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塾の先生  作者: 高野敢太
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第4章 〜 あの夏

大学2年 7月21日


 書店でせつと出会った。恋人とおぼしき男と一緒だった。

「久しぶり」

「ホント、久しぶりね。あ、こちらは本庄さん、同じ大学の同級生。これは岸和田君、彰子の彼よ」

 向こうは「こちら」で「さん」、俺は「これ」で「君」。えらく差をつけられたものだ。しかし、この本庄さん、同級生とは思えぬ風格がある。つい「さん付け」してしまう。同級生っていうだけで年齢は上なのだろうか?

「こんにちは。岸和田浩です」

「こんにちは。本庄マサトです」

 しばらく間の抜けたことを話した後、その場を離れた。

「ちょっと、ヒロシ」

 せつが後ろから歩み寄って来た。

「いいのかよ、本庄さん待たせて」

「いいのよ。それより、彰子とはどう?」

「うまくいってるよ」

「彰子は4日前に帰って来たばかりでしょ。本当に大丈夫なの?」

「ああ、何の問題もない」

「それならいいけど。でも、今度はヒロシがアメリカでしょ。何かありそうで心配なのよ」

「俺達は大丈夫だから。ほら、本庄さんが待ってるよ」

「いいってば、とりあえずつき合ってるだけの人だから」

「とりあえずって・・・・・・。恭子といい、せつといい、男はお人形さんとは違うんだぜ。真剣につき合えなんて言うつもりはないけど、『とりあえず』はないんじゃないか?」

「あら、恭子さんも『とりあえず』派なの?」

「いいよ、恭子のことは」

「わたしのこともいいわよ。じゃ、行くわね。あ、ヒロシ、送別会してあげるね。『とりあえず』も連れて行くから、一緒に飲みましょ」

 どうなってんだ?せつ一流のジョークも入っているんだろうが、『とりあえず』は本庄さんに失礼だろう。「これ」「君」より失礼だ。

 だが、せつは俺達のことは心配して色々言ってくれるが、自分のことはあまり教えてくれない。恋人ができたんなら教えてくれりゃいいのに。


大学2年 7月23日


 彰子と海に行った。2人で海に行くのは初めてだった。また、来年、俺が帰ってきたら来ようと約束した。

 帰りの車中、彰子が言った。

「恭子も連れてくれば良かったわ」

「なぜ?」

「しばらくヒロシと会えなくて可哀想だから」

「おかしなこと言うなよ」

「わかるのよ、妹だから・・・・・・」


大学2年 8月2日


 約束通り、せつが送別会を開いてくれた。彰子、安達、本庄さんも一緒だった。俺と安達が一緒に酒を飲むとひどいことになる。彰子とせつは毎度のことだから驚きもせず、一緒になって喜んでいたが、本庄さんは最初びっくりしていた。しかし、すぐに馴染んで、いや、汚染されてきた。

 会は2軒でお開きとなった。せつが俺を呼んだ。

「ありがとう」

「何言ってんだ。俺がお礼言わなきゃならないのに。ありがとう。楽しかったよ」

「ううん、本庄も、世の中にはこんな人達もいるんだって、ちょっとはわかったんじゃないかな」

「『こんな人達』なのか、俺達は?」

「まあね。元気でね。勉強はともかく、無事に帰って来てね」

「おう、行ってくる。せつも元気でな」

「ええ、それじゃあね、ヒロシ」

 せつは本庄さんと歩き出した。

 俺は彰子と安達と3人でもう1軒行った。が、終電を逃し歩いて帰るハメになった。


大学2年 8月9日


 明日はいよいよ日本を発つ。大した量ではなかったが貴重品以外はもうアメリカに送っている。かばん1つで出発だ。正直、不安もあるが、期待の方が大きい。

 彰子と昼ごはんを食べた。

「見送りには行かないわよ。泣いちゃいそうだから」

「そういや、お前、去年泣いたよな」

「来ないでって言ったのに来るんだもの」

「だが、俺達みたいに1年ずつどっちかがいなくなるってのも珍しいよな」

「ホントね、その前は受験勉強で3か月ほど会わなかったわ」

「ごめんな」

「いいのよ。ちゃんと帰って来てね」


 夕方、母親がいつにないごちそうを作ってくれた。父親が何も言わずにコニャックの封を切ってくれた。心配ばかりかけて済まない。金ばかりかかって悪いな。いつか、気と運が向いたら親孝行してやるぜ。

 ありがとう。


 夜中、自転車で香山家に行った。体に当たる風が心地よかった。さすがに香山家に着く頃には汗ばんでいたが。彰子の部屋にも恭子の部屋にも灯りがついていた。何をするというわけでもなく、ただ見ていた。

 いつの間にか口笛を吹いていた。SING LIKE TALKINGというグループの「きっと いつの日か」という歌だ。恋人を残して遠くに行く男の気持ちを歌ったものだ。柄にもなくはまってしまった。想像(空想、いや妄想か)の中では、俺も絵になっているんだけどなあ。

