第1章 〜 浩
ジャンルは「恋愛」とさせていただきました。なかなか「恋愛」が出てきませんが(第2章以降です)ご容赦を。
3月18日
「しらをきり通せ。絶対何も言うな。いいか、森中」
「・・・・・・先生、『しらをきり通せ』ってどういう意味?」
「お前、『しらをきる』も知らないのか・・・・・・。『知らない顔をする』ってことだよ」
「へぇー。じゃあ、知らないふりをしておけばいいってことだね」
「顔は見られてないんだろ。そうしろ、安心しろ」
中学2年生の森中が1時間も遅刻して塾にやって来た。いきなり職員室に姿を現したかと思うとまっすぐに俺のところに来た。顔面蒼白で、ブルブルと震えている。ただごとではない様子だ。が、ストレートに「何があったのか」と尋ねるのも風情がない。
「どうした森中、寒いのか?」
「違うよ先生、まずいよ。捕まるよ」
「鬼ごっこでもしてるのか?お前14歳だろ、いい加減に・・・・・・」
「警察だよ。もう、真面目に聞いてよ」
森中の話はこうだ。学校帰りにキーがついたままになっているオートバイを見つけた。川の土手まで持って行って乗り回しているところを警官に見つかり、追いかけられたが何とか逃げて来た。オートバイは乗り捨てた。顔は見られていないし持ち物も残していない。が、怖くなって家には帰らずそのまま塾に来た。どうしようか、と。
確かに森中のやったことは悪い。窃盗、無免許運転だ。14歳とはいえ、捕まると相当まずいのではなかろうか。経歴に傷が付く。もしたしたら高校に入るときにかなり不利になるのでは。頭の中ではすばやく考えがまとまった。で、さっきの「しらをきれ」だ。
授業が終わる頃には森中もずいぶん元気になった。いつもの「とぼけた奴」に戻ってみんなを和ませている。先生の「安心しろ」は生徒には結構効くようだ。
(※ 警察が中学生のこのような行為にどう対処するか、本人がどのような、いわゆる「罪」に問われるか、また、そういった中学生の「受験」につきましては、現実と相違があることをお断りしておきます。)
3月19日
警察で思いっきりしぼられた。
「先生、あんた、『しらをきれ』いや『きり通せ』と言ったそうですね。困りますねぇ。仮にもあんた、『先生』と呼ばれる人が犯罪を教唆するようなことを言っちゃあねぇ」
説教はおよそ1時間に及んだ。
そして、始末書か念書かわからないが、差し出された書類に署名等をすることになった。「ごめんなさい。もうしません」という意思表示だ。
「氏名:岸和田浩 フリガナ:キシワダヒロシ 職業:学習塾講師 等々」
森中の馬鹿野郎は、仲間と2人で悪さをしたなんて俺には一言も言わなかったぞ。仲間が捕まりゃ絶対ばれるさ。やはりとぼけた野郎だ。
まあ、本人は反省してるし、オートバイの持ち主も「穏便に」と言ってくれているらしく、大したことにはならないようだ。とりあえず良かった。だが、森中のご両親に会わせる顔がない。
3月20日
「先生、悪かったな」
森中が謝ってきた。
「いや、俺が大人げなかった。ご両親にも謝っておいてくれ」
「お母さんが今日来るって言ってたよ」
森中の母親が来塾。ひと通り挨拶を済ませた後沈黙があった。森中の母親が切り出した。
「ありがとうございました。うちの息子をかばってくださったんですね。何かほっとしてるんですよ。ものごとの善し悪しはともかく・・・・・・、大したことにもなりませんでしたし」
一応お礼を言ってもらった。複雑な心境だ。ただ、はっきりしているのは、森中の母親も言っているように、大したことにならなかったから互いに穏やかでいられたということだ。もっと事が大きくなっていれば、
「あなたが悪いのよ!あなたがうちの息子をそそのかしたからこんなことになったのよ!」
とか、
「あんたんとこの息子が仲間と一緒だったって言わないからさ!状況説明もできない馬鹿が悪いんだ!」
とか、ひどいことになってただろう。まあ。次からは気をつけよう。
すまなかった、森中。罪滅ぼしに、意地でも、嫌でも、志望校に入れてやるぜ。
3月21日
塾長に叱られる。森中の件だ。
「とにかく警察沙汰は困るんだ。栄明塾の名を汚すようなことは二度とするなよ!」
だとさ。
言うことはわかるが、少しは森中の心配もしてやれよ。あんたも先生だろうが。
減給処分にされた。
3月22日
久保優子という新中学1年生が入塾。この優子の兄、晃一も塾生だった。数々の伝説を残している。
<伝説1> コンピュータ・ゲームにはまり、ソフトを求めて20kmも離れた街まで自転車で行ったあげく、サンプルゲームに夢中になり、店内で引きつけを起こして倒れ、救急車で病院に運ばれる。
<伝説2> 何を思ったか、家を出るときに玄関先で跳ね、頭のてっぺんをドアクローザーにぶつけて出血、病院に直行。ガーゼを頭頂部につけたまま塾に来る。そのガーゼには血がにじんでいて痛々しいのだが、他の塾生、講師一同大笑い。「怪獣ガッパ」の名をもらう。
<伝説3> 学校で、足を机の上にのせ、手を頭の後ろに組んで授業を受けたらしい。「社長」という名をもらう。「俺の授業でもやって見せてくれ」と言うと、「勘弁してくださいよ、会長」とほざく。
<伝説4> 塾の大掃除の翌日、授業に遅れまいと走って来て、磨き上げられた入り口のガラスに気付かずに突進、何とガラスを突き破る。幸い大事には至らなかったが、あちこちから出血。「ブラッディ・コウイチ」の名をほしいままにする。
<伝説5> 休憩時間、塾の二階バルコニーの柵にもたれていて、何の脈絡もなく自分で勝手に柵を乗り越えて落下する。幸い、下に塾長のオープンカーがとめてあり、その幌の上に落ちて打撲のみ。どうしたのかと尋ねると、「柵を背にしていたら、頭が重くて・・・・・・」わけのわからないことを言う。「フリー・フォール・コウイチ」と呼ばれるようになる。
