第5話 雨の日の傘
放課後、空はどんよりと灰色に染まっていた。
朝から降り続く小雨が、校舎の窓を細かく叩いている。
季節は初夏へと移り始め、湿った風が肌にまとわりつくようだった。
高瀬彰人は、教室の窓際に立って外を見ていた。
傘を持ってきていない。天気予報では晴れと言っていたのに、このありさまだ。
仕方なく雨が弱まるのを待つしかないと考えていると、廊下の向こうから生徒たちの声が聞こえてきた。
「生徒会長、まだ校門のところにいたよ」
「え? 傘持ってないの?」
「待ち合わせじゃない? でも、あの雨の中で……」
凜音、という言葉が胸に刺さる。
彰人は無意識に立ち上がっていた。
校門へ向かう廊下は、人の気配が少なかった。
放課後の雨音だけが響き、足音がそれに溶けていく。
外に出ると、空気はひんやりとして、地面からは雨の匂いが立ちのぼっていた。
傘も差さずに、校門の前に立つ凜音の姿があった。
制服の袖が少し濡れて、髪の先から水滴がこぼれている。
彼女はどこか遠くを見つめるように、静かに立っていた。
「……何してるんだ、お前」
彰人が声をかけると、凜音はゆっくり振り返った。
その顔には、少しだけ安心の色が浮かんでいた。
「傘、忘れちゃって。迎えを待ってたんだけど……来なくて」
「ったく、風邪引くぞ」
そう言いながら、彰人は自分の鞄から折りたたみ傘を取り出した。
薄い黒の傘を開いて、彼女の頭上に差し出す。
「ほら、入れよ」
「でも……あなたも濡れるわ」
「いいって。俺のほうが背高いし、どうせ服なんか乾く」
凜音は少し迷ったあと、静かに傘の中に入った。
二人の距離が一気に縮まる。
傘の中の空気が、世界のすべてになったようだった。
「……この前のこと、ありがとう」
「どのことだ?」
「屋上で、あんなふうに言ってくれたから。ちゃんと前を向けた」
凜音は小さく笑った。
その笑顔は、雨に濡れてもなお、温かかった。
彰人は何かを言おうとしたが、言葉が喉に詰まった。
彼女の横顔を見ているだけで、胸が苦しい。
こんな気持ちは知らなかった。
“誰かを大切にしたい”という感情が、自分の中にもあったなんて。
「ねえ、高瀬くん」
凜音がふと口を開いた。
「私、あなたといるとね……変なの。静かなのに、落ち着くの」
「静か、か」
「うん。世界が、穏やかになるの」
その言葉に、彰人の心が震えた。
誰も自分をそう表現したことはなかった。
“怖い”とか“近寄りづらい”とか、そんな言葉ばかりだったのに。
「お前……変なやつだな」
「またそれ?」
「褒めてるんだよ」
二人の笑い声が、雨音に混じって消えていく。
傘の端から落ちる水滴が、アスファルトに小さな輪を描く。
その輪が重なって、やがて一つになるように――
二人の距離も、少しずつ重なり始めていた。
駅までの道を並んで歩く。
沈黙が続いても、不思議と居心地は悪くなかった。
雨の匂いと、相手の気配だけで十分だった。
「明日、また生徒会の手伝いに来てくれる?」
「もちろん。もう逃げないよ」
「よかった」
凜音の声は小さく、それでも確かな喜びが滲んでいた。
信じることを知った少年と、信じ続ける少女。
雨の音が二人を包み、やがて静かに止む。
そのとき、雲の隙間から光が差した。
彼らの足元には、雨上がりの水たまりが映し出す小さな空。
——それは、二人だけの世界の始まりを告げていた。