 玄関のドアが開いて、彰子が出て来た。びっくりした。ジーンズにポロシャツ姿だった。

「やっぱりヒロシだ。口笛が聞こえたから」

「おう、よく気付いたな」

「気付くわよ、わたしは。それに、絶対来ると思ってたから、ほら、散歩の格好。歩こう」

 自転車を置いて、彰子と並んで歩いた。

「ねえ、口笛で何を吹いてたの」

「『きっと いつの日か』っていう歌。結構今の心境に合ってたから、何となくな」

「どんな歌?歌ってよ」

「ちょっと勘弁してくれ。俺が行ってからCDでも聞けよ。安達が持ってる」

「ふーん。じゃ、楽しみにしておくわ。ヒロシの今の心境ね」

 最初は色んなことを話しながら歩いた。でも、いつの間にか、何も言わずにただ2人でゆっくり歩いていた。そして、また、香山家が目の前に・・・・・・。もう1度、2人が離ればなれになる時がやってきたんだ。

「妹や母に会って行く?まだ起きてるわよ」

「いや、いい」

「どうして、2人とも喜ぶわよ」

 会いたい、とも思ったが、やめた。彰子だけでいい。

「出発の前の夜、最後の夜に会うのはお前だけでいい」

 彰子の目に涙が光った。俺は彰子を引き寄せた。彰子がどこかに行ってしまいそうだった。行くのは俺なのに。ついこの前まで一体感に包まれていたのに。

「どこにも行くな」

「行かないわ」

 キスをした。彰子の唇が離れた。

「ねえ、何て言って欲しい?」

「何でもいい、お前の声なら」

「いっぱいあって決められない」

「じゃ、何も言うな」

 また、唇を合わせた。そして、また、唇が離れた。

「決めたわ」

「何?」

 じっと見つめ合った。

「愛してる」

 その夜3回目のキスをした。つき合い始めてから、一番長いキスだった。


大学2年 8月10日


 あれほど来るなと言ったのに、空港まで安達がついて来た。

「俺だけかよ。いくら何でも寂しすぎるぜ」

「いいんだよ。来られても困る」

「とか、言って、内心、彰子ちゃんには来て欲しかったんだろう」

「いや」

「正直になれよ」

「正直だよ、俺は」

「お前、どうせアメリカで浮気するんだろう?日本を離れるその瞬間までは、うそでもいいから『彰子がいなくて寂しいよ』くらいのことは言えよ」

「大きなお世話だ。それに俺は浮気はしない」

「『俺はいつでもどこでも本気だぜ』って?」

「うるさいんだよ。だから来るなって言ったんだよ」

「照れるなよ。俺とお前の仲じゃないか」

「はいはい、ありがと。じゃ、ここでね、仲良しの安達君」

「仲良しの岸和田君、これを預かってまいりました」

「何だよ?」

「彰子ちゃんからだ」

 銀の十字架だった。彰子、ありがとう。

「愛は宗教を越える、よな。この幸せ者が!それと、これ」

 1枚の便箋だった。「顔くらい見せろ。明日から日本はまた鎖国するんだからね。帰ってくるな。もし帰る気なら無事でいてね。馬鹿!」と乱暴な字で書いてあった。

「何だこりゃ。ここまで見事につじつまが合わない文章も珍しい」

「誰だかわかるか?」

「字を見りゃわかる」

「今朝、その十字架を預かるときに、彰子ちゃんの横で書き殴ってたよ。なかなかの名文だと思うぜ・・・・・・。じゃ、ちゃんと渡したからな」

「お礼を言っておいてくれ。わざわざご苦労だったな、メッセンジャー安達」

「来たくて来たんだよ。誤解するな」

「言ってくるわ」

「おう、元気でな」


 しばらくはお別れだ、日本。そして、・・・・・・。


アメリカ留学 8月10日


 アメリカはロサンゼルスに到着。

 ここで俺の新たな人生が始まる。のはいいんだけど、この人達、いったい何語しゃべってるんだ?英語か?英語だろうな、ここはアメリカなんだから。こりゃ、下手に英語を話すより、身振り手振りを交えて日本語でわめいたほうが絶対に意思が伝わるぜ。イヤになるなあ。

 何とか入国手続きを済ませて、大学に行き、予定通りコーディネーターに会えた。ひと安心。


アメリカ留学 9月5日


 アメリカに着いたときは、周りが何て言ってるかわかんなかった。と言うより、みんな雑音を発しているとしか思えなかったけれど、慣れると一応言葉に聞こえるから不思議なものだ。

 でも、初めての授業は半分以上が雑音のままだった。まずいかも知れない。


アメリカ留学 9月9日


 英語が母語ではない留学生向けの集中語学研修が厳しい厳しい。一般的な学術用語、学部ごとの専門用語が現れては消え、講師の叱責が乱れ飛ぶ。第二次世界大戦中に使ってたという「鬼畜米英」って言葉が頭の中に浮かぶくらい、これでもかと鍛えてくれる。おかげで雑音がなくなってきたけど。


アメリカ留学 9月19日


 国が大きいと人までおおらかになるものなのか。概しておおらかだ。良い意味でも悪い意味でもおおらかだ。

 だが、みんな真面目に勉強するよな。もっとおおらかになれよ。この国では、勉強におおらかな奴は大学なんか来ないのかも。


アメリカ留学 10月2日


 面白い奴がいた。講義中にやたら熱心にノートを取っているのだ。教授の話にうなずいたり、相づちを打ったりしながらも手は動き続けている。すごい熱心な奴がいるもんだと、ノートをそっと覗いてみた。何と「ドラえもん」の絵が描いてあった。彼は、その絵に色をつけている。つまり、塗り絵だ。