<伝説6> 受験前の1月、美園北高校受験クラスで、生徒のふがいなさに怒った同僚の北が、「このクラスで美園北に受かるヤツなんて1人もいない」と言うと、久保が模試結果のデータ表を北に見せ「僕は?」と尋ねる。データ表を見た北が、「このクラスで美園北に受かるのは久保だけだ」と発言を訂正する。
<伝説7> その年、美園北を受けた塾生20名。合格者19名、不合格者1名。その不合格者は久保晃一。
久保の親も何を考えて兄が受験に失敗したその同じ塾に妹を入れるのだろうか。引率の母親に一応挨拶をして、晃一のことを詫びると、
「いえいえ、受験は水物ですから。それより、この塾が気に入っちゃってるんですよ、家族みんな。晃一もまたお世話になるって言ってますから、よろしく」
だそうだ。変な家族。
講師の間では、久保優子を「刺客」というコードで呼ぶようにした。
4月9日
高3の宮城が学校の制服で来た。それだけなら何でもないのだが、ルーズソックスをはいているのだ。よせばいいのに。象がルーズソックスをはいているようなものだ。しかし、忠告もできない。たまたま居合わせた中3の女の子2人も声を失っている。何となく空気が重い。仕方がないから話しかけてやろう。
「宮城、お前、いつもその格好で学校へ行くのか?」
「はい」
屈託のない返事だ。素直さと明るさが宮城の良いところだ。そうさ、誰にだって良いところはあるのさ。勇気をもってきいてみよう。
「宮城、お前、そのルーズソックスは、自分ではいてダラダラにして作ったのか?」
一瞬、空気が凍ったような気がした。
「いいえ、買ったんです」
さすが宮城、こともなく答えてさっさと教室に消えて行った。宮城がいなくなってから、中3の女の子に、
「先生、何てこと言うんですか!」
と責められる。同僚も、
「今のはちょっとまずいんじゃないですか。問題発言ですよ」
なんて言ってくる。
みんなが知りたいことをきいて何が悪いんだ。何より俺が知りたかったんだ。
その後、宮城のクラスでも授業をしたが、宮城はいつも通り、明るく素直にとぼけたことを言っていた。全然問題ないじゃないか。
4月12日
中1の松戸が塾に来るなり「腹が減った」を連発する。と言うよりそれしか言わない。
「おい、松戸よ、ホントに腹が減ってて気の毒だとは思うが、一応女の子なんだし、『腹が減った』しか言わないんじゃ格好悪いぜ。何かほかに言うことがあるだろう」
「何?」
「自分で考えろよ」
「あ、わかった!先生、電話借りるね」
「いいよ」
しかし、何がわかったんだろう。
「もしもし、シーフードピザのMサイズを1枚お願いします。電話番号は・・・・・・」
止める間もなくピザを注文してしまった。大した奴だ。
4月13日
宮城がわけのわかんないことを言う。
「先生、『赤い渡る』って何ですか?」
「何だその『赤い渡る』ってのは。どこに書いてあるんだ?」
「テキストのここです。ほら」
見ると、The Red Crossとある。絶句した。が、気を取り直して、
「宮城、これは『赤十字』だろ」
やさしく教えてやった。
「でもcrossは渡るじゃないですか」
真顔で言う。こいつは高3になっても品詞が理解できていないのか。いや、品詞云々の問題ではない。もう手遅れだ。
4月15日
宮城がわけのわからないことを言う。
「先生、『わたしはそのとき眠っている犬を使った』ってどういうことですか。テキストのここです、ほら」
見なくてもわかった。a sleeping bagのことだろう。
「それは『寝袋』だろ」
「へぇー、dogって『袋』って言う意味もあるんですね」
しゃれで言ったのなら大したものだが、宮城に限ってそれはない。こいつは完全に手遅れだ。
4月17日
宮城が塾に来るなり話しかけてくる。
「先生、今日、学校で生物のテストがあったんですよ」
こいつが自分からテストの話題をふってくるとは、よほど手ごたえがあったに違いない。話に乗ってやろう。
「そうか、できたか?」
「全部埋めたんですけど、記述の問題で自信がないところがあるんです」
「どんな問題だ?」
「はい、『減数分裂の前にDNA量が増えるのはなぜか』っていう問題です」
「で、どう書いたんだ?」
「はい、『念のため』って」
「・・・・・・そうか」
後の言葉が出て来ない。
こいつはただのボケなのか、結構な大物なのかわからなくなってきた。大物だとしても大学受験は失敗するだろうが。
4月19日
高2の原田が煙草臭い。俺は煙草を吸わないから臭いには敏感だ。
「煙草を吸うと単語が覚えられなくなるぞ」
と脅す。
「わっかりましたぁ」
やけに明るい返事が返ってくる。まあ、どう言おうが吸う奴は吸うのだ。
授業が終わって生徒達が帰って行く。窓から見ていると、自転車にまたがった原田がシャツの胸ポケットから煙草を1本取り出して火をつける。そして、星空を仰いで煙を吐き出し、肩の凝りを癒すように首を左右に曲げた後、ゆっくりとペダルをこぎ出す。
許そう。格好をつけて吸っているのではない。煙草がサマになっている。
4月20日
いやはや、保護者からの電話には辟易する。その大半は苦情や泣き言だ。成績のことならこっちにも責任があるし真摯に応対するが、子どもの性格のことをうじうじ言われても、どうしようもないのだ。親がどうにもできない性格を、たかが塾の講師がどうしろって言うのだろうか。
「親が言っても聞かないんですよ。ここは先生の方から何とか」
こっちも商売だから、
「わかりました。今日授業の後にでも話してみましょう」
と答えておくとそれなりに感謝される。実際、生徒には話すのだが効き目がないことが多い。当たり前だ。
まあ、親に合わせておくのも給料のうちか。
4月21日
電話が鳴る。出てみると生徒の母親からだった。
