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塾の先生  作者: 高野敢太
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第7章 〜 銀の指輪



9月20日


 恭子と連絡が取れない。

 電話をかけても出ない。もちろん、向こうからもかかってこない。


9月22日


 夜、せつから電話があった。

「今日、偶然恭子さんに会ったの。すごく疲れた顔してた。眠れないんだって。うとうとしたかと思うと、彰子の顔が見えたり声が聞こえたり、それで、ハッとして目が覚めて、朝までその繰り返しだって」

「それって、一種の精神病じゃないか」

「うん、病気とは言わないまでも、かなりストレスがたまってるみたい」

「まいったなあ」

「あなたとはもう会わないって言ってたわよ。そんな馬鹿なこと言わないで素直になりなさいって言ったけどね。『姉さんを死なせたのはわたしよ』なんて言うのよ」

「彰子を死なせたって?どういうことだ?」

「彰子が生きてるうちからヒロシのことが好きで、彰子がいたら自分の気持ちが伝わらない。だから、彰子がどこかに行けばいいと心のどこかで思っていた。そうしたら、本当に遠いところに行っちゃったってことでしょ」

 俺はあの夏の日、恭子が言ったことを思い出していた。「どっちかが死ねばいい。でも本当はどっちにも死んで欲しくない」

「それほど自分を責めてるのか」

「うん。恭子さんには、専門家のカウンセリングを受けるように勧めておいたけどね。自分で解決方法はわかってるって・・・・・・」

「俺のこと忘れるってことか」

「それも1つの方法だと思うわ。でも、できると思う?できないわよ」

「じゃ、どんな方法があるんだよ。まさか・・・・・・」

「うん、自殺ってことも考えられるわよ。自殺とは言わないまでも、何かあったらすんなり死を受け入れると思う」

「俺がそんなことさせない」

「ヒロシがその気でも、本人があれじゃ」

「何とかするよ」

「約束よ。何とかしてあげてね。仕事がらみとはいえ思い切って日本に戻って来たのよ。心の奥底ではあなたに会いたかったのよ。あなたに救いを求めてるのよ。救ってあげてね」

「ずっと酒を飲ましておけばいいんだけどな」

「そうね、できることなら酔ったままにしておいてあげたいわね」

「彰子と恭子・・・・・・」


9月23日


 彰子の墓に行った。街を一望できる丘の中腹に彰子は眠っている。何をするということもなかったのだが・・・・・・。

「彰子、もういじめないでくれよ。俺も恭子も十分苦しんだよ」

「別にいじめてなんかいないわよ。2人で勝手に苦しんでるだけよ」

 彰子の声が聞こえたような気がした。

 十字架が刻まれた灰色の石の板は、後ろに澄み切った青空を従えて飽くまで涼しそうにたたずんでいた。

 少し肌寒い日だった。


9月25日


 安達と酒を飲んだ。酔ってくると安達はからみ始めた。俺と彰子、恭子との関係を説明してやるといった。そんなことできないと言っても「俺にはわかってるから、聞け」としつこい。

「ヒロシ、お前は昔からムカつく奴なんだよ。ピアノ弾かせりゃ生意気に俺にすぐ追いつく、走らせりゃインターハイ、勉強させりゃ1年で国立大学、おまけに、塾で教えりゃ教え子は合格ときたもんだ。ああ、ムカつく」

 なんだよ、ただ、喧嘩売ってるだけじゃないか。

「待てよ、俺だってそのときそのとき一生懸命努力してきたんだぜ。今もしてるし」

「当たり前だろう。努力あってこその人間だ。だが、そこがムカつくんだよ。その努力ができるってのが俺に言わせりゃ才能なのさ。べらぼうな才能さ」

 こいつ、どこが俺達3人の関係なのさ。

「俺に言わせりゃ、努力するのが当たり前で、何もしない奴の方が変なの」

「そうだろうとも。だがよ、もう1人すごいのがいたじゃないか」

「誰だよ。絶対にお前じゃないし」

「わかんないのか。お前にはわかりづらいよな、同類だからな。彰子ちゃんだよ」

「彰子?」

「そうだよ。やっぱり気付いてなかったのか」

「俺も彰子も普通だぜ」

「それもムカつくんだよ。気付いてないところによ。お前と彰子ちゃんのすごさは、大発明したとか、IQが200あるとか、百億円稼いだとか、そんなんじゃないんだよ。例えば、俺が、全てを犠牲にしてでもしなくちゃ、と決心してようやくできるような努力をよ、当たり前のようにしちゃうところなんだよ。その情熱なんだよ。彰子ちゃんはそんなお前を本能的に認めて受け入れた。お前もそうさ、同じ魂の持ち主に惹かれた。そりゃ最初は見た目だったかも知れない。でも、見た目だけじゃすぐに終わっちゃてたさ」