 講義の後、彼に声をかけてみた。

「『ドラえもん』、上手に塗れたかい?」

「ああ」

「でも、どうして『ドラえもん』なんだい?」

「日本文化じゃないか」

 これがBrian Rosslareブライアン・ロスレアとの出会いだった。


アメリカ留学 10月4日


「ちょっと『お茶』しに行こう」

 ブライアンが日本語で話しかけてきた。びっくりしたがそのままついて行った。すると、カフェの前を通り過ぎて、キャンパスの隅にある建物に入って行った。中の1室が和室、しかも茶室になっていた。自分の家みたいに、ブライアンはお茶の道具を引っ張り出した。

「お茶の用意をするから、ヒロシは花を飾ってくれよ」

 床の間の前の花器と花を指差した。幼いときに一応母親に教えてもらってた(無理矢理仕込まれた)から、「お茶」も「お花」もひと通りこなせはするが、人様に披露できるようなものではない。しかし、この状況では花を生けないとまずいよな。見たこともない花だけど。何とか体裁を整えて床の間に飾ると、ブライアンが座れと言う。

「僕は『裏』なんだけど、ヒロシの流儀で楽しんでくれればいいから」

「僕も『裏』なんだ。『裏』しか知らない」

 ブライアンは慣れた手つきでお茶をたててくれた。

「結構な御点前でした」

 お茶を飲み終え、そう言うと、ブライアンは嬉しそうに言った。

「お粗末さまでした。でも、ヒロシ、結構日本人だね」

 このアイルランド系アメリカ人に、日本人であることを褒められてしまった。どうやら、俺は彼の試験に合格したらしい。

 ブライアンは大の日本好きで、「茶道」「華道」のほかに「剣道」も習っているという。理想は「風流を解する武士」だというから恐れ入る。俺はブライアンにわかる限り日本について教えるという約束をさせられた。彼も俺の留学生活をできる限りサポートしてくれると言う。


アメリカ留学 10月10日


 英語がある程度理解できて使えるようになったら、調子がいいこと、いいこと。勉強だけじゃなく体の調子もいい。


アメリカ留学 11月18日


 ブライアンが冬の休暇を利用して旅に出ようと誘ってきた。格安のチケットが手に入るから、とりあえずインドに行くことにした。


アメリカ留学 12月15日


 いま、インドのベナレスにいる。ガンジス川がでか過ぎる。日本のみみっちい川とは違う。そりゃ、こんな川にずっと接してりゃ、ガンジス川並みの思想が生まれても何の不思議もない。

 だが、旅行者を狙うみみっちい犯罪が多発してるのはどういうことだ?


アメリカ留学 12月21日


 今、イスラエルのエルサレムにいる。1人で。

 インドからの移動に俺はバスを使うことにした。それが一番安いのだ。でも、途中にはイランがある。日本人の俺は問題ないが、イランの「敵国人」のブライアンは無理だ。エルサレムで落ち合うことにして、ひとまず別れた。エルサレムに着き約束のホテルに行ったが、ブライアンはまだチェックインしていない。何かあったのだろうか。


アメリカ留学 12月23日


 やっとブライアント合流。船で来たという。そりゃ遅くなるよ。

 予定変更、面白そうなのでしばらくイスラエルに滞在することした。宗教について真面目に考えた。色々な宗教の人の話を聞くことができた。


アメリカ留学 12月25日


 宗教や国家そのものを基準に考えると、日本人ってのは情けないものだ。語る言葉がない。もしかして、日本はまだ独立すらしてないんじゃないかと思えるほどだ。今の日本は他の多くの国々とは違い、独立を「戦って獲得」したわけじゃない。独立を「何かの拍子に与えられた」のだ。そして、その独立は「守るもの」でもなければ「守ろうという意志」に支えられたものでもない。自分の国をけなしすぎだろうか。


アメリカ留学 12月26日


 ブライアンがイスタンブールに行きたいと駄々をこねる。でも、イスラエルでの滞在が予定より長くなり金が心配だ。仕方ないので、非常用にとごっそり持ってきた日本の某メーカーの寿司の「素」に活躍してもらおう。ご飯に混ぜるだけってヤツだ。市場で米と適当な具材、安い皿を買い、炊いたご飯に「素」を混ぜ、いい加減な具をのせた「ちらし寿司」の完成。皿に盛って、市場の端っこで売った。物珍しさもあってか、意外と売れた。いいよな、寿司の味がわかんない人々に寿司を売るっていうのも。"Japanese best food"なんて言いながら、具にオレンジや名前も知らない魚がのってるんだから大した寿司だ。でも稼がせてもらった。まだ、おにぎりの「素」もあるし、その気になれば稼げるぞ、こりゃ。


アメリカ留学 12月29日


 ボスポラス海峡を渡ってイスタンブールに到着。新年はここで迎えることになる。


アメリカ留学 1月1日


 明けましておめでとう。

 イスタンブールも面白い。はまってしまった。様々な人種、民族がいて互いにうまくやっているのだ。少なくとも俺の目にはそう映った。各々が個性を主張し合っているのだが、それが独特の活気を生み出していた。俺も日本民族の個性を発揮しよう。



