第28話 言えなかったこと
七月の夜、東京の街は蒸し暑く、
窓の外から聞こえる蝉の声が絶え間なく続いていた。
凜音は机に向かって、パソコンの画面をぼんやりと見つめていた。
締め切りのレポートが山のように積まれている。
けれど、頭の中には文字が入ってこない。
スマホが震えた。
彰人からのメッセージだった。
〈今日、工場でトラブルあって。ちょっと落ち込んだ〉
〈でも、お前の声聞けたら元気出るかも〉
画面を見つめる凜音の指が止まった。
——疲れてるのに、私に気を遣ってる。
——なのに、私は何もしてあげられない。
数分悩んで、結局〈ごめん、今レポート中〉とだけ返した。
送信ボタンを押した瞬間、
胸の奥に、ひどく重たい沈黙が広がった。
その夜遅く、彰人は自室のベッドに寝転がっていた。
返信が来たのを見て、
「そうか」とつぶやくだけでスマホを伏せた。
最近、そんなことばかりだった。
凜音が忙しいのはわかっている。
だからこそ、“寂しい”なんて言葉は絶対に口にしないようにしていた。
けれど——
静まり返った部屋の中、
ふと浮かんでしまう彼女の笑顔が、
どうしようもなく遠く感じた。
「……凜音」
声に出してみても、
答える声は、もうどこにもなかった。
翌日。
凜音は講義が終わったあと、友人たちと駅前のカフェに寄っていた。
笑い声が響く中、テーブルの上でスマホが震える。
彰人からの着信。
けれど、
今この場で電話を取る勇気がなかった。
「ごめん、あとでかけなおすね」
そうメッセージを送り、
笑顔を作って友人たちの会話に戻った。
でも、笑えなかった。
どんな話題も、どんな笑い声も、
心の奥でひどく遠いものに感じた。
その夜。
電話の向こうに、静かな空気が流れていた。
「……なんか、久しぶりだな」
彰人の声は少し掠れていた。
「うん、ごめん。いろいろあって」
「知ってる。お前、頑張ってるもんな」
優しい言葉。
でも、その優しさが苦しかった。
「……彰人」
「ん?」
「私ね、怖いの」
唐突な言葉に、彼が息をのむ気配がした。
「何が?」
「離れてから、私……ちゃんと“好き”って言えてない気がする。
忙しいとか、疲れたとか理由をつけて、
彰人を待たせてばかりで……。
そんな自分が、嫌なの」
沈黙。
その沈黙が、凜音の不安をさらに広げていく。
「……俺も怖いよ」
彰人の声が、少し震えていた。
「お前の世界に、俺がいなくなっちまうんじゃないかって。
東京で新しい友達できて、
もう俺なんか、必要ないんじゃないかって」
「そんなことない!」
凜音は思わず叫んでいた。
「そんなこと、一度も思ったことない!」
息を呑む音のあと、静寂。
やがて、凜音の声が震えながら続いた。
「彰人……本当は、何度も会いたかった。
でも、行けなかった。
“頑張らなきゃ”って、自分に言い聞かせて、
無理して……。
気づいたら、素直に『会いたい』って言えなくなってた」
彰人は小さく息をついた。
「……俺もだよ。
お前に迷惑かけたくなくて、
弱音ばっか飲み込んでた。
でもさ、結局、それが一番お前を遠ざけてたのかもな」
二人の間に、ようやく小さな笑いがこぼれた。
涙を混じえた、かすかな笑い。
「不器用同士だね、私たち」
「……そうだな」
少しの沈黙のあと、彰人が言った。
「凜音」
「うん?」
「次の休みに、会いに行ってもいいか?」
凜音の目に、ふわりと光が宿る。
「もちろん」
「約束な」
「約束」
夜風が窓を叩いた。
遠く離れた街で、同じ風が二人の心を通り抜けた気がした。
——ようやく言えた。
——言えなかった言葉たちが、
ようやく、ちゃんと相手に届いた。




