第6章 〜 封印
6月17日
せつは研修医の期間を終えてある総合病院に内科医として勤めている。
「ようやく本当の医者よ。でも、まだ一人前って言うには早いわね。もっとしなきゃならないことがあるわ」
相変わらず立派だ。
安達のアホは、家電メーカーを辞めてある出版社でアルバイトをしていた。で、何故か仕事ぶりが認められて、この度、正式に社員として採用された。奇跡だ。
「やっぱり、才能ってのは見る人が見ればわかるんだろうな」
とは安達の弁だ。何の才能だよ。
だが、そのアホが恭子を・・・・・・。
6月18日
せつが電話してきた。
「ちょっと、安達君から聞いたわよ。恭子さん帰って来てるんだって?ヒロシ、どうするのよ?」
「何をどうするんだよ?」
「知らないわよ。ヒロシ自身のことでしょ」
「そうだな」
「のんきね。会うくらい会ってみれば?」
「そうしてみようかな」
「あまり乗り気じゃないみたいね」
「ああ。今更って気もするし」
「会わない勇気もないでしょ」
「どうかな」
「ヒロシ、大学4年のときと、大学院のとき、つき合ってた子がいたじゃない?」
「ああ」
「両方とも長続きしなかったけどね」
「何が言いたいんだよ」
「心の奥底では恭子さんのことが好きなんだろうなって」
「よくわからない」
「わかってるくせに」
6月24日
安達に聞いた「M」の日本支社を訪ねてみた。本当に恭子がいた。少しなら時間が取れると言う。
ロビーに恭子が現れた。俺の前の椅子に座った。2人ともしばらく何も言わずに互いを見ていた。声にならない思いがこみ上げてきた。俺が先に沈黙を破った。
「久しぶり。元気だったか?」
「ええ、ヒロシは?」
「見ての通り、元気」
「よくここがわかったわね」
「安達が見かけたって教えてくれた」
恭子はアメリカで大学に入り直した。在学中に研修で受け入れてもらったことが縁で「M」と契約しているという。アメリカでの仕事が一段落し、しばらくは日本で仕事をするのだという。状況にもよるが、数か月から1年でまたアメリカに戻るらしい。景気が良くても悪くても証券業界は忙しいみたいだ。
日本では、前に住んでいた家はもうないので部屋を借りているという。せつが勤めている総合病院の近くだった。
「ヒロシは塾の先生をしているのね。大学院に入ったって聞いてたから、てっきり学者になる道を選んだと思ってた」
「色々やってみないとな」
「ミイラ取りがミイラって言う言葉があるじゃない?そこそこにしないと、本当にミイラになっちゃうよ」
「そうかもな」
最後に会ってから何年も経っている。だが、恭子は変わっていない。少なくとも外見は。時間が後戻りしそうだった。
受付の女の子が恭子を呼んだ。恭子は仕事に戻らなければならないようだ。携帯電話の番号を教え合い、2人とも立ち上がった。
「お前・・・・・・」
「何?」
「まあ、いいや」
つき合っている人はいるのか?好きな人はいないのか?尋ねたかったが、止した。
「じゃ、わたしが訊くね」
「ああ」
「結婚は?」
「してない」
「恋人はいるの?」
「いない」
「グズグズしてると、おじさんになっちゃうよ」
「大きなお世話だ」
「そうよね。じゃ、仕事があるから。ヒロシ、すごく嬉しかった。すごく懐かしかった」
恭子が行こうとしている。
「恭子・・・・・・」
恭子の名を呼ぶのはいったい何時以来だろう。口が上手に動いていないような気がした。
「恭子、お前、幸せか?」
「少なくとも不幸じゃないわね。だって、ヒロシのことが懐かしく思えるんだもの」
6月27日
3時過ぎ、せつが血相を変えて塾に乗り込んで来た。
「ちょっと、恭子さん、結婚するの?」
「いや、初耳だ」
「今日、夜勤明けでお休みだったのよ。でね、お昼食べに入った店で恭子さんに会ったのよ。すごくカッコイイ男の人と一緒だったのよ。背もあなたより10cm以上高いし、顔もいいし。同じ会社の人だって。きっと給料もいいわよ。しかも、恭子さんのアメリカの大学時代からの知り合い。英語も日本語もペラペラ。どう考えてもあなたに勝ち目はないわよ」
ちょっと落ち着けよ、せつ。俺だってそいつより10cmもこじんまりまとまってて、目も鼻も口もある。違う会社の人で、給料だってもらってる、一応。しかも、恭子の日本時代の知り合いだし、日本語はペラペラだぜ、多分そいつより上手い。・・・・・・ああ、みじめだ。
「そいつはアメリカ人か?」
「国籍はね。でも日系の3世だとか」
「名前は?」
「山添、何だっけ。カードをもらったんだ」
せつはバッグからコーリングカードを取り出した。
「えっとね、山添カズマだって」
「ヤマゾエカズマか。画数は何画だ?」
「そんなことどうでもいいのよ!『恭子』、『カズマ』って呼び合う仲よ。大体、この山添さんが日本に転勤になったのを、恭子さんが追いかけて来たらしいじゃない」
「そんなこと知るか!俺も恭子とファーストネームで呼び合うし、恭子だって俺がいるから日本に帰ったのかも知れないじゃないか。第一、何で2人が結婚するってわかるんだよ」
「おめでたいわねえ。山添さん、『恭子には、そろそろ日本でいう、給料の3か月分ってヤツを贈ろうかなって思ってるんです。僕もしばらく日本にいるし、祖先の国の習慣通りにゴールするのもいいかな』とか言ってたわよ。恭子さんもニコニコしてたし。あれはどう考えたって結婚前のカップルよ」
「そういう会話をしたんなら、それを早く言えよ」
「いいの?ヒロシ」
「いいも悪いも、恭子がそいつを好きなら仕方ないよな」
せつはいきなり冷静になった。
「あなた達、離ればなれになったとき、お互いの思いは知らなかったんだっけ?」
「いや、お互いわかってた」
「やっぱり、日本とアメリカに離れてた月日が大きかったのかな。あなた達もそれには勝てなかったか」
時間なんて問題ではないと思ったが、敢えてこう答えた。
「まあね、人は変わる。人の心も変わる」
「ヒロシの心は変わっちゃったの?」
「どうだろう、でも・・・・・・」
「でも、何?」
「恭子は色んなこと考えたあげくアメリカに行ったんだ。これは恭子の望んだ結果じゃないのか。それに・・・・・・」
「それに?」
「俺も苦しんだ」
6月28日
気分がむしゃくしゃするまま飲みに出た。酔いたかったので、ウオッカ、テキーラ、ウオッカ、テキーラ、ウオッカ・・・・・・と順番に飲み、フワフワしてきた。
店を出て歩いていると、向こう側から歩いて来た女の人が俺のほうをじっと見てる。誰だ?もしかして俺に気があるのか?まあ、どうでもいいや、誘ってみよう。
「あの、もしよろしければ一緒に飲みませんか?」
「うふふふふ、イヤですねえ」
「あ、イヤですか。僕は全然イヤじゃないんですけど」
「何をおっしゃるの?酔ってらっしゃるんでしょ、先生」
「どうして僕の正体を?」
「うふふふふ、しっかりしてくださいよ。坂根ですよ。ほら、先生のとこで世話になってる坂根健志の母ですよ」
お、か、あ、さ、ん?何てことだ。よりによって教え子の母親を誘おうとしてた。あ、もう誘った後だ。
「あ、健志君のお母さん。すみません、てっきり・・・・・・」
「てっきり、何ですの?」
こんなとき何て言えばいいんだろうか?
