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第2章 日常

 あの夜から、何かが変わったわけではなかった。


 講義に出て、昼は学食で一番安い定食を食べて、夕方にはアルバイトに行く。彼女は彼女で、空きコマの時間にレポートを書いたり、友達と電話してくだらない話をしたりしている。帰りが合えば一緒に歩くし、合わなければ「またね」と手を振る。それだけだ。


 件の質問について、彼女はその後一度も触れなかった。僕の答えについても、特別な反応はなかった。あの夜の会話は、僕の中でだけ少し引っかかって、彼女の中ではもう片づいているように見えた。


 それが、少しだけ安心できて、同時に不安だった。


 昼休み、キャンパスの中庭で缶コーヒーを飲んでいると、彼女が向かいに座った。


「それ、またブラック?」


「うん」


「よく飲めるね。苦いだけじゃん」


「慣れた」


「慣れって怖いね。私なら絶対無理」


 そう言って、彼女は手に待っていたカフェラテを一口飲んだ。氷が音を立てる。僕はその音を聞きながら、特に意味もなく頷いた。


「それより今日、三限までだよね?」


「そうだけど、講義終わったら部室寄るかな」


「そ、なら帰りは別か」


「たぶん」


 それで会話は終わった。終わってしまった、というほどのことでもない。ただ、必要なことだけを話して、各自の時間に戻る。それが、僕らの日常だった。


 彼女はスマホを取り出して、何かを確認している。僕は中庭を横切る人たちを眺めていた。誰もがそれぞれの予定を抱えて、特別でも何でもない顔で歩いている。


 平和だ


 こういう時間が、ずっと続くわけじゃないことくらい、頭では分かっている。卒業とか、就職とか、引っ越しとか。そういう現実的な終わりはいくらでも想像できる。


 でも、それはまだ先の話だ。少なくとも、今日じゃない。


 そうやって、僕は先送りにするのが得意だった。


---


 夕方、アルバイトが終わって外に出ると、空が少しだけ赤かった。スマホに目を向ければ彼女からメッセージが来ている。


《今から帰る》


《了解》


 それだけのやり取りで十分だ。


 駅前で合流して、並んで歩く。コンビニに寄って、彼女はお菓子を選ぶ。真剣な顔で棚を見比べて、結局いつもと同じものを手に取る。


「それ好きだよね」


「無難だから」


「確かに、無難に美味しいかも」


「でしょ」


 彼女は満足そうに言って、レジに向かった。僕はその背中を見ながら、特に理由もなく、少しだけ歩調を落とした。


 彼女は、ちゃんとそこにいた。


 触れれば温度があって、話せば返事が返ってくる。昨日と同じように、今日がある。それ以上でも、それ以下でもない。


 帰り道の途中、信号待ちをしていると、彼女が言った。


「明日さ」


「うん?」


「昼過ぎまで用事あるから、帰るの夜になるかも」


「分かった」


「先に帰ってていいよ」


「いや、待ってようかな」


「無理しなくていいって」


「別に無理じゃない」


 彼女は少しだけ笑って、「ありがと」と言った。その言葉が、妙に耳に残った。


 信号が変わる。横断歩道を渡る。人の流れに混ざって、また歩き出す。


 「いつも通り」だった。


---


 次の日の夕方、アルバイト先でスマホが震えた。休憩室の蛍光灯が、やけに白く感じられた。


 画面に表示されたのは、見慣れない番号だった。


 嫌な予感、というほど大げさなものじゃない。ただ、少しだけ胸の奥が冷えた。理由は分からない。分からないまま、僕は通話ボタンを押した。


「……はい」


 一瞬の沈黙のあと、低い声が聞こえた。


「――さんのご家族の方でしょうか」


 その続きは、ちゃんと聞けなかった。


 耳鳴りがして、言葉が意味になる前に、頭の中で何かが切れた。


 それでも、そのときの僕は、まだ思っていた。


 これは何かの間違いだ、と。


 だって、彼女は――

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