アメリカ留学 1月18日


 予定よりずいぶん遅れてアメリカに帰った。

 大学の休暇はとっくに終わっていた。当然、授業は始まっていて、その間のレポートや、ちょこちょこ実施される試験等、全てパス。「留学生の分際でいい度胸してる」と、担当の、白人なのに何故かこのときは真っ赤な顔してた教官にお褒めの言葉をいただいた。


 そりゃそうだ。イスタンブールでひと儲けして余裕ができて、調子に乗って南アフリカ共和国まで行ったんだから。

 喜望峰やアガラス岬はとにかく雄大で美しかった。なんせ、大西洋とインド洋が接してるんだから。アパルトヘイトの影響など、考えさせられることも多かったが気に入った。新婚旅行はできることなら南アフリカ共和国に行きたい。


 いつになるかわかんない新婚旅行の前に、大学の課題をこなさなきゃならない。また「いい度胸だ」と言われてしまう。「度胸」だけでは認めてもらえない現実がある。当分勉強漬けだ。ブライアンはすでに留年を覚悟していた。


アメリカ留学 3月15日


 ヒェー。勉強、勉強で毎日が過ぎていく。受験勉強の方がまだ好きになれる。


アメリカ留学 4月28日


 彰子の言ってた「居場所」ってヤツが俺にもわかってきた。だが、この「居場所」にいられるのもあと2か月余りだ。無駄にはしない。


アメリカ留学 6月11日


 ブライアンと別れる日が近付いている。

「ヒロシ、ずっとアメリカにいろよ。大学生じゃなくてもいいだろ。仕事なら何とか世話するよ。こっちでヒロシの子どもができれば、アメリカ人の父親だ。市民権だってもらえる。そうだ、アメリカ人と結婚しろよ。ずっといろよ」

 ブライアンは本気で言っていた。本当にいい奴だ。


アメリカ留学 7月6日


 ブライアンとお互いの国のことを話した。過激だけど、本音も話した。

「ブライアン、アメリカ合衆国にはすごいところもいっぱいあった。だけど、自分達の価値観が世界の価値観だと思ってる。まあ、世界の中でそれだけのことをしているんだろうけど。そして、世界中どこもかしこも『アメリカ』にしようとする。それだけの力もあるんだろうけど。俺の偏見かな」

「そうかもな。でも実際『強い』。いいところも悪いところもその『強さ』なんだよ。ヒロシ、日本はいい国だよ。でも『弱い』。アメリカが飲み込みに行くよ。アメリカだけじゃない。中国や韓国、北朝鮮、ヨーロッパの国々、イスラムの国々、色んな国が、お前の国は簡単に落とせると思ってる」

「ああ、そうだろう。だけど、どうせならアメリカの州の1つになりたいよ」

「何言い出すんだよ」

「そうしたら、その16年後には黄色人種が合衆国の大統領してる。もしかしたら岸和田って奴が。東京が合衆国の首都だ」

 こんなこと言えば普通のアメリカ人なら怒るだろう。少なくとも不快な顔をする。だが、ブライアンは違う。

「ヒロシ、アメリカはそんなにヤワじゃないよ。だけど、アメリカに喧嘩売ってるみたいだな。買うよ」

 こう言って笑う。

「でも、ヒロシ、僕はアメリカが好きだ。ひどい犯罪が起きても、貧富の差が激しくても、時には弱い国をいじめても、ヒロシに嫌われようとね。努力してでもアメリカを好きでいるよ。いいところもあるし」

「お前がそこまで言うんだから、アメリカってやっぱりいい国なのかな」

「そうかもな。ヒロシは日本が好きかい?」

「ああ、好きだ」

「弱くて、甘い国でもか?」

「ああ、好きだ。何しろ、好きな女がいる国なんだから」

「じゃ、やっぱり、アメリカ人とは結婚しないんだな」

「ああ、俺は日本人でいるよ」

「ブライアンこそ、日本人と結婚しろよ」

「それいいね。誰か紹介してよ。でも『大和撫子』だよ。なにしろ、僕は『侍』なんだから」

「今の日本に『大和撫子』はめったにいないよ」

「そう?つい半世紀前はそんな人達ばかりだったんじゃないか。アメリカに戦争ふっかけてくるくらいなんだから」

「違う、と思うけど・・・・・・」

 アメリカ、悔しいほど大きくて強い国だった。その悔しさが心の底からアメリカを好きになれない理由なんだろうな。小さくて弱い国の民の歯ぎしりか。

 でも、アメリカ人は好きだ。ブライアンも好きだ。


アメリカ留学 7月13日


 ついにアメリカを去る。色んなことを教えてくれた。色んな経験をさせてくれた。そして、ブライアンに会わせてくれた。本当にありがとう、アメリカ合衆国。いつかまた来る。次は本当に喧嘩を売りに来るからな。首を洗って待ってろ。

