第25話 桜の朝、旅立ち
まだ冷たい春の風が、駅前のロータリーを抜けていく。
空は淡く白み、朝日がゆっくりと街を染め始めていた。
高瀬彰人は、ベンチに腰をかけたまま、改札の方を見つめていた。
胸の奥で何度も繰り返される言葉があった。
——行くんだな、あいつ。
頭では分かっている。
それでも、心が追いつかない。
やがて、人波の向こうから凜音が現れた。
淡いベージュのコートに、白いマフラー。
小さなスーツケースを引きながら、ゆっくりと歩いてくる。
「……おはよう、彰人」
声は少し掠れていた。眠れなかったのだろう。
彰人は立ち上がり、短く息をつく。
「おはよう。早いな」
「うん。……目が覚めちゃって」
しばらく言葉が続かない。
電車のアナウンスが響き、人々が足早に通り過ぎていく。
そのざわめきの中で、二人だけが時間から取り残されたようだった。
「昨日の夕陽、綺麗だったね」
凜音がぽつりと呟く。
「忘れられそうにない」
彰人は頷いた。
「俺も。……ちゃんと覚えてる。あの約束も」
凜音の唇が、かすかに笑みをつくる。
「また、あの屋上でね」
「必ず」
彼は、ポケットから小さな包みを取り出した。
「これ、渡し忘れてた」
凜音が受け取ると、中には細い銀のペンダントが入っていた。
中央に小さな桜のチャーム。
「桜……?」
「お前、春が好きだろ。
だから、どこにいても春を思い出せるように」
凜音の瞳が潤む。
「彰人……ありがとう」
「お礼なんかいい。……俺のほうが、お前にたくさんもらったから」
彼女はペンダントを胸にかけた。
光が反射して、小さな花びらがきらめくように見えた。
「……似合うよ」
彰人の言葉に、凜音は少しだけ泣き笑いになった。
「ずるい。最後までそんな顔するんだもん」
「俺の顔が?」
「うん。……優しすぎて、離れたくなくなる」
電車の接近を告げるアナウンスが響いた。
ホームの空気が、少しずつ張り詰めていく。
凜音は深呼吸をして、彰人をまっすぐ見た。
「行ってくるね」
「行け。胸張って」
彼女が改札に足をかける。
その瞬間、彰人は一歩近づいて、彼女の手を握った。
強く、でも優しく。
「俺はここにいる。
お前が帰ってくる場所、ちゃんと守ってるから」
凜音はうなずき、目を閉じた。
「うん……絶対、帰る」
手が離れる。
それは痛みのようで、温もりのようだった。
改札を抜け、ホームへと向かう凜音の背中が小さくなる。
彰人はその姿を最後まで見送った。
彼女が振り返った瞬間、
朝日が差し込み、彼女の髪が金色に光った。
——その光景を、彼は一生忘れないだろう。
電車が走り出し、風が彼の頬を打つ。
胸の奥で、何かが静かに燃えていた。
「……絶対、追いつく」
彼は小さくつぶやいた。
その声は風に消えたが、
確かに“未来”に向かって響いていた。