 酔ってる割にはまともなこと言うじゃないか。

「恭子ちゃんも姉と同じようなお前に興味を持った。そして、お前にとっては当たり前の、でも、普通の人がくらったらつぶれてしまうくらいの情熱の直撃をくらったんだよ」

「事故みたいじゃないか」

「一種の事故だよ。受験っていう目標があったにしてもな。お前をしっかりと見据えて、応えようとしたんだよ。で、お前が恭子ちゃんに惹かれていったのもわかる」

「俺自身にもはっきりしない心がお前にわかるのかよ」

「わかるよ。お前は、デタラメなんだよ」

「何だよ、それ」

「彰子ちゃんはな、ピッチャー岸和田浩が投げるとんでもないボールをこともなく受けとめて、軽く投げ返すキャッチャーだった。お前を一番よく理解してるのが彰子ちゃんだった。お前自身ですら時々持て余すお前と、自然に、あれだけうまくやっていけたんだからな。最高の相性だよ。彰子ちゃんと一緒にいればこの上なく安らぐさ、普通なら。でも、お前は安らぎなんか求めちゃいない。どころか、理解されるとかされないとか、そんなこともどうでもいいのさ。デタラメだから。お前が求めてるのは、バッターなんだよ。お前が投げるボールを打ち返したり、空振りしたりするバッターなんだ。お前に向かってくる激しさ、お前を打ちのめそうとする強さだ。戦い終えて初めて勝ち負けを越えて気持ちが通じる、そんな女だ。お前と勝負できる女だ。バッター香山恭子さ」

「ホント、デタラメな女性観だ」

「ああ、デタラメさ。でも、結構当たってるだろ?彰子ちゃんはお前を理解し寄り添った。恭子ちゃんはお前に負けなかった。さあ、時間が経てばデタラメなヒロシ君はどっちを選ぶでしょう?」

「でも、デタラメな俺に選ばれても困るだろうよ」

「そうなんだよ。だから恭子ちゃんもデタラメなんだ。恭子ちゃんは彰子ちゃんとは違うから、お前のことあんまり理解してないぜ。たとえ理解したとしても、それはそれ、自分の生きたいように生きるはずだ。お前もそうだろ?つまり、相互理解なんて今のお前達にはあっても仕方がない。そんなもの突き抜けてデタラメに惹かれ合ってる。理解は一番最後にやって来るんだ。どうだ、わかったか」

「ああ、よくわかった。そうか、俺達はデタラメだったんだ」

「そうさ。でもよ、ヒロシ、デタラメに惹かれ合ったとしても、デタラメなままじゃダメだぜ。途中でリタイアして、お前につらい選択をさせなかった彰子ちゃんのためにも、恭子ちゃんと一緒にマトモになれよ」

「安達・・・・・・」

「おっと、香山恭子、バッターボックスに突っ立ってるだけでバットを振る気がないようです。マウンド上のピッチャー岸和田、困惑しています。腰に手を当てて香山を見ています」

「なに、実況中継ごっこをしてんだよ」

「あ、しかし、岸和田、プレートに足をかけました。投げるようです。岸和田は変化球は苦手です。いえ、投げられません。ストレート一本です。香山にぶつけてカツを入れるんでしょうか。棒球で打ち気を誘うんでしょうか。それとも、遠慮なしに思いっきり投げ込むんでしょうか。さあ、振りかぶりました」

「俺はどんなボールを投げたんだよ?」

「さあな、そこまではわかんない。でも、ピッチャーが投げなきゃ始まんないぜ。バッターはピッチャーの投げるボールに反応するんだから。いいか、バッターがどんな反応しようと、マウンドにいる限りは投げ続けろよ」

 話すだけ話して、安達はおぼつかない足取りで店から出て行った。こら、金払えよ。

 だが、あのスチャラカポンも言ってくれるよな。ありがとよ。


9月26日


 安達の母親から電話あり。安達は、昨夜、ふらっと車道に出て車にはねられたらしい。


9月27日


 せつから電話があった。安達はせつの勤めている病院に運び込まれていた。「病室にちょっと顔を出したけど、怪我人とは思えないほど元気だった。具合を尋ねるのも馬鹿らしいくらいに」だそうだ。見舞いに行くのはやめた。


