない」
「ひどいなあ。でも、本当に会えたらいいですね」
「ああ、いつか会いたいなあ・・・・・・。じゃ、行くか」
テッペイ課長は部下を連れて出て行った。
俺は、テッペイさんのいた席に向かってグラスを軽く上げ、会釈して、ビールを一気に飲み干した。進藤が不思議そうに言った。
「岸和田先生、どうしたんですか?」
「いえ、ちょっといい話を聞かせてもらったもので」
「盗み聞きですか。僕もよくしますよ」
北が相変わらずとぼけたことを言う。
テッペイさん、お兄さん、あなたの親父さんはもうこの世にはいません。上の妹さんも親父さんのとこに行っちゃいました。下の妹さんは幸せにしていますよ。それと、あなたの妹さんは2人とも間違いなく美人ですよ。
俺は、思わず泣いてしまった。いきなり泣き出したんで、皆、唖然とした。北が、
「泣きたいときは思いっきり泣かなくちゃね。僕は笑おうかな」
なんて言いながら笑い始めた。皆、笑い始めた。俺も、泣きながら笑った。
12月21日
今日で2学期の授業が終了。きりがいいので、塾長に、3月、公立高校の入試が終わったら塾を辞めたいと申し出た。
「岸和田先生、それはちょっと困ります」
「別に、いいでしょう。塾長は常々、『講師の代わりはいくらでもいる』っておっしゃってるじゃないですか。ましてや、僕みたいな問題ばかり起こす講師はいなくなった方がいいでしょう」
意地悪な言い方をしてみた。案の定、塾長は言葉に詰まっている。
「・・・・・・まあ、まだ時間があります。考えさせてください。でも、口ではなんと言おうと、何度減給しようと、正直なところ、あなたが惜しいんです」
コノヤロ、今更何を言い出すんだ。
「もし、この塾を辞めたとして、その後は何をするつもりなんですか?」
「生徒を引き抜いて自分で塾を始めるとか、ライバル塾に移るなんてことはしませんからご安心ください」
「それじゃ、何を?」
「言う必要も義務もないと思いますので」
また、意地悪な言い方をしてみた。
しかし、俺もプロだ。公立高校入試まではきっちりと生徒達に尽くしてやるぜ。
12月22日
恭子にアメリカに行くことを話した。向こうの大学で教えると言ったらびっくりしていたが、嬉しそうだった。本当は、もう、離れたくはないのだ。俺だってそうだ。
12月23日
ブライアンに電話し、アメリカに行くと告げた。変な日本語で喜んでくれた。
「Hiroshi, SAMURAI, BANZAI!」
実家にも電話してみた。弟が出た。
「ああ、俺。言っておいてくれ。来年アメリカに行くから。向こうの大学で教えるって。じゃね」
「待てよ、何か、見合いの話が来てるぜ。いい加減に落ち着いてもらわなきゃ困るってさ。それに、いつまでも彰子さんのこと引きずってるわけにもいかないだろうって」
「落ち着くような年かよ。それに、彰子のことは一生忘れないぜ」
「そうか。でもよ、俺もお見合い写真見せてもらったけど、美人だぜ」
「じゃ、会うだけ会ってみるか。お見合いってのも話の種だ」
「親父にどやされるぜ、ふざけるなって」
「いいじゃないか。美人の顔見て、いい雰囲気のとこでお茶でも飲めりゃ」
「相手に失礼だろうが」
「なあに、嫌われるのは簡単さ」
「・・・・・・相変わらずだな。俺が言うのも変だけど、大人になれよ」
「イヤだ。じゃな。伝言頼む。そのうち顔出す」
12月24日
冬期講習開始。気合が入り過ぎて自分が怖い。だが、忙しいぞ。
12月26日
昼休み、職員室で生徒達と馬鹿話をしていたら、「岸和田先生、お電話です」と片桐さんが知らせてくれた。受話器を取る。
「もしもし、岸和田です」
「ヒロシ、今、空港。今から日本を離れるの」
せつだった。アフリカでの医療ボランティアに参加するのだ。
「悪いな、見送りに行けなくて。せめて年が明けて松が取れる頃ならな」
「見送りに来てもらっても困るもの」
「俺は邪魔者か」
「S女の正門で出会ったときからのね。3年ほど行って来るわ。それまでには恭子さんと幸せになってるのよ。何しろ、彰子と・・・・・・」
せつの声が途切れる。泣いているのだろうか。
「彰子と何だよ?」
「何でもないわよ。彰子も恭子さんもあなたのどこが良かったのかしら」
「さあね。せつも俺とつき合ってみればわかるんじゃないか」
「最後まで軽口たたくわね。馬鹿なこと言ってないでしっかりするのよ」
「しようと思う。せつ、お前も向こうできちんと役に立って来いよ。元気でな」
目の前がかすみ始めた。彰子や恭子と関係なしにせつと出会っていたら、きっと・・・・・・。
「ありがとう。じゃ、行くわね」
「ありがとう。せつ!忘れないぜ!」
「そうよ、ずっと覚えていなさい。わたしも覚えてるわ。さよなら、キ・シ・ワ・ダ・ヒ・ロ・シ」
プツンと電話が切れた。
せつ、吉村せつ、俺は一生お前に感謝し続ける。
「今度は『せつ』だって」
「恭子さんはどこにいちゃったの」
白井と長崎の得意技、「相手に聞こえる内緒話」で我に返った。しまった、ここは塾だった。
12月27日
高3の原が授業中ずっとにやついている。大学入試を目前にして、ついに気が触れたかあきらめたかどちらかだろう。可哀想に。
授業後、一応理由を尋ねると、何と「彼女ができた」と言う。
「1つ年上で、今、看護学校に通ってる人なんっすよ。年上とは思えないくらい可愛らしいんっすよ」
「将来は看護婦か。いいな」
「先生、自分の趣味に走っちゃダメっすよ。僕の彼女なんっすから」
「お前に俺の趣味が理解できるのかよ」