 空港までブライアンが見送りに来てくれた。

「ブライアン、ありがとう。楽しかった。また来るよ」

「ああ、待ってる。僕もいつか日本に行くよ。『大和撫子』をいっぱい用意して待っててくれ」

「何とか揃えておくよ」

「ヒロシ、会えて良かった。寂しくなるよ」

「俺もだ。でも、また一緒に色んなことができるよ」

「ああ、僕もそう思う」

 俺達はガシッと抱き合った。

 チェックインの時間が来た。

「じゃ、行くよ」

「ああ、元気で。My Brother」

 10歩ほど歩いて振り返ると、ブライアンが大げさにお辞儀をしてきた。この野郎!俺もブライアンに向かって、思いっきり投げキスをしてやった。ブライアンは両手を広げて呆れたように笑った。俺は右手の親指と人差し指でピストルを作り、ブライアンに向かって撃つ真似をした。ブライアンは右手で作った拳を左腰にあて、そのまま、右斜め前方に動かして構えた。その後、バットを握るように右手の拳の下に左手の拳を添えた。そして、大上段に構えてから振り下ろした。そうだ、日本刀で俺を斬ったのだ。俺達は、互いが見えなくなるまで撃つ、斬る、の殺し合いをしていた。


 さよなら、アメリカ。さよなら、ブライアン。


大学3年 7月13日


 帰ってきた。自分の国だ。大好きな、大切な人達がいる国だ。父、母、姉、弟、せつ、マリア、恭子、その他、あ、安達もいたよ。(ま、安達はその他に含もう)そして、彰子。


大学3年 7月14日


 昨日は帰国の報告を色々な人にした後、疲れてすぐ寝てしまった。

 お昼前、彰子が来た。母が寿司を取ってくれたので、3人で食べながら話をした。彰子と母は2人で、俺が留守にしていた間のこちらでの出来事を楽しそうに話して聞かせてくれた。まるで親子のようだった。全然顔は似ていないけど。

 昼食後、彰子と一緒に、ちょっとだけ高い丘の上にある寺に行った。

「ここにはよく来るの」

「たまにね。時間があるときは散歩がてら」

「散歩って言うには少しハードね。ハイキングよ」

「だが、景色がいいだろう。街と海が見渡せる」

 しばらく眼下に広がる景色を眺めていた。天気が良かったので、街の向こうに見える海の青も鮮やかだった。彰子が口を開いた。

「ヒロシ、お帰り」

「ただいま、彰子。十字架ありがとう。おかげで悪魔の誘惑に勝てた」

「どんな悪魔だったのかしらねえ。小悪魔ってモノかしら?」

 話題を変えねば。

「さあねえ。でも、寺と十字架は合いそうにないな」

 話は尽きなかった。離れていた時間などなかったかのように、いつでも一緒だったかのように、俺と彰子はそこにいた。埋めなければならないものなど1つもなかった。それがかえって奇異に感じられるほどだった。


大学3年 7月15日


 彰子と買い物に出かけた。久しぶりの街の様子が知りたかった。

「やっと、2人の時間がそろったね」

「時間だけはたっぷりあるわね。これからどう使おうか?」

「ねえ、今度は2人で外国に行こう。どこがいいかな?」

 彰子は歩きながら嬉しそうにあれこれ話しかけてきた。いささか答えに窮するものもあったが、本当に嬉しそうだった。


大学3年 7月16日


 大学へ行った。景山教授に呼び出されたのだ。

「岸和田君、率直に言うけど、ずいぶん楽しんだみたいだね」

「はい、すみません」

「いや、いいんだよ。君に、例えば、合衆国の教育制度や、家庭教育と学校教育の関係か何かを学んで欲しいっていってもねぇ。無理だろ?」

「はい。よくご存知ですね」

「・・・・・・。ま、それより、色んな人に出会い、色んな経験をする、そのことの方が大切なんだよ。君も実際にそう思うだろ」

「はい、そう思います」

「結構。じゃ、後期から死ぬ気で単位を取れば大丈夫かな。いずれ何とか卒業できるよ。できれば中退はしない方がいいからね」


大学3年 7月19日


 安達と久しぶりに飲んだ。馬鹿話をして、馬鹿なことをして、気分が良かった。

 駅に向かって歩いていると、安達が立ち止まった。

「おい、あれ。恭子ちゃんだろ」

 恭子が男と歩いていた。安達が言った。

「彼かな?」

「さあ、1年会ってなかったからな。よくわかんないけど彼くらいはいるだろ」

「けどよ、お前が向こうにいるときに彰子ちゃんが言ってた。『恭子は色んな人とつき合うけど長続きしない』って」

「大学に入って最初の彼と3日で別れたのは知ってるけど、それからずっとそんなことしてたのか。何でだろ」

「具体的なことは知らないよ。彰子ちゃん、お前には話さなかったのか?」

「ああ」

「そうか。お前に言ってもな、何の解決にもならないよな」


大学3年 7月20日


「ゆうべ見たぞ。男と歩いてたろう。彼か?」

 恭子に尋ねた。誰と歩こうが俺の知ったことじゃないが、安達が言ったことが引っかかっていた。

「ゆうべまではね」

「ゆうべまではって。お前、この1年でいったい何人彼がいたんだよ?」

「さあね、20人くらい」

「ちょっと多くないかい?」

「じゃ、ゼロ」

「は?」

「誰も好きじゃないのよ」

「じゃ、つき合うなよ」

「つき合ってるつもりはないけど、周りがそう言うから、知らないうちにいつの間にか『彼』ってことになっちゃうのよ。大体『つき合うな』なんて言われる筋合いはありません。それこそ『彼』でもないくせに」