「吉本です」
「はい、いつもお世話になります」
「・・・・・・今日休みます」
「ユタカ君ですね。どうなさいましたか?」
「・・・・・・熱」
「いけませんねぇ。ゆっくりと休ませてあげてください。お大事に」
・・・・・・ガチャン。
もっと愛想があってもよさそうなものだが、最近この手の母親が多いのだ。本当なのだ。こんな母親と話して育ってりゃ国語がダメなのは当たり前か。俺の責任じゃない。
たまに父親からの電話があるが、どの父親も母親より丁寧できちんとした話し方なのだ。日頃社会でもまれているからなのだろう。「たかが塾の講師」と腹の中では思っているやも知れぬが、そんなことはおくびにも出さない。立派だ。
4月22日
授業後、中2の中曽が馬鹿丸出しで石頭を自慢している。
「俺はヘッドパッド(頭突き)で負けたことがない」
それを聞いていた筋肉隆々の同僚、北が、中曽の石頭に挑戦した。ヘッドロックで中曽の頭を締めあげたのだ。
「痛い!先生!まいりました。もうしません」
いきなり中曽が謝り出す。何をしないというのだろうか。
「なんだ、もう降参か。でも、もうちょっと我慢しろよ」
なおも締めあげる北。
「ごめんなさい。許してください。あいたたた・・・・・・」
「お前、悪いこともしてないのに謝るんじゃねぇ」
理不尽なことにかけては北は相当なものだ。中曽が開放されたのはそれから3分後だった。
4月23日
北が遅れて来た。昨夜、寝るときに胸に激痛が走り、息をするのも困難になったのだそうだ。それで病院に寄って来たということだ。
「右側の肋骨にヒビが入ってたんですよ。ヘッドロックして骨にヒビが入るなんて初めてですよ。何か殴って指を折ることは普通に何回かありましたけど」
北の「普通」がわからない。ともかく、中曽の石頭が勝ったということになる。
「中曽には内緒にしておいてください」
北にもばつが悪いという気持ちはあるようだ。
5月8日
午後4時、誰かが入って来る気配がした。授業までにはまだ間があるが、生徒が忘れ物を取りに来たか、わからないところを教えてもらいに来たかだろう。通路で脅かしてやろう。
「わっ!」と叫んで生徒の前に飛び出す。
「うおーーーっ!」
知らないおじさんがうなりをあげた。一瞬、何がなんだかわからなくなった。おじさんはもっとわからなくなっているに違いない。すぐに謝る。
「すみませんでした。生徒だと思ったもので」
「お宅は、生徒だと脅かすんですか」
鋭い指摘だが、ひるむわけにはいかない。
「ええ、時と場合によっては」
いかん、何を言っているんだ、俺は。人格を疑われるぞ。
「はぁ、そうですか。楽しそうなことで」
「どうも」
この「どうも」ってのは便利な言葉だ。何とか収まりがついた。
見知らぬおじさんは某高校の事務の方で、高校の案内書を持って来てくださったのだ。大変失礼なことをしてしまった。
5月9日
1人生徒がやめた。授業中にすべきことをしないで遊んでいれば、叱られるのは当たり前だ。俺に叱られたのがよほどこたえたらしい。そんなに激しく叱ってはいないし、何より生徒本人のためなのだが・・・・・・。叱られ慣れていないからな、最近の子どもは。ちょっと叱られたら、全人格を否定されたような気になるんだろうな。仕方ない。残念だが塾はうちだけではない。いっぱいある。自分に合った塾を探して欲しい。それが生徒のためだ。しかし、叱られない塾なんてあるのだろうか。まあ、どこかにはあるんだろうな。俺には絶対に務まらないけど。
減給処分だそうだ。知るか!
5月11日
塾が終わるくらいの時間になると、塾の周りに怪しげな連中がたむろするようになった。どう見ても中学生だ。うちの塾に通っている友達を待っているらしい。最初はただいるだけで実害はなかったが、そのうち、煙草は吸うわ、ジュースの空き缶は投げ捨てるわ、ご近所に顔向けできないことをし始めた。頭にきて1度追っ払ったが、数日後、何事もなかったかのようにやって来る。また追っ払いに出て行くがもう聞きはしない。聞くどころか、
「おっさん、うるせぇんだよ。ぼろ雑巾にしてやろうか」
だって。面白い。雑巾にできるものならしてみろ。雑巾はともかく「おっさん」呼ばわりは許せん。「お兄さん」だろうが。自転車にまたがっているくわえ煙草のリーダーらしき奴のところに行き、腕を取り、自転車から引きずり下ろした。バタバタ暴れるが所詮はただの中学生、俺の相手ではない。そのまま塾の中に連れて入った。
「お前よ、迷惑なんだよ。二度とたむろするな」
「うっせい!道路で何しようが俺の勝手だ!ざけんな!」
やけに威勢がいい。
「ほぉー。じゃ、この写真の煙草吸ってる中学生は誰かな?警察呼んで確かめるか?」
以前撮った写真を見せ、本当に110番してやった。森中の例もあるし、悪さする奴を見つけたら警察に任せなくては。
「すみません、中学生が煙草吸ってたんで捕まえたところなんですよ。来てください」
いきなりリーダー君は逃げ出そうとする。誰が逃がすか。こんなこともあろうかとドアはロックしてチェーンもかけておいたんだよ。ロックはともかく、チェーンをはずす間にまた捕まえられるんだよ。
「あきらめの悪い奴だな。警察が来るまでおとなしくしてろよ」
「おっさん、頭変なんじゃないか!煙草くらいで」
そうだよ、煙草くらい何とも思っちゃいないさ、俺は。ただ「おっさん」呼ばわりが許せないだけだ。
「おっさんじゃないの。お兄さん」
「おっさんはおっさんなんだよ、おっさん」
頭にきた。俺がいかに「お兄さん」かわからせてやらねば。
「てめえの親父は何歳だ。俺は親父よりずいぶん年下だと思うぜ」
「35歳だよ」
若い。が、俺の方がずっと若い。
「お前は何歳だ」
「15だよ」
