蛇の噛み痕
メリバよりのバッドエンドのつもりで書きました。苦手な方はUターンしてください。
※他サイトにも掲載中
「ホスト?」
「そう!前から気になっててさ、だから行こうよ!」
「え、でも……ホストクラブて何十万ってお金使うところでしょ?」
「大丈夫だよ!最初は安いってネットに書いてたから!」
休日の昼。友人の玲奈とのランチ中。唐突に持ち出された。
ホストという聞き馴染みのない単語に、頭の中は疑問符で埋め尽くされる。
まだ冬だというのに日差しは夏のように眩しくて、玲奈の顔をキラキラと照らしていた。輝いている瞳が私に向けられる。
ちらりと視線を玲奈の手首に向けた。
そこには、まだ治りきっていない赤い横線の傷があった。
ひと月前に、推していた実況者が熱愛報道で炎上したのだとか。その報告を私にしてきた時の玲奈の顔は、ゾンビみたいだったなと思い返す。
次第に連絡が途絶え、大学も休みがちになった玲奈だったが、一週間ほど前から元気を取り戻していた。
理由は興味のあるものを新しく見つけたからだ。
ぼーっと考え込んでいる私の目の前に、玲奈は手のひらを見せてきた。
「ちょっとー、どこ見てんの?私の話聞いてた?」
「あ、うん……ごめんちゃんと聞いてたよ」
「そう?ならいいけど、で、だいたい夕方からお店開くみたいだからそれまで一緒にどっかであそぼー!」
ジャスミンティーの入ったコップをつかもうとして、私は手を止めた。
「え、行くのは確定なの?」
「いいでしょ、ね、お願い、友達って佳代しかいないし、頼めるのも佳代だけなの」
口元で両手を合わせてお願いしてくる玲奈は、女の私から見ても可愛い。
えぇ、うーん、と渋っていた私だったが、結局まぁいいかと了承した。我ながらちょろい。なんて流されやすいんだ。
その後店から出た私たちは、軽くショッピングをしたりカラオケに行ったりして時間を過ごした。
空が薄暗くなり始め、スマホで時刻を確認すると十九時になっていた。
「もう七時じゃん!じゃあ、そろそろお待ちかねのホストクラブへレッツゴー!」
手元を覗き込んできた玲奈は満面の笑みだ。
私は別に待ちかねてないんだけどなと、心の中でつっこむ。
マップを開きながらうろうろと歩き出した玲奈に、私もついて行った。「あれー、おかしいな、こっちってなってるのに」と呟きながら、玲奈は薄暗い通りに入って行こうとしたので、私は慌てて止めた。
「危ないよ、見して……あっちじゃない?」
玲奈は、さすが佳代と笑っていたけれど、私はひやひやとした気分だ。
だって周りを見ると、道端に寝転んでる人やイカつい顔の人がいて、ふらつきながら歩く玲奈が、何度もぶつかりそうになってたから。
そうして玲奈を引き連れながら歩き、気づけば目的地についていた。
顔を上げるとNoctelleという文字がギラギラと主張している。私は無意識にひっと声を漏らしていた。本当に入るのだろうか。
ガチャリ。
音がして前を見ると、玲奈が店内に入ろうとしているところだった。
「え、れ、玲奈!」
「入らないの?大丈夫だって、私もいるんだから!」
そういう問題じゃなくてと、情けなく伸ばした私の手は意味がなかった。ポツンと店の前に残され、私も急いで扉を開ける。
入った瞬間、別世界だった。
全体が黒で統一されている壁や床。紫の照明は、店内をさらに怪しい雰囲気にしていた。きてはいけないところにきてしまった感じで、謎の罪悪感が芽ばえる。
きょろきょろと視線だけを動かす私に、玲奈は呼びかけてきた。
「佳代、こっち!」
いつの間にか受け付けを済ませている玲奈に「ま、待って!」と私も続く。
長めのソファがある席に案内された。
私はできるだけ玲奈にくっついた。
スーツを着た従業員さんが、私と玲奈に説明をしてくれる。けれど全く頭に入ってこなかった。
「玲奈、どういうルールが分かった?」
「んー、お酒頼んでー、何人かとお話して、かっこいい人がいたらその人と喋れるってことじゃない?」
だいぶ大雑把な説明だったが、私はそっかと頷いた。
会話を続けていると「どうもー!」と明るい声が聞こえてきて、顔を上げると二人の男の人がいた。
私と玲奈の横に一人ずつ座ってきて、話を振られる。
フレンドリーな喋り方で話題を提供されるが、私は当たり障りのない返答しか出来なかった。
十分ほど経った後、男の人は立ち上がり帰っていった。終わったとホッとしたのもつかの間、すぐに違う男の人がやってきて、私の隣に腰を下ろす。
明るく喋りかけてきたが、上手く返事ができなくて、助けを求め玲奈を見ると、完全に相手の人と二人だけの世界を作っていた。
私の相手をしてくれてる男の人に申し訳なく思いながら、また十分ほどの時間が過ぎる。
帰りたいなと遠い目をした私の元に、三人目の男の人がやってきた。
「黒金ショウです。よろしくお願いします。隣、座ってもいいですか?」
名刺を差し出されたので受け取り、私は顔を上げた。
「はじめまして、どうぞ」
黒金ショウと名乗った男性は、灰色髪のセンター分けで、鼻は高くて目は細い、口や眉とのバランスがちょうど良い、すごくかっこいい人だった。
こんなに顔が整ってる人がいるんだと口を開けてる私に、黒金さんは声をかけてくる。
「緊張してる?」
「あ、はい……してます」
「そっかー、俺もこんな可愛い子とおしゃべりできるの緊張してるんだよね、同じだね」
「そ、そうですね」
バクバクと心臓がうるさい。
自分がきちんと返事をできているのかも分からない。
「そうだ、名前聞いてもいい?」
「あ、はい、清水佳代です」
「可愛い名前だね、佳代ちゃんって呼んでもいい?」
「全然大丈夫です……」
男の人と普段喋らない私は、定型文みたいな応えしか出来なくて、脳内ですみません、すみませんと謝罪をした。
「今日は友達と来たの?」
「あ、はい!隣の、玲奈っていう子に誘われてきました」
「そうなんだ!ここに来る前はお茶してきたり?」
「お昼ご飯を一緒に食べて、その後洋服見たり、カラオケに行ったりしました」
「仲良いんだね」
「はい!顔もすごい可愛くて、ちょっとマイペースな所もあるけど、唯一の友達なんです」
「可愛いね」
「ですよね!」