「ああ、そうだな。ごめんなさいね、お節介で」

 知るか。やたらと腹が立った。


大学3年 7月26日


 恭子のことがどうも気にかかる。電話をした。

「おい、どこか行こうぜ。海か、山か、遊園地か、動物園か。テニスでもするか?」

「海。泳がないけど」

「わかった。明日朝8時、お前の家の近くの公園で待ってる」

「早いわねえ」

「遅いくらいさ。渋滞に巻き込まれるぞ。ぶうぶう言うなよ」

「うん」


大学3年 7月27日


 やっぱり渋滞に捕まった。世の人々よ、俺がめったにしない遠出をする日くらい車に乗らないでくれよ。せめて金持ってる奴は今日くらい有料道路使えよ。サイドブレーキを何度も引いたり戻したりしながら恭子と話す。

「恭子、言いたくないけど、好きでもない男とつき合ってどうすんだ?」

「だから、つき合ってるつもりはないのよ。ただ、ちょっと仲がいいだけ」

「男は単純だから、それでもうつき合ってる気になるんだよ」

「『つき合う』って、わたし、友達くらいにしか思ってないのに。男友達は1週間もたてば恋人に変わっちゃうわけ?馬鹿じゃないの」

「男はみんな単純馬鹿なの」

「ありもしない恋愛なのに。蜃気楼を見てるみたいね」

「お前よ、本気で好きになった男はいないのかよ」

「いるわよ」

「そいつとは何で別れたんだよ?」

「その人とは『蜃気楼』すらないの。その人には恋人がいるから」

「なんだよ、結局片想いか。でも、それじゃ仕方ないよな。別なの見つけなきゃ」

「それが大変なのよ」

「そいつは忘れられないほどいい男なのか?」

「別に。普通の人」

「わかんないな。お前に言い寄ってくる連中の中にもいい男はいるだろ。さっさと切り替えろよ」

「無理よ。忘れられない」

「じゃ、そいつに正直に気持ちを伝えろよ。振られたらあきらめがつくだろう」

「できるくらいならもうとっくにしてるわよ」

「じゃ、きっぱり思いを断ち切れ。また、本気で好きな男が現れるまで待つしかない」

「そうね、頭ではわかってるんだけど。あーあ、どっちか死んじゃわないかな」

「穏やかじゃないな。その、どっちかって、好きな男かその彼女かってこと?」

「うん。その男が死ねば本当にあきらめがつくし、女の方が死ねばわたしにもチャンスが巡ってくる」

「こわいねえ」

「女はそれくらいのこと平気で考えるのよ」

「恭子だけだろ」

「どうだか。姉さんだってわかんないわよ」

「彰子はいったい誰に死んで欲しいんだ?」

「さあね、3人くらいいるんじゃない、ヒロシのほかに」

「何で俺が死ななきゃならないんだ?」

「姉さんだけのヒロシが心の中にずっと生き続けるから」

「文学的過ぎて喉がかゆくなってきた。そんな愚かな願いは絶対に聞いてやらない。もし、俺が死んでもさっさと次の男見つけるように言っとこう」

「・・・・・・でも、本当はどっちにも死んで欲しくない。その人にも、彼女にも」

「わかったよ。もう、いいって。お前が割と普通の人で安心したよ。病的に色んな人とつき合ってるんじゃないかって、本気で心配してた。だが、男の勘違いは恐いぞ。気をつけろ。勘違いさせないのも女の実力だぞ」

「ありがとう。気をつける」


 海に着いたのは10時頃だった。砂浜はすごい数の人だった。人を見ていても仕方ないので、人はちょっとは少ない岩場に行って、時間は早いが恭子が作って持って来てくれた昼食を食べた。その後、帰るまでには醒めるだろうと、ビールを飲んだ。恭子も飲んだ。「頼むからジュースにしてくれ」と言ったのにビールを飲んだ。しばらくはおとなしかったが、海に突き出した防波堤を歩いているとき、いきなり人格が変わった。

「わたしは泳がないけどぉ、せっかく海まで来たんだからぁ、ヒロシは泳いでいいのにぃ。わたしに遠慮しないで、ほらあ」

 笑顔で俺を防波堤から突き落とした。すぐ下が海水で良かった。テトラポットや岩、コンクリートだったら怪我してるぜ。防波堤の上でケタケタ笑っている恭子。本当にこいつは苦しい恋に悩んでいるのだろうか?

 防波堤に上がり、寝転がって服を乾かした。

太陽はどこにもかしこにも降り注いでいる。仰向けになれば視界いっぱい青い空、白い雲、鳥まで飛んでる。うつ伏せになれば、視線の先に青い海、水平線、船まで浮かんでる。時折風が吹いてくる。夏だ。これ以上はないほどの夏だ。