「できません。先生の相手はめちゃくちゃな人って噂ですから」
当たりだ。だが、他人に言われるとあまり面白くない。
「俺の趣味はいいから。ま、うまくやれ。だが、お前、今がどんな時かわかってるだろ。勉強もきちんとしろよ。泣くことになるぜ」
「はい、もちろん。何か、こう、全てにパワーがみなぎるっていうんですか?勉強もはかどるんですよ」
「勝手にしろ」
1月5日
授業後、宮本が話しかけてくる。
「ねえねえ・・・・・・」
「宮本、もう『今年』だぜ。やめよう。俺が悪かった。謝る」
「じゃなくて、中国の本読んでたら、『宦官の息子』とかよく出てくるんだけど。何故?」
どこが、「じゃなくて」だ。いつもの話になってるじゃないか。
「色々あるんだろ、宦官になる前の子とか、養子とか」
「へえ、そうか。それとね、宦官って中国だけじゃないの?」
「ヨーロッパ辺りにもいたんだぜ。元々はオリエントで・・・・・・。やめよう、宮本。頼むから試験に出る勉強して」
1月6日
安達が電話をかけてくる。
「せつさんの携帯に電話してもつながらないんだよ。お前、知らない?」
そういや、安達にはせつのこと言うの忘れてた。
「せつなら医療ボランティアでアフリカに行ったぜ、年末に。3年は帰って来ないって」
「何ぃ!お前、どうして早く教えてくれなかったんだよ」
「悪い悪い。でも、お前とは関係ないじゃん」
「これから関係作るんだよ、俺とせつさんは」
「ひょっとして、せつのことが本気で好きなのか?」
「ああ、好きだよ」
「早く言えよ。何とかしようもあっただろうに」
「何だと!お前は恭子ちゃんとのことで屍になってたから気を使ってたんじゃないかよ。それを、何?自分さえうまくいったら、俺やせつさんはもうどうでもいいわけ?へぇー、いつからそんな人になっちゃったの?」
お前がどれだけの気をつかってくれたって言うんだよ。でも、逆らったらややこしくなるだけだ。
「スマン、スマン。だけど俺も連絡取れないんだよ。向こうで落ち着いたら連絡先を教えてくれるって」
「なんでお前なんだよ!俺に知らせてくれよ。お前には恭子ちゃんがいるからいいじゃないか。せつさんは俺によこせ」
「わかったよ。連絡先がわかったら教えてやるから。その先は好きにしろ」
「俺もアフリカに行くぞ!」
安達はせっかく入った出版社をどうするつもりなんだろう。
「安達よ、ちょっと冷静になれよ。会社があるだろう?」
「うるさい。女のことで熱くなるのはお前だけの専売特許じゃないんだよ。せつさんのことに比べりゃ、俺の入った会社なんてどうでもいいことなんだよ」
「お前がせつを好きなのはよくわかったけど、せつがお前をどう思ってるかくらいは確かめてからにしたらどうだ?会社辞めてアフリカに行くのは」
「おい、『せつ』『せつ』ってファーストネームを呼び捨てにするな」
「はいはい、わかりました。せつさんの気持ちは確かめたんですか?」
「いや、まだだ。行ってから直接確かめる。だから、せつさんの連絡先はすぐに教えろよ」
安達が本気でせつに惚れてるとは思わなかった。
1月8日
3学期の授業開始。入試直前で、受験学年は気合いが入っていた。俺は冬期講習の疲れが出て、気力も体力も途切れそうだった。しかも、いつの間にか冷たい雨が降っていた。傘を持って来ていない。こんな雨に打たれたら絶対に風邪を引いてしまう。まいったなあ。
授業終了後、塾の前は、我が子に傘を持って来たり、我が子を車で迎えに来たりした生徒の親達でいっぱいだ。生徒達がうらやましい。
10分ほどで生徒達も親達も帰って行った。と、1つ、こちらに近付いてくるベージュの傘があった。その下はえんじのコートだ。ベージュとえんじの下で恭子の顔が微笑んだ。
「これ、傘、使って。持って来てないんでしょ」
「ありがとう。わざわざ持って来てくれたのか」
「ついでがあったから。じゃあね、風邪引かないでね」
「ああ、助かった。ありがとう」
「どういたしまして」
恭子は歩き始めた。俺はその後ろ姿に言った。
「おい、その色、相変わらずよく似合うな」
恭子は振り向くとにっこりと笑った。天使の(少なくとも俺には)笑顔だった。
「先生、今のが恭子さん?」
ウオッ、ビビッた。いきなり話しかけてくるなよ。誰だ?長崎だった。
「ああ、酔っぱらいの恭子さん」
「ふうん、まともな人じゃん。て言うか、すごくカワイイ」
こいつらの褒め言葉は「カワイイ」しかないのだろうか。まあ、いいや。
「長崎、だまされちゃダメだよ。あいつはいつでも悪魔になれるんだから」
「先生、その悪魔にまいったんでしょ」
1月13日
書店で立ち読みをしていると、近くで誰かが「ダディ!ダディ!」と叫んだ。そちらを見ると、どうしたって英語が母語には思えない顔をした4、5歳くらいの小汚いガキだった。何が「ダディ」だ。お前は「父ちゃん」って言わなきゃだめだよ。リアリティがゼロなんだよ。まだ「ダディ、こっちだよ」なんて言ってやがる。不釣合いな言葉を発する口でもつねって泣かせてやりたくなった。
イヤ、待て。ここは日本だ、子どもが自然に「ダディ」なんて言うわけがないじゃないか。親がそう言わせているのだ。ウン?もしかしたら父親が英語圏の人か、一部の芸能人のように「ダディ」という呼び名が似合う人かもしれない。と、思い直し、「ダディ」が現れるのを待っていた。