「てっきり、大学生さんかと」
「まあ、お上手、うふふふふ」
その、「うふふふふ」って、やけに色っぽく笑うのやめてくれない。
「うふふふふ、先生、女子大生がお好みなんですの?」
「いえ、そうではなくて、若い女性の代名詞というか・・・・・・」
「それなら、女子高生って言ってくださいよ、うふふふふ」
それは何が何でも無理があるだろ。
「いえ、お母様はそこまで幼くないでしょ?」
「うふふふふ、ものは言い様ね」
結局、坂根の母親の経営する店で何杯かただ酒を飲ませてもらった。
「先生、今晩のことは秘密にしておきましょうね」
だって。別に誰に話してもらってもいいけど。
6月29日
酔って坂根の母親に声をかけた話を北にした。北はウケていた。
「僕も同じようなことがことがあるんですよ。あまり言いたくないけど」
「何ですか?教えてくださいよ」
「僕もね、酔っててね、声かけてきた女の子をホテルまで引っ張って行ったんですよ。だって、向こうから声かけてきたんですからね」
確かに、北は、思考が結論に向かって突っ走るタイプだ。酔ってりゃなおさらだろう。
「で、初めは笑って『冗談はやめてください』とか言ってた女が、ホテルに近付くと抵抗し始めたんですよ。僕にも意地がありますからね。力ずくでホテルに連れて入ったんですよ」
どんな意地だよ。犯罪じゃないか。
「ホテルに入ったらひと安心じゃないですか。でね、落ち着いてよく聞くと『先生、やめてください』って言ってるんですよ、その女が」
普通は落ち着く前にちゃんと聞くって。
「顔をよく見たら、ウチの塾の、高2の市川だったんですよ。ハハハハハ」
笑い事じゃないだろう。
「・・・・・・それって、ずいぶん気まずくないですか?」
「別に。よくある勘違いですよ。ことには及んでいないし。今も市川のクラスで授業があるけど、市川に気合が入ってないときに、『一緒にホテルに入った仲だよな』ってささやくと、やたら必死で問題に取り組むんですよ」
この人の「勘違い」って、どこからどこまでを指すんだろう。
だが、何故か、この人だけは敵に回したくないと思った。
6月30日
元塾生が亡くなった。19年の人生を終えた。
同僚の杉下と一緒に葬式に参列した。我慢していたが、耐え切れず泣いてしまった。ご両親の心情、他の身内の方々の心情、友人の心情、そして恋人の心情、何より、本人のことを思うとダメだった。涙が勝手に出て来た。
一旦帰宅し、着替えて塾に行ったら、杉下が「岸和田先生が泣くなんて思わなかった。びっくりした」なんて言ってるのが聞こえた。俺はどういう人間だと思われているんだろうか。そういう人間だと思われてるんだろうな。
だが、自分の教え子が犯罪者になることと、自分より先に逝くことが、先生として一番悲しいことだ。
安らかに眠れ。
7月1日
雨が降っている。憂鬱だ。
恭子に会うべきではなかったのかも知れない。過去のままにしておけば良かったのかも知れない。
7月4日
おれは、やはり恭子が好きだ。ずっと好きだった。その恭子がほかの男と結婚するかも知れない。それは仕方がないことだ。だが、最後に自分の思いを伝えるくらいはしておこう。
恭子に会った。
「恭子、今更って気もするけど、言えるうちに言っておく。お前が人妻になってからじゃ言えないからな。俺はお前が好きだ」
「待ってよ。その『人妻』って何よ」
「お前、山添って人と結婚するんじゃないのかよ。山添さんを追いかけて日本に来たって話も聞いたし」
「山添さんとつき合ってるわけじゃないし、日本に来たのもたまたまよ。でも、山添さんはすごい人なんだもの、好きは好きよ。一番好きじゃないけどね。幸せにはしてくれると思う。だから、プロポーズされたらどうするかわからないわ。受けるかも」
「そんなの幸せじゃないだろ」
「あなたにわかるの?未来がわかるの?わかるわけないでしょ。もしわかるなら、姉さんの命を救えたでしょ」
何も言えなかった。
「ヒロシ、もうこれ以上苦しめないで」
恭子の言葉に打ちのめされた。
7月7日
恭子に電話した。打ちのめされようが嫌われようが伝えずにはいられなかった。いきなり話した。
「恭子、俺とお前とはちょっと変わった関係だ。それはよくわかってる。互いに悩んで、苦しんで、今はそれぞれ自分の道を歩いてる。でも、そんなことはどうでもいい。今の俺はお前が好きなんだ」
「あなたにはどうでもいいことでも、わたしには大変なことなのよ」
「お前、俺が嫌いなのか?」
「いいえ」
「じゃ、山添さんが本当に好きなのか?」
「わからない。でも、あなたを見てると、あなたと一緒にいると、想い出すのよ」
「何を?」
「あなたの心にも棲んでるでしょ」
7月8日
山添カズマさんが俺を尋ねてきた。勝利宣言でもかましに来たのか?会いたくないけど、会った。挨拶の後、山添さんが話し始めた。
「恭子にプロポーズしました。一週間以内に返事がもらえます。その前にあなたにお会いしておきたくて。恭子からよくお名前はうかがっていましたし」
「はあ、でも、僕に会っても仕方ないでしょ。僕は恭子に振られてるんですから」
「振られても、あなたは恭子が一番好きだった人なんでしょ?わかりますよ」
「どうでしょうか。好きでも何でも振られちゃおしまいでしょうが。それとも、恭子があなたを1番好きでないとおイヤですか?」
「いいえ、何番目でも構いませんよ。僕の1番は恭子なんだから。僕には恭子を幸せにする自信があります。恭子がプロポーズを受けてくれさえしたらね」
「大丈夫でしょ」
「さあ、どうかな。もし、断られるにしても、その原因くらいは知りたいでしょ。だからこうしてあなたに会いに来たんです」
「でも、恭子はあなたにプロポーズされたら受けるかもって言いましたよ」
「それから気が変わってなければいいけど。でもね、好きだからわかるんです。恭子は幸せになろうとしていません。心がないって言うか。まあ、僕は恭子を幸せにできたらどうでもいいんです。できれば、恭子と幸せになりたいけど」
「幸運を」
「あなたにそう言われるのもおかしな気分ですね。でも、ありがとう」
7月14日
山添さんに会いたいと言われた。夜、山添さんの行きつけの店で会うことになった。授業後に駆けつけると、山添さんはもう飲んでいた。
「すみません、呼び出しちゃって」
「いえ、おごってくれるんでしょ?」
「もちろん。今日ね、恭子の返事を聞きに指定された場所に行ったんです。どこだと思いますか?」
「わかりません」
「教会です」
「教会?」
「はい、教会。そこで式を挙げるんだなって思いました。いい感じの教会でした」
もう挙式の話かよ。山添さんが続ける。
「そこで、恭子が話をしてくれました。以前、クリスマス・イブに好きな人と2人でそこを訪れたこと。いつか、その人に思いが伝わるように祈ったこと。でも、その同じ教会でお姉さんを葬送したこと。そのときに、好きな人への思いも封印したこと」
「・・・・・・」
「そして、見事に断られました」