 恭子は俺の隣に座り、どこか遠くを見ている。さっきとは別人だ。白い帽子から黒髪がこぼれて風に揺れてる。

「恭子、お前、そうしてりゃいい女だな」

「今頃気付いたの?」

 お互い顔は見ずに話した。

「いい女なんだから、焦るな。絶対いい男が見つかる。もしかしたら、お前の好きな男もいつか振り向くかもな」

「ヒロシなら振り向く?」

「ああ。言っただろ、男は単純馬鹿だって。いい女には弱いの」

「その人は単純馬鹿じゃないわよ」

「それなら、尚更、お前の良さに気付くさ」

「あーあ、こうしてると気持ちいい。ずーっとこうしていたい」

「うん、気持ちいい」

「こんなに長く話したの久しぶりね」

「そうだな、俺もこっちにいなかったしな。何も解決するわけじゃないけど、話ならいくらでも聞くよ」

「いいのよ。ありがとう。わたし、決めたから」

「どう決めたんだ」

「片想いを続ける」

「つらくないか?」

「つらいけど、時々は嬉しいこともあると思うし。そのうち、何とも思わなくなる日が来るわよ。それまでは今のままでいいわ」

「そうか」


 夕日を見てから帰った。恭子は帰りの車中でうとうとしている。こうしておとなしくしてりゃ天使みたいなのに、どこがどうなると世話を焼かせてくれるんだろうか。酒を飲んだら悪魔になるのはわかっているが。でも、何故か放っておけないのだ。彰子が俺に心配をかけることは全くない。どちらかと言えば俺が心配させてる。姉妹でこうも違うものなのか、姉妹だからこそ違うのか。


大学3年 8月12日


「ねえ、あの口紅の色、良くない?」

 彰子がどこかの化粧品メーカーのポスターを指しながら聞いてきた。

「俺は化粧品はよくわからないからなあ。口紅って大体赤じゃないのか?」

「赤だけじゃないわよ。ピンクとか、紫とか、オレンジとか、いっぱいあるのよ。でね、例えば同じ赤でも微妙に違う色がこれまたいっぱい。その中から自分に似合う色を見つけるのって結構大変なのよ」

「女は色々と苦労するんだな」

「そうよ。苦労って言うより努力だけど」


大学3年 8月15日


 ブライアンから旅行中に撮ったビデオテープが届いた。きちんと編集してあった。その中でも、特に印象深かった南アフリカ共和国のビデオを見ながら、彰子にたくさんのことを話した。新婚旅行で行きたいとは言わなかったが。

「・・・・・・で、すごく綺麗なんだよ。俺が今までで一番感動した風景なんだよ。ビデオじゃこれくらいだけど、実際はもっともっとスゴイ。自分の目で見なくちゃわからないよ。絶対見に行こうな。彰子も感動するって」

「行き先が決まったわね。今度は絶対2人で一緒に行きましょうね。約束よ」


大学3年 8月17日


 デパートの化粧品売り場に決死の覚悟で足を踏み入れ、この前彰子が言っていた口紅を買った。少し落ち着いた感じの、赤ワインのような色だった。


大学3年 8月18日


 彰子、が、死んだ。

 何が「2人の時間がそろった」だ。何が「時間だけはたっぷりある」だ。何が「約束」だ。うそじゃないかよ。

 彰子。


大学3年 8月19日


 交通事故だった。彰子は明け方、散歩に行くと言って家を出た。そして、横断歩道を渡っているときに自動車にはねられたのだ。事故を目撃した人が彰子に走り寄って行ったときには、もうこの世にいなかったという。運転していた男は居眠りをしていたらしい。


 ありふれた言葉だが、心には何もなかった。ポッカリと、本当にポッカリと穴があいていた。


 朝、香山家に行った。マリアはもう教会へ行っていた。恭子はいた。2年前のクリスマス・イブに2人で歩いた道をまた同じように2人で教会へ向かった。しかし、今日は2人とも黙っていた。恭子はずっと下を向いていた。


 教会に着いた。マリアのところに行って挨拶だけはしたが、その後、どう話を続ければ良いかわからずに口ごもっていると、

「彰子に会ってやって」

 マリアの方から言ってくれた。

 棺に眠る彰子に会わせてくれた。白い花がいっぱい入っていた。花に囲まれた、美しい、可愛らしい寝顔だった。少し微笑んでいるように見えた。いつもの彰子だった。いつ起きて「お早う」と言ってくれるのだろうか。ポケットからまだ渡していない口紅を取り出した。俺には上手に塗ってやることができない。マリアに頼んで、彰子の白い唇に塗ってもらった。彰子の顔によく似合う色だった。マリアが口紅を差し出した。受け取って棺の中に入れた。彰子の頬に触れてみた。冷たかった。その冷たさが「わたしはもう起きないのよ」と語っていた。胸のところで組んでいる両手、その左手の薬指には、鳥の羽をかたどった銀の指輪がかすかに光っていた。心に何かが湧き起こった。悲しみだ。何もなかったはずなのに、悲しみってヤツがいきなり心に現れた。


 いきなり現れたんだから、いきなり消えてもいいはずなのに、しばらく時間が経っても悲しみは消えなかった。人々が集まって来た。牧師が彰子を送る儀式を始めた。

「・・・・・・この世での役目を果たし、天に・・・・・・」

 などと牧師が言った。うそだろ、おい。彰子は俺との約束をまだ果たしてないぜ。俺達の約束ってのは「この世での役目」の中に入ってないのかよ。俺もまだ彰子にしてやっていないことがいっぱいあるぜ。それなのにどこかに行くなんてことがあるのかよ。大体、不公平だろ?彰子の神様よ、あんたんとこに召される人ってどうやって決めるんだよ。くじ引きか?気まぐれか?それとも、本当に役目を果たした者から順番か?それなら、役目を果たした褒美にこの世に置いておけよ。彰子を置いておけよ。