出たぜ。どこが「ダディ」だ。てめぇ、「亀吉」って名前(この名前の人がいたらごめんなさい。飽くまでイメージの問題です。他意はありません)がピッタリのどこからどう見ても由緒正しい2千年来の農耕民族の顔して何が「ダディ」だ。「おっとう」、譲歩しても「父ちゃん」じゃないか。「父ちゃん」が嫌なら「お父さん」とか、アチラの言葉がよければ日本でも市民権を得ている「パパ」とか、いくらでも呼ばせ方はあるだろうが。そりゃ、どう呼び合おうが親子の勝手だが、家庭内だけにしてくれ。現実と大きく乖離した呼称を人様に聞かせるのは迷惑ってものだ。各自治体は、こういう親子を取り締まる迷惑防止条例を作れよ。
よほど注意してやろうかと思ったができなかった。母親が来たからだ。その「父ちゃん」、「母ちゃん」に向かって「ハニー」って呼びかけたのだ。笑ってしまって注意するどころではなくなってしまった。「母ちゃん」は「父ちゃん」を「ダーリン」とか呼ぶんだろうな。迷惑家族は笑ってる俺をにらみながら通り過ぎた。あいつらが「ダディ」で「ハニー」なら、塾長だって「リチャード」で、塾長の奥さんなんか立派に「ベアトリス」や「エリザベス」だぜ。
腹も立ったが、笑わせてももらった。
1月17日
夜の10時を余裕で過ぎてる。中2の渡辺が授業中にうまくいかなかった英単語のテストを受けている。再テストなら普通にあるが、渡辺は再々々々々々々々々々テストくらいなのだろうか。かなり多めに用意しておいたテスト用紙がなくなろうとしている。またしても失敗した渡辺がノートに英単語を書きながら言う。
「僕、頭が悪いから・・・・・・」
これだよ。できない理由に「頭が悪い」ってすぐ言うもんな。
「たかが単語を覚えるのに、頭の良し悪しが関係あるもんか。ただ、覚えるか覚えないかの違いだ」
「なかなか覚えられないのは頭が悪いからでしょ」
「違うよ。覚えるのに少しの時間で済むか、長い時間かかるかの違いだ」
「そうかな、やっぱり頭の差だよ。尾崎なんかテスト前に1分ほど眺めたら満点取っちゃうんだから」
「尾崎は確かにすごいよな。でも、覚えてしまえば尾崎もお前も同じだろうが」
「そう・・・・・・?」
「100mを10秒以内で走るか17秒で走るかくらいの違いだ。10秒以内で走る奴はオリンピックなんかに出て名が売れるけど、17秒の奴も、その7秒後にはやっぱり100m走っちゃってるんだぜ。10秒を切る奴はそりゃとってもすごいけど、100m走るってことには変わりはない。どんな体でもありさえすりゃ100mくらいなんとかなる。脚がなくったって車椅子でそこそこの速さで走れるんだぜ。人間の能力差なんてせいぜいそんなもんだろ。頭も同じさ」
「そうなんだ」
「そうだ。だから頭がいいとか悪いとかグダグダ考えずに、時間がかかってもいいから覚えりゃいいんだよ」
「ごめんね、いつも遅くまで」
「謝ってどうする。俺はいいんだよ。人のこと気にするより覚えてしまえ」
1月19日
恭子がふとつぶやいた。
「先生って何なのかなあ」
「は?」
「何となくね。ヒロシが先生してるのか、先生がヒロシしてるのか、どっちだろって」
「何だよそれ」
「だから、何となくだって。言ってみただけなの」
1月20日
原、彼女に振られる。彼女の最後の言葉は「あなたを好きだと思ってたのは、錯覚だったの」だそうだ。
1月23日
授業中、佐伯の手袋が目に付いた。
「おい、佐伯、ちょっと手袋貨してくれよ」
「いいよ」
「ありがとう」
手にはつけずに足に履いてみた。無茶苦茶気に入った!なんか、昔の映画に出てくる怪獣の足みたいだ。見方によっては可愛いじゃないか。
佐伯はおとなしくテキストの問題を解いている。今のうちだ、とばかりに、教室中歩き回ってみた。いい。すごくいい。
誰も気付いてくれないと寂しいので白井をつついて見せてやった。
「カワイイ!」
白井が叫んだ。それ以後は授業にならなかった。ただ1人、佐伯がブルーになっていた。
1月25日
白井が話しかけてきた。
「家でね、みんなにね、手袋を履いて歩いて見せてあげたの」
やめてくれよ。塾であったことをいちいち家や学校で報告するんじゃない。
「え?やっちゃったの」
「うん、お母さんなんか気に入っちゃって、わたしと一緒に手袋履いて歩き回ったよ。お父さんに『うっとうしい』って言われたけど」
「お茶目なお母さんだな」
「うん。でもね、ふと気付いたようにわたしを見てね、『あんた、塾で誰に何教えてもらってるの?』って」
「で、どう答えたんだ?」
「うん。『岸和田先生に英語よ』って」
うわあ。
1月28日
今日はテレビの音楽番組に、Kという女性歌手が出演する。見たい。番組は夜8時から、授業の真っ最中だ。しかし、見たい。この上なく見たい。仕方がないのでその授業の生徒全員を強制的にテレビのある教室に連れて行って、見せた。おとなしく見てるから不思議だ。授業(テレビ鑑賞も授業の一環だが)より静かにしてるからムッとなった。Kが歌っているときに歌詞を口ずさんでやったら、「しーっ!」とたしなめられた。とりつかれたように見入っている。特に女子生徒。こいつらがみんなK憧れているとしたら、嬉しいような、とんでもないことのような。KがサマになるのはKだからで、こいつらが一斉にKと同じ格好をしようと、Kと同じ口調でしゃべろうと、やっぱりこいつらはこいつらなんだろうなあ。何を書いてるんだろう、俺は。うーん、自分に付加価値をつけることを教えてやらねば。いや、先に自分を客観的に見つめる強さを持ってもらわなくては。勉強教えている場合じゃないかも知れない。
1月29日