9月28日


「おい、今、せつさんにはつき合ってる人がいるのか?」

 安達がいきなり電話で尋ねてきた。

「誰かいるだろ。よく知らないけど」

「誰だよ?本庄か?」

「いつの話だよ。もうとっくの昔に別れてるよ。お前がケイコちゃんに振られるより前のことだぜ」

「じゃ、誰だよ?」

「知らないよ。せつの病院にいるんだから直接聞きに行けよ」

「それもそうだな」

「だが、どうした、せつに惚れたか?」

「ああ、惚れた。前からいいなとは思ってたけど、職場のせつさんを見たら、もう、完全に惚れた」

「また病気がでたな。今度は白衣フェチにでもなったか。怪我の前に、その、すぐ女にちょっかい出す病気を治せ」

「大きなお世話だ。じゃな」

 あの馬鹿、せつに手を出すとは。身の程知らずめ。


9月29日


 授業後、宮本が話しかけてくる。

「ねえねえ、『宦官』って本当にいっぱいいたの?」

 確かに歴史に関する質問だが、頼むからまともなこと訊いてくれ。と思いつつも、

「ああ、いっぱいいたさ。宦官が政治を仕切ってた時代だってあるんだぜ」

「へえ、すごいね。宦官、見たことある?」

 ないよ、そんなもの。と思いつつも。

「まあ、言ってみればオカマみたいなもんだからな。宦官っぽいものは見てるかもな」

「じゃ、オカマと一緒なんだ」

「うーん、色々違うけどな。まず、作り方が違うよ」

「どう違うの?」

「アレをなくすのは同じだけど、オカマは、医学的な手術でチョン切るだろ。だけどな、宦官ってのはまず、こう、紐でくくってだな・・・・・・」

 事細かに宦官の作り方を説明してやった。途中からは北も加わり、「宦官の作り方」って本が書けるくらいの大講義になった。

 受験まであと3か月あまり。可哀想な宮本。


9月30日


 恭子は心を閉ざしている。もしかしたら心を病んでいるのかも知れない。俺に再会してかえって闇が濃くなってしまった。そして、俺から去ろうとしている。実際、そうするしかないのかも知れない。俺は嫌だ。しかし、当の俺に何の力もない。恭子に何もしてやれない。恭子は失意のまま、闇を抱えたまま、またアメリカに行く。そして、俺達は全くの他人になっていく。俺は嫌だ。大切な人を失うのはもう嫌だ。

 問題は恭子の中の彰子なのだ。俺の中の彰子とは違うのだろうか。優しく、可愛く、頭が良く、色々な修飾語が付くが、最終的には、二十歳の若さで亡くなった彰子。それ以外にどんな彰子がいるのだろう?「彰子」は「俺」だったんだ。俺の知らない彰子などいるのだろうか。


 ・・・・・・もしかしたらいるかも知れない!


10月1日


 手紙を書いた。会いたいと。

 絶対に会わなくてはならない。マリアに。


10月2日


 せつに尋ねた。

「せつ、1つ教えてくれよ。俺と恭子がもしかしたら惹かれ合うかも知れない、彰子はそう予感してた、そうだったよな。そんな予感を持ちながら彰子は割り切って俺とつき合ってたのか?」

「ヒロシ、彰子はそんなケチな女じゃなかったはずよ」

「え?」

「予感は予感よ。彰子は先のこと考えて、自分の愛情をケチるような女じゃなかったわよ。その時その時を一生懸命に生きてた、幸せいっぱいに」

「幸せいっぱいに・・・・・・」

「ええ、見ていてこっちまで幸せになるような幸せ。彰子のおかげで、幸せってほかの人にもうつるんだって理解できたわ。すごく幸せだったのよ」

 ・・・・・・わかった。恭子の心を開けるかもしれない。

「せつ、ありがとう!」

「何よ、急に」

「とにかく、ありがとう」


10月4日


 塾の生徒達の多くが通う中学校で中間試験が始まる。対策用の問題をどっさり用意しておかなければならない。朝から出勤だ。普通は昼過ぎに出勤だから、かれこれ6時間も早い。普通のサラリーマンなら午前9時始業として、午前3時に出社するようなもんだ、なんて考えて歩いていると、制服を着た中学生か高校生の女の子が手を合わせて祈るようにポストの前に立っているのが見えた。祈る場所が違うだろ、とも思ったが気になって見ていた。その子はかばんから手紙を取り出して見つめていた、かと思うと、手紙に「チュッ」とキスをしたのだ。もちろん音など聞こえはしなかったが、完璧な「チュッ」だった。そして、投函を済ませてその子は歩き出した。

 たまには朝から歩いてみるもんだ。久しぶりにいいものを見た。


 因みに、ものを知らない生徒(子ども)だけではなく、普通の大人でも平気で「ウチのポストに鍵を入れといて」とか「今日はポストに何もない」とか言うが、あんたらのウチは郵便局か?あんたらのウチにあるのは「郵便受け」だろ?違うか?