「佳代ちゃんが、だよ。お友達も可愛いけど、佳代ちゃんも可愛いよ」
「えっ……」
色気満載の笑みを向けられ、私はピタリと固まった。
可愛いなんて、玲奈以外に初めて言われた。
私が何も喋れないでいると、黒金さんがぷはっと吹き出した。
「佳代ちゃん真っ赤だよ!本当に可愛いなぁ。俺も佳代ちゃんと遊びに行きたいな、良かったら連絡先交換しない?」
スマホを目の前に出され、私は視線をさ迷わせた。
交換していいんだろうか?ルールとか頭に入ってこなかったし、よく分からない。でも、黒金さんから提案してくれたってことは、別に大丈夫なのだろう。
私もカバンからスマホを取り出し「お願いします」と画面を見せた。
「嬉しい、ありがとう!」
「こちらこそ……」
顔が見れなくてスマホばかりを見つめていると、黒金さんの手が目に入る。
指が長くてゴツゴツしてて、顔が綺麗な人は手も綺麗なんだなと心の中で感心した。
「俺の手?」
黒金さんから聞き返され、びくりと肩が揺れる。どうやら無意識に声に出していたらしい。
「あ、はい。指長いし、器用そうだなって、思います」
よく分からない返事をした私に、黒金さんは少し笑った。
その後、佳代ちゃんの手も可愛いねと優しく握られた。
私の体温はどんどん上がっていく。
「ほら、俺の手にすっぽり収まる」
顔が爆発したかと思った。脳内での叫び声が、口から出ないようにすることだけで精一杯だった。
指をすりすりと撫でられ、いけないことをしている気分になる。
「ねぇ……」
優しく呼びかけられ、はいっ!と大きめの声で返事をした。
「俺のこと見てくれないの?俺、佳代ちゃんの可愛い顔みたいな」
え、あ、えっと、と全然理解してないまま顔を上げる。
「やっと目、合った」
「そ、そそ、そうですね」
にへりと笑った黒金さんは、やっぱり顔が整ってて、あまりの神々しさに、目が潰れそうだ。
ぐるぐると思考を巡らせていると、あることに気づいて、私は黒金さんの頬に、無意識に手を伸ばしていた。
「……どうしたの?」
黒金さんは私の突然の行動に呆気に取られている。
「わっ、あ、すみません。いや、あの、黒金さん寝てますか……?」
「え?」
黒金さんの目元は、化粧で隠れていて分かりにくいがうっすらとクマがあった。一時期の玲奈もこんな感じだったから私には分かる。
「その、寝不足なように、見えたので……」
つい指摘してしまったが、だんだんと聞かない方が良かったのではと声がしりすぼみになっていく。
「そっか、そう見えるのか」
ボソリと黒金さんが呟いたので、私は「あ、いや、やっぱり気のせいでした」と否定した。
「ううん、実は本当に最近寝れてないんだ、でもまさか気づかれるとは思ってなかった。声かけてくれたの佳代ちゃんだけだよ」
はにかみながら佳代ちゃんは特別だねと伝えてくるので、私もむりやり口角をあげて応えた。
やっぱり指摘しない方が良かったかもしれない。
「もうそろそろ時間だ、俺の事、送りに選んでくれたら嬉しいな」
「おくり?」
「うん、最後に今まで話した人の中から一人選んでもらってお見送りする制度。佳代ちゃんと少しでも多く喋りたいからさ」
そういえばさっきの男性たちもおくりがなんちゃらと言っていたなと記憶を掘り返す。緊張しててそれどころじゃなかったけど。
「は、はい。分かりました」
ピシッと背筋を伸ばした私を見て、黒金さんは笑顔を見せた。
「話してくれてありがとう」
コツンと私のグラスにグラスを当てたあと、黒金さんは立ち上がった。私も同様に頭を下げてお礼をする。
黒金さんの姿が見えなくなった頃に、私はふっと息を吐いた。今までの人の中で一番喋りやすかったが、美形を相手に体は強ばったままだ。
背もたれに体重をかけていると、ひとりになった玲奈が私の名前を呼んだ。
「どう?喋れた?私はね、二人目に来た人がめっちゃタイプだったの!どうしよう、通っちゃいそう!」
頬に手を当て、楽しそうにしている玲奈を見て、私の口元は自然と弧を描いていた。
以前、玲奈の元気がない時、私はどうすることもできなかった。
でも、今は姿は水を得た魚だ。
ハマりそうなのがホストというところは、ちょっと、いや、だいぶ心配だが、引きこもって死にそうになってた時よりはマシだろう。
玲奈の話に相づちを打っていると、四人目の男の人がやってきた。
そうして何人かの男性が私たちのところに交互に現れ、いつの間にか帰る時間になっていた。
会計を済ませると、スーツを着た従業員さんが、おくりを誰にするか聞いてきた。玲奈はすぐに希望を伝えていたが、私は言葉を詰まらせた。
一人一人とした会話を思い出す。
最終的に強く印象に残っていたのは黒金さんだった。私が黒金さんでお願いしますと言うと、従業員さんは「かしこまりました」と言ってその場を離れた。
数秒してから、玲奈が選んだ男性と黒金さんがやってきた。
黒金さんは、機嫌良く私の荷物を持ってくれる。
「選んでくれたのめっちゃ嬉しい。なんで俺にしてくれたの?」
至近距離で質問され、私は目を泳がせながら説明した。
「えっと、黒金さんとのお話が一番楽しかったので……」
「わー、まじか!照れる。出口までだけどいっぱい喋ろうね」
廊下を歩きながら、投げかけられた話題に返事をする。出入口で「ありがとうございました」と告げてから、私は黒金さんと別れた。
「楽しかったねー!」
「うん、結構ぐいぐい話しかけてくるね」
「まぁ、そりゃホストだもん!私また来ようかなって思ってるから、佳代も一緒に行こうね」
スキップしながら私の隣を歩く玲奈に、えぇ……と答えた。
***
ホストクラブに行ってから二日ほど経った日、大学から帰った私は、家のベッドでゴロゴロと暇を持て余していた。
枕元に置いたスマホから通知音がなり、のそりと体を起こして手に取る。
画面を見ると、黒金さんからメッセージが届いていた。
内容は、この前はありがとう!また話そうね!というものだった。
同じような言葉を送っていると、スマホが突然振動した。何事かと凝視する。
電話だ。
相手は玲奈だった。
「もしもし――」
「あ、佳代ー!聞いて!さっきね、この前ホストクラブ行った時に話した人からメッセージきて、私のこと好きって言ってくれて、また来てって言ってくれたの!」