そういや、昨日テレビにKが映ったら、女子生徒ほぼ全員が「カワイイ」とか言ってたぞ。俺の考える「カワイイ」とはほど遠いメイクをしてたが、何でも「カワイイ」んだな、自分の気に入ったものは。そのうち世の中は「カワイイ」ものと「カワイクナイ」ものの2種類だけで成り立つようになるんだろうな。あいつら「的」には。
塾長に呼び出された。やっぱり。
「昨日は授業中生徒にテレビ、しかも音楽番組を見せたそうだが、どういうことだ?」
「そういうことです」
「・・・・・・」
普通なら「ザマミロ」と腹の中で言ってるが、今日は口から意外な言葉が出て来た。
「すみませんでした。以後気をつけます」
「え・・・・・・あ・・・・・・」
塾長がびっくりしている。
「いや・・・・・・、これから気をつけてくれればいいんだよ」
すぐに解放された。
たまには謝ってみるもんだな。ザマミロ。
しかし、減給処分。
1月30日
授業が終わって職員室に戻ると、北が質問に来た生徒に何か教えてる。何度説明しても生徒には理解できないようだ。北の説明が悪いわけではない。北は当たり前のことを最初から順を追って丁寧に説明しているのだ。
「・・・・・・ということだ。わかったか?」
「うーん・・・・・・。まだ」
「よし、それなら・・・・・・」
結局、生徒が納得して帰ったのはそれから1時間ほどしてからだった。大久保が北に声をかけた。
「北先生、よくあそこまで根気強く教えられますね。僕には無理かな」
北が答えた。
「さっきのは勝ったとは言えないけど負けてもないかな。じゃ、次の勝負に備えて帰ります。おっと、命の水も補給しなくちゃねえ、あかねちゃんとこで」
北は帰って行った。大久保はポカンとしたアホ面を数秒さらした後尋ねてきた。
「勝ち負けって・・・・・・。何なんですか?」
「さあね」
大久保にはわかるまい。俺も北の言う勝ち負けがわかっているのではない。だが、同じような基準はある。
生徒が、俺の教えたことを100%理解してくれりゃ確かに嬉しい。10か20言えば100まで理解してくれりゃ嬉しい上に楽だ。出来のいい生徒だけ集めてすごくレベルの高い授業もしてみたい。でも、今、ここにある現実に取り組まないとな。多くの普通人に理解してもらうことを放棄したら、それは俺の負けなんだ。そして、負けないだけで精一杯。勝つなんてことがあるのだろうか、先生という職業に。
1月31日
授業を始めようと思ったら高橋がいない。高橋と仲の良い城之内に尋ねてみた。
「ああ、高橋、今頃は彼とデートしてるよ」
「彼だぁ。その彼っていうのは人間なのか?」
「そんなこと言って。先生知らないの、スッッッゴイかっこいい人なんだよ」
「知るか。好きにしろよ。でも、高橋がよくそんないい男を捕まえられたな」
「そうよね、いい男とブス、美人とブサイクな男の組み合わせって結構多いよね」
「俺はそんなこと言ってないぜ。高橋がブスだなんて」
「言ってるじゃない。言いつけてやろ」
「構わないぜ。高橋の1人や2人、何とでも言いくるめてやる」
「でも、どうして釣り合わない組み合わせができちゃうのかな?」
「そうだなあ、人間は自分の外見が他人に比べてどの程度のものかなんて、結構よくわかるからなあ。で、外見が普通、あるいは普通以下の人はそれがよくわかってるから、連れてる相手でそのコンプレックスを埋めようとする。つまり、つき合う相手が美男・美女なら、自分もいい男・いい女に見られる。少なくとも、美男・美女を連れてるんだから、何かすごいところがあるんだろうなと、みんなに思ってもらえる」
「そうかもね」
「でも、美男・美女は誰がどう見たって美男・美女なんだからつき合う相手にそんなもの求めなくていい。まあ、好みの外見はあるだろうけど。だから、目に見えない内面とか、努力して獲得したものとか、努力そのものに惹かれることが多いんだと思う。で、そういう組み合わせが結構あるんだろう」
「へえ、それじゃ、先生と恭子さんもそうなの」
「どういう意味だ」
「だって、恭子さんは美人なんでしょ」
ちょっと頭にきた。
「俺達は運命の出会いをしたの。それで、神様のはからいで付き合い始めたの」
言った後の城之内のため息が少し耳に痛かった。
2月1日
安達から電話があった。
「おい、恭子ちゃんがおかしなこと訊いてきたぞ」
「何て?」
「『ヒロシは何が嬉しくて塾の先生なんてやってたのかしら』って」
「で、お前はどう答えたんだ?」
「『多分、生徒が志望校に合格したり、夢に近付いたりしたらうれしんじゃないか』って答えておいたけど。実際はどうなんだ?」
「うーん、ちょこちょこ嬉しいことはあるけど、結果として目に見えるのはそんなところだよな。だが、俺が生徒の夢を叶えるわけじゃないし、生徒と同じ夢も見られない」
「そりゃ、そうだ。でも、恭子ちゃんは何でお前に直接訊かないんだ?」
「今、忙しいし、まともに答えないと思ったんだろ」
「そうなのか?」
「多分な」
「ふうーん。ところで、せつさんからまだ連絡はないのか?」
「ない」
「いいな、すぐに教えろよ」
恭子、俺は教えたいから教えてたんだよ、教えてるんだよ。そして、教えても教えても無力感を味わってきた。それでも教える。俺は先生なんだから。先生である限り教えるよ。
2月2日
毎日が戦争。この業界の常とはいえ、入試前のこの時期は毎年凄まじい。
しかし、推薦入試で孝行に受かった生徒や、早めに合否を出す一部の私立高校・大学へ受かった生徒もちらほら出てくる。お前達、よくやった!