「そうですか。なんて言っていいのかわかりません。可哀想だなとも思うし、ザマミロとも思うし」
「はっはっはっ、正直な人ですね」
「すみません」
「いいえ。次はあなたの番ですね。でも、あなたは僕以上に大変ですよ。さっき言ったように、恭子は自分の心を封印しています」
「封印ですか?」
「そう。恭子は封印とは言わなかったけれど、封印です。封印って何のためにするかわかりますか?」
「いいえ」
「いつか誰かに解かれるために封印するんです。頑張ってください。幸運を」
この山添カズマは案外いい男かもしれない。いや、絶対いい男だ。俺が女なら、俺みたいな男よりこいつに惚れる。何か、あらゆる点で俺に勝ってる気がする。
「山添さん、今夜はやっぱり僕がおごります。飲みましょう」
山添さんと一晩中あちこち飲み歩いた。山添さんと別れた後、始発電車に乗り「教会」に行った。門から続く煉瓦の小道、庭の木々、白い美しい建物。妙に懐かしかった。
7月16日
恭子に会った。
「山添さんのプロポーズを断ったんだって?」
「ええ」
「あんなすごい男、滅多にいないぜ」
「山添さんが云々って問題じゃないの」
「何が問題なんだ」
「わたしの心」
「おまえ、その心が色んな人を振り回してるんだぜ」
「わかってる」
「大体、お前の心の中には誰がいるんだよ?俺はいないのか?」
「いるわ。あなたは大好き。もしかしたらと思って、かすかに期待して日本に帰って来たわ。でも、ダメだった。時間が経てば変わると思ったけど、変わらなかった。あなたにまた会えて、すごく嬉しかった。わたしはあなたが大好きなのよ。こんなに好きなのにね・・・・・・。でもね、やっぱりダメなのよ。・・・・・・どちらかが、心の中のどちらかが変わってくれればいいのにね。ごめんなさい」
彰子よ、お前、恭子の心にもいるんだよな。変わらないまま。二十歳のまま。
7月18日
高2の瀬川綾子が音楽に専念するために1学期いっぱいで退塾する。偏差値70をはじき出すトップクラスの生徒がいなくなるのは残念だが、「がんばれ」と快く送り出してやった。塾長は例によってブツブツ言っている。まあいい。
瀬川のことに触れよう。すごい高校生なのだ。
彼女は勉強もすごいが、音楽、ピアノもすごいのだ。1度演奏を聴かせてもらったことがある。モーツァルトの曲だった。見栄や格好で弾いているのではなかった。将来何かの役に立つから弾いてます、というレベルのものでもなかった。鳥肌がたつほど見事だった。「何故モーツァルトなのか」と尋ねると、「好きなんです」と答え、瀬川は続けた。
「でも、美しすぎます。ちょっと音楽を知ってる人なら嫌になるくらいに」
「お前は嫌にならなかったのか?モーツァルトを聴いて」
「初めて聴いたときは理屈抜きにすごいと思いました。でも、幼かったからそのすごさの意味はわかりませんでした。何となく意味がわかった頃にはもう音楽にどっぷりでした」
「意味がわかった今でも音楽の道を選ぶんだな?」
「はい。わたしの才能なんて知れてるから、新たな音楽を作れるなんて思ってはいません。でも、せっかくコンピュータがある時代に生まれてきたんだから、もしかしたら新たなアレンジくらいはできるんじゃないかと思って。だから、コンピュータに必須の数学や英語も勉強しなくちゃならないけど、今は演奏に力を入れておかないと。芸大に入れないから」
「どうしてピアノなんだ?」
「それは、何故、琴やケーナなんかを選ばなかったかということですか?」
例えにバイオリンやフルートでなく、琴やケーナを出してくるところがすごい。質問の意図を把握しているのだろう。
「そうだ」
と言うと、瀬川は笑って答えた。
「多分、先生が空手じゃなくて陸上競技を選んだのと同じですね。体格や、向き不向きだけの問題じゃないでしょ?」
音楽にもスポーツにも多種多様なものがあり、優劣はないと思う。しかし、全てがメジャー(スタンダードと言ってもいい)なものではない。そして、メジャーでないもののほとんどは、民族の○○とか伝統的な□□とか郷土の△△とか呼ばれていないか?それをメジャーにしようと尽力している人もいるし、特殊な事情で一部のものにしておくべき儀式的なものもあるが、とにかく、世界中の皆が競おうと思うよりは保存しようと思うものだ。(それに価値がないと言っているのではない。一流であれば何者をも感動させると思う。誤解のないように)
瀬川は、音楽、それもピアノという超メジャーなものを、明確な自分の意志をもって選んだ。どれくらいの人間がこの意志をもって生きているのだろうか。瀬川はモーツァルトではないから苦労するだろうし、その苦労が報われないかも知れないが、とにかく、自分の意志で戦おうとしている。
瀬川の空手と陸上競技の例えに、俺はこう答えた。
「そうかもな。誰にでもわかる表現手段を選ぶのは結構つらいけどな。俺は体を壊してダメになったけど、お前は行けるところまで行けよ。多分、3、4年後、お前は日本にいないと思うけど、応援してるよ」
「ありがとうございます。でも、先生は何故普通の学校や大学で教えないんですか?」
「確かに、今はそっちの方がメジャーだよな」
「何となくわかります。・・・・・・この先、お互いどこにいるかわからないけど、わたしも先生を応援してます。ピアノを聴いてもらって良かった」
瀬川は微笑んだ。
俺の目の前でブツブツ言っている塾長に言った。
「塾長も瀬川のピアノを聴いてみたらどうですか」
「ピアノの良し悪しはわからない」
「いや、瀬川のピアノは誰にでもわかりますよ」
「そうなのか」
「はい」
「そうか。じゃ、仕方ないな」
あっさりと引き下がった。ウーン、もしかすると塾長は侮れない人なのかも知れない。
7月19日
ああ、忙しい。保護者との面談が組まれている。95%母親が来塾する。内容は言うまでもなく、成績、進路だ。他人の子どものことまで知るか(もちろん、俺自身の子どもなどいないのだが)と言いたくもなるが、俺もプロだ、キッチリ面談をこなしている。
具体的な個人のことは親の方がよくわかっているのは当然だ。「ウチの○○は××だ」というわけだ。しかし、全般的な中学生、高校生のことなら俺の方がわかっている。中でも成績、進路のことなら、確実に俺の方がよくわかっている。だから、この面談は家庭と塾、双方の情報交換の場でもある。互いに得るものは多い。特に俺達には塾生の家庭での様子や思いがけない性格、行動がわかり、指導に活かせる。忙しいが大切な面談なのだ。
ところが、中には驚くような母親もいる。話そのものや言葉遣いがとんでもない母親や、格好がとんでもない、いや、ぶっ飛んでいる母親にはもう驚かないが、槙村の母親はすごかった。
面談は分刻みで入っているので、決まった時刻に相手が来ないと後の予定がずっと狂ってしまうのだ。しかし、槙村の母親は約束の時刻を15分過ぎても現れない。控え室を覗いてもいない。槙村家に電話したら母親はとっくに家を出たと言う。おかしい。途中で何かあったのだろうか?
