第23話 遠ざかる光
三月の空は、どこまでも高く澄んでいた。
春の陽射しが窓から差し込み、教室の床に柔らかい光の帯を作っている。
卒業式まで、あと一週間。
校舎のあちこちで、別れの準備が始まっていた。
彰人は放課後の教室で、机に残された落書きをぼんやりと見つめていた。
“バカ”“悪そう”“怖い”
初めてこの学校に来た頃、誰かに書かれた言葉。
いつの間にかもう、気にも留めなくなっていた。
だが今、ふとその文字を見て思う。
——あの日、あの偏見の中で出会った彼女が、
どうして自分を信じてくれたのか。
どうして、あのまっすぐな瞳で見つめ続けてくれたのか。
「……本当に、すごい人だよな」
つぶやいた声は誰にも届かず、夕暮れに溶けていった。
その頃、凜音は家で荷造りをしていた。
受験の緊張も終わり、推薦合格の報告も済ませた。
東京の学生寮に送るための荷物が、段ボールの中に少しずつ積まれていく。
衣類、本、文房具——
ひとつひとつを詰めながら、
彼女はふと、彰人からもらったマフラーを手に取った。
薄いグレーの毛糸。
去年の冬、彼が無言で差し出してくれたもの。
「似合うと思って」
その一言を思い出すと、胸が熱くなる。
——離れるのが怖い。
けれど、それ以上に、
“彼を誇れる自分”でありたい。
凜音はマフラーをそっと首に巻き、鏡を見つめた。
そこに映るのは、生徒会長でも優等生でもない、
一人の“女の子”の顔だった。
「……ありがとう、彰人」
呟く声に、かすかな震えが混じる。
翌日の放課後。
凜音はいつものベンチへ向かった。
そこにはすでに彰人が立っていた。
制服の襟を少し乱したまま、
手にはコンビニのコーヒーを二つ持って。
「寒いだろ」
彰人が無造作にひとつを差し出す。
凜音は微笑んで受け取った。
「ありがとう。……もうすぐ、行っちゃうんだね」
彰人は頷いた。
「寮、いつ入るんだ?」
「来週の月曜。少し早めに行くの」
彼は視線を遠くに向けた。
グラウンドでは、後輩たちがサッカーボールを蹴っている。
その声が、やけに遠くに聞こえた。
「……さみしくなるな」
凜音の言葉に、彰人は小さく笑った。
「俺のほうがさみしいよ。
でも、凜音が向こうで頑張ってるなら、それでいい」
凜音は俯いた。
彼の言葉が優しすぎて、痛かった。
「ねえ、彰人。
もし、私が東京でうまくやれなくて、
心折れそうになったら……そのとき、どうしたらいい?」
彰人は静かに彼女を見つめた。
「そのときは、帰ってこい。
ここに、お前の居場所はちゃんとある」
凜音の瞳が潤む。
「……そんなこと言われたら、余計に離れたくなくなる」
彰人はそっと、彼女の髪を撫でた。
「でも、お前は行くべきなんだ。
俺がどんなに寂しくても……お前が未来を掴むのを見たい」
その声は穏やかだった。
けれど、心の奥底では、
彼自身が“彼女を見送る痛み”に耐えていた。
凜音は堪えきれず、彼の胸に顔を埋めた。
「彰人……ずっと、好きだからね」
「俺も。
たとえ遠くにいても、俺はお前の味方だ」
風が吹き、桜の枝が小さく揺れる。
夕陽の中で、二人の影が重なり、
そして、ゆっくりと長く伸びていった。
——遠ざかる光の中で、
それでも確かに、彼らは“つながって”いた。