2月3日
せつから手紙が届く。住所と近況報告だけの簡単なものだった。早速、安達に教えてやった。
2月4日
昼過ぎ、安達の母親から電話があった。
「智宏が、会社を辞めてしばらく旅に出るって言うんですよ。馬鹿なことは止めなさいって言っても、『今アフリカに行かなきゃ一生後悔する』とかわけのわからないこと言って、全然聞かないんです。お願いします。智宏を止めてください」
「今回だけは僕にも止められないと思います」
「岸和田さん、何か知ってるんですか?」
好きな女を追いかけて行くんです、なんて本当のこと言ったら、とんでもないことになりそうだしなあ。ええい、ウソも方便だぜ。
「はい。実は智宏君は飢えや貧困で苦しんでいるアフリカの人々のことをずっと前から考えていたんです。苦しみを和らげる方法はないか、自分に出来ることはないかって。それは真剣に」
「そうなんですか」
「ええ。せっかく入った会社はどうするんだ、冷静になれって言っても、『アフリカの人のことに比べりゃ、俺の入った会社なんてどうでもいいことなんだよ』って叱られたんです。止むに止まれぬ思いなんですよ。きっと、智宏君にとって、『アフリカの人』は人生をかけて悔いのないものなんでしょう。彼の熱い思いは僕には止められません」
「智宏がそこまで考えていたなんて・・・・・・」
「立派でしょう?でも、お母さんには照れくさくて言えなかったんだと思います。ほら、男の子っていうのはそんなところがあるじゃないですか」
「そうですねえ、女親には、男の子ってよくわからないんですよ。でも、フラフラしてた智宏がねえ、そんなこと考えてたなんて。ありがとうございます。よく話し合ってみます」
何とかごまかした。
安達の携帯を鳴らして塾まで呼び出す。
「・・・・・・というわけで安達よ、お前は『アフリカの人』に人生をかける立派な人になっちゃったから。まあ、親がどう言おうが行くんだろうけど、大義名分は立てておいてやったから、少しは話し合ってみろよ」
安達は何も言わずに両手で俺の右手をしっかり握り、何度も上下に揺すって、その後やっぱり何も言わずに出て行った。
良かったんだろうか。
3月3日
恭子がドキッとするようなことを言った。
「ヒロシ、人の気持ちを確かめる、っていうか、試したことある?」
結構最近確かめたぜ、お前を口説くために。わざわざイギリスまで行った。
「何だよ、それ」
「よくあるじゃない。子どもがどうってことないってわかってるのに、母親の気を引こうと、わざと大げさに痛がったり、泣いたり」
ちょっと安心した。
「うん、子どもの頃はしたかも知れない。けど、泣いたりわめいたりしてるうちに本当に痛くなったり熱が出たりするから不思議だよな。で、母親が心配してくれると、やけに安心して幸せな気分になったりして」
「じゃあ、あるんだ、人の気持ちを試したことが」
「それは試すというより、何だろう、子どもなりにバランスを取るのに必要なことなんじゃないかな」
「必要なのか・・・・・・。わたしもバランス取ってみようかな」
「絶対止めろ!」
「どうして?」
「お前はとんでもないバランスの取り方するような気がする」
「しないわよ。わたしは子どもじゃないから」
3月4日
明日は公立高校入試。中学3年生に最後の授業をした。
何でもいいから頑張ってくれ。
3月5日
「受験の朝、先生の顔が見たい、声が聞きたい」というかわいげのある奴などいないのだが、「魔除け」をしてやるつもりで、教え子に声をかけに毎年どこかの高校に行くことにしている。今年は美園北高校だ。丘の上にある。最寄の駅から続く坂道を300mほど登ると、まず、通用門がある。さらに10mほど奥が正門になっている。俺は通用門のところで朝早くから待機していた。
試験開始時刻の1時間30分前くらいから、ぼちぼち受験生が姿を見せ始める。坂を歩いて登って来る者がほとんどだが、親に車で送ってもらう者や、タクシーで来る者もいる。しかし、誰もが一応は通用門の前を通るから、教え子を見逃すことはない。それにしてもかれこれ1時間前だっていうのに、俺の教え子は1人も姿を現さない。この高校を受ける奴は20人ほどいるのだが・・・・・・。「受験の朝は余裕をもって行動しろ」という俺の言葉を、ある意味では守っているのだろう。余裕違いだよ。
他塾の先生達は、校庭や校舎の前で生徒達に使い捨てカイロを渡したり、何かプリントを見せたりしている。何故か生徒と握手している先生もいる。いいよな、することがあって。ああ、ヒマだ。
ほかにすることがないから、坂を登ってまず目に付く通用門から入ろうとするほとんど全ての受験生に声をかけることにした。もちろん知らない奴らだけど。
「君、君、ここは通用門だよ。正門はあっちだから。受験のときくらい、堂々と正門から入った方が気分がいいよ」
「ここは通用門だからね、言ってみれば裏口。縁起が悪いよ。正門から入ったほうがいいんじゃない?」
なんて、交通整理の警官みたいに、手で正門を示して受験生達に親切に教えてやる。受験生達も、
「そうですか。ありがとうございます」
「わかりました」
と、やけに礼儀正しく返事をして正門に向かう。
さすが受験の朝だ。普段なら礼儀の「れ」の字にも縁がなさそうな連中も、緊張して礼儀正しくなってるんだろうな。そのうち、何を思ったのか「お早うございます」と俺に挨拶する者まで現れた。すると、それを見ていた他の受験生達も何か勘違いして俺に挨拶する。挨拶されれば、俺にも「ああ、お早う。頑張ってね」と言葉を返すくらいの常識はある。さらに、「正門はあっちだよ」と教えてやる。ほぼ全員の受験生が「お早うございます」と俺に挨拶して、俺の示す正門へと向かう。引率のどこかの先生や、子どもを送って来た親までもが、「お早うございます」「お疲れ様です」と挨拶してくるもんだから、それはそれは気分がいい。受験の朝の人の流れを見事なまでに仕切っている、仕切り続ける。ああ、忙しい。
それから20分後、やっと教え子達が現れた。
「お早う。やっと来たか」