仕方ない、ひとまずキャンセルだ、と、次の面談の資料を取りに職員室に戻ったら、杉下の机で誰かが突っ伏して眠っていた。いびきまでかいていた。槙村の母親だった。
学生の時分から割と長い間塾の先生をしてるけど、面談に来て、勝手に職員室に入って眠っちゃった人はこの人だけだ。多分、この先もこの人だけだろうな。
後で杉下がぼやいていた。
「変だなあ。机の上に置いていたプリントが水でにじんでるんですよ。岸和田先生、意地悪してないですか?」
してないよ。俺はね。
7月22日
夏期講習が始まった。朝から晩まで忙しい。ああ、忙しい。
でも、忙しいと色んなこと考えなくて済むから、悪いことばかりじゃないよな。
7月25日
宮本が3日ほど講習を休むという。何でも、放送コンクールで全国大会に出場することになったのだそうだ。
「お前にそんな才能があったのか」
「うん、汐里が丘高校の校内放送は僕が仕切ってる」
「うそだろ?」
「ホントだよ。だって、放送部の部長なんだから」
意外だ。意外すぎる。
「僕の放送、評判いいよ。昼休みに放送するんだけど」
「お前がどんな評判を取ってるって言うんだよ」
「この前なんか、お奨めの本のコーナーで、教えてもらった『O嬢の物語』『新O嬢の物語』『家畜人ヤプー』の紹介したら、先生達から絶賛された」
どんな先生達だよ、いったい。頭が痛くなってきた。
「そうそう、『アムステルダムの小さな窓』がどうしても見つかんなくって。学校の先生からも見つけろってせかされてるんだ。見つけといてよ」
宮本、お前は先生に恵まれたよな。塾でも学校でも。
8月2日
高2の三井が相談があるという。普段はめちゃめちゃ明るい三井が暗く沈んでいた。余程のことだ。
「どうした?」
「先生、わたしね・・・・・・、赤ちゃんができたの」
「赤ちゃん?」
「うん」
うわあ、こりゃヘビーだ。いや、ベビー(くだらない!)か。俺に相談されても困るよな。俺の赤ちゃんならともかく。
「何て言っていいかわからないけど・・・・・・」
本当に何て言っていいかわからないのだ。
「おめでとう」
「・・・・・・?」
「どうしたんだ?」
「ううん、『おめでとう』なんて言われるって思ってなかったから」
「そうか?新しい命が宿ったんだぜ、お前の中に。めでたくないか?」
「変なの。何かおめでたい気がしてきた」
「だって、好きな男の赤ちゃんなんだろ?」
「うん」
「相手はこのこと知ってるのか?」
「まだ」
「早く話せよ。俺よりもそいつに相談したほうがいいと思うぜ」
「だって、まだ高校生なんだもの。受験もあるし」
「高3なのか?」
「うん。同じ学校の先輩」
「ありがちだな」
「悪かったわね、ありがちで。でも、どうしよう?」
「俺の赤ちゃんなら産んでもらうけどなあ」
「もう、真面目に考えてよ」
「俺はカトリックじゃないけど、お腹の中にいる赤ちゃんも命に変わりないと思ってる。だから、普通なら産んで欲しい。でも、お前も相手もまだ高校生だ。普通じゃない」
「同じくらいの年で母親してる子もいるわよ」
「ああ、だけど、これから二十歳前後の時が、人生で一番面白い時、俗に言う『青春』の中心になる時だろ?そのときにお前は子育てをしなきゃならない。同じ年齢の女の子達が、恋とかファッションとか旅行とか楽しんでるのに、子育てだぞ」
「うん」
「そんな楽しみと引替えっていうんじゃ、お腹の赤ちゃんも浮かばれないだろうが、やはり、そんなことも考えてしまうよな」
「どうしよう?」
「お前次第だ」
「彼の気持ちは?」
「彼には必ず話せよ。だけど、まず、間違いなくうろたえる」
「そうなのかな?」
「絶対。だが、その後だな、そいつの価値が本当に試されるのは」
「うん。親は?」
「相談したほうがいいと思う。いや、しなきゃダメだ」
「怒られるわ」
「当たり前だ。それくらい覚悟しろ。だが、俺はお前の味方だ。お前が決めたことなら俺の考えと違ってても絶対に尊重する」
「先生・・・・・・」
「だから安心して結論を出せ」
8月5日
三井、一時休塾。
8月18日
夕方、恭子から電話があった。
「今日、姉さんのとこに行ったの。チョコレートがいっぱいお供えしてあったわ。ヒロシでしょ?ありがとう」
彰子はチョコレートが大好きだった。彰子の声が甦る。
「太りたくないからあんまり食べられないの。だから、おいしいチョコレートを少しだけでいいの」
そう、俺が供えたのだ。ほかの誰がチョコなんか供えるか。
もう太る心配などしなくていいから、いっぱい食べろ。
授業と授業の合間に片桐さんがやって来た。
「ついさっき、先生に会いに綺麗な女の人がいらっしゃいました。『今は授業中ですけど、もうすぐ終わりますよ』って申し上げたんですが、『元気で授業してるならいいわ』って、お帰りになったんです。お名前をうかがう間もなくて・・・・・・。一応、お知らせしておこうと思って」
「ありがとうございます。きっと、知り合いのお医者さんですよ」
仕事の後、安達が飲みに誘ってくれた。バーで安達がピアノを弾き始めた。
「最近弾いてないからな。もしかしたらお前より下手になっちゃったかもしれないけど、まあ聴いてくれ。今夜くらい、いいだろ」
Eric Claptonの"TERARS IN HEAVEN"だった。生徒に聴かせたら仮定法の勉強になるなあ、何てことを思いながら口ずさんだ。
安達の弾くピアノの音色は優しかった。
俺は死んだら彰子に会えるんだろうか。しっかり生きてきたよと、胸を張って会えるんだろうか。
今日は彰子の命日だ。
9月3日
生徒達が中学校で使っている英語の教科書に、ある物語が出ている。「戦時中、幼い姉弟が傷つきながらも郊外に逃れて来る。弟は母親を恋しがって泣くが、母親は死んじゃってる。そこで、姉が健気にも母親代わりになり歌を歌ってやりながら弟を抱きしめる。そのうち弟は息絶えるが、姉はずっと歌い続ける。そして、姉も死んでしまう」という内容だ。
英文を読みながら日本語訳を進めていく。
「ここは学校の試験じゃ単語くらいしか出ないんじゃないのか?ただの読み物だし」
そう言うと、白井が代表して答えた。
「ううん、学校の先生は『感動的でしょ!先生はこのお話が大好きです。次の試験はこのお話を中心に出題します』って言ってたよ」
何でこんなありふれた話に感動するんだよ、その先生は。感動するのは勝手だが、このレベルの感動を生徒に押し付けてもなあ、対処に困るぜ、生徒も。
(※ 抗議されても困るのですが、平和に対する思いや祈りを茶化すつもりは毛頭ございませんので。あらかじめお断りしておきます)
それで、よせばいいのにやってしまった。
「そうか。でも、どうして弟が死んだかわかるか?」
「戦争で傷ついたからでしょ」
と、白井。
「違うよ。戦争は関係ないんだよ。実は、お姉ちゃんが強く抱きしめすぎて窒息死しちゃったんだよ、弟は」
「うそだあ」
「本当だよ。ほら、ここに書いてあるだろう。held tightlyって」
「あ、ホントだ」
