第27話 すれ違う時間
夏が近づいていた。
六月の雨は街を柔らかく濡らし、
凜音の住む学生寮の廊下には、湿った空気が漂っている。
講義、レポート、ゼミ、アルバイト。
大学生活は慣れてきたけれど、息をつく暇がないほど忙しかった。
気づけば一日が終わり、彰人に送るはずのメッセージが、
「また明日でいいや」と後回しになっていく。
スマホの通知が鳴る。
〈今日、バイト終わった。雨、すげーな〉
いつものように、彰人からだった。
凜音は画面を見つめたまま、返す言葉を考える。
「お疲れさま」——そう打ちかけて、指が止まった。
——それだけじゃ、そっけない気がする。
——でも、今さら何を話せばいいんだろう。
結局、数時間後に〈ごめん、寝ちゃってた〉とだけ返信した。
その一言の裏に、どれだけの“ためらい”があったか、
彰人は知らなかった。
地元では、梅雨明けが近づいていた。
彰人は相変わらず、整備工場のアルバイトを続けていた。
昼は汗にまみれ、夜は疲れ果てて帰る。
そんな日々の中で、
凜音からの返信が少しずつ減っていくのを感じていた。
「東京、忙しいんだろ」
自分にそう言い聞かせても、
スマホの画面を見るたびに胸の奥がざわついた。
送ったメッセージは既読のまま、返事がない。
通話をかけても、「今、ゼミ中」「友達といるの」と短く切られる。
——信じてる。
——けど、やっぱり寂しい。
夜、窓際の机に座って、
彰人は小さくため息をついた。
「こんな時、どうしたらいいんだろうな」
彼はただ、凜音の笑顔を思い出すしかなかった。
あの夕陽の屋上で見た、優しい笑顔を。
数日後、凜音は大学の友人たちと食事に行っていた。
「凜音ちゃんってさ、彼氏いるんでしょ? 地元に」
ひとりが軽い調子で聞いてきた。
凜音は一瞬、答えに詰まった。
「うん……いるよ」
「すごいね、遠距離とか大変じゃない?」
「まあ、たまにね」
笑って答えたけれど、心の中は少しざらついていた。
“たまにね”なんて、そんな軽い言葉で片づけられる関係じゃない。
それでも、
「重い」と思われるのが怖くて、笑顔を崩せなかった。
帰り道、夜風に吹かれながらスマホを開く。
彰人からの未読メッセージがいくつも溜まっていた。
〈体調大丈夫か〉
〈最近、声聞けてないな〉
〈無理してないか〉
その一つ一つが、
まるで小さな刺のように胸に刺さった。
「……どうして、優しいの」
つぶやいた声が風に溶けた。
彼の優しさが、今は少しだけ重く感じてしまう。
自分でも理由がわからなかった。
ただ、日々の中で自分を保つのに必死だった。
その夜、
凜音は思い切って電話をかけた。
「……凜音?」
少し驚いたような彰人の声。
聞いただけで、胸が詰まる。
「ごめん、最近連絡できなくて」
「気にすんなよ。こっちも忙しいし」
「でも……」
言いかけて、言葉が出てこなかった。
彰人の“気にすんな”という一言が、
なぜか遠くに感じた。
——距離がある。
——それは物理的な距離じゃない。
心のどこかに、見えない壁ができてしまった。
「凜音?」
「あ、ううん。……なんでもない」
声を絞り出すように言って、
彼女は小さく笑った。
「ちゃんと頑張ってるから、心配しないで」
「……ああ。俺も頑張る」
電話が切れたあと、
お互いの胸の奥には、
言葉にできない“寂しさ”だけが残った。