 言葉は時代につれて変わるものなのだろうが、どうも耳について仕方がない。俺がおじさんになったということなんだろうか。


10月7日


 中間試験の対策が終わった。俺はやるだけのことはやった。生徒達は自身のことにもかかわらず、やるだけのこともしていないだろうが、そこそこの点数は取るだろう。何せ俺の教え子達だ。


 期末試験前の忙しい時期になるまでに何としてもイギリスに行かなければならない。マリアに会わなければならない。マリアに教えてもらわなければならない。

 時間がないんだ。恭子が俺の近くにいる間にけりをつけなければ。

 身内に危篤になってもらおう。4、5日なら塾を空けても大丈夫だろう。


10月11日


 塾の近くに新しいケーキ屋ができた。「レッカー」という名前だ。ドイツ語で「おいしい」っていう意味だが、あんまりケーキ屋では聞かない名前だ。知らないうちにどこかに強制的に移動させられてそうな名前だもんな。

 早速、北がなにやら買ってきた。

「『レッカー』って、ドイツ語で『おいしい』って意味なんだそうです。店の親父さんに聞きました」

 しばらくして、大久保も「レッカー」の包みを提げて現れた。

「『レッカー』って、ドイツ語で『おいしい』って意味なんだそうです。知りませんでした」

 みんなきちんと聞いてくるもんだ。わかんないことは素直に尋ねた方がいいもんな。それなら俺も教えてもらってこよう。「レッカー」の意味を。


「こんにちは。そこのシュークリーム2つください」

「はい」

 親父がシュークリームを箱に詰め始める。俺は笑いそうになるのをこらえて尋ねた。

「あ、それと『レッカー』って、どういう意味なんですか?」

「おいしい」

「何語なんですか?」

「ドイツ語」

 親父は不機嫌そうだった。いや、腹の中では怒っていたに違いない。

 ああ、面白かった。

 つい買ってしまったシュークリームを片桐さんに持って行った。

「あ、これ『レッカー』のですね。ありがとうございます。ところで先生、『レッカー』ってどういう意味だかご存知ですか?『おいしい』っていう意味なんだそうです、ドイツ語で。さっきね、お店のご主人に聞いたんですよ」


10月12日


 レッカーの入り口に「”レッカー”はドイツ語で”おいしい”という意味です」という張り紙がしてあった。



10月21日


 空港から塾へ電話した。片桐さんが出た。

「岸和田ですけど、塾長は?」

「今、いらっしゃないんですけど」

「そうですか。良かった」

「どうかしたんですか?」

「ええ、ちょっとイギリスへ行くんですけど」

「は?イギリスって、あの、ヨーロッパの?お店の名前じゃないですよね」

「ええ、ヨーロッパのイギリスです。ちょっと私事で、3日ほど。塾長には『父親が危篤』って言っておいてください」

「はあ、構いませんけど。いいんですか?」

「まあ、ばれたらばれたときのことです。お土産買って来ますから、よろしく」

「はあ、行ってらっしゃい」

「行ってきます」


10月22日


 ブリストルという町にマリアは住んでいる。

 久しぶりにマリアと会った。マリアはチョコレートケーキを焼いて迎えてくれた。

 俺はマリアに胸の内を正直に話した。

「僕は彰子とつき合っていて幸せでした。でも、彰子は二十歳の若さで死んでしまいました。それから、ずっと、彰子のことを不幸な、可哀想な女としか思えませんでした。そして、その思いのためにずいぶん苦しみました。でも、今はちょっと違うんです。彰子は幸せだったんじゃないかと思うんです。『死』そのものは不幸でしたが、彰子は幸せなままでこの世を去ったのではないかと。勝手な解釈ですが。いま、僕には好きな人がいます。いえ、彰子が生きているときからその人は心の中にました。彰子への気持ちの方がまだ大きくて、そのときは彰子以外考えられませんでしたが、時が経てば、もしかしたら、その人の方が大きな存在になっていたかも知れません。そうなる前に、まだ、2人が幸せでいるうちに、彰子は天に召されました。僕は、彰子のことは忘れません。でも、その人のことが好きで、大好きで、彰子と同じように幸せにしたいんです。そのためには、彰子は本当に幸せだったと言わなければならないんです。僕の思い込みなんかじゃなくて、真実として。その人はかつての僕以上に苦しんでいます。幸せがあることに気付いていないんです。教えてください。彰子は幸せだったんですか。その人に伝える幸せはあるんですか」