「わかったか。ザマミロ。学校の先生にも教えてやれ」
「うん、そうする」
(※ 何度も申し訳ありませんが、決して平和への思いを茶化しているのではありません)
9月5日
俺としたことが、先日の白井の目の異様な輝きを見落としていた。あの悪魔はホントに学校の先生に俺のくだらない解釈を教えてしまったのだ。「なんて塾なの!通うのはやめなさい!」と言われたらしい。更に「どういう名の先生なの?」と訊かれて、白井は俺の名前を言ってしまったのだ。「岸和田」という名を聞いて引きつっていたそうだ。その先生の名は横川。またも、横川。向こうは「またも岸和田」って思ってるだろうな絶対。
ま、あまりくだらないことは言わないようにしよう。学校の先生だけじゃなく、最近は日本中に小うるさい人が多いから。
9月6日
授業が終わって、生徒達を送り出して、してもしなくても生徒達には何の影響もないけど、「しろ」って塾長が言うから仕方なくしてた雑務が終わったらもう11時前だ。帰ろうと思ったがまだ残っている生徒がいるみたいだ。教室を覗いたら、数学の甲斐が高校生に何か教えていた。
11時を回った頃に生徒達は帰って行った。
「じゃあ、甲斐先生、僕達も帰りましょうか」
帰り支度を始めると、さっき帰って行ったはずの井上と宮が走り込んできた。
「先生!大変!涼子が、変な人達に捕まっちゃった!」
「何!どこだ!」
「そこのスーパーの駐車場」
そういや、夜になると、たまにおかしな連中が車を止めてるよな。
「何人だ?変なのは」
「3人。いきなり声かけて来て、無視して行こうとしたら、抱きついてきて。私達は逃げられたけど、涼子が・・・・・・」
うーん。この2人じゃなくて青山涼子を捕まえるとは、変な奴らも見る目がある。いかん、そんなこと考えてる場合じゃない。
「車はあったか?」
「うん」
まずい、まず過ぎる。青山が危ない。
「わかった。すぐに110番しろ」
スーパーの駐車場まで歩いて3分ほど、今から走っていけば間に合うか。が、車が走り出してたらアウトだ。
「先生、行きますよ」
甲斐に声をかけたが、
「僕はここで警察に連絡します。この子達も落ち着かせなきゃ」
だそうだ。ええい、1人で行こう。甲斐のようなのはかえって足手まといだ。入り口の傘立てから、忘れ物の傘を1本取って走り出した。
駐車場が見えた。結構明るいじゃないか。こんなとこでよく拉致できるよなあ。でも、ほとんど人気がないな。どこだ?と、車が動き出した。アレか!「こっちに来い!」と祈ったが、遠ざかる方向に動いて行く。何とか車を止めなきゃ。そのまま走り続けた。あと、5m、4m、だが、追いつかない。俺は傘を投げつけた。当たった。こら、大事な(はずの)車に何かぶつけられたんだぞ。怒って車停めて出てこいよ。おっ、止まった。やった!早く傘を拾わなきゃ。唯一の武器だ。
傘に手が触れたのと同時に、後部のドアが開き、男の足が出て来た。低い姿勢のまま傘をフルスイングして、男のすねを思いっきり打ってやった。手ごたえがあった。傘が折れたのがわかった。何か叫んで、男は後部シートから体半分を出し、すねを押さえて前かがみになっている。いい高さだ。そのあごに、これまた思いっきり右の正拳をくらわしてやった。男はそのまま後部座席にのびた。俺の右手もムチャ痛いが。
そのとき、後頭部にすごい衝撃が走った。ありもしない光が目に見えた。やられた。すごく痛い。泣くほど痛い。が、まだいけそうだ。でも、これ以上食らうとまずい。後頭部を押さえて転がって逃げた。しかし、今度は背中が思いっきり痛かった。蹴られたんだ。こりゃ、まずいや。警察、早く来いよ。俺が車でちょっとスピード出したときや、自転車で傘さして二人乗りしてるときは追いかけてまで来てくれるじゃないか。だが、青山は連れて行かれずに済みそうだ。良かった。できれば今のうちに逃げて欲しいが。
怖そうなスキンヘッドの兄ちゃんが胸ぐらをつかんで立たせてくれた。が、腹を殴られた。効く。また、転がってしまった。すかさず棒状のものが飛んでくる。木刀だ。当たり所が悪けりゃ死ぬぜ。何とかしなきゃ。お、手に何か当たった。傘の残骸だ。木刀を持ったデカイ奴に投げつけた。「デカイの」が一瞬ひるんで後ろに下がった。俺はその隙に立ち上がって車を背にした。これで、後ろからやられることはない。正面に「デカイの」が、斜め左に細身の「スキンヘッド」がいる。ああ、後頭部が痛い。右手も痛い。早く病院に行きたいよ。普通ならここで逃げるところだけど、青山はまだ車の中だ。
「デカイの」が間合いを詰めてくる。が、「スキンヘッド」は動かない。下手に俺のそばに来ると自分が木刀を食らうかも知れないもんな。チャンスだ。木刀の動きだけ見ていれば良い。木刀持ってるのに使わないお人好しなどいない。「デカイの」は木刀を右手にぶら下げたままだ。普通は構えてから間合いを探るものだが、余裕があるのか馬鹿なのか、先に間合いに入って、その後木刀を動かし始めるつもりらしい。木刀が動き始める瞬間が勝負だ。・・・・・・動いた!左の正拳を「デカイの」のみぞおちに打ち込んだ。一瞬遅れて左の肩に木刀をもらったが、次の瞬間に右の拳をあごに向かって突き上げた。のけぞる「デカイの」の腹にすかさず右の前蹴り。「デカイの」は倒れて胎児のように体を丸めた。まだ木刀は持ったままだ。よほど好きなんだろうな、木刀が。でも、こんな奴に好かれちゃ、木刀も生まれて来た甲斐がない。あ、そういや甲斐の奴、何してんだよ。警察が来る気配もないじゃないか。
右手が痛い。後頭部はもっと痛い。もう、逃げてもいいだろ。だが、青山は車から出ようとしない。仕方がない。引っ張り出して一緒に逃げよう。車の方を向いたら、またしても「スキンヘッド」だ。俺の横腹に強烈なパンチが入った。吐きそうだ。間違いない、こいつはボクシングをやってる。とっさに両手で頭を抱え込むようにガードした。頭部にパンチをもらうわけにはいかない。が、何発もパンチが飛んで来る。こいつは強いぜ。色々なところにパンチが入る。ボディに入ると思わず呻き声が出る。やられるのは時間の問題だ。ええい、一か八かだ。両手を頭からはずし、右手を腰の高さに構え、左手は奴のパンチがよく見えるように目の高さに構えた。奴の右肩から二の腕にかけてがわずかに動いた(ような気がした)。来る!右足を左方向に一歩踏み出す。顔への右ストレートをよけながらも、その右手を取って、背負い投げ!のつもりだったが、パンチが速過ぎて捕らえられなかった。どころか、捕らえてるはずの右手がないものだからバランスを崩して前につんのめった。と、額に硬い物がぶつかった。痛さと衝撃でその場に崩れ落ちた。許せ、青山、ダメかも知れない。が、何故か俺の下で「スキンヘッド」がうなってる。そうか、俺の額がこいつの額かあごに当たったんだ。タイミングがずれて、フェイントになったんだ、頭突きの。フェイント頭突きなんて初めてしたぜ。ザマミロ。