甲高い声が耳に響き、スマホから距離をとる。
「良かったね」
「うん!だから、次の日曜日に遊びに行くって約束したから、佳代も行こ!」
「……えっ」
ホストクラブがつまんなかったわけではないが、前回を通して私には合わないなと感じた。了承しない私に痺れを切らしたのか、玲奈はさらに言葉を続けた。
「私がお金払うから!」
「それはダメ!」
「大丈夫、バイトですぐに稼ぐし、まだひとりじゃ不安なんだもん。三回目からはひとりで頑張るから」
そんなこと言われてもと思いながら、ホストクラブに向かう玲奈を想像してゾッとした。
道路に飛び出したり、スカウトしてきた変な人に着いていったり。
「……わかった。行くよ」
「え、本当!やったー!」
電話越しに佳代大好き!と声をあげる玲奈に、ハイハイじゃあまたねと言って私は通話を切った。
次の日、大学でお弁当を食べていると、前に座っていた玲奈がスマホを触りながら話しかけてきた。
「これ見て!ホストクラブ行く日にアフターしてくれることになったの!やっぱり私のことが好きなんだよ!」
「アフター……?」
「ホストクラブ以外の場所で遊ぶの!だから、日曜日は、お店が終わる時間よりちょっと前に行こ!そのまま遊び行きたいから!」
画面を除くと、確かにそれらしい内容の文が書いてあるが、お店が終わってから遊ぶなんて危険じゃないだろうか。
嬉しそうな顔をする玲奈に申し訳なく思いながらも、私は口を開いた。
「よく分からないけど、危なくないの?それに、ホストクラブってお金使わせるところでしょ?あとから請求されたりとかしない?」
私の質問に、玲奈は口をすぼめながら大丈夫だよと答えた。
「確かにお金使うとこだけど、アフターしてくれるのは私のことが好きだからだよ!メッセージにも、私だけだよって書いてるし。あ、佳代こそ気をつけてね!色カノって言葉があって、彼女みたいに接してお金使わせるんだって、全部演技らしいから、騙されちゃダメだよ!」
指を向けて忠告してくる玲奈に、それは玲奈のことなんじゃと思ったが何も言わなかった。
本当にやばくなったらむりやり止めよう。今言っても信じないだろうし。
「ていうか、佳代もアフターしてもらえばいいじゃん!四人で遊ぼうよ」
「さすがにそれはいいかな、話してくれた人とそこまで仲良くなった訳でもないし」
「えー、だって絶対楽しいよ、仲良くないなら、高いお酒買って頼むのは?約束通り私が払うし!私もシャンパン買う予定だし!」
自由な玲奈にはぁとため息を吐いてから、私はあれと気づく。
「シャンパンって、高いお酒だよね?玲奈そんなにお金あるの?」
違和感を感じながら尋ねると、玲奈はしばらく口を閉ざし、数秒してから私の耳元で喋り始めた。
「実は、最初にホストクラブ行った日からパパ活始めたの」
「ぱっ――」
思わず復唱しそうになった私の口を、玲奈はシーっと手で塞いだ。その手をむりやり剥がし、身を乗り出して注意する。
「だ、ダメだよ!さすがにそれは、今すぐやめて」
玲奈はこちらを見向きもしない。
机に置いていた紙パックのいちごミルクを、ズーと吸っている。
「大丈夫だよ、ご飯食べたりするだけだから」
何が大丈夫なのだろうか。
その後も私はやめた方がいいと伝えた。けれど一度決めたら頑固な玲奈は、聞く耳を持たなかった。
もう無理だと説得は諦め、私は玲奈を見守ることにした。
大きく息を吐いた私の頬を、玲奈は「そんなに気にしなくても大丈夫」と言ってつついてきた。
そうして、私の心が不安で埋め尽くされたまま、ホストクラブに行く日がきてしまった。
夜中の二十三時、前回と同じ道を通って向かった。
空は真っ暗だが、色々な店の看板や街灯で、周囲は昼間のように明るかった。
道行く人は、全員治安が悪そうな見た目をしていて、なるべく下を向きながら歩く。非常に帰りたい。
玲奈は、私に腕を絡ませながら、ズンズンと前に進んで行く。
そんなに時間がかからないうちに、ホストクラブに着き、私たちは店の中へ入った。
従業員さんに案内され、席に着いた後、誰を指名するか尋ねられた。
私は、前回も選んだからという理由で黒金さんを選んだ。
数分もかからないうちに玲奈の選んだ人と黒金さんがやってきて、隣に座った。
「佳代ちゃんだ!きてくれたの?俺のこと指名してくれて嬉しい」
黒金さんは私に笑顔を向けて近づいてきた。
「えっと、お久しぶりです。名前覚えててくれたんですね」
何日かぶりに見た黒金さんの顔は、相変わらず美しくて直視できない。
「もちろん!佳代ちゃんみたいな可愛い子の名前忘れるはずないでしょ」
そう言って、私の顔を覗き込んできた。
いきなりの行動に後ずさった私に、黒金さんは「あ、ごめんね、彼氏に怒られちゃうね」と言って眉を下げた。
「あ、いや、私彼氏いないです」
誤解を受けている!と、すぐに否定すると、黒金さんはびっくりしたような顔をした。
「え、絶対いると思ってた、佳代ちゃん可愛いし、いい子だし」
言われ慣れてない言葉に、私はあたふたとする。
お世辞だと分かっていても照れくさい。
どう返事をしようか考えていると、黒金さんは立ち上がった。
「あ、ごめんね、ちょっと呼ばれたから行ってくるね、すぐ戻ってくるから!」
分かりましたと返事をし、グラスを手に取った。
正直このタイミングで離れてくれるたのは助かる。
酔って忘れようと酒を流し込んだ。
そういえば玲奈はどんな感じだろうと、隣を見ると、机の上には高そうなシャンパンが数本並んでいた。
本当に頼んだんだと目をむく。視線を上げると、玲奈と男の人がひっつきながら会話をしていた。
肩を組んだりしているし、さすがに近すぎないかとそわそわしてしまう。
頬は赤いし完全に酔っているし、このまま帰らせるのはどう見たって危ない。
そこで玲奈が、アフターしてもらうと言っていたのを思い出した。
つまり、あの男の人とふたりで帰るということ。
私の顔から血の気が引いていく。この前、四人で遊ぼうという誘いを断ったが、やっぱりついて行った方がいい気がする。
どうしようどうしようと頭を悩ませていると、席に、黒金さんではない男の人が現れた。
私は思考を一旦中断させて、男の人との会話に集中した。