 マリアは黙って聞いていた。そして、俺をある部屋に案内してくれた。

「ヒロシさん、彰子は日記をつけていたのよ。わたしも知らなかったんだけど、遺品を整理していたら出て来たのよ。いつか、あなたやその人に見せるときが来るかも知れないと思ってた。好きなだけみてちょうだい。自分で確かめてね」

 通された1室では、書籍類、ノート類、アルバム、洋服などが、まるで主を待つかのように整然と保たれていた。その中に何冊もの日記があった。ふと見ると、テーブルの上に鳥の羽をモチーフにした銀の指輪があった。あの指輪だ。何故、ここにあるんだ?彰子の言葉を思い出した。「わたしの幸せの象徴よ。いつまでも、死んだ後も幸せが続くのよ」手にとってみた。もうダメだった。涙があふれてきた。指輪をテーブルに戻し、よく見えない目で1冊目の日記のページを繰り始めた。


 彰子・・・・・・。


 何時間経っただろうか。

 部屋から出てリビングに入ると、マリアがソファから立ち上がった。そっと歩いて来て、俺を柔らかく抱きしめてくれた。本当の母親のように。

「ヒロシさん、わかったでしょう。彰子はとっても幸せだったのよ。娘を幸せにしてくれてありがとう」

 マリアが優しくささやいた。そして、こう続けた。

「ご存知でしょうけど、わたしにはもう1人娘がいるの。意地っ張りで、自分からは幸せになろうとしないのよ。わたしが何を言っても聞かないのよ。あなたが幸せにしてやってくださらない?」

 同じ親からの頼みでも、塾生の親からのとはちょっと違うよなぁ、なんて思いながら、目の奥に、涙がいっぱい順番待ちをしているのを感じていた。


 マリアが話してくれた。

「こんな風になるとは思っていなくて・・・・・・。彰子が死んだときにはわたしも悲しくて何をどうすればいいかわからなかった。しばらくして、彰子は最期まで、死の瞬間まで本当に幸せだったことに気付いたの。それはそれは幸せな人生だったのよ。でもね、そのとき、それをあなたや恭子に話しても無駄だったでしょう。第一、あなたと恭子はすぐに気持ちが通じ合うと思っていたから。恭子は自分の気持ちに気付いてたし、彰子の幸せを素直に引き継いで欲しかったんだけど、思うようにはならなかったわね。恭子は傷ついてた。彰子の死に傷ついたのではなく、自分の思いに傷ついたの。そうねえ、例えば、幸せな彰子をちょっと妬んだり、いなくなればいいと思ったり、不幸な目に遭えばいいと思ったり。姉妹の間ではよくあることでしょう。そして、本当に彰子がいなくなった。自分の思いの通りに。もちろん、恭子と彰子の死は関係ないんだけど、恭子は自分を責めてたの。あんなこと思わなければ良かった、彰子の死は自分の思いのせいかも知れない・・・・・・。理屈ではそんなことはないと理解してるはずよ。でも、心の奥で思ってた、『彰子を不幸にしたのはわたしだ』って。そんな恭子があなたと幸せになろうって思うわけがない。あなたをあきらめることで罪滅ぼしをしようと思ったのよ。わたしには何も言えなかった。それでいいと思ったの。時間が経てば忘れてしまう、みんな過去になる。わたしはこの国で、恭子はアメリカで、あなたは日本で、それぞれの人生を生きるって。でも、だめね。やっぱり、あなたと恭子とは強い絆で結ばれてる。神の決定よ。恭子を幸せにしてやってね。彰子を幸せにしてくれたように。そして、香山洋平がわたしを幸せにしてくれたように」


 帰り際、マリアがあの指輪をくれた。あの日、彰子を送った日、恭子が彰子の指から無理矢理はずしてマリアに渡したのだそうだ。


10月24日


 授業に間に合うように空港から塾に直行した。何とか授業1時間ほど前に塾に着いたかと思うと、片桐さんが走り寄って来た。

「お帰りなさい。早速ですけど、先生あてに吉村という方から何度か電話をいただきました。お急ぎのようでしたけど、ご連絡の取りようがなくて」

「すみませんでした、ご迷惑をおかけして」

「いえ、いいんですけど。つい先ほどもお電話があって、先生がお帰りになったらすぐにこの番号にお電話いただきたいということでした」

「ありがとうございます。あ、これ、お土産です。塾長には内緒にね」

 お土産と引き換えるように片桐さんからメモ用紙を受け取った。

 すぐにかけてみると、そこは病院だった。が、せつの勤めている病院ではなかった。少しだけ背筋が寒くなった。もしや恭子が・・・・・・。しかし、気を落ち着けて切り出した。