後部座席でのびてる男を外に出し、青山を見ると、ガムテープがぐるぐると両手、両足に巻いてある。こりゃ、逃げられないよな。
「青山!大丈夫か」
「うん、先生も大丈夫?」
「ああ、あいつらがのびてるうちに行こう」
ガムテープをはがし終わりかけたとき、「デカイの」が立ち上がるのが見えた。残りのテープを急いではがし、2人で車外に出た。「スキンヘッド」も動き始めた。「デカイの」が行く手を遮るように立っている。木刀は手にぶら下げたままだ。学習能力がないのか?だが、俺もボロボロだ。ここまでボロボロにされたのは久しぶりだ。
「先生」
青山が俺にしがみついてきた。
「よし、大丈夫だ」
言ってはみたが「スキンヘッド」もいるし、2人を1度に相手にはできない。だが、お前は逃がす。青山にささやく。
「走れるか?」
「うん」
「俺が正面の奴に飛びかかったら、すぐにその脇を走って逃げろ。何があっても走れ。俺もすぐ行くから」
こんなときにあれこれ考えさせてはダメだ。有無を言わさず行動させなくては、上手くいくものもいかなくなる。
「イチッ、ニッ、サンッ、それっ!」
青山の背中を押し、思いっきりダッシュして体ごと「デカイの」にぶつかった。背中に痛みが走り、どっちが空でどっちが地面かわからなくなったが、スカートが走って行くのが見えた。良かった。「デカイの」は転がっている。もう起きてくるなよ。
かろうじて立ち上がった俺の前で「スキンヘッド」が構えた。強いよなあ、ボクサーって。でも、ただの塾の先生だけど、俺も結構強いんだぜ。後頭部と額と背中と右手はとっても痛いけど、ふらふらだけど、青山は逃げたけど、こいつとは勝負しなけりゃならない、いや、勝負したいんだ。
「スキンヘッド」が右ストレートを出したのと、俺が左の拳を突き出したのは、ほぼ同時だった。が、頭に強い衝撃を受けた。負けだ。意識が遠のいていった。
目を開けたら、90度の角度に青山の泣き顔があった。
「先生!気が付いたの!良かった」
アスファルトに横になっていた。ただ、頭だけは青山のひざの上だった。
「おっ、青山のひざ枕だ。ラッキー」
「馬鹿!このまま目を開けなかったらどうしようって・・・・・・」
青山の泣き顔が、もっと泣き顔になった。違うな。じゃ、比較級の泣き顔になった。これも変だ。頭やられておかしくなったか。
「奴等は?」
「2人は車で逃げたの。もう1人は倒れてる。あれからすぐ、井上さんと宮さんが近所の人を連れて来てくれたの」
頭を動かすと、井上と宮が見えた。知らないおじちゃんも何人かいる。その足下に「スキンヘッド」が転がっている。ダブルノックアウトか。だが、俺は女子高生のひざ枕、奴はおじちゃん達に囲まれておねんね。こりゃ、俺の勝ちだろう。
「こっちです。速く」
甲斐の声だ。警官を連れて来たらしい。遅いんだよ。
「岸和田先生、大丈夫ですか?」
甲斐が尋ねたが、どこをどう見たら大丈夫に見えるのだろうか。
「いいえ、大丈夫じゃありません。このザマです。警察が遅いから」
「すみません。井上と宮に状況をきちんと確認してから110番したもので」
確認だ?座ってる生徒相手に授業してるんじゃないんだぜ。
「はいはい。確認は大切でしょうからね」
いつまでもひざ枕してもらっているわけにもいかない。青山に肩を借りてゆっくり立ち上がった。あちこち痛いが、特に後頭部が激しく痛い。それと、右手に全く力が入らない。
警官に両脇を支えられて「スキンヘッド」が立ち上がり、俺を見ると言った。
「あんた、最初からカウンターを狙ってたのか?」
「そんな上等なもの狙うかよ。おまえのパンチなんてくらう予定じゃなかったよ」
「なんで左だったんだ?右利きだろ?」
「お前が左にいたから。右だと間に合わなかったさ。それに、右手は痛かったんだよ」
「そうか」
「引き分けだな」
「スキンヘッド」はニヤッと笑った。その後連れて行かれた。
知らないおじちゃんが話しかけてくる。
「でも、先生?ですか、相手が3人いるのによく生徒さんを助けようと思いましたね。普通はここまでしませんよ」
俺はするんだよ。俺にとって、生徒は息子で、娘で、弟で、妹で、恋人(女子生徒に限る)なんだよ。場合によっちゃ命も賭ける。
「ええ、普通じゃないもんで」
そう答えると井上と宮が笑いながら言う。
「確かに普通じゃないわね」
他人に言われると面白くない。
9月7日
昨夜、あれから、病院に連れて来られた。外傷の手当ての後、眠った。今朝は早くから起こされと頭部の検査をされた。その後、午前中いっぱい警察の事情聴取があった。警官が2人で根掘り葉掘り訊いてくる。何か俺の方が悪いことしたみたいだ。自分の生徒を助けて何が悪いのだろうか。気分が悪い。
塾長が来た。来なくていいって。治りが遅くなるから。「授業は心配しなくていから、ゆっくり治せ」とありがた言葉を残して去って行った。仰せの通りにゆっくり治すから2度と来るなよ。
表向きは「病気で休み」ということにしてもらっている。甲斐、青山、井上、宮には昨夜のうちに口止めしてある。悪いことしたわけじゃないけど、塾の先生が乱闘の当事者というのも格好悪い。
昼過ぎ、青山が母親と一緒に来た。やたら感謝されて恥ずかしかった。しかも、2人して居座って色々世話を焼いてくれた。ありがたいが、そこまでしてもらっても困る。いいと言うのに、青山が夕食まで食べさせてくれた。確かに右手が良く動かないので助かったが、「はい、アーンして」なんて言われたのはいつ以来だろう。照れてしまった。
「なんか、新婚さんみたいだね」
青山が言ったので、ますます照れてしまった。
9月8日
安達とせつが見舞いに現れた。病院では携帯電話が使えないから、安達にだけは「入院してるからかけてくるな」と言っていたのだ。せつまで連れて来るなよな。
安達が大笑いして言った。
「ヒロシ、いいザマだな。お前、喧嘩はめったなことじゃ負けないからいい気になってたんだろうが、世の中にはお前より強い奴もいるってことだ。心を入れ替えろ」
この馬鹿は何を言っているんだろうか。無視、無視。せつが尋ねてきた。
「まさか頭じゃないでしょうね?」
「その頭だよ。木刀でやられた」
「馬鹿ねえ、どうして。あなたらしくない」
「仕方ないよ。生徒を助けなきゃならなかったんだよ」
「せつさん、こいつは自分の生徒は恋人と同じくらい大切なんですよ」
「安達、うるさいんだよ」
「だがな、お前ごときが体張ったってどうにもならないこともある」
「そうよ、ヒロシ、大切なものなら守りなさい。でも、だらしないことして守りきれないようなら下手なことせずに初めから警察に任せなさいよ」
「また道場にでも通って修行しなおすか?」
こいつら、俺の怪我自体より、俺が乱闘で怪我したことの方が気になるらしい。俺が弱くなったと思ってるのか。ああ、悔しい。普通の喧嘩ならこんなことにはなってないさ。少なくともやられる前に逃げてるぜ。
「で、頭、どうなの?」
やっと体の心配か。
「まだわからない。検査の結果が出てない」
「せつさん、大丈夫ですよ。こいつにはよくあることだから」