「お早うございます。先生、何やってるんですか」
「ああ、みんなに正門を教えてやってるんだ」
師弟の会話を交わす間も、俺の知らない受験生達が次々「お早うございます」と挨拶して行く。
「先生、今の誰なんですか?」
「知らない」
「・・・・・・。先生、わたし達の受験のときくらい、おとなしくしておいてください。頼みますから」
「ああ、悪いわるい。つい調子に乗っちゃって」
教え子達と一緒に正門から入り、一応は先生らしく、自信のなさそうな奴を、
「自信を持て。お前はすごい。カエルよりすごい。バッタよりすごい。もしかしたらネコよりすごいかも知れない」
と、励ましたり、この期に及んでダラダラとしまりのない奴には、
「ロンドン市街地の中心部、『シティ』から北北西に35kmほどのところにあるニュータウンの名は?出るぞ」
と、問題を出して緊張感をもてせてやったりした。
お前達、がんばれよ。顔は見られなかったけど、他校を受ける「お前達」もがんばれよ。
3月6日
大学入試はほぼ結果が出てる。
・・・・・・弘中、神垣、堀が合格。松下が不合格。大田、岡田が合格。宮本は浪人決定、当たり前だ。乾、井上、松山、後藤が合格。原も合格、これは錯覚ではない。橋本、福島、何と宮城まで合格。浜田は第2志望に合格、しかし、浪人。宮、高瀬、中井が合格。吉岡は不合格。高梨も不合格、今から間に合うところに出願。青山が合格、高羽が合格、しかし、高校の単位不足で留年。平野が合格・・・・・・。
みんな、よくがんばった。誰が知らなくても、俺が知ってる。
さよなら。
3月8日
今日は朝から塾に来て私物の整理をした。
そして、最後の授業だ。「さようなら」を言いたい気持ちを抑えて授業を進める。
あと5分だ。あと5分でこの塾での授業が終わる。
「何か質問はないか?授業以外のことでもいいぞ」
「先生、いつか自分の命より大切なものがあると言ってたけど、何?」
「地球?」
「地球も大切だけどな。人間なら本来誰でも持ってると思う」
「体?」
「違う」
家だ、財産だ、子どもだ、色々な答えが出るが違う。
「見えないものだ」
心、精神、愛。近い、表現の違いだけだ。
「魂」
「魂?それって命や心と同じじゃないの」
「違う。なんて言えばいいのかわからないけど、魂ってのは色んな形で遺伝するんだ。しかも、血のつながりを越えて」
「ふうん。よくわからない」
「いつかわかる、かも知れない。わかった奴は俺の魂が遺伝したんだぜ、きっと」
生徒達は「気持ち悪い」「わかりたくない」とさんざんなことを言っていた。しかし、お前達は確実に俺の魂に触れた俺の教え子達だ。とんでもない魂で悪かったけどよ。
さよなら。
3月10日
せつから手紙が届いた。
「変な日本人がいきなり現れて、診療所の隣にほったて小屋を作ったかと思うと、子ども達に算数やアルファベットを教え始めた。何日かして政府軍に連れて行かれたけど、すぐに戻って来て本当にほったて小屋臨時学校の先生になっちゃった。政府の公認っていうより政府の黙認だけど、今じゃ結構慕われてる。その安達先生はおかしなことばかりするからわたしも楽しめる」
安達、やるじゃん!
3月11日
午後、早い時間、生徒達が来る前に、塾長や先生方、片桐さんに挨拶をした。そして、塾を後にした。
さよなら、栄明塾。
塾を去るのはどうでもいいが、生徒達と別れるのがつらい。これまで実際に教えた生徒達はもちろん、これから出会うはずだった生徒達と別れるのも。まだ出会っていないのだから普通は「別れる」とは言わないかもしれないが、俺の中では何の不思議もないことだ。
まあ、また新しい人々に出会うからいいけどね。
3月12日
明日、いよいよ恭子が俺より一足早く渡米する。向こうでは一緒に暮らすんだから2人で行けばいいのだが仕事では仕方がない。まあ、先に行って色々と整えておいてもらえば楽でいいよな。
恭子から電話があり、空港へ行く前に食事をすることになった。正午に汐里が丘駅に来いと言う。
「何で、汐里が丘駅なんだよ」
「すごくおいしい天ぷら屋さんがあるのよ。しばらくおいしい天ぷらも食べられないから」
「なんていう店だよ」
「名前は忘れたわ。でも、駅から歩いて5分くらいよ。道は覚えてるのよ」
「ふーん、そうか」
「そう言えばヒロシ、明日は汐里が丘高校の合格発表でしょ?」
「ああ、でも、もう関係ないからな」
「せっかく汐里が丘まで行くんだから、ついでに合格発表も見れば?」
「いいよ、塾からも誰か見に行くさ」
「そう言わずに。ヒロシの最後の教え子達でしょ。合否くらい見届けてあげなさいよ。バチは当たらないわよ」
俺はこの教え子って言葉には弱い。「最後の」って修飾語がつけばなおさらだ。
「それもそうだな」
「何時に発表なの?」
「正午のはずだけど」
「それなら、ちょっと早めに11時30分に汐里が丘高校で会いましょう」
結局、汐里が丘の合格発表を見に行くことになった。ここいら辺では最難関の高校だ。生徒が一番多く受験したのも汐里が丘だし、毎年合格発表を見に行ってるのも汐里が丘だし、いいか。生徒の受験番号リストを探しておかなきゃならない。しかし、あの辺りにおいしい天ぷら屋があるとは知らなかった。
3月13日
11時25分に汐里が丘高校に着いた。受験生や親達、学校や塾の先生らしき人達がもうかなりの数集まっていた。同僚、いや、元同僚の杉下の姿も見える。お互い軽く礼をする。ちょっと気まずいが、来てしまったものは仕方ない。恭子も来ていた。たわいない話をしながら正午を待った。教え子達の姿も見える。手を振る子、ニッと笑ってガッツポーズをする子、見て見ぬふりをする子。色んな子がいる。いていいのだ。いるのが当たり前なのだ。
武市が挨拶してきた。
「先生、恭子さん、こんにちは」
「こんにちは。いよいよだな。大丈夫さ、お前なら」
「そうだといいけど。じゃ、友達が待ってるから行くよ」
恭子が不思議そうに尋ねた。
「どうしてあの子がわたしの名前を知ってるの?」