数十分ほど経ってから、聞きなれた声の主が戻ってきた。
「ごめんね佳代ちゃん、おまたせ」
黒金さんがさっきと同様に隣に座る。代わりに話しかけてくれていた男の人は帰って行った。
私は全然大丈夫ですと答えて、なるべく笑顔を見せた。
黒金さんから提供される話題に、当たり障りなく返事をし、私は考えていたことを口する。
「あ、あのっ……えっと、玲奈がアフターしてもらうみたいで、私も、アフターしてもらえませんか?」
言い切った後に下を向く。
場が静かになり、私は冷や汗をダラダラと流した。
やっぱり、自分から誘うなんて、変だったんだ。
高いお酒とか頼んだりしたほうが良かったよね。と、後悔が渦巻く。
空気に耐えきれず、すみませんと声に出そうとした時、黒金さんが先に口を開いた。
「佳代ちゃんがアフターして欲しいって言ってくるとは思わなかったな。うーん……いつもならシャンパンとか入れてくれたらいいよって言ってるんだけど……」
やっぱり失礼だった!と、泣きそうになりながら私も返事をしようとした時、黒金さんが続けて喋った。
「でも、今日はちょうど予定ないし、いいよ。佳代ちゃんが特別。その代わり、また次の休みの日にお店に来てよ。約束してくれるならいいよ」
「え」
どう?と首を傾げながら条件を提示されて、反射的に私は分かりました!と答えていた。
営業時間終了まで会話して時間を過ごす。
店を出た後、私と玲奈は近くのコンビニに向かった。あとから合流することになったからだ。
玲奈に、私もアフターするということを伝えると口を大きく開けて固まった。
「え、玲奈どうしたの?」
「ごめん!佳代行かないって言ってたから、二人でまわろうね、って私から言っちゃった……。佳代とはばいばいだと思ってて」
玲奈から聞かされた事実に私も口を大きく開けた。はたから見たら餌を求める鯉だ。
私から伝えなかったのが悪いし自業自得だ。
「そっか、私もごめんね」と伝えて、黒金さんともう一人の男性がくるまで、コンビニの中で待つことにした。
「そういえば、玲奈の相手の男性名前なんて言うの?」
「春樹くん!可愛いとか好きとかたくさん言ってくれて、私のタイプなんだよね、佳代の担当さんの名前は?」
「担当さんって私と今日アフターする人?」
「そうそう」
「えっとね、黒金ショウさんって人」
私が答えると、玲奈はへーそうなんだ!と興味があるのかないのか分からない返事をした。
「玲奈は可愛いとか言われたらなんて返事してるの?」と今度は私が質問する。
「春樹くんもかっこいいよ!って言ってる、好きって言われたら好き!って返すし、佳代は言わないの?」
私は頭を左右に激しく振った。とてもじゃないができる気がしない。
「えー、言えばいいのに、あ、佳代もしかして、苦笑いしてスルーしたりしてるな!」
図星をつかれ、私は顔を背ける。
「ちょっとー!佳代も素直になればモテるのに、可愛い私が言ってるんだから本当だよ?」
玲奈は、ふふんと自慢げな顔をして、私の焦げ茶の髪に触れてきた。
私が白い目を向け、ソウカナーと言うと、軽く頭を叩かれた。
二人で話していると、横から私と玲奈を呼ぶ声が聞こえた。同時に顔を上げる。そこには、黒金さんと春樹さんがいた。
玲奈は、春樹さんに飛びつき、腕に手を絡ませている。
私は立ち尽くしながら「こんばんは」と下を向いたまま話しかけた。
「佳代ちゃんは、抱きついてくれないの?」
耳元で囁かれ、勢いよく顔を上げた。
目の前に、にんまりと口角をあげている黒金さんがいた。
「いや、えっと」
「ふはっ、ごめんね、佳代ちゃんが可愛くて、意地悪言っちゃった」
楽しそうに笑う黒金さんに、私の顔はどんどん赤くなっていく。鏡で見なくても分かった。触れた頬が熱かったから。
「あ、そういえば、今日四人でまわる予定だったんですけど、二人になりそうです。すみません」
黒金さんの胸辺りを見ながら、謝罪すると、黒金さんは少し屈んで目を合わせてきた。
「謝んないで、俺は嬉しいから、だって佳代ちゃんと二人でいられるじゃん」
至近距離でそんなことを言われて、私は放心した。
私にもったいない言葉すぎると叫びたくなった。
並んでいる商品に視線をずらし、なんとか正気を保つ。そこで、玲奈と春樹さんがいないことに気づいた。
「……あれ、玲奈」
「さっきお店出ていったよ」
「え!」
いつの間にという気持ちと、玲奈が心配だから着いていく、という当初の目的を思い出して、私は声を上げた。
一緒に行動できないなら後ろから様子を見守ろうと考えていたのに……。
いや、黒金さんもいるから、結局無理だったのかも。
ちらりと黒金さんを見ると、首を傾げてどうしたの?と聞いてきた。私はなんでもないですと返事をする。
とりあえず外に行こうと言われたので、黒金さんの後に続いて店から出た。
「佳代ちゃん行きたい場所ある?」
「えっと――」
私が喋ろうとした時、くしゅんと音が聞こえた。隣を見ると、黒金さんがごめんねと言いながら鼻を擦っている。
「全然大丈夫ですけど……寒いですか?」
「いや大丈夫だよ」
大丈夫と否定しているが、黒金さんの鼻も頬も赤い。
私は終始緊張しっぱなしで、自然と体が温まっていたが、そういえば今は冬だ。
どうしようかと考えて、カバンにマフラーを詰め込んでいるのを思い出した。夜中だから寒いかなと予備で持ってきていたのだ。
「黒金さん」
名前を呼び、こちらを向いた瞬間、私は黒金さんにマフラーをかけた。
「……え」
「良かったら使ってください」
私は暑がりで使わないので、と答える。
黒金さんは目を見開いたまま固まっていた。
私はそこで、黒金さんの目の下に、まだ隈があることに気づいた。
「えっと、元気ですか?」
自分でもよく分からない質問だった。
「……元気、だよ?」
黒金さんは、状況が理解できていない様子だ。
私は罪悪感が生まれた。
睡眠も充分に取れていないのに、むりやりアフターに誘ってしまったことに。
「その、前も言ったんですけど、黒金さん、やっぱりまだ寝れてないですよね?」
黒金さんは私からの質問に「えっ……」と言い淀んだ。
「ごめんなさい誘っちゃって、こうやって話せただけで楽しかったです。だから、もう家帰って休んでください」