「大丈夫とは思うけど、結果が出たらすぐに知らせなさいよ」
「ああ、わかった」
「ところで、恭子さんは今度のこと知ってるの?」
「いや」
「え、どうして?」
「わざわざ知らせることもないだろう」
「俺が知らせておいてやるよ」
「馬鹿、要らないことするな。これ以上俺のことで苦しめるな」
「思い上がるな。苦しむかどうかは恭子ちゃんの問題だ。それに、お前までひねくれてどうすんだよ。素直になれ」
「そうよ、ヒロシ。素直が一番」
こいつら、怪我で弱ってる俺に何を言いに来たんだ。
9月9日
頭部の検査の結果が出た。中身に異常なし。外傷のみ。退院だ。
9月10日
恭子から電話があった。怪我のことを聞いたらしい。もう退院したと言うと、少し声が柔らかくなった(ように聞こえた)。
安達からも電話があった。退院祝いにごちそうしてくれると言う。せっかくだからフランス料理にしろと言ったら、あっさりOKしたからびっくりした。
9月12日
約束したレストランに行ったら、安達はいなくて、何と恭子がいた。恭子はせつと待ち合わせだったと言う。やられた。が、「もう料金はいただいていますから」というウエイターの言葉に心が動いた。恭子も、
「やられたわね。もう、食前酒飲んでるからあきらめるわ」
シェリーらしき酒が入ったグラスを振って見せた。俺も素直に好意に甘えることにした。が、恭子が酒飲んでる。知らないよ。
せっかくだからワインもちょっと奮発した。よせばいいのに恭子も「ただのお酒だと一段とおいしいわ」と勝手なことを言いながら飲んでいた。頼むから飲まないでくれと言うのに、飲んでいた。案の定、酔って目がすわってきた。レストランを出て、恭子がわけのわからないことを言い出す前に退散しようと思ったが、まだ飲むと言い張る恭子を放っておけず、よく行く店に連れて行った。
勝手にカクテルを何杯か注文して飲み、ますます目がすわってきた。あきらめよう。
いきなり恭子が叫んだ。
「わたしのこと、いったいどう思ってるのよ!好きなの?好きなんだったらプロポーズしなさいよ!さあ!」
こいつだけは、今までさんざん好きだと言っても頑として聞き入れなかったのに、自分からプロポーズしろとはどういうことだ?やっぱりわけがわかんなくなってる。しかも、大声で叫んだものだから、他のお客さんも店の従業員もこちらに注目してる。いや、目じゃないな。全身耳にしてこちらをうかがっている。店中緊張しているのがわかる。
「さあ、早くしなさいよ。いったい何年あなたのことを・・・・・・。いったいいつまで待たせるのよ・・・・・・」
恭子の声がつまる。俺の胸もつまる。
「わかったよ。恭子」
ここはストレートに言ってしまおう。
「俺と結婚してくれ!」
「イヤよ!」
恭子がきっぱりと叫んだ。
はあ?何だって?「イヤよ」って・・・・・・。
店中の空気がゆるんだ。と言うより、店中がストンとすかされてしまった。そのうち「クックックッ」なんて忍び笑いが聞こえてくる。隣の席のカップルは必死で口を押さえてるが、肩が小刻みにふるえてる。ウエイトレスが俺達の横を通り過ぎるとき「プッ」と吹き出した。なぜか恭子も笑っている。
もうあの店には入れない。
9月13日
昨夜は悪酔いした。今も気分が悪い。何が「イヤよ!」だ。ああ、腹が立つ。
授業も何となく乱暴になっている。公私混同してるのが自分でもわかる。生徒も気付いてるに違いない。白井が口を開く。
「先生、はっきり言って今日は荒れてるね。どうしたの?」
どうせまともな授業にはならないから、昨晩のことを聞かせてやった。生徒達はウケていたが、残りの授業時間を使って楽しそうに俺と恭子の今後について討論してくれた。「先生も変わり者、恭子さんも変わり者、変わり者同士でうまくいくに違いない」という結論をだしてくれた。ありがたいことだ。
9月15日
三井が会いたいと言うので、指定の喫茶店に行った。
「先生!」
「よお、久しぶり。連絡よこさないからどうしたのかと思ってた」
「ごめんね。色々あって」
「で、どうした?」
「産むわ。高校生だけどママになる」
「そうか。おめでとう。俺より随分早く親になるんだな。何か感慨深い」
「うん。立派な子を産んで、立派に育てるわ」
何か泣けてきた。
「先生、泣かないでよ」
「悪いな。でもダメなんだよ、こういうのって。すぐ涙腺がゆるむ」
「先生のおかげよ」
「俺は何もしていない。『金八先生』じゃないしよ」
「ううん。相談したとき、まず『おめでとう』って言ってくれた。それがすごい力になった。本当言うと、それまでは堕そうって思ってたんだから」
「お前の親や相手は?」
「最初はみんな産むのには反対だったわ。わたしも何度かそう思いかけたけど。やっぱり、先生の言うように『好きな男の赤ちゃん』だもの、生まない後悔だけはしたくなかったの。最後にはみんなわかってくれた。祝福してくれた」
「お前、本当にいい親を持ったな、いい男捕まえたな」
涙がまた出てきた。
「泣かないでよ。わたしまで泣けてきちゃった」
2人でしばらく泣いていた。周りで見てたら「何事だ?」と思うだろうな。
「お前、高校はどうするんだ?」
「休学する。ひと段落ついたら、また2年からやり直す。どこかに入り直してもいい」
「相手は?」
「大学に行ってもらうわ。この子のためにもしっかり勉強してもらわなくっちゃね」
三井はお腹を押さえた。
「大丈夫なのか、お金は?」
「ウチの親も、向こうの親も援助してくれるって。て言うか、両方の親にべったりよ」
「お前ら、親に一生頭が上がらないなあ」
「イヤでも孝行するわよ」
「良かった。本当に良かった」
「ありがとう。先生、わたし達ね、わたしが高校卒業したら正式に結婚するんだ。何年先かわかんないけど。そのときは絶対結婚式に来てね」
「ああ、お前達とお前達の子どもを見に、絶対行く。歌も歌ってやる。挨拶もしてやる。もちろんご祝儀は6桁持っていってやる。それも、アメリカドルで」
「ありがと、ご祝儀以外は期待してるわ」
「おう、立派な赤ちゃんを産めよ」
そして、三井から退塾の届けを受け取った。気持ちのいい退塾だ。
9月16日
せつが話があるという。お昼に、せつが勤めている病院近くにある公園で会った。
「お前達、はめてくれたな」
「いいじゃない。少しは進展があったようだし。恭子さんにプロポーズしたんだって?」
「何で知ってるんだよ」
「恭子さんから聞いたのよ。恭子さん、かなり酔っててしっかりとは覚えてないようだけど、ヒロシからプロポーズされたみたいって、真剣に悩んでたわよ」
・・・・・・真剣にねぇ。またあの「イヤよ!」が耳に聞こえてきた。
「断られたんだよ。『イヤよ!』ってね」
「酔ってる恭子さんが真面目に物事を考えるわけがないでしょ。普段とは天使と悪魔ほど差があるのに」
「そりゃそうだけど。大体あいつがプロポーズしろって言うからしたんだぜ」
「しろって言われてホイホイするあなたもあなたよ」
「すみません」