恭子を話のネタにしてたなんて言えないしな。
「有名人だったんだよ。ウチの塾じゃ」
「そうなの」
それ以上の追求はなかった。いい女だ。
正午が近付いてきた。ドキドキしてきた。胸が締めつけられてきた。毎年のことだがこの時間は体に良くない。ああ、今年は何人泣くのだろう、違う、何人笑うのだろう。吉田は、藤谷は、本原は・・・・・・。ああ、もっとキッチリ教えとくんだった。武市と長崎はまず大丈夫だろうが・・・・・・。授業後残してでも鍛え上げておけば良かった、特に森川と神田は・・・・・・。
人がますます多くなった。何か向こうが騒がしい。正午まで後5分、高校の先生が現れたようだ。いよいよ合格者の番号掲示だ。
「ぼちぼち見てくる。ここで待っててくれ」
「ええ、待ってるわ。でも・・・・・・」
「でも、何だよ?」
「わたしのR大の合格発表のときは、一緒に掲示板の前まで見に行ったなって思ったの」
そうだ。あのとき、恭子が俺の手を握りしめたとき、俺は初めて気付いたのだ。自分の中に恭子を愛おしいと思うもう1人の自分がいたことに。
「じゃ、また手をつないで一緒に行くか?」
「わたしが一緒に行っても仕方がないでしょ。早く行った方がいいんじゃない」
人混みをかき分けて掲示板の前に出ると、高校の先生が腕時計に視線を落としている。そして、おもむろに顔をあげると、ざわめきがおさまった。
「えー、では、時間になりましたので合格者の番号を掲示いたします。くれぐれもお怪我のないようにお願いいたします」
さあ、教え子達よ、神よ。
紙が貼られる。後ろから押されるように前に出る。手にしたリストの番号を探す。・・・・・・あった、全員あった。信じられない。もう1度確かめよう。・・・・・・ある、やっぱり全員ある。
「やったぜ!ザマミロ!」
何に対してザマミロなのかわかんないが、思わず叫んでしまった。
「!!!!!」だぜ。
掲示板前の人混みから出ると。教え子達が走り寄って来た。やっぱりこいつらは俺の教え子だ。何か言ってる、何て言ってるかわからない。叫んでる奴もいる、もちろんわからない。男子が飛びついてくる。1人、2人・・・・・・支え切れない。倒れる。でも、もういい。俺の支えなどいらない。俺なんかぶっ倒して先へ進め。立ち上がる。改めて顔を見ると、みんな言い顔をしてる。いい男、いい女ばかりだ。このいい男、いい女はこれからも自分の人生を歩み続ける。俺にしてやれることは、もう、ない。
歓喜の時はすぐに終わる。合格した喜びでいっぱいの教え子達は気付くわけないが、もう2度と会えない奴もいるのだ。今このときは別れの時でもある。
よくやったな。おめでとう。お前らを待ってる人はいっぱいいるから、もう行け。ここからお前らの姿を見てるからしっかり歩め。さようなら。
俺は教え子達の後ろ姿に向かって深々と頭を下げた。
頭を元に戻し、今度は空を見上げた。少しだけ優しく霞んだ早春の青空だった。
教え子達が行ってしまってから、恭子が歩み寄って来た。
「立ってるだけでなかなか来ないからどうしたのかなって思って」
「奴等が行くのを見てたんだ」
「やけにしんみりしてるわね。落ちた子がいたの?」
「いや、全員合格した」
「そう、良かったわね」
「ああ、行こうか」
「本当に行ってもいいの?」
「いいさ」
何も話さずに2人肩を並べて正門まで歩いた。そこで自然に足が止まった。母校でもなんでもないのだが、こうして正門を出て行くことは2度とないと思うと名残惜しかった。振り返った。校庭の手前に体育館が、奥に4階建ての校舎が見える。校舎の前に掲示板がある。受験生を歓喜させたり落胆させたりしてきた掲示板。もう見に来ることもない。と、何故か恭子の後ろ姿が視界に入って来た。いったい何なんだ。恭子は校庭を歩いて突っ切ると、掲示板の前で止まりこちらを振り向いた。
「ヒロシ、おいでよ!」
恭子が叫ぶ。恭子のところに向かって歩き始める。恭子が掲示板の紙上の番号を指でたどっている。恭子の横に立つ。
「ヒロシ、この中に教え子の番号がいっぱいあるんでしょ?」
「ああ」
「ただの数字だけど、あなたにとっては、とっても大切な数字なのよね。・・・・・・そうなのよね?塾の先生」
「恭子、俺は・・・・・・」
「いいわよ、何も言わなくて。もしかしたらと思ってたけど、いいえ、本当はわかってたの。あなたとあの子達が一緒にいたとき、わたしの入る余地なんて全然なかった。あなたが『先生』のとき、わたしはとてもじゃないけどあなたの教え子にはかなわないなって・・・・・・。生徒と一緒だと、あなたは何から何まで『先生』なんだなって」
「恭子・・・・・・」
「それに、さっき校門のところから振り返ったときのあなた、無防備で、懐かしさや思い出がいっぱいで、全部を受けとめるような、全部を心にしまいこむような、さびしそうで、やさしそうで、そうよ、やさしさに溢れてて・・・・・・、溶けちゃいそうな振り返り方だった」
恭子は続ける。
「姉さんのことは振り返るしかないけど、ここにはまた来ることができるんだから、無理して今日振り返らなくてもいいのよ。きっとあなたは来年も、その次も、ずっと、こうしてここに来るのよ。大切な数字を見に。そしてこの掲示板の前で教え子達を見送るのよ。ねえ、塾の先生」
恭子は目に涙をためている。
「恭子・・・・・・」
「せっかくのチャンスをみすみす棒に振って、そうやって一生安月給の塾の先生してればいいわよ。年に一度の数字だけを楽しみにして。わたしには理解できないけど」
「・・・・・・すまない」
いきなり恭子が飛びついてくる。不意を突かれて思わず抱きとめてしまう。目の前に恭子の泣き顔がある。
「でも、わたしは塾の先生大好きよ」
恭子の顔が斜めに傾き、見えなくなった。俺の口は柔らかい唇でふさがれた。
こんなまっ昼間、高校の掲示板の前でキスするのは初めてだ。普通そんなことしないよな。しかも今日は合格発表の日だ、知り合いが見てるかも。いいんだろうか。ああ、もう、いい。涙の味がする。恭子の涙だ。俺はやっぱり恭子が好きだ!