頭を下げる私に、黒金さんは慌て始めた。
本当に申し訳ない。私から頼んだのに私から断るなんて失礼すぎるよね。でもこのままだと体調崩しそうだし。
財布からお札を取り出し、私は黒金さんの手に押し込んだ。
「これ、タクシー代です。もし後で足りなかったりしたら言ってください。あ、それと、そのマフラーは次にお店来た時に受け取るので、今日は付けててください」
石のように固まってる黒金さんにもう一度お礼をして、私は後ろを向いた。
少しだけ歩いてから、グイッと腕を引っ張られる。
そのまま後ろに倒れると、ポスリと何かに当たった。
顔を上げると、黒金さんがいた。
「か、帰るの?」
困ったような顔をしている黒金さんに、何か足りなかったかなと私は考える。
「お金足りないですか?あ、次回来るって約束はちゃんと守りますよ。日曜日辺りに行くと思います。お酒も……なるべく高いの頼みます。破るか不安なら、契約書とか書きますか?」
「そうじゃなくて……」
じゃあなんだろうと疑問符を浮かべていると、黒金さんがまたくしゃみをした。
「風邪ひいちゃいますよ、あ、風邪薬も持ってるので渡しときますね」
玲奈がよく風邪をひいたり怪我をしたりするので、カバンには色々入れている。こんなところで役に立つとはと思いながら、風邪薬を黒金さんの手に押し込んだ。
楽しかったです!また。と告げて、私は再び歩き出した。
腕を引っ張られることはなかった。
***
次の日、大学で玲奈を見てほっとした。あの後何事もなく帰ってこれたんだ。
私が声をかけると、玲奈は周りに花が見えるくらいの満面の笑みで近づいてきた。
「佳代ー、聞いてー!」
「聞くけど、なんでそんな嬉しそうなの?」
「実はね、昨日あの後、一緒に私の家行ったんだー」
「……どういうこと?」
「セックスしたの」
「はぁ?」
私の低い声に、玲奈はびくりと体を揺らした。私も自分の声に驚く。
そんなに怒んないでよーと玲奈が言ってくるので、私は怒ってるんじゃなくて心配してるの、と返事をした。
言わない方がいいと思っていたが、ここまできたら仕方ないと、私は口を開く。
「前に色カノって言ってたけど、玲奈もその可能性あるんだから気をつけなきゃ」
「違うよー、確かに枕って言葉はあるけど、私たちのは気持ちが通じあってる同士でのだから、大丈夫なの!私のこと愛してるって言ってくれたし!……愛してるだよ?この前は好き、だけだったのに!」
だからそれが色カノなんじゃないの。と喉まで出かかって抑えた。言っても今とほぼ同じ答えが返ってくると思ったから。
「……じゃあこれからも行くの?」
「当たり前だよ!会いたいもん。今度誕生日あるみたいだから、高いシャンパン買ってお祝いするんだ!」
楽しそうに話す玲奈に、私は呆れていた。それ絶対騙されてる。
今までの流れから推測すると、今後の展開は、何かトラブルがあって、玲奈が病んで、しばらくしたらまた何かにハマって復活する。という感じだろう。
ひやひやする行動ばかりだから、私はいつも心配せざるを得ない。
でもまぁ何とかなるだろうと、投げやりになった私は思考を放棄した。
いつも通り過ごしていると、時間はあっという間に過ぎていった。休憩時間にスマホを見ると、三時間前に黒金さんからメッセージがきていた。
――昨日はありがとう。次会うの楽しみにしてるね!
こちらこそ色々ありがとうございました。と送ると、数秒して既読がついた。
今何してた?と続けて質問されたので、空き時間に休憩してましたと送る。その後も数回やり取りをしてから、私はスマホをカバンにしまった。
それから、私がホストクラブに行く日まで毎日、黒金さんはメッセージを送ってきた。
約束を破られるかもしれないとまだ疑われてるのだろうか。疑問を抱きながらも返事をしたりしているうちに、当日がやってきた。
玲奈は行くのかと聞けば、昨日行ったばかりでお金がないと断ってきた。
行く約束をしたからにはきちんと守らないとだが、あの物騒な道を一人で歩くのかと思うと恐ろしかった。最初と同じ時間に店を訪れる。
席に案内され、黒金さんを指名した。
数秒もしないうちにやってきた黒金さんは、いつものキラキラ笑顔じゃなかった。どことなく引きつっている気がする。
「会いに来てくれて嬉しい!俺ずっと楽しみにしてたんだよね」
テンションは普段通りなのに、黒金さんの目線はあさっての方向を見ていた。
様子のおかしさに、私は怖々と話しかける。
「黒金さん?……虫でもいましたか?」
「え、あ、いや、ごめんね、違うよ……。マフラー!そうだ、マフラー。すっごいあったかくて、佳代ちゃんのおかげで風邪ひかなかったよ!ありがとう」
畳まれたマフラーを、私は「お役に立てて良かったです」と言って受け取った。その瞬間、ぴとりと手が当たった。
すぐに引っ込めようとした私の手を、何故か黒金さんは掴む。
なんで?と困惑していると「……ちっちゃくてあったか」と黒金さんが呟いた。
「え?」
「え……あっ!ご、ごめんね、ち、違うんだ、ほら俺の手にすっぽり収まるなーって思って」
すぐに私の手を離した黒金さんは、最初にあった時と同じ言葉を伝えてきた。違うところといえば、余裕がないところだろうか。でも、なんでこんなに焦っているのか私には分からない。
「黒金さん、大丈夫ですか?」
「……大丈夫だよ?」
私が様子を伺うと、黒金さんはまたあさっての方向を見た。
絶対に大丈夫ではないが、まぁいいかと、私はメニュー表を手に取る。
この前は色々迷惑をかけたので、ある程度高いお酒を買うつもりだ。もともと趣味という趣味もなかったので、貯金は結構溜まっていた。将来何かあった時用のやつだが、少しくらいなら使っても問題ない。
色々なお酒を見ながら、私はうわぁ高いと思った。
数万円から千万近くのものまである。
値段がバクりすぎてるせいで、十万円が安く見えるほどだ。
結局決めたのは数万円のものだった。これでも私には充分な金額なのだが。
ちびちび味わって飲もうと決意する。
「あの、このお酒注文したいです」
未だによく分からない場所を見ている黒金さんに声をかけると、私とメニュー表を交互に見て動かなくなった。
「頼むの?」