父親が二十歳のときの子か。俺が二十歳のときは学生で・・・・・・。いや、思い出すのはよそう。こいつの母親は何歳だろう。
「母さんは何歳だ?」
「関係あんのかよ」
「あるんだよ!俺が『お兄さん』かどうかによ!早く言え!」
「33歳」
母親も若いが、俺の方がまだ若い。勝った。
「見やがれ!俺は『お兄さん』だよ。はっはっはっはっはっ!」
勝ち誇ったように笑う。リーダー君の顔がゆがんだ。わけがわかんないんだろう。当たり前だ。リーダー君には俺がいかに「言葉」(というより「お兄さん」)にこだわるかなど理解の外だ。関わってはならない人に関わってしまったという焦りが見て取れる。
そうこうするうちに警官が2人来た。そういや、煙草の件があったんだ。
「まあ、こいつも反省しているでしょうから許してやってください」
心の広いところを見せてやる。警官の1人は露骨にイヤな顔をする。そりゃそうだ、呼びつけた本人が「許してやってください」じゃ、ムッともするわ。もう1人がキョトンとしながらも話を継ぐ。
「はぁ。ところでこの子の名前は」
「知りません。年齢は15歳です。父親は35歳で、母親は33歳です」
「・・・・・・はぁ。で、どうしましょう。私どもがこう言うのもあれなんですが、あなた先生でしょ、指導力もありそうですし、ここはひとつ、先生の方からピシッとお願いできませんかね。保護者に連絡してもらって、ピシッと。その方が効き目がありそうですし」
「いや、うちの生徒ではないもので。お任せしますよ」
しかし、警官もなんだかんだと理由をつけて結局「じゃ、先生からご指導いただくということで」と、俺にリーダー君を押し付けて帰って行った。馬鹿らしくなってきた。
「帰れ。二度と来るな!」
「誰が来るかよ!」
素直に帰って行った。
5月12日
大林が話しかけてきた。
「寺本が、あ、昨日先生が捕まえた奴、あいつがさ、『二度と行かないからな、おっさん』って。で、これやるってさ」
封が切られたマルボロだった。
「俺は煙草は吸わないんだよ。そう言っとけ」
中学生が高い煙草吸いやがって。もっと安いのがあるだろうに。って、そういう問題ではない。しかし、煙草もらっても仕方ないんだが。原田にやろうかな。
その後塾長に呼び出された。
「お前、また警察か!」
「はい、今回は自分で呼びました」
「・・・・・・」
ザマミロ。
5月14日
高2の山下が悩みがあるという。
「どうした?」
「先生、僕、どの大学に行こうかと思って」
「は?お前に大学が選べると思ってるのか?」
「うん、名古屋大学にしようか、大阪大学にしようかって。どっちがいい?」
こいつは正気か。だが東京大学と言わないところに正気、いや本気が感じられる。何とか気を取り直して尋ねた。
「おい、名古屋や大阪の下に何が付くんだ?」
「え、どういうこと?」
「いや、だから、名古屋○○大学とか、大阪××大学とか」
「何も付かないよ」
絶句した。しかし、何か言わなきゃ。
「俺なら大阪大学にするけどな、俺ならな」
「そうか、大阪大学か。じゃ、そうするよ」
「そうか、大阪大学にしたか。でも、今のままじゃ無理だぞ。今までお前が生きてきた年数浪人しても無理かも知れない」
「そうだよね」
ああ安心した。やっぱり、こいつ、しゃれで名大だ阪大だって言ってたんだな。良かった。が、違ってた。
「先生、僕、塾やめるよ。悪いけど阪大ならこの塾より大手予備校の方がいいと思う」
救いようがない。救えないなら、せめて気持ちだけでも高みに登らせてやらなきゃな。
「俺もそう思う。山下ほどのヤツなら□□ゼミや、△△塾の方が合うと思うぜ」
「やっぱり!じゃ、そうするよ」
「おお、退塾の手続きはしておいてやる。がんばれよ」
「ありがとうございます」
どういう育ち方をしたんだ。「やれば何でもできる」とか、「叶わぬ夢はない」とか、ずっと聞かされて育ってきたんだろうな。否定はしない。だが、そこに「努力」の2文字が抜けてませんか?でも最近多いぞ、「根拠のない自信」「裏付けのない万能感」にあふれた連中が。
5月15日
中1の正岡(男子)が塾のトイレ(和式便器の水洗)で大便中、間違って誰かにドアを開けられてしまった。不覚にもロックをしていなかったのだ。それが、ちょうど出ている真っ最中で、見た方も見られた方もかなりのショックだったようだ。
5月17日
正岡、退塾。
塾長に呼ばれる。
「正岡が退塾するようだが、理由は?」
「ウンコしてるところを見られたからです」
「何だそれ?そんなことで退塾するのか?」
「そうみたいです」
「何で止めないんだ」
「どう言って止めるんですか?『もうウンコしてるところは誰にも見させないから』って止めるんですか?」
「それくらいのことは言えよ」
「はい、次からはそうします」
どこかおかしい。
5月19日
中1の授業中、何かにつけて投げやりな藤田がこう言う。
「勉強なんてしなくていいよ。適当で。いざとなったら西光森高校に行くから」
西光森高校と言えば、履歴書にその名があるだけでどんなに人手不足の企業でもアルバイトにさえ採用してくれない天下無敵の馬鹿でワルの高校、行かないほうが人生のプラスになるという世にも珍しい高校だ。まずい。こいつら中1にして、世間の高校評をしっかり受け取って、それを努力をしなくていい理由に使うことまで知っている。ここはひとこと言っておくべきだろうな。
「お前、本当に西光森に行くのか。いいか。西光森なんてな、誰でも、いや、何でも入れるんだぞ。努力もなーんにもなし。ここだけの話だからよそで言うなよ。西光森の先生が授業で使おうと思ってプリントを教室の机の上に用意しておいたんだ。で、授業が始まってみると用意しておいたプリントがない。おかしいなと思って教室中見渡したら、何と一番後ろの生徒用机で、山羊がプリントを食べてたんだ。普通の学校なら大騒ぎさ。でもな、その先生は冷静にこう言ったんだ。