 悲しみは消えるどころか大きくなっていた。誰かが何かを言っていた。大勢で何か歌っていた。すすり泣く声が聞こえた。すごく悲しいのに、涙は出なかった。


 葬送式が終わった。人々が去り始めた。ふと前を見るとオルガンがあった。

「彰子に歌を歌ってやろう」

 これまで彰子に歌を歌ってやったことは1度もなかった。せめて、彰子が彰子の形を保っているうちに彰子のために歌いたかった。"LET IT BE"を歌おう。「母」としか言わない彰子がそのときに限ってこう言ったので印象深かった。

「"LET IT BE"って好きなのよ。歌詞がね、うちの『お母さん』のことみたいだなって思うのよ」

 鍵盤を押さえながら歌った。そして、祈った、「届け」と。絶望的な祈りだとわかっていても祈らずにはいられなかった。祈っていないと、指が動かなくなるから、声が出なくなるから。

 歌い終わると、大男の牧師が俺のところに来た。

「無駄に人生を終える人など1人もいません。彰子は何か善きものを残して旅立ったはずです。いつか、きっと、彰子が残してくれたものを見つけてください」

肩に大きな手を置いてくれた。優しい手だった。

 安達とせつがいた。安達が手招きしたのでそちらに行った。

「馬鹿!あの歌はピアノの伴奏で歌わなきゃダメだよ。オルガンなん・・・・・・」

 安達の声が聞こえなくなった。安達は下を向いた。そして、顔を上げようとしなかった。

 せつは何も言わずにハンカチを渡してくれた。俺は知らないうちに涙を流していたのだろうか。

「せつ、俺、泣いてるのか?」

 そう尋ねたら、せつは後ろを向いた。背中が震えていた。

 安達が泣いてる。せつが泣いてる。今、はっきりわかった。俺も泣いてる。彰子がいなくなって、俺は泣いてる。やっぱり彰子はいなくなったんだ。


 しばらくして3人で外に出た。木々の緑が目に痛かった。

 マリアと恭子がいた。マリアが言った。

「今日はありがとう」

 誰よりも悲しいのはマリアだろう。夫を亡くし、今度は娘を亡くしたのだ。それでもしっかりと彰子を送り出したのだ。強い人だ。どこに強さを持っているのだろうか。そして、時として、強さは悲しさを際立たせる。

 恭子はうつむいたまま何も言わなかった。


大学3年 8月20日


 悲しい。何を見ても、何を聞いても悲しい。

 だが、俺だけではない。せつも、恭子も、そして、誰よりマリアが悲しんでいる。強がらなくては、俺は男だ。


大学3年 8月22日


 怒りが湧いてきた。俺から、マリアから、恭子から、せつから、彰子を奪い、遠い存在にした男、何より、彰子本人の時間を突然止めた男が許せないと思った。恭子からその男の住所を聞き出した。恭子が言った。

「ヒロシ、くれぐれも無茶なことはしないでね」

「それなら住所なんか教えるな」と思ったが、口には出さなかった。そうだ、俺は何をするかわからない。男を殴るかも知れない。「土下座しろ」と言うかも知れない。家に火をつけるかも知れない。「人殺し」と罵声を浴びせるかも知れない。「お前も死ね」と迫るかも知れない。ただ、行ってみなければならないと思った。

 怒りが悲しみを超えていた。悲しみを忘れるには別の感情で心を満たさなくてはならない。激しい怒りが深い悲しみを追い出すのだ。

 丘の上の閑静な住宅街に男の家はあった。ひっそりとしていた。インターホンのボタンを押そうと思った。が、結局押せなかった。門のところに"FOR SALE"の文字がプリントされた真新しいプラスチックの板を見つけたのだ。それでも尚、10mほど先の曲がり角から男の家を見ていた。玄関のドアが開き、奥さんらしき女の人が姿を見せたかと思うと家の裏手に消えた。すぐに自転車を押して出てきた。門の内側で辺りをうかがうように見渡した。化粧っ気のない疲れ切った顔が俺の方にも向けられたが目は合わなかった。彼女は通りに出てゆっくりと自転車にまたがり、しばらく地面を見つめていたが、思い切るようにペダルをこぎ出し、緩やかな坂を降りて行った。

 怒りが失せた。

 彰子をはねた男も、その家族も、マリアも、恭子も、せつも、俺も、何かを背負ってしまった。そして、それを背負ったまま、これからも生きていく、生きていかねばならないのだ。死ぬまでは。それにどんな意味があるのか定かではないが。そうだ、人間、死から逃れられないのと同様、生からも逃れられないのだ。

 再び悲しみに侵されつつある心に、かろうじてこう言い聞かせた。

「同じ生なら価値ある生を生きたい。いや、生きる。そうだよな、彰子」


大学3年 8月23日


 恭子が電話してきた。

「昨日はどうしたの?」

「別に。ただ行ってきただけ」

「何もしなかったの?」

「うん。何か悲しかった。俺も悲しかったけど、向こうは向こうで悲しかった」

「そう。・・・・・・ごめんね」

「なに謝ってるんだよ」

「何となくね」

「恭子」

「何?」

「俺達はしっかり生きていこうぜ」

 恭子は返事をしなかった。


 夏が終わる。彰子がいなくなった夏。


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