「はい……。ダメでしたか?あんまり高くないですけど、頼んだ方が黒金さんのためになりますよね?」
「え……俺のため?」
口元に手を当て、ぶつぶつと喋り始めた黒金さんに、私は首を傾げる。
黒金さんのためというか、この前のお詫びだ。
ホストクラブで働いてる人からしたら、私の出す金額なんて腹の足しにもならないかもしれないけれど。
変な行動をしていた黒金さんは、急に元に戻り、お酒を頼んだ。その後、小さな声で私に話しかけてきた。
「この前さ、アフター出来なかったじゃん?だから……今日やり直ししない?」
黒金さんからの提案に、私は「え」と声を漏らした。
黒金さんは早口で「お、俺が佳代ちゃんといたいなーって思って、楽しませるからさ」と言った。
全然想定してなかった展開に、私は口を閉ざす。
今日が終わったら、私はもうホストクラブに行かないつもりでいた。元から乗り気ではなかったし、やっぱり自分には向いてないとわかったから。
玲奈の行動もとめられるとは思わないし。
しばらくは傍観者でいるつもりだ。
せっかくの誘いだが、私は「ごめんなさい」と断った。
「……え、あ……そっか、うん。いや、俺こそごめんね。急だったよね、予定とか、色々あるだろうし」
空気が重くならないように話してくれる黒金さんに、私も合わせて、そうなんです、予定があってと誤魔化す。
「でも、ここにはまた来てくれるでしょ?」
さっきまでこちらを見ようとしなかった黒金さんが、目を合わせ、聞いてきた。
「は、はい」
私は嘘をつく。
黒金さんはほっと息を吐き、顔をほころばせた。
そのタイミングで、頼んでいたお酒が届いた。二人で飲みながら、会話をする。
そうして数十分経った後、黒金さんが「ちょっと呼ばれたから行ってくるね」と言って席から離れた。
残った私は、グラスに入っているお酒に口をつける。ちょっと疲れたなと伸びをしていると、別の男性がやってきた。
黒金さんがいない間、一緒に喋りながら時間を過ごす。
一番最初に来た時は、まともな返事を出来なかった私も、三回目になると、少しだけ会話術が上達した気がする。結構楽しく話していると、黒金さんが戻ってきた。
「佳代ちゃん……おまたせ」
口数が少ない黒金さんに、何かありました?と尋ねる。
「……ううん。なんでもないよ、それよりずいぶん盛り上がってたけど、何話してたの?」
作り笑いのような黒金さんの表情に違和感を感じながらも、好きなタイプとかについて話してましたと教える。
「好きなタイプ。佳代ちゃんの好きなタイプって?」
「えっと、私は、優しくて頭のいい人が好きです」
「……そっか、さっきの人との会話楽しかった?」
脈絡のない質問だなと不思議に思いながらも、はいと答えた。
その瞬間に、バシャッと音をたてて、黒金さんが持っていたグラスがひっくり返った。
机に、黒金さんのズボンに、さらには私の方までも飛び散った。
ギョッとして、ポケットから取り出したハンカチで、黒金さんのズボンを拭う。
「だ、大丈夫ですか?」
「……ごめんね、拭くもの持ってくるね」
黒金さんはすぐに立ち上がって、スーツを着た従業員さんに何かを伝えていた。
辺りを片付け終わり、再び話し始めた頃には、黒金さんはいつも通りに戻っていた。
***
三回目のホストクラブから約一週間が経った。
黒金さんは、会った次の日からメッセージを送ってくれている。
一日目は、お酒をこぼしたことへの謝罪と、来てくれてありがとうという内容だったが、二日目からは、また会いたいというものになり、三日目からは、次はいつくる?と催促するものに変わった。
いいカモと思われてるのだろうか。
私は行く気がないので、のらりくらりとかわしているが、そろそろ断るレパートリーも尽きてきた。
机に突っ伏している私の肩を誰かが叩いた。起き上がると、玲奈が何してるのーと顔を近づけてくる。
「ちょっと考えごとしてて……って、え、何その傷」
玲奈の頬には、赤い引っ掻き傷のようなものがあった。
「これー?えっとー、猫に引っかかれちゃった」
指で擦りながら玲奈は答えるが、どう見たって違う。猫のにしては、傷が広いし、一本しか切り込みがない。
私は、カバンから傷薬と絆創膏を取り出して、手当した。
「絶対猫じゃないよね、本当はなんなの?」
「……なんか、パパ活で変なおじさんが襲ってきたから、怖くなって逃げたの、その時引っかかれて」
私は大きくため息をついた。
「だから危ないって言ったじゃん!」
「で、でも――」
「ダメ、しばらくやめときな」
食い気味に注意すると、玲奈は頭を下げた。
私はポケットから、後で食べようと思っていたいちごのチョコを出して、玲奈に渡した。
***
帰り道、本屋に寄っていた私は、カバンの中で振動しているスマホに、不吉な予感を感じた。
取り出して確認すると、画面には玲奈の名前。
数時間前に別れたばかりだが、一体なんの用だろう。
店から出て通話に出ると、ズビズビと鼻をすする音が聞こえた。
どうしたの!と大きな声で呼びかける。
「佳代ー、うっ、たすけて、なんかホストクラブ行く途中で、この前怪我させてきたおじさんにあっちゃって、ひっく、追いかけてきて……うっ」
嗚咽を漏らしながら助けを求めてくる玲奈に、私はどこにいるの!と走りながら尋ねた。
「わ、わかんないっ……怖くて走ってるから、でも、さっきこの前待ち合わせしたコンビニがあった」
「すぐ向かうから」
幸いなことに、本屋からコンビニまでは十分ちょっとで着く。家にそのまま帰らなくて良かったと思いながらひたすら走った。
コンビニ付近につく頃には、口の中は鉄の味だった。
電話は繋いだままにしているが、玲奈がテンパってるので、正確な位置が分からない。
とりあえず色々な所を見て回り、辺りを探す。
日はほぼ落ちていたが、街灯があるおかげで、見にくくはなかった。
「玲奈、今はどこ?」
「わ、わかんな、ひゃっ」
スマホからガコンとけたたましい音がした。
「玲奈!大丈夫!」
「……う、うん、あ、画面割れちゃった」
「ちょっと!今それどころじゃないでしょ」
「ごめん……転んじゃっただけだから大丈夫、場所……暗くて、なんか狭いとこにいる。」
暗くて狭い……?
私のいる場所はこんなに明るいのに?
