第3話 放課後の約束
放課後の校舎は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
窓の外では夕陽が傾き、教室の床を橙色に染めている。
高瀬彰人は、誰もいない教室の隅でノートを閉じた。
いつもならこの時間には帰る。だが、今日は妙に気が向かず、ただぼんやりと空を眺めていた。
昨日のことが、頭から離れなかった。
桐島凜音が、自分に謝ってきたこと。
そして、まっすぐな瞳で「放っておけない」と言ったこと。
(……変なやつだよな)
彰人は自嘲気味に笑った。
誰かにそんなふうに言われたのは、いつ以来だろう。
——コン、と軽いノックの音。
振り向くと、扉の向こうに凜音が立っていた。
「高瀬くん、まだいたのね」
「……ああ。たまたま帰りそびれただけ」
「ちょうどよかったわ。お願いがあるの」
彼女はためらいもなく教室に入り、机の上に書類を広げた。
「生徒会で、学校の環境改善のアンケートをまとめているの。掲示板の張り替えや備品の修理を手伝ってくれる人を探してて……」
「俺に?」
「ええ」
凜音は頷く。
「誤解をなくすためにも、みんなに“あなたは悪い人じゃない”って知ってもらいたいの。強制はしないけど……一緒にやらない?」
彰人は言葉を失った。
その誘いが、ただの生徒会長の提案ではなく、彼女なりの“歩み寄り”だと分かってしまったからだ。
「俺が手伝ったら、逆に誤解されるかもしれないぞ」
「それでもいい。私はちゃんと見てるから」
その一言に、彰人の胸がわずかに熱くなる。
“誰かが自分を見ている”——それだけで、世界が少し違って見えた。
「……分かった。やるよ」
「本当に? ありがとう!」
凜音の笑顔が咲く。
それは、春の残り香のように柔らかく、見ているだけで息が詰まるほど眩しかった。
数日後の放課後。
彰人と凜音は、古びた掲示板の前に並んで立っていた。
釘を抜き、古い紙をはがし、新しい掲示を貼る。
単純な作業なのに、不思議と心地よい静けさがあった。
「こういうの、得意なのね」
「いや、父親が大工だから。ちょっとした修理くらいならできる」
「そうなの?」
「昔から、父さんの手伝いばっかりしてたからな」
凜音は少し意外そうな顔をした。
「なんか、いいね。家庭的っていうか」
「家庭的って言葉、俺に似合わないだろ」
「似合わないけど、でも悪くないと思う」
二人の間に、柔らかな笑いがこぼれた。
周囲を包む空気がゆるみ、どこかで鳥の声が響いた。
そのとき、凜音がポケットからバンソウコウを取り出した。
「指、切ってるわ」
「え?」
見ると、彰人の親指から小さく血がにじんでいた。
「ほら、動かないで」
凜音が彼の手を取る。
指先が触れた瞬間、彰人の心臓が跳ねた。
彼女の手は、驚くほど温かかった。
「……ありがとう」
「いいの。助けてくれたお礼、少しは返させて」
凜音は微笑みながら、慎重にバンソウコウを貼った。
その仕草のひとつひとつが、静かに彰人の心を溶かしていく。
作業が終わるころには、空は茜色に染まり始めていた。
校門を出る二人の影が、並んで長く伸びる。
「なあ、桐島」
「なに?」
「こうやって話すの、変な感じだな。前は怒られてばっかだったし」
「私も。まさか一緒に作業する日が来るなんて思わなかったわ」
凜音は微笑んで空を見上げた。
風が吹き、髪が揺れる。夕陽の光がその輪郭を淡く照らした。
「これからも、少しずつでいいから。ちゃんと話したい」
凜音の言葉に、彰人は短く頷いた。
その日、二人の間に生まれた“約束”は、まだ小さくて不確かなものだった。
けれどそれは、確かに彼の心の奥で灯り始めた——
“信じること”の温もりを教える、最初の光だった。