「謝んなくていいの。それより、どうするのよ、これから」
「これからって?」
「じれったいわね、恭子さんと結婚するの?しないの?」
「あのね、俺はもう何回も自分の気持ちをあいつに伝えたよ。この前みたいに酒が入ってるときじゃなくて、あいつがまともなときに」
「それで?」
「ダメ」
「そうなの」
「ああ、そうなの」
「恭子さんの気持ちを考えたことあるの?」
「あるよ。毎日考えてる」
「どういう結論に達したの?」
「わかんない。ただ、俺は恭子が大好きだってことだけは確か」
「恭子さんもあなたのこと絶対好きよ」
「俺もそう思う。でもなぁ」
「しっかりしなさいよ」
「どうしっかりしていいか見当がつかないんだ。それに、俺がしっかりする、しないの問題じゃないような気がするし」
「・・・・・・彰子?」
そうだ、彰子だ。彰子が、いや「彰子がいた」そして「彰子が死んだ」ということが、どうにもならない事実として存在する。
「やっぱりね。彰子か」
「仕方ないのかな?」
せつは問いかけには答えずしばらく俺の顔を見ていた。そして、また話し始めた。
「あのね、いつか彰子が話してくれたことがあるの。馬鹿げてるって思ったから、そのときは笑って済ませたんだけど・・・・・・。彰子はこう言ったの、『ヒロシと恭子はいつか惹かれ合うような気がする』って」
「惹かれ合う・・・・・・って」
「『もし本当にそうなったら?』って訊いたら、『最初は悲しいだろうけど許すと思うわ』って。何か、生きてるときから、自分の死も、ヒロシと恭子さんのことも全てわかってたみたいな言葉だった」
そうだ、俺にもわかってる。気付いてる。
「そして、今のヒロシはわかってる。もし彰子・・・・・・」
「やめろ!」
俺はせつの言葉を遮った。
「それ以上聞きたくない」
せつはうなずいた。
「わかってるんならいいわ。でも、そこから始めないと何も進展しないわよ。残酷かも知れないけど。じゃあ、遅れるといけないから行くわね」
せつは歩き始めた。
病院へと続くイチョウの並木道を歩くせつの後姿は絵になっていた。もし、せつが振り返って俺を見たらどう思うのだろうか。絵になっているのだろうか。背景にしか過ぎないのだろうか。それとも、絵に付いた情けないシミなのだろうか。
9月18日
深夜、せつを誘って海までドライブした。尋ねたいことがあった。本当は答えはわかっているのだが、せつに「そうだ」と言って欲しかったのだ。まるで、母親や友人の支持がないと何もできない甘えたガキみたいだと、自分でも思っていた。それでも、せつの言葉を聞きたかったのだ。車を降りて砂浜沿いの遊歩道を歩き、ベンチに腰を下ろした。辺りは暗かった。夜の真っ黒な海。砂浜にも遊歩道にも、もちろん海の中にも、誰かがいる気配はなかった。
俺は彰子との思い出をとりとめもなくせつに語った。せつは黙って聞いていてくれた。
「一目惚れだったんだ。俺は彰子のことが好きだったんだ。本当に」
何度目かの「本当に好きだった」の後で、せつが口を開いた。
「ヒロシの彰子への思いはわかる。でもヒロシが今愛しているのは恭子さんよ」
「彰子は許してくれるかな?」
「許すと思うわ」
しばらく間をおいた後、俺は思い切って尋ねた。
「もし、彰子が生きてても?」
「ええ」
「たとえ彰子が生きてても、俺はいつか恭子を好きになる。間違いないか?」
「間違いないわ」
遊歩道の端の方に人影が見える。もう、夜明けが近いのか。
「そうか」
「もう、いいんじゃない?彰子は許してくれるよ。だって生きてるときから許す準備をしてたんだもの。きっと願ってるよ、あなたと恭子さんが幸せになることを。でも、ちょっとだけ意地悪したかったのよ。今頃はペロッと舌を出してるわよ」
「意地悪か。当たり前だな。彰子も好きだったし恭子も好きだって言うんじゃ、意地悪のひとつもしたくなるよな」
遊歩道の人影が次第に大きくなる。かばんを提げた女子高生だ。ずいぶん早いが通学途中なのだろう。辺りがかなり明るくなっていた。
「せつ、いいんだよな、彰子と恭子が2人とも俺の心にいて」
「いいのよ。彰子への思いがあるから恭子さんを愛せない、恭子さんを愛しているから彰子への思いがなくなる、なんてうそはやめてね。ヒロシには彰子への思いもあるし、恭子さんへの愛もある、それが真実よ。だって彰子は死んじゃったんだから。恭子さんは生きているんだから」
「彰子の死が俺を曖昧にしてるんだな」
「そうよ、彰子が生きてたら、あなたはこんなに迷わない。必ず恭子さんを選ぶわ。彰子が死んだからみんな苦しむのよ。悪いのはあなたでも恭子さんでもない、彰子よ。彰子の意地悪よ」
今までずっと海を向いていたせつの顔が俺に向いた。
「恭子さんを幸せにしてあげて」
ちょうどそのとき、女子高生が俺達の前を通り過ぎた。岬の影から朝日が姿を現した。せつが女子高生の後ろ姿を見ながら言った。
「あの子が朝を連れてきたみたい。まるで朝の使者ね」
「お前、やけに文学的な医者だな」
「褒め言葉だと受け取っておくわね。で、ヒロシ、あなたにも朝が来た?」
「まあな。ありがとう」
「どういたしまして。わたし精神科医になろうかしら」
「無理」
「そうね、初めから答えがわかっている患者さんばかりじゃないからね。でもね、ヒロシ、大変なのはこれからよ。恭子さんはまだ闇の中よ」
9月19日
夜、部屋の前で恭子を待った。帰って来た恭子はびっくりしてた。近くの公園へ行った。
「恭子、おれはやっぱりお前が好きだ」
「いきなりどうしたのよ」
俺は無視して続けた。
「この気持ちはどうしようもないんだ。たとえ、彰子が生きてても、俺はきっとお前のことが好きだと思う」
「ヒロシ、いったい何を言い出すの?」
「はっきりしたんだよ。彰子がお前の姉だろうが他人だろうが、彰子が生きていようが死んでいようがどうでもいい。俺はお前が好きなんだ」
「ひどくない?姉さんはどうなるの?」
「どうにもならない」
「何よそれ。あなたは姉さんのことはもうどうでもいいの?」
「そうじゃない、そうじゃないんだ」
「それじゃ、どうだって言うの。わたしは姉さんの代わりなんでしょ。あなたと姉さんは出会ったの、愛し合ったの。そして姉さんが死んだ。あなたがわたしを好きだって言うのは、姉さんが死んだからなのよ」
「違うんだ。俺は彰子のことは忘れない。だが、お前のことはそれとは別なんだ。俺とお前とは、どんな時代でも、どんな場所でも、どんな環境でも、絶対に出会う。そして、俺はお前を好きになる」
「勝手なこと言って苦しめないでよ」
恭子は歩いて行った。
俺の正直な言葉は伝わらなかった。姉の死によって結果的に自分が俺とつき合うのは許せないのだろうか。姉、彰子への思い、俺への思い、2つの思いの間で苦しんでいる。
恭子の心の中にも彰子がいる。かつて俺を苦しめた彰子が。そして、恭子を痛めつけている。俺は初めて彰子を憎いと思った。
俺と恭子の関係は、彰子におまけのようにくっついている関係なのか。
俺は恭子の心の封印を解くことが出来るのだろうか。