一体どこにいるんだと体が震えた。
「え、どういうこと、もしかして路地裏とかにいる?」
「た、多分そうかも。追って来たから、隠れようと思ってそのまま入っちゃった」
「何やってんの!」
怒鳴ると、玲奈はごめんなさいと謝った。
私は玲奈のあやふやな情報を頼りに路地裏を見てまわった。
それでも全然見つからなくて、どうしようと頭をかかえる。
自分自身も焦っていて忘れてたが、警察に通報しなきゃと思いたった時、玲奈との電話がぶつりと切れた。
「……玲奈?」
呼びかけるが返答はない。
どうしようどうしようと、頭がこんがらがって、手元が震えた。
深呼吸して、110と入力をする。
警察に通報し終わってから、私は辺りを見回した。
バクバクと心臓がうるさい。
その時、遠くから叫び声が聞こえた気がした。
本当に微かだったし、周りはうるさいから、空耳かもしれない。それでも私は、ゆっくりと声のする方に歩いていった。
店の間の、暗い隙間、そこに入って、私は耳を済ませた。
「かよ――」
私の名前をよぶ声が聞こえた。急いで向かう。
近づくにつれ、声は大きくなり、それが玲奈のものであることに気づいた。
しばらくして人の姿が見えて、奥に玲奈がへたりこんでるのが見えた。その前に、大きな背中も見える。
私は、ゆっくりと近づいて、犯人の股間を蹴り上げた。
犯人は、呻きながら倒れ込む。
私の存在に気づいた玲奈は、私の名前を呼び、ドバっと涙を流した。
「か、佳代、あ、ありがとう」
「いいから、ほら、早く行くよ」
私が立ち上がらせようとすると、玲奈は腰が抜けちゃったと言った。
「えぇ!ちょっと、何とか頑張って!」
「わ、わかってる」
無理やり玲奈の腕を引っ張る。
どうにかこうにか逃げる体制になった時には、犯人も回復していた。
道を塞がれ、絶体絶命だった。
犯人の男が、クソ野郎と呟きながら、拳を振り上げてきて、私は玲奈に覆いかぶさりうずくまった。
ガンという衝撃が歯に響く。ピリッとした痛みが唇にはしった。頭がいたい。ぐわんぐわんと衝撃が響いてきて、目が回る。
「佳代!大丈夫?佳代!」
隣で玲奈が名前を呼んでるが、それを気にしてる余裕はなかった。
私は食いしばり、玲奈の手を取って、もう片方の手に持っていたバックを男にぶつけた。
突然の私の行動に、男はよろめく。
そのすきに全速力で出口に向かった。
走って走って、周りがガヤガヤとした音に包まれた頃に、私たちは足を止めた。
心臓の音がやけに早くて、でもそれが、生きてることを実感させた。
安心してくると、頬の痛みが鮮明になってくる。
玲奈は私の隣で、わんわん泣きながら、ひたすらごめんねと謝っていた。
そういえば警察を呼んだのに、だいぶ移動してしまった。もう一度連絡しなきゃとスマホを取り出す。
連絡しようとして顔を上げると、少し先に、見知った顔の人がいた。
その人物がこちらに向かってくる。
「……佳代ちゃん?」
目の前に来たのは黒金さんだった。
***
「黒金さん……」
偶然ですねと、続けて喋るよりも先に、黒金さんは、どうしたのかと尋ねてきた。
眉間を寄せ、私と玲奈を交互に見てくる。
ズボンは汚れ、頬は腫れているだろう自分の姿を思い出して、カッと体温が上がった。
地面に視線を向ける。
「わ、わたじの、せいなんです」
濁点のついたセリフが飛んできた。
顔を向けると、瞳を潤ませた玲奈が、手で涙を拭っていた。その腕に、小さな傷跡が複数ついていて、肘からは、血が滲んでいる。
私は、くたびれたバックから、絆創膏を取り出して、貼った。
玲奈は一瞬キョトンとしていたが、すぐにがばりと抱きついてきた。耳元で、「佳代ー!」と叫んだ。
はいはいと答え、背中をぽんぽんと叩いていると、圧迫感が消えた。
一瞬何が起こったのか分からなかったが、目を向けると、黒金さんが、玲奈の腕を引っ張っていた。
「へ?」とこぼす玲奈と同様に、私も口を半開きにする。
「え、あ……いや……、ほら、頬が腫れてるから、痛そうで……ご、ごめんね。無意識に腕掴んじゃった」
当事者である黒金さんが、なぜか一番困惑していた。すぐに手を離し、今度は私に触れてくる。
「か、佳代ちゃんのこと、手当しないとだよね。そうだ、俺の家おいでよ」
どこかに連れて行こうとする黒金さんに、待ったをかける。玲奈と一緒に移動したいし、何より、警察と合流しないといけない。
伝えると、黒金さんは何かをボソリと呟いた。
その後は忙しかった。
事情を警察に説明し、ちぐはぐな玲奈の言葉に、補足をした。
一時間ちょっと経った後に解放され、その間、黒金さんは私の隣にいた。
家に帰っても大丈夫、と伝えたのだが、「女の子だけでいたら、また遭遇した時大変でしょ?」と、反対された。
帰り道、ズキズキと痛むかかとや、こった肩には気付かないふりをした。
玲奈はタクシーで帰らせ、私はどうしようかと考える。
名前を呼ばれ、振り返ると、黒金さんが「ご、ご飯食べない?お店でも、俺の家でもいいんだけど、奢るからさ」と提案してきた。
けれど、今はそんな気分ではないし、早くお風呂に入って寝たかった。明日も授業がある。
「すみません。誘って下さったのは嬉しいんですが、今日は帰ります。服も汚れてるし、怪我もしちゃったので」
「あ……そうだよね、ごめんね」
垂れ下がる耳としっぽの幻覚が、見えた気がした。
さようならと、後ろを向いた後、「待って!」と声をかけられた。
続けて黒金さんは、「また俺に会いに来てくれる?」と問うてきた。
言葉につまる。行く予定など、これから先ないのだが、それを正直に言える訳もなく、私は小さく頷いた。
「い、いつ来てくれる?」
グイグイと大きな胸板が迫ってくる。私は怖くなり、後ずさりながら、「えっと、じ、時間がある時に」と答えた。
がしりと右手首を掴まれた。
黒金さんの目は、不安定に揺れている。
「やっぱり、今日家においでよ」
「ほ、本当に大丈夫です」
両手で巨体を押すと、先程よりも一オクターブ低い声が飛んできた。
「もしかして、新しい担当ができたとか?だから、俺から離れようとするの?最近他のところに行ってるから、会いに来てくれないの?」
ギリギリと効果音がつきそうなほど腕を握られ、私はたまらず、「離してください!」と叫んだ。
「あっ、ごめんね……」
黒金さんに対して恐怖心が芽生える。早く別れようと踵を返したのだが、再び引き止められた。
「待って、もしかして電車でかえろうとしてる?危ないんだからタクシーで帰りな、はい。これ使って」
突きつけられたのはお札だった。貰えないと拒否する私に対して、この前のお返しだと、黒金さんは渡してくる。
渋ったが、引き下がる様子は見えなかったので、とりあえず受け取った。
タクシーに乗る場所まで、着いてきてくれた黒金さんに、お礼を言ってから、私達は別れた。
***
「え、ちょっと待って、何この量」
家まで着いて、支払いをしようとした私は、小さく声を漏らした。
黒金さんから貰ったお金は、全て万札で、数十万近くもあったのだ。
数万円だけ取って、会計を済ませてから、家までの階段を上る。
こんな金額貰えない。返さないと。
そう思い、スマホを取り出した。
黒金さんに、メッセージを送ると、数秒もしないうちに既読がついた。
けれど、数分経っても、返事がない。疑問に思いながらも、まぁいいかと電源を閉じようとした時、スマホは振動した。
――明日、俺の家これる?交通費と欲しい分は、そのお金から引いていいから。
なぜ家なのかは分からないが、送られてきた住所を見ると、大学から比較的近い場所だったので、まぁいいかと、了承のメールを返す。
翌朝、玲奈とは講義が被らない日だったので、安否確認の連絡をした。
次に、十七時くらいに会いに行く、という内容を、黒金さんに送る。
既読はすぐについたが、返事はなかった。
電源を落とし、授業が行われる教室へ向かう。
そうして、一限が終わったあと、玲奈からのメッセージを確認しようとした私は、ホーム画面を見て驚愕した。
――わかった。待ってるね。
――昨日の傷大丈夫?
