第10話 夜風の誓い
文化祭の夜が終わろうとしていた。
校舎の窓から漏れる明かりは、少しずつ消えていく。
喧噪の残り香と、遠くで響く笑い声が夜風に流れていた。
高瀬彰人は、片付けの手伝いを終え、ひとり屋上へ向かっていた。
足元には、祭りの後の静けさ。
胸の奥にあるのは、不思議な感覚だった。
——今日の桐島は、いつもと違っていた。
完璧な生徒会長。
どんな時も笑顔で、他人に弱みを見せない。
そんな彼女が、今日はほんの少しだけ肩の力を抜いていた。
笑った時の目の奥に、光が戻っていた。
「……やっと、あの人、本当の顔を見せてくれた気がする」
彰人は、手すりに背中を預けて空を見上げた。
夜空は澄み渡り、校庭に残るランタンの灯りが小さく瞬いている。
星と地上の光が、まるでひとつに溶け合うようだった。
そのとき、扉の開く音がした。
「やっぱり、ここにいたのね」
振り向くと、桐島凜音が立っていた。
文化祭の装飾リボンをほどいた髪が風に揺れ、
その横顔には、どこか安堵のような、寂しさのような影が差している。
「探してたのか?」
「うん。言いたいことが、あって」
凜音はゆっくりと屋上の中央まで歩いてきた。
足音が静かに響く。
風が吹くたびに、制服のスカートが揺れた。
「ねえ、高瀬くん。私……ずっと、自分が誰かを傷つけるのが怖かったの」
「……」
「誰かが離れていくのが怖くて、“完璧”でいようとした。
でも、あの人に再会して、気づいたの。
私、自分の弱さを誰にも見せられなかっただけなんだって」
凜音の声は、静かだった。
けれどその一言一言が、彰人の胸に深く沁みていく。
——彼女の中で、何かが変わり始めている。
「高瀬くん、私ね、怖かったの。
誰かに“本当の私”を見られて、嫌われるのが」
「……嫌わねぇよ」
彰人は、迷いなく言った。
「お前が泣いても、怒っても、弱くても、それでいい。
無理に強がるな。お前のままで、いい」
凜音の目が見開かれ、そして揺れた。
その瞳の奥で、何かが壊れて、また形を取り戻すように、
ゆっくりと涙が溢れた。
「どうして、そんなふうに言えるの?」
「お前を見てたから」
「……え?」
「最初は、ただの“真面目な人”だと思ってた。
でも、誰よりも人を思って、誰よりも自分を責めてた。
それでも前に進もうとしてた」
彰人は一歩、彼女に近づいた。
「そんな桐島が、俺は好きだ」
凜音が息を呑む音が聞こえた。
夜風が二人の間をすり抜けていく。
灯りが揺れて、彼女の瞳がかすかに光った。
「……本気なの?」
「当たり前だ」
「だって、私、完璧じゃないよ?」
「知ってる」
「弱くて、卑怯で、ずるいのに?」
「それでも、好きなんだ」
凜音は小さく笑った。
その笑顔は、どこまでも優しく、泣き出しそうなくらい綺麗だった。
「ねえ、高瀬くん」
「ん?」
「私も、君に会えてよかった。
君がいなかったら、私はたぶん……“赦されること”を知らないままだった」
その言葉に、彰人の胸が熱くなった。
彼女の涙が、夜風にきらめいて光る。
彰人は、そっとその手を取った。
——柔らかく、温かい。
彼女の手は少し震えていた。
けれど、その震えは“恐れ”ではなく、“前へ進もうとする勇気”の証だった。
「じゃあ、約束しよう」
「約束?」
「これからは、お互い、無理して笑わない」
「ふふ……それ、難しい約束ね」
「破ったら、ちゃんと怒るから」
二人は笑った。
風が吹き抜け、夜空の星が瞬いた。
桐島凜音はもう、ひとりで背負っていない。
その横顔には、確かに“生きている今”の光があった。
彰人はその光を、静かに見つめながら思った。
——人は、誰かを好きになるたびに、過去を少しずつ赦せるようになるのかもしれない。
夜風がやさしく頬を撫でた。
二人の影が寄り添い、ひとつになった。