「岸和田と申します。吉村という者から、そちらに連絡するように言われてお電話差し上げています」

「岸和田様ですね。少々お待ちいただけますか?」

「ご面倒をおかけいたします」

 待つ間の長いこと。

「お待たせいたしました。いま、吉村先生と代わりますので」

 げっ、せつか。きっと叱られるぜ。

「ヒロシ!あなたどこに行ってたのよ!」

 やっぱり。

「すみません・・・・・・。イギリスへちょっと」

「イギリスですって。いいご身分ね」

「いや、遊びじゃなくて・・・・・・」

「当たり前よ!こっちじゃ恭子さんが大変なことになってるんだからね!」

 やはり、そうか。

「恭子がどうしたんだ?生きてるんだろ?」

「何のんきなこと言ってるの!死んでても不思議はないわよ!」

「怪我か?病気か?」

「あのね、落ち着いて聞きなさいよ」

 俺の方が今のせつより落ち着いていると思うが・・・・・・。

「一昨日の朝、会社のエスカレータに乗ってるときに、急にフッと倒れて、何段か転げ落ちたのよ。そのまま意識不明になっちゃって」

「それで」

「会社の人がすぐに救急車呼んでくれて、この病院に運び込まれたの。山添さんがわたしに知らせてくれたのよ」

「ありがとう。お前がいてくれて助かったよ」

「馬鹿!ありがとうじゃないわよ!たまたま打ち所が悪くなかったからでしょ。たまたま会社のエスカレータだったからでしょ。もし運転中だったりしたらひどいことになってたわよ!ヒロシがしっかりしないからこんなことになるのよ!大体、わたしはもうアフリカに行くんだからね!いつまでも当てにしないでね!」

「その、アフリカって何だよ。初めて聞くぜ」

「ボランティアよ、ボランティア。今は話がややこしくなるからいいのよ」

 お前がややこしくしてるんだろうが。まずは恭子のことだ。

「そうか、ボランティアか。で、恭子の様子は?」

「そうよ、ボランティアよ。で、恭子さんはね、頭も打ってるんだけど、幸い脳や骨に影響はなかったのよ。これといった外傷もないわ。でも、体そのものが相当衰弱してたみたい」

「意識はもうしっかりしてるのか?」

「ええ、点滴も何本か打って体力も回復したから、退院させようかって担当の先生と相談してたとこ」

「退院はいいけど、1人にしておくのもまずいだろ」

「そうね、1人にはしておけないわね。落ち着くまではどうしてもあなたが様子を見てることになるわよ。わたしも自分の仕事があるし、日本にはほかに頼れる人なんていないし」

「それは構わないよ」

「来てくれるなら明日の朝にでも退院できるように話しておくわ」

「わかった、そうしてくれ。今夜は俺がついてる。授業が終わったらすぐ行くから。それまでは悪いけどいてやってくれ」

「いいわよ。でもね、いつまでもわたしが日本にいると思ったら大間違いよ」

「アフリカか。何で急に」

「急じゃないのよ。ずっと前から思ってたの。医療面で役に立ちたいって。あんまり先送りしてると、体力も気力もなくなっちゃうから、今しかないの」

「どうして何も言ってくれなかったんだよ」

「ヒロシに言っても仕方がないじゃない。わたしのことをわたしが決めたんだから。それとも、あなたも一緒に来て守ってくれる?」

「そりゃ無理だよな」

「でしょう」

「で、いつ行くんだよ」

「年末よ」

「待てよ、年末って」

「もう色んな手続きも済ませてあるから。そんなことより、病院にちゃんと来てよね」


 恭子は大変なことになってるし、せつはいなくなるなんて宣言するし、おまけに塾の仕事はこれでもかというほど滞ってるし。何をどうするか整理し切れない。が、まず、恭子のことだろう。


 病室に入ったときには、恭子はもう眠っていた。せつにお礼をいい、イギリスへ行ってきた理由をかいつまんで説明した。


 ずっと、眠る恭子のそばにいた。可愛らしい寝顔だった。少し痩せたみたいだったが、スヤスヤと安らかな寝息をたてる恭子を見て心身共に何とか回復するのではないかと思った。しかし、明け方、恭子の口から漏れた言葉に慄然とした。

