第20話 束の間の平穏
冬の朝。
校門を抜けると、頬をかすめる冷たい風が痛いほど澄んでいた。
白い息を吐きながら、凜音はマフラーの端を握りしめる。
——あの日から、もう一週間。
生徒会長としての職務は続けている。
けれど、校内の空気はどこか変わった。
廊下ですれ違うたびに、ひそやかな声が背中を撫でる。
「本当に付き合ってるんだって」「信じられないよね、あの高瀬と」
好奇心と侮蔑が入り混じった視線。
それでも、凜音は顔を上げることをやめなかった。
——私が下を向けば、彰人がまた傷つく。
だから、私は立っていよう。胸を張って。
「おはよう、凜音」
声に振り向くと、昇降口の前で彰人が立っていた。
黒いコートの襟元から覗く白いシャツ。
風に揺れる前髪の奥の瞳は、いつもより柔らかい。
「……おはよう、彰人」
小さく笑い合いながら、二人は並んで靴を履き替えた。
周りの視線は感じている。
けれど、不思議と怖くない。
彼の存在が隣にあるだけで、
どんな噂の声も、遠く霞んでいく気がした。
昼休み。
屋上のベンチに、二人は並んで座っていた。
冬の日差しは弱く、それでも心地よいぬくもりを落とす。
「最近、やっぱり視線が増えたな」
彰人が空を見上げてつぶやく。
凜音は苦笑した。
「ね。でもね、不思議と嫌じゃないの。
今まで“見られてる自分”しか知らなかったけど、
今は“誰かと一緒に見られてる自分”なんだって思えるから」
彰人は目を細めた。
「それ、ちょっと名言だな」
「ふふ、そう?」
「……俺は、守るって決めたからな。
もう誰にも、泣かせたりしない」
凜音は少し目を伏せ、そっと彼の袖をつまんだ。
「ねえ、彰人。私、強くなりたいの。
あなたに守られるだけじゃなくて、
一緒に立っていられるように」
彰人はゆっくりと凜音の手を握った。
「もう強いよ。
俺があの日、救われたのは——
お前が自分の信念を曲げなかったからだ」
凜音の瞳が微かに潤む。
言葉にできない感情が、胸の奥でふくらんでいく。
そのとき、凜音のポケットの中でスマホが震えた。
生徒会のグループLINE——副会長からのメッセージ。
>【次期生徒会選挙について相談があります。放課後に会えますか?】
凜音の指が止まる。
春が来れば、もう三年生は卒業。
生徒会の仕事も、あとわずか。
——私の“生徒会長”としての時間が、終わろうとしている。
彼女の沈黙に気づいた彰人が尋ねる。
「どうした?」
「……ううん。ちょっと、考えることが増えただけ」
「考えること?」
「卒業のこと、それに……この先のこと」
彰人は少し間を置いてから、静かに言った。
「俺たち、どうなるんだろうな。
高校が終わったら」
凜音は空を見上げた。
冬の雲がゆっくりと流れていく。
「未来はまだ見えないけど……
でも、今はあなたといる。それだけで充分」
彰人の唇が小さく笑みを描いた。
「それ、俺の台詞だよ」
風が二人の髪を撫でていく。
静かな昼下がり。
その穏やかな時間が、
どれほど尊く、儚いものなのかを、
彼らはまだ知らなかった。
それでも確かに、今この瞬間だけは——
世界が静かで、あたたかかった。