――やっぱり、心配だから迎えに行ってもいい?
――今日も、昨日の女の子といる?
――既読付けて欲しい
黒金さんからの通知が、数十件も溜まっていた。
慌てて、授業中だったことを伝えると、すぐに「そうだった。授業あるのにごめんね」と返された。
大丈夫ですと打つ前に、スマホが振動し、着信画面が表示される。
――……もしもし?佳代ちゃん?
「あ、はい……」
反射でタップしてしまった私は、小さな声を出す。
――ご、ごめんね。急に。どうしても不安だったんだ。声も、聞きたくて。
「えっと、大丈夫です……。すみません、次も授業あるので、また」
様子のおかしな黒金さんに、妙な胸騒ぎを感じながらも、電話を切ろうとすると、「あのさ!」という声で、止められた。
――今、誰かといる?昨日の女の子とか、男友達とか……。
「いませんけど……急にどうしたんですか?」
――あ、ううん。いないならいいんだ。
「そうですか……?」
不思議に思ったが、休憩時間は数分しか残っていなかったので、慌てて通話を終わらせた。
***
四限分授業を受け、私は今、お金を返すために、バスに揺られている。
窓に頭を預け、空を見ると、雲は灰色に濁っていた。
折りたたみ傘は持ってきたが、雨は降らないで欲しい、と願う。
険しい道でもないのに、車体はガタガタと、大袈裟に揺れた。
バスが目的地に着き、軽くお礼を言ってから、地面を踏んだ。
マップを開いて、経路を確認する。しばらく歩いて、顔を上げると、タワーマンションが私を見下ろしていた。
まさか、と考えたが、目的地はこの場所からズレてはいなかった。
ゴクリと唾を飲み、エントランスを通る。
扉の近くに、金属の四角い物体があった。
恐る恐る近づいて、表面を見ると、数字のボタンがついていた。メールで、事前に送られた番号を入力する。
無機質な音がなったあと、しばらくしてから、黒金さんの声が聞こえた。
「――佳代ちゃん?」
「あ、こんにちは」
お辞儀をし、お金を返しにきたことを伝える。部屋の番号と、エレベーターで上がって来て欲しい、と言われたので、分かりましたと返事をした。
目の前にある透明のドアが、ゆっくりと開く。見慣れない光景に、再び唾を飲んだ。
体が強ばる。けれど、一歩踏み出し、私は指定された階へと向かった。
表札を見ながら、前へ進む。
多分ここだろう、という場所につき、私はインターホンを鳴らした。
微かな物音が響き、続いて、ガチャリと扉が開いた。
「黒金さん――」
「……っ、ほんもの」
私が話しかけるのとほぼ同時に、黒金さんは声を漏らした。
眉をたれさげ、瞳孔は忙しなく動いている。
その様子を見て、どうしたのか気になったが、すぐにお金のことを思い出した。
「これ……!残った分が入ってます。ありがとうございました」
茶色い封筒を渡す。
黒金さんが受け取ったのを確認し、別れを告げた。
「ケーキ!」
後ろから、予想外の単語が飛んできたので、私は、思わず振り向いた。
「け、ケーキがあるんだ、えっと、実は、知人からもらって、良かったら、食べていかない……?あ、お、おれ一人じゃ食べきれなくて。ね、お願い」
不安定な声のトーンだった。
言葉を詰まらせていると、「こ、困ってるんだ、佳代ちゃんに食べてもらえたら、すごく助かるんだけど」と、誘われる。
私は、小さく頷いた。
玄関からリビングに通され、周りを見ると、シンプルな内装だった。
キッチンで、準備をする黒金さんを、見つめながら椅子で待った。
「はい……ショートケーキなんだけど」
「ショートケーキ。あ、いちご」
ツヤツヤとしたいちごが、ふんだんに使われていた。高級そうだ。
玲奈に勧めたら、喜びそうだなと思う。いちごが大好きだから。
「もしかして、嫌いだった?」
「あ、違います!」
「そ、そっか。なら良かった。じゃあ、逆に好きってこと?」
私自身は、嫌いでも好きでもないのだが、とりあえず「はい」と答えた。
「いちご……好きなんだ。……分かった。教えてくれてありがとう」
フォークの音が響く。黙々と食べていると、「今日も、昨日の女の子といたの?」と聞かれた。
「玲奈のことですか?……今日は、授業被らなかったので、私一人でいましたけど」
意図が分からず、黒金さんをじっと見る。
一瞬目があったけれど、すぐに逸らされた。
「……もしかして、その子と、恋愛関係にあったり、する?」
どんな表情をしているのか、私には見えない。けれど、誤解をされていることは確かだったので、「違いますよ」と否定した。
「そっか、でも、すごい気にかけてるよね」
「まぁ、親友なので」
最後に残していたいちごを、口に詰め込む。
甘味を堪能していると、「俺のさ」と話しかけられた。
「お、俺の性格、どう思う?」
いきなりの質問に、まだかみきれていない固形物を、飲み込んでしまった。
どう、とは?
たまに様子がおかしい時もあるが、基本的にはいい人。だと思う。
「……気を使ってくれたり、優しくて、いい人。だと思ってます」
「そ、そっか!じゃあ、俺のこと、タイプ?」
さっきから、一体なんの質問だろう。
タイプって、人として?
それとも、異性として?まさかね。
というか、黒金さんがタイプじゃない人なんているんだろうか。
「はい」
私が賛同すると、目の前の、綺麗な男性の耳が、ぶわりと赤く染まった。顔を上げ、私を見てくる。気まずそうに、けれど、嬉しそうにして、言葉を投げてきた。
「お、俺ね、佳代ちゃんのことが、す、好きなんだ……」
好き。
え?
頭の中はパニックだった。そんなことを言われるなんて思ってなかったし、なんで?という疑問が膨れ上がる。
黒い瞳がこちらを見てきて、バッと、顔を背けた。
「あのね……好きって気づいたのは最近なんだけど、今までの子とは違って、か、佳代ちゃんだけなんだ。佳代ちゃんは、俺のこと、どう思ってる?」
問いかけられ、私の心臓は、外に聞こえそうなくらい、脈をうった。
どうしよう、なんて答えよう。
そんなことを考えていた時、ふと、玲奈の言葉が蘇った。
――色カノって言葉があって、彼女みたいに接してお金使わせるんだって、全部演技らしいから、騙されちゃダメだよ!
もしかして私、いいカモだと思われてる……?
いや、絶対そうだ。
こんなかっこいい人が、告白してくるわけがない、何より、私を好きになる理由が、見当もつかない。
だから、近頃頻繁に、お店に来て欲しい、と連絡してきたのか。
心の