「・・・・・・姉さん、すぐに行くから。待っててね」


10月25日


 恭子が目を覚ました。俺の顔を見て素直に微笑んだ。

「目が覚めたな」

「いつからいてくれたの?」

「ゆうべから。せつと付き添いを代わったんだ。それより、気分はどうだ?」

「いいわよ。ありがとう」

 退院の手続き、挨拶をして、病院から恭子を連れて出た。恭子の部屋に着いたのは昼前だった。

「恭子、しばらく仕事は休め。連絡しておいてやる」

「ええ、そうして」

「腹減ってないか?何か作ってやろうか?」

「うん、お願い。何でもいいから作って」

「よし、ちょっと待ってろ」

 冷蔵庫を覗き込みながら思った。今朝から恭子が素直すぎる。明け方の言葉が思い出された。

「恭子、ゆうべ何か夢でも見てたのか?」

「ううん、別に。どうして?」

「いや、寝言を言ってたから」

「どんな?」

「なにかブツブツ言ってたけどよく聞き取れなかった」

 本当のことは言えなかった。

「そうなの。覚えてないわ」

 残り物を適当に料理した昼食を食べ、コーヒーを飲んでいると、

「もう少しいてね」

 恭子が言ったのでびっくりした。素直どころか、甘えてくるなんてどうなってんだろう。絶対変だ。

 午後2時を回った。もう行かないと溜まりに溜まった仕事が片付かない。

「それじゃ、行くから。無理しないでおとなしくしてろよ」

「うん」

「明日の朝また来るよ。授業が終わったら電話入れるけど、何かあったらすぐに携帯を鳴らせ、飛んでくるから」

「うん」

 部屋から出て何歩か歩いてふと振り返ると、恭子が微笑んだ。そして、言った。

「ヒロシ、本当にありがとう。さようなら」


 生徒達はテキストの問題を解いている。わずかだが、考え事をする間ができてしまった。間髪入れず恭子のことが頭に浮かんできた。

 素直過ぎる。全く恭子らしくなかった。「うん、お願い」「もう少しいてね」「ありがとう」「さようなら」・・・・・・「さようなら」?恭子からこの言葉を聞くのは3回目だ。これまでの2回はその後本当に俺の前から消えた。しかも「姉さん、すぐに行くから」・・・・・・まずいぜ!だが、絶対に行かせない!

「お前ら、悪い!自習!」

 いきなり叫んだので、生徒達がびっくりしている。

「何?」

「ちょっと急用」

「どこ行くの?」

「秘密!」

 教室を出て走って職員室に戻った。かばんを取り、職員室をでたところに塾長がいた。何で今日に限ってフラフラしてるんだよ。

「塾長、何やってるんですか?」

「ああ、ちょっとトイレ」

「そうですか。じゃ」

「はい。・・・・・・ちょっと!岸和田先生!どこ行くんですか!」

「ええと、弟が危篤で早退します!」

 走りながら、振り返りもせずに答えた。塾長が怒鳴った。

「父親の次は弟か!」

「そうでーす!」

 叫んだら、近くの教室から笑いが聞こえた。走りながらかばんから指輪を取り出した。指輪を強く握りしめて、タクシーを捕まえるために大通りまで更に走った。


 恭子の部屋に着いた。入り口のドアは閉まっていたがロックされていなかった。靴を脱ぐのももどかしく、部屋の中に上がりこんだ。

「恭子!」

 呼んだが返事がなかった。キッチンにもリビングにも恭子はいなかった。何か声が聞こえる。奥の寝室に入った。ベッドの上に座る恭子の後ろ姿があった。窓に向かって何かひとり言を言っていた。

「恭子」

 声をかけると初めて俺に気付いたようだった。俺の方に顔だけ向けた。ゾッとするほど白い顔だった。力のない声が返ってきた。

「ヒロシ?」

「おい、どこか痛いのか?」

 俺の問いには答えず、恭子はまた窓の方を向き、こう言った。

「姉さん、ヒロシが来たわよ」

 胸が張り裂けそうだった。声が出なかった。たとえ出たとしても、恭子にかける言葉は思いつかなかった。恭子は見えない彰子と話していたのだ。

「姉さん、もう、そんな顔しないでよ。もうすぐよ」

 頭の働きも体の感覚も鈍くなってきた。自分とは関係の無い世界に迷い込んだようだった。

「わかったわよ。そんなにせかさなくても、わたしはすぐそっちに行くから。・・・・・・ヒロシ?」

 「それ」は、ゆっくり振り返り俺を見ると、また「彰子」の方に向き直った。

「ヒロシはまだ行けないのよ。こっちにいるのよ。残念でした。いいじゃない、わたしがそばにいれば、一緒にヒロシを待ってましょう」

 俺を待つ?