『おい、大沢、プリントを食べるのはいい加減によしてくれ。授業にならないじゃないか。それからみんなも大沢がプリントを食べ始めたら注意してくれよ。クラスメイトだろ』
って」
何人かの生徒はすぐ笑う。そのうち話が飲み込めて笑い出す生徒達。さあ、ここからが本番だ。冗談をステップに努力について話しておかなければ。しかし、ただ1人きょとんとしている生徒がいる。境だ。その境が何を思ったか手を挙げる。
「どうした境、何か言いたいのか?」
にこやかに話しかけてやる。
「ウン。僕ん家、お父さんもお母さんも西光森!」
シーンという音が教室中に響いたような気がした。顔が一瞬でひきつるのが自分でもよくわかる。俺だけではない。さっきまで笑っていた生徒達も一斉にひきつっている。知ってはいけないことを知ってしまったのだ。父親と母親の寝室での秘め事をかいま見てしまった幼い子どもの心境か。さすがの俺も1分ほど言葉が出なかった。
「・・・・・・そ、そうか。も、もしかして、お前も行くつもりなのか、西光森?」
ようやく出た言葉がこれだ。何のフォローにもなっていない。
「はい、できたら」
境は真面目に答える。
わかった。俺は今、この瞬間からお前に優しくしてやる。決めた。他の生徒達も同じ思いに違いない。境家の秘密を知ってしまったせめてもの罪滅ぼしだ。
5月22日
境、転校のため退塾。
5月23日
国語の授業。有田にテキストを読ませる。
「生まれ故郷ののうむらでは・・・・・・」
教室がざわつく。
「おい、今何て言ったんだ」
「生まれ故郷」
「いや、その次だよ」
「のうむら」
「・・・・・・それはね、『のうそん(農村)』って読むの」
「いつからですか?」
「・・・・・・ずっと」
5月26日
漢詩を教える。まずは、漢詩の形式だ。
「いいか、漢詩では行を一句、二句という風に句と数える。で、一句が五文字ならそれは『五言』だ。一句が七文字なら『七言』だ。次に、四句の詩を『絶句』、八句の詩を『律詩』と言うんだ。普通、問題になるのはこの『五言』『七言』と『絶句』『律詩』とを組み合わせた形式なんだ。ちょっと確認しておくか。(縦に5個の○を一行とし、それを4行書いて生徒に示す)
『○○○○○
○○○○○
○○○○○
○○○○○』
おい、有田。こういう漢詩の形式は何だ?」
「うーん・・・・・・」
「四句の詩だから何だったかな?」
「絶句です」
「それならもうわかるだろう。その『絶句』の上に何か数に関係ある言葉がつくだけだ」
「はい、『にじゅうごんぜっく』です」
教室中が笑った。そりゃ笑うぜ、有田よ。笑い事ではないのだが俺も笑ってしまった。
5月27日
隣町の中学校で、男性教師が女子生徒に猥褻なことをしてクビになる事件があった。よくあることだが、その教師というのが2年前までうちの塾がある校区、つまり地元の中学校に勤務していたらしく生徒達も親達も多少ざわついている。
「あの先生、すごく人気があったのに」
「授業が面白かった、って、お兄ちゃんが言ってた」
「お母さんは『魔が差したんだろう』って」
「マガサシタ?何それ?どういうこと?」
生徒もなかなか盛り上がっている。
「先生って呼ばれるような仕事の人はどこかズレると、いっぺんに危ないことする人が多いんじゃない?」
優等生の斉藤がなかなか鋭いことを言う。
「斉藤、結構いいとこ突いてるじゃないか」
「じゃあ、先生も危ない人なの?」
おお、来た来た。
「ああ、ちょっと危ない」
笑い声や、本当にイヤそうな「えーーーっ」「やだぁ」という声があがる。
「まあな、危ないっていうより、不平や不満や欲望があるってことだ」
またうるさくなる。
「だけど、不平や不満や欲望のない人なんているか?まずいないだろ。学校の先生も、塾の先生も、お医者さんも、先生とは呼ばれないけど警察官も、みんなどこか危ないところは持ってるのさ」
当たり前のことだ。話を続ける。
「でも、教師は生徒の前に立つと不平や不満や欲望なんて忘れて、何とかわからせてやろうと思うし、生徒にはまっとうな人生を歩んで欲しいと思うんだな。医者は患者さんのところに行くと、何としてでも病気や怪我を治してやろう、助けてあげようと思うし、警察の人だって、一般の人が安心して暮らせるように命がけで頑張ろうって思うものなんだよ」
「でも、結局とんでもないことするじゃん」
「そうだな。ところで斉藤、お前の学校に先生は何人いる?」
「40人くらい」
「で、その中で何かしでかした先生は何人いる?」
「いないよ」
「だろ。この地区に公立中学校が5つある。1つの中学に先生が40人いるとして全部で200人。今回隣町の先生が1人悪さをしたけど、残り199人はまあ普通に先生をしてるんだ。普通にっていうのは、不平不満、欲望なんてどっかに飛ばしちゃって、君達のために頑張ってるってことだ。それが先生っていうもんだ。たった1人が変だからといって、残り全部も同じじゃないだろ」
「でも普通じゃない先生に当たった生徒達はかわいそうだよ。下手すると人生が狂うんだよ。運が悪かったじゃ済まないと思うけど」
やはり斉藤、すごいことを言う。
「俺もそう思う。だが、それは学校の先生とか医者とかっていう職業の問題ではなくて、例えば岸和田浩とか、斉藤隆之とか、隣町の何とかさんっていう個人の問題だと思うんだよ。自分の欲望を抑えられない個人が、たまたま学校の先生やってたんだ。学校の先生っていう職業全部を変な目で見るのはやめた方がいいと思う」
「じゃあ、変な先生に当たった生徒はあきらめるしかないの?何か納得できないよ」
斉藤が食い下がる。
