第1話 誤解の始まり
四月。桜が散り始めた校門の前で、高瀬彰人は立ち止まっていた。
春の陽射しは柔らかいのに、胸の奥は少しだけ重い。
この制服を着るのも、もう三年目。だというのに、彼はいまだに「ここでは浮いている」と感じていた。
——いや、正確には、“浮かされている”のだ。
彼の身長は一八五センチ。無造作に伸ばした黒髪、切れ長の目元。無愛想に見えるその顔立ちは、どう見ても「優等生」より「不良」寄りだった。
実際、初対面の人間のほとんどが警戒する。教師でさえ眉をひそめるほどだ。
だが、彰人は喧嘩などしたことがない。
夜遊びもしない。酒もタバコもやらない。
ただ、見た目のせいで誤解されるのが日常だった。
「……今日も、目立たずにいこう」
小さくつぶやいて、彰人は校門をくぐった。
昇降口に入ると、すでに新学期のざわめきが広がっていた。新しいクラス、新しい出会い。廊下のそこかしこで笑い声が響く。
その中心に立っていたのが、桐島凜音だった。
長い黒髪を後ろでまとめ、淡いピンクのカーディガンを羽織る姿は、誰よりも清楚で凛としている。
彼女はこの学校の生徒会長。成績は常に学年一位、態度も言葉遣いも完璧。教師からの信頼も厚い。
そんな彼女の周りには、自然と人が集まる。
彰人は遠くからその様子を眺め、すぐに視線を逸らした。
彼女のような完璧な人間と、自分のような「誤解されやすい」人間が関わることは、きっとないだろう。
そう思っていた。
だが、運命というのは、いつも「関わるべきではない」と思った相手ほど、強引に絡みついてくる。
午前中の授業が終わり、昼休み。
彰人は人気の少ない中庭のベンチに腰を下ろして、弁当を広げた。
母が作ってくれた卵焼きと焼き鮭。派手さはないが、味は確かだ。
だが、彼の平穏は長くは続かなかった。
「高瀬くん。あなた、少し話があるの」
澄んだ声が頭上から降ってくる。顔を上げると、そこには桐島凜音が立っていた。
昼の光を受けて、その瞳は琥珀色に輝いている。
「……俺に?」
「ええ。最近、あなたのクラスの周辺でトラブルが多いの。机が壊されていたり、廊下で口論になったり。あなたが関係しているって噂があるのよ」
まっすぐな視線。
それは、疑いというより“責任者として当然の確認”という態度だった。
「俺じゃない」
「そう言うと思ったわ。でも、生徒会としては放っておけないの」
凜音は静かに腕を組んだ。完璧な姿勢。ひとつの隙もない。
彰人はため息をついて立ち上がった。
「……どうせ、俺がやったって思われるような顔だしな」
「顔のせいじゃない。行動がそう見えているのよ」
「行動?」
「いつも一人でいて、授業中は窓の外ばかり見てる。帰りも裏門から出ていく。先生たちも心配してるわ」
その言葉は、まるで正論の刃のように胸に刺さった。
反論したい気持ちもあったが、彼女の言うことは事実でもあった。
「……俺は、ただ目立ちたくないだけだ」
その一言を残して、彰人は弁当箱を閉じた。
凜音は一瞬、言葉を失ったようだった。
まるで、思っていた人物像と違う何かを垣間見たように。
放課後。
春風が校舎の間を抜け、オレンジ色の光が差し込む。
彰人は帰り道の途中、駅前の商店街を歩いていた。
そのとき、曲がり角の向こうから怒鳴り声が聞こえた。
「おい、待てよコラ!」
「やめてくださいっ……!」
声の主に聞き覚えがあった。
——桐島凜音。
彰人は瞬間的に走り出した。
狭い路地に飛び込むと、そこには数人の他校の男子が凜音を囲んでいた。彼女のバッグは地面に落ち、制服の袖が乱れている。
「なにしてんだ、お前ら」
低い声が自然に出た。
男たちが振り返る。その顔に浮かんだのは、あからさまな警戒。
「なんだテメェ……邪魔すんなよ」
「その子、怯えてるだろ」
言葉より先に体が動いていた。
彰人は一人の肩を掴み、軽く押しのけた。力を入れたつもりはなかったが、相手はそのまま後ろに倒れ込んだ。
「っ……くそ、行くぞ!」
捨て台詞を残し、不良たちは逃げていった。
残されたのは、息を荒げて立ち尽くす凜音だけ。
彰人は彼女の前に立ち、少し距離を取って言った。
「大丈夫か」
「……え、ええ」
凜音の声は震えていた。
だが、その瞳は彰人を見つめて離さなかった。
恐怖と、そして……別の感情が混じっているように見えた。
「さっきは、助けてくれて……ありがとう」
「別に。見て見ぬふりできなかっただけだ」
彰人はそう言って、踵を返した。
背後で凜音が何か言いかけた気がしたが、彼は聞こえないふりをした。
春の風が頬を撫でる。
ほんの少しだけ、世界が柔らかくなった気がした。
その日を境に——二人の距離は、ゆっくりと、しかし確実に近づき始めることになる。