「でも、3人そろうなんて、本当に何年振りかしら。あ、姉さん、やっぱりヒロシがいると嬉しそう。顔がゆるんでるわよ。げんきんねえ」

 「それ」は体ごと俺の方を向いた。

「ほら、ヒロシ、彰子姉さんよ」

 「それ」は左腕を肩の高さまであげ、首から上を左に向けた。上向きになった手のひらの先にいる「彰子」を俺に示すように。スローモーションの映像だった。俺は目でゆっくりと細い手の動きを追い、白い横顔を見つめ、揺れる黒い髪を眺めた。

「2人ともどうしたの?何か話すことはないの?」

 「それ」が不思議そうな声を出してこちらを向いた。続けて口を動かして何か音を発していた。

 肩、腕、手のひら、首、横顔、髪、口。「それ」が、モノが、バラバラに動いていた。

 音を聞き、モノを見ているしかなかった。手を伸ばせば届くところで起きているはずなのに、俺がいるこの同じ時間に起きているはずなのに、俺とは何の接点もないただの現象が続いていた。その現象が世界と切り離されているのか、俺が世界から遊離しているのかわからなくなってきた。

 それでも、俺の目は何かを見つけようと動いていた。ようやく顔を探し当てた。本当に白い顔だった。その中に黒い大きな瞳があった。瞳に視点が合った。その瞳を中心に、部分ごとに切り離されたモノではない何かを認識しようとした。「それ」は恭子だった。このとき、俺は現実の世界に戻って来た。

 俺の中で何かが噴き出した。声が戻ってきた。

「恭子!彰子が見えるか!おい、彰子が見えるのか!」

 俺は恭子の両肩をつかんで揺すった。

「今、何が見える!俺だろ、俺の顔だろ!」

 恭子がゆっくりとうなずいた。

「彰子の声が聞こえるか?聞こえないだろ、俺の声しか聞こえないだろ」

 恭子がまたうなずいた。

「そうだろ、彰子はもういないんだから」

 恭子が口を開いた。

「わたしが姉さんを・・・・・・」

「恭子!」

 言葉を遮った。心を救わなければならない。

 力をくれ!言葉をくれ!指輪を握りしめた。

「恭子、死んでもいいぞ。死にたかったら死ね」

 恭子がびっくりしたように顔を俺に向けた。俺は続けた。

「だけど・・・・・・」

 恭子が少し首をかしげ、俺を見た。

「俺のところで死ね!」

 恭子の目から涙がこぼれ落ちた。

「いいか、確かに彰子は死んだ。だが、それはお前のせいじゃない」

 恭子の泣き顔が俺を見つめた。

「人は病気や事故では死なない、ましてや他人の思いなんかで死ぬもんか。寿命で死ぬんだ、神の思し召しだ」

「思し召し・・・・・・」

「彰子はこの世で一番の仕事を済ませたんだ。その仕事がわかるか?」

 恭子の首がゆっくり左右に動いた。

「俺をお前に会わせることだ」

 恭子の目が大きくなった。また涙があふれてきた。

「そして、幸せをお前に手渡すことだ」

「幸せ?」

「俺は彰子と一緒にいて幸せだった。彰子も幸せだった。幸せなまま彰子は死んだ。これだけは確かだ、彰子は幸せだったんだ」

「姉さん・・・・・・」

「恭子、お前がいて彰子は幸せだったんだよ」

「わたし、が、いて?」

「そうだ、お前がいたから幸せだった。恭子や俺やマリアやせつに囲まれて幸せだったんだよ。俺にはわかる、彰子はこう言ってる『恭子、わたしと同じくらい幸せになってごらん』って。だって、彰子は本当に幸せだったんだから。わかったか、お前は幸せになっていいんだ」

「幸せだった?姉さんは幸せだった・・・・・・」

「ああ、そうだ。マリアのところで確かめた」

 俺は銀の指輪を見せた。

「ほら、お前がこの世に残しておいてくれた彰子の『幸せ』だ。お前が受け取る『幸せ』だ」

 恭子の目が指輪に注がれた。

「お前は幸せになるんだ。俺はお前を幸せにする、彰子以上に。だから、幸せなまま死なせる。約束する。お前は誰のためでもない、お前と俺のために死ね。2人が幸せだったその証に、俺のところで死ね、俺のところで幸せに死ぬんだよ。それまでは一緒だ!いいか、約束しろ!」

 恭子の泣き顔が、美しく、可愛らしい泣き顔がうなずいた。

 俺は恭子を抱きしめた。耳元で泣きながらささやく恭子の声が聞こえた。

「あなたのところで死んでいいのね?」

 答える代わりにもっと強く抱きしめた。今まで恭子を苦しめていたものを締め出すように。


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