「いや、あきらめなくていい。他の先生やお父さんお母さんに助けを求めろ。それで聞いてくれなきゃ教育委員会がある。なんなら俺でも力になる。弁護士さんだっている。意思表示をすることだ。いいか、『あの先生、俺を叱ったから嫌いだ』とか『宿題が多過ぎるから消えろ』とか、お前達のワガママを通せというんじゃないぞ。不正、邪悪には目をつぶるなということだ。少なくともお前達が学んできた『正しさ』から外れてると思ったときには周囲に判断をを仰いでみろってことだ。みんなそれなりに判断してくれるし、力にもなってくれるだろう。俺が言っても説得力がないけどな」
「先生、今日は何かマトモ」
高橋がほめてくれた。
「そうか、ありがとう。とにかく、お前達の周りにいる99%以上の先生、もっと言うと99%以上の大人はみんな一生懸命、立派に生きているんだ。1%に満たない変な奴のために教師や大人全部に絶望するような愚かなことはしないで欲しい。何より、お前達が、これからその大人になるんだからな。俺も、大人になるお前達に、キチンとした何かを示してやれる先輩の大人であるように努力するよ」
斉藤もうなずいている。何とかおさまった。良かった。感動してる生徒もいた。言ってみるもんだ。
今度のような事件があるとこっちもやりづらい。一応先生だし。何より、学校の先生の息子や娘がこの塾に何人通っていると思ってるんだ。相当いるぞ。うかつに話題にもできやしない。斉藤、少しは気を使えよ。第一、お前の家は両親とも学校の先生だろうが。
5月28日
授業後、高3の宮本が話しかけてきた。
「ねえねえ、『デカメロン』って何なの?」
とても受験生とは思えない言葉を吐く。少しからかってやろう。
「あんなエロ本、どうでもいいじゃないか」
「え、『デカメロン』ってエロ本?」
「ああ、世界で最も有名なエロ本じゃん。歴史の教科書にも載ってるエロ本」
「へぇー」
「お前も図書館かどっかで読んでみろよ」
「そうする」
ボッカチオさん、ごめんなさい。
5月29日
最近、学校から家に帰る前に塾に来て、学校の宿題をして帰る生徒がいる。中2の藤岡と林だ。宿題を見てやる代わりに、ジュースやアイスクリーム、時には弁当などを買いに行ってもらっている。もちろんお金は出すし、おごりもする。まあ、藤岡と林にしてみれば日課みたいなものだ。そのうち、他の講師も便乗するようになった。一度に結構な量の買い物をしてくるようになった。大盛況だ。
だが、今日は腹が立った。林にアイスクリームを頼んだ。だが、量だけ多くて全然おいしくないあるメーカーのだけはよしてくれと念を押したのに、それを買って来たのだ。
「お前、絶対買ってくるなと言ったのをどうして買ってくるんだよ!換えてもらって来い!」
「え、絶対にこれだと言ったじゃないですか」
「これだけは絶対に買うなって言ったんだよ」
「でも・・・・・・」
「『でも』も『しかし』もあるか!とっととほかのに換えて来いよ」
「でも、レシートもらってないんです」
「何ぃ!役に立たないなぁ。おい、これはお前にやるからすぐ食え。1分以内に食ったら許してやる」
「はい」
林は量だけ多くてまずいアイスクリームを食べ始めた。涙を流しながら食べている。泣くほどのことか。余計に腹が立った。
「お前よ、中学生にもなってお遣いがまともにできないようじゃ、受験はとてもじゃないがダメだな。『次の選択肢から間違いを選べ』っていう問題で、正しい選択肢を選んじゃうタイプだよ。絶対に」
顔中ドロドロにしてベソをかきながらアイスクリームをなめている中学生。その横で悪態をつく塾の先生。すごい図だ。
「まあまあ、たかがアイスクリームで」
同僚講師の進藤が林の肩を持つが、何故かいきなり北が、
「たかがアイスクリーム1つまともに買えない奴には何も教えることはない。帰れよ。それとも何か、わざと買って来て、岸和田先生に嫌がらせしたんだろう。そうだよな?」
と言ったもんだから、林は号泣してしまった。
まあ、アイスクリーム1つでこうだからなあ。少しは大人になろうかな。
5月30日
林は昨日あれだけ泣かされたのに、懲りもせずお遣いをしに来た。
「昨日はすみませんでした。もう大丈夫ですからお遣いに行かせてください」
こいつ、頭は大丈夫か?と思ったが、結局チョコレートを頼んでしまった。俺はチョコレートが好きなのだ。
「おいしいチョコレートを頼むぜ」
「はい、任せてください」
10分後、俺はチョコレートを前に不機嫌な顔をしていた。よりによって、とてつもなくまずいチョコレートを買って来たのだ。何故か、北が怒ったように宣言していた。
「今日からお前を『役立たずのリン』と呼ぶ」
6月1日
塾長と進藤が言い争いをしている。進藤が生徒の退塾をあっさり認めたとか、その生徒がライバル塾に移ったとか。塾長は「もっと粘って何とか引き留めるべきだった」と言いたいらしい。別に進藤の肩を持つわけではないが、いいじゃないか。生徒にとって塾はうちだけではない。うちが合わないと思えば、よそへ行くのが普通の行動だ。生徒のためでもある。北が口をはさんだ。
「塾長、もういいじゃないですか。下手に引き留めたって、それ以後は遠慮しちゃってこちらが譲歩することになるんですから。授業がやりにくくなりますよ」
「お前には何も言ってない!経営に口出しするんじゃない!」
と怒られたが、北も黙ってはいない。
「わかりました。二度と口出ししませんから。さあ、続けてください。どうぞ、遠慮なく」
さすがにばつが悪くなったのか、塾長は別の部屋に進藤を連れて行った。最初から人目につかないところでやれよ。現場の苦労も知らずに、「経営=生徒数=お金」っていうだけの思考は何とかしろよ。きれい事で済ます気はないけど、その生徒の教育ってことを考えたから、進藤だって退塾を認めたんだろ。ああ、気分が悪い。
6月2日
同僚の大久保が俺の隣で生徒の質問に答えている。