どれくらいキスをしていたかわからない。目の前に恭子の顔が見える。
「ずっと待ってるからな。帰って来いよ、俺のところに」
「当たり前よ、いついまででも待ってなさい」
「『いつまででも』ってどういうことだよ」
「そういうことよ。でも、まず履歴書用紙買いに行きなさいよ。どこかの塾に拾ってもらわないとね、先生!」
「そうだな、うん、まずは履歴書だ。ついでに求人誌も。どっかの塾で先生しないとな。恭子の好きな塾の先生を」
そして、何より、俺自身が好きな塾の先生を。
「・・・・・・わたし、あなたのところで死ぬから。絶対に」
恭子の顔が、今度は泣き笑いの顔が斜めに傾き、また見えなくなった。
3月14日
昨日はまいった。この俺が人前でキスをしてしまうとは思わなかったぜ。さめると恥ずかしかった。逃げるように高校を後にした。
その後食事に行った。駅から歩いて5分のはずの天ぷら屋を30分歩き続けて探すが見つからず、結局、味も値段も界隈で一番という寿司屋に入った。もちろん支払いは俺だった。
ありがとう、恭子。
それから空港へ行った。あっさりした別れだった。
「じゃあね、彰子姉さんにきちんと報告しておいてね」
恭子はニコッと笑って、サッときびすを返して消えていった。振り返りもしなかった。
まあ、いいか。もうお互い、気持ちが伝えられず、伝えてもらえず、伝わらず、つらい思いをすることはないんだ。
帰宅途中、コンビニで求人誌を買った。フルタイムの塾講師の募集は思ったより少ない。しかも、この春の大学卒業者なんての募集が多い。
「俺はこんな競争率が高い職業に就いてたんだな。一種のエリートじゃないか」
自分で言って笑ってしまった。
ウン?「常勤講師募集。大卒以上年齢不問。中・高生の英語・国語・社会を教えられる方。受験学年の指導の経験ある方優遇」まるで俺のためにあるような求人じゃないか。決まりだな。どこの塾だ?
・・・・・・「栄明塾」だって。
3月15日
「栄明塾」様に履歴書を送らせていただいた。
3月16日
ブライアンに断りの電話を入れた。彼は俺の説明を聞くと言った。
「Crazy, but fantastic ! Hiroshi, SAMURAI, HARAKIRI, BANZAI !」
相変わらず変な奴だ。
3月18日
ありがたいことに「栄明塾」様に採用していただけた。恭子にそのことを報告したら、
「またヒロシを使おうなんて、懐が深いと言うか、腹が据わっていると言うか。でも、あの塾だからヒロシにも務まるのよ。まあ、いい塾なんじゃない」
という返事だった。
3月19日
チョコレートをいっぱい持って彰子の墓に行く。恭子とのことを報告する。
「・・・・・・と言うわけで、こうなっちゃった。彰子、お前に会えて良かった、お前を好きで良かったよ。で、幸せでいてくれて本当にありがとう。お前に負けないくらい幸せになるよ、俺も恭子も。今度は恭子と一緒に来るからな。やきもち焼くなよ」
灰色の石の板が、心なしか柔らかく見えた。
「それと、『言葉』をありがとう」
ポケットから指輪を取り出した。
「彰子、この指輪、恭子に渡すの忘れてた。しばらく俺が持ってるから」
供えたチョコレートがやけにおいしそうで、1つくすねて食べた。
何の憂いもない甘さだった。
3月20日
早速、栄明塾から呼び出しがかかった。塾長が他の講師にわざわざ紹介してくれた。ありがたいことだ。
「ええ、皆さん、どういうわけだか、また、新しく入って来られた岸和田浩先生です。文系教科を担当してもらいます。ちょっと変わった方ですが仕方ありません。皆さんよろしくお願いします」
変な紹介をしやがって。相変わらずイヤな奴だ。
「岸和田です。なさらないとは思いますが、お気遣いなく」
進藤が話しかけてきた。
「岸和田先生、また一緒に頑張りましょう。あ、指輪。これまで指輪なんてしてなかったでしょう。ははあ、彼女からですか?」
俺からだよ。元々俺が買ったんだ。で、自分で買った指輪を自分でしてる。かっこ悪いな。
「いいえ、違いますよ」
「またまた、とぼけちゃって。でも、普通は薬指ですよね?どうして小指なんですか?」
薬指が太くて小指にしか入らないからだよ。あー、色々うっとうしい。普段ははずしておこう。
「何となく小指なんですよ。これはね、ある人に上手に渡らなくってね、僕から渡すことになったんです」
それまでに俺の祈りもこめておこうと思って・・・・・・。
「先生!」
誰かが呼んでる。
「先生、岸和田先生!」
誰かじゃない、生徒だ。俺の生徒だ。
そして、俺は先生だ。教えても教えても、伝えても伝えても、まだ教え足りない、伝え切れない先生だ。だから、いつまでも教える、伝える。生徒に教えてもらいながら、伝えてもらいながら。
「どうした?」
「ちょっと来て、チョコあげる!」
20××年 4月20日
この日、恭子は俺との約束を果たした。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
読んでいただいてありがとうございます。