「いいかい、この県には『筑波研究学園都市』があるんだから簡単だろ。『いばらぎ』県だよ。だから答えはFだな」
敢えて何も言わなかったが、都道府県名もまともに言えない奴が塾で教えてるんだから、簡単な問題もわからない生徒がいて不思議じゃないよな。まあ、俺も「生徒より5分早く理解すりゃ教えられる」なんて言ってるんだから大差ないか。でも「いばらぎ」県はないよなぁ。怒るぜ「いばらき」県民が。
そいうや最近、「雰囲気」を「ふいんき」って言う生徒達が結構いるよな。もしかして大久保の影響か。
6月3日
中1の英語の授業で、曜日と月を教える。これくらいは教えるまでもなく知っている子が多い。試しに安田を指名して曜日を読ませる。
「・・・・・・ゥエンズディ、サースディ、・・・・・・」
「おお、安田、さすがにいい発音だな。でも木曜日は『サーズディ』だよ、『ズ』って濁るんだ」
安田は不思議そうな顔をしている。困惑気味の生徒も何人かいる。
「でも、学校の先生は『サースディ』って言ったよ」
安田が言い訳をする。
「うそだろ。そんなこと言う英語の先生がいるわけないじゃん。もしいたら『先生辞めてどっかの森で木の実でも採ってろ』って言っとけ」
「でも本当なんだよ。『サースディ』って」
安田が言い張る。何か本当っぽいぞ。
「その先生はお年寄りか?」
「ううん、若いよ。大学出て2年くらいの女の先生。横川って先生」
「そうか、でもそれはウソだ。いいか、安田だけじゃなくて全員注意しろよ。学校の先生が何と言おうと、木曜日は『サーズディ』だからな。間違えるな」
いいよな、公立学校の先生は。間違いを教えても給料減らないんだから。
6月4日
授業後、宮本が話しかけてくる。
「先生、『デカメロン』読んだよ」
この馬鹿は、ホントに読んだのか。名前と作者さえ覚えておけばいいものを。何て時間を無駄にする受験生なんだ。しかも「デカメロン」で。まあ、読めと言ったのは俺だが。
「面白かったか?」
「うん、ホントにエロいところがあるね」
「だろ。あんなのが名作として教科書に載ってるんだからな。世界史なんてちょろいもんだろ?」
「そうだね」
・・・・・・帰ろうとしない。何なんだ、こいつは。
「どうした?」
「ねえ、ほかにお薦めの本ないの?」
「ダンテの『神曲』でも読めよ」
「それもルネサンス期の作品だね」
ほう、少しは勉強になったのか。知ってて当然だが。しかし、宮本はこう続けた。
「『神曲』って、エロい?」
この馬鹿、俺はエロ本を推薦してるわけじゃないぜ。塾の先生なんだから。と思いつつも、
「ルネサンスとは関係ないけど『O嬢の物語』『新O嬢の物語』なんて名作だぜ」
と応じていた。
「わかった。読んでみる」
宮本は確実に受験生としての道を踏み外しつつある。
6月5日
藤岡が髪を切っていた。やけにおしゃれな髪型になっていた。
「おい、藤岡、かっこいい髪型だな」
「でしょう、『J』で切ったんだよ」
はやりのカットサロンの名を挙げた。
「『J』って高いんじゃないのか?」
「まあね」
だそうだ。男子中学生がたかが髪を切るのに大枚はたく時代か。俺なんか自分で切ってるのになあ。後ろなんか、ほとんど手探りの世界だぜ。
藤岡の髪型は女子生徒の間でも話題になっていた。元々、顔の造りの良い藤岡が、髪型までカッコよくなったもんだから大変だ。似合ってるとか、90点だとか、99点だとか。だが、ピクッとするような会話を聞いてしまった。
「でも『J』って高いんじゃない?藤岡の親ってよくお金出すよね」
「ううん、親からは3000円しかもらってないって」
「え、じゃ、残りは?」
「何か、お遣いして、お釣りを貯めたとか言ってたわよ」
あの野郎は、俺のお釣りをごまかしていたのか。雨の日も風の日も健気に来るはずだ。「J」は当然予約制だ。ということは、計画的にお釣りをごまかしていたということだ。なかなかたくましいが、落とし前はつけてもらおう。
6月6日
塾の前に犬がいる。結構高そうな犬だ。だが、何で看板にくくりつけてあるんだ?中に入って事務の片桐さんに尋ねた。
「え、まだいるんですか。わたしが来たときもいたんですよ。1時間ほど前ですけど。すごく人なつっこい犬で、頭を撫でたらしっぽ振って喜んでましたよ」
授業前に見たらまだいる。
授業中に気になって見に行ったらやっぱりいる。
授業後に見たらそれでもいる。
間違いなく飼い犬だ。だが、どうしよう。このままにしておくわけにもいかない。警察に届けに行くことにした。犬好きの中3の堀江が、「もし飼い主が現れなければもらいたい」と、俺と一緒に最寄りの交番まで犬を連れて行った。
交番にいた若い警官は、警官にしては珍しく丁寧に話を聞いてくれ、本署へ連絡を入れてくれた。その間、堀江は犬とじゃれて遊んでいる。本当に犬好きなんだ。
警官がハキハキと報告している。
「ハイッ、そうです。大きさは確認しました。ハッ、色は濃い茶色です。性別?ハッ、確認しますので少々お待ちください」
警官が堀江に尋ねる。
「ねえ、雄か雌かわかる?」
「うん、雄だよ」
「お待たせしました。性別は雄です。ハイッ。年齢?犬のでありますか?」
警官は困ったように堀江の方を見る。と、犬は、前足を堀江の太ももに乗せ、堀江のむこうずねの辺りを後足ではさむように立ち、腰を振っている。それを見た警官、こう報告した。
「ハッ、年齢はわかりませんが成犬の模様」
6月7日
学校で英語の授業中、安田が「木曜日の発音」について、「塾の先生がウソだって言った」さらに「『森で木の実でも採ってろ』だって」と、そのままを横川とかいう先生に言ったらしい。横川先生はその場で辞書をひき、ついでに顔もひきつらせていたそうだ。安田は横川って先生に嫌われる。絶対に嫌われる。俺は知らないよ。
6月8日
中1の授業の最初に、一番前の席に座っていた坊主頭を、何の気なしにとりあえず殴ってみた。鈴木だった。
「何するんだよぉー。何もしてないじゃないか!」
そういやそうだ。理由がない。
「いや、とりあえずな」
「家でいいつけてやるからな!」
「ああ、言いつけてみろ。平気だぜ」
6月10日
鈴木が職員室に入ってくるなり進藤に訴え始めた。
「母ちゃんに『何もしてないのに塾の岸和田に殴られた』って言ったら、母ちゃんにも殴られた」
「えっ、どういうことなの?」
「だから、『あんたが何もしていないのにいきなり殴る先生がいるわけないでしょ!ウソつくんじゃないわよ!』って。進藤先生、何とかしてくれよ。何もしてないのに殴る奴がここにいるんだよ」
そうだよ、いるんだよ。ここに。
「鈴木君、ウソをついちゃいけないなぁ。いくら岸和田先生が気が短くても、理由もなしにそんなことはしないよ」
鈴木の顔がグシャッとくずれた。鈴木のところに行ってそっとささやいた。
「だから言ったろ、平気だって」
鈴木はタタタッと職員室から走り去った。
さすがに気がとがめて、授業の初め、みんなの前で鈴木に謝っておいた。謝罪はみんなが見てる前でしておかないと。
6月12日
書店で鈴木に会った。声をかける間もなく、「何しに来たんだ!」と叫び、鈴木は走って出て行った。面白い奴だ。
6月13日
授業後、宮本が話しかけてくる。
「『O嬢の物語』も『新O嬢の物語』も読んだよ」
だそうだ。自慢にもなりゃしない。
「そうか、面白かったか?」
「うん。で?」
「『で』、何だよ?」
「次は?」
知るか!そんなこと。お前塾に何しに来てるんだよ。と思いつつも、
「『家畜人ヤプー』なんかどうだ。置いてる図書館はめったにないかも知れないけど」
と応じていた。
「インターネットで検索してみるよ」
ちょうどそのとき、北が職員室に入って来た。
「宮本、インターネットで何を検索するんだよ」
「『家畜人ヤプー』って本」
「おお、お前、なかなか『通』だな」
「そうなの?」
「ああ、それを知ってるって、立派なもんだ」
北は宮本のところに行き、握手しながら、
「すごいな、宮本、先生は嬉しいよ」
なんて言ってる。うーん、北のストライクゾーンか。それを知ってる俺って、まずいかも知れない。北はなおも続ける。
「じゃ、宮本、次は『アムステルダムの小さな窓』を読んでみろ」
「うん、わかった。『アムステルダムの小さな窓』だね」
目を輝かせて、宮本は帰って行った。
さすが、北だ。俺の知らない本まで知ってる。やっぱりこの領域では俺より上だ。
「北先生、すごいですね。その『アムステルダムの小さな窓』って、僕は知りませんでしたよ」
「ああ、あれ、思いつきで言ってみただけ。あるわけないじゃん、そんな本。もしあったら読んでみたいね。ハッハッハッ」
だそうだ。
「じゃ、『家畜人ヤプー』は知ってるんですか?」
「知らない。話を合わせただけ。ハッハッハッ」
恐るべし、北。かわいそうな宮本。
6月16日
藤岡の「ただ働き日々」が、今日で終わった。
6月17日
授業前、携帯に電話があった。親友、いや、悪友の安達智宏からだった。
「おい、大変だぜ」
「何が」
「驚くなよ」
「驚かないよ」
こいつは半月に1度は大変なことになるのだ。
「今日、昼間、恭子ちゃんを見かけた」
「恭子!?」
「ほら、驚いただろう」
「お前、冗談にもほどがあるぜ」
「冗談じゃないよ。俺もびっくりして、人違いかなと思って後をつけて行ったんだ」
普通、人違いで後はつけないと思うが、安達のやることだ、許そう。
「それで」
「『M』の日本支社に入って行った。受付の女の子と何か話してすぐ上に行った。で、その受付の子に『香山恭子さんはいつからここで働いているんですか?』ってかまをかけたら、2週間前に配属になったってさ。だからあれは恭子ちゃんだ。おい、聞いてるのか?」
「ああ、聞いてる」
胸の中に甘いものと苦いものが同時に広がった。胸で良かった。口ならひどい味で吐いてるぜ。アイスクリームとビールを一度に口の中に入れるようなものだ。
しかし、恭子が日本に・・・・・・。恭子。
6月18日
夕方、大きなスポーツバッグを肩に掛けた高校生2人とすれ違った。10秒7とか10秒8とか、スパイクがなんとかと言ってたから陸上、恐らく100mの選手なのだろう。是非、頑張って競技を続けて欲しいものだ。さっきの記録が彼らのものならかなりのレベルにいるのだし。
俺も陸上選手だった。元々は道場に通う空手少年だったが、入学した中学校に空手部はなかったので、足腰を鍛えるために陸上部に入ったのだ。しかし、いつの間にか空手よりも陸上競技の方にのめりこんでいった。客観的な記録で、同学年で何位、地区で何位、全国で何位と、自分のランクがわかるのが励みになったのだ。そして、800mが専門になっていた。400mのトラックを2週、この中途半端さが性に合っていたのだろう。中3で何とか全国規模の大会に出場できた。高校でも800mを走り、運よく1年でインターハイに出場できたが予選で落ちた。悔しかった。空手の道場通いもやめて800mに専念した。2年のとき、インターハイで決勝まで残ったが表彰台には上がれなかった。しかし、1年後には表彰台、うまくいけば優勝できるという手ごたえはあった。優勝はともかく、ちょっと目立てばどこかの大学に推薦で入学できる。頭鍛えるより、脚を鍛える方が大学への近道とは。中学のときに無理して勉強して公立の進学校にようやく入れたことを思えば、信じられない展開だった。
だが、うまくはいかなかった。高2の秋、腰を痛めて陸上はやめることになった。つまり、頭で大学に入らなければならなくなったのだ。とりあえず自分の学力を知るため、大手予備校主催の模擬試験を受けてみた。その会場で出会ったのが、恭子の姉、香山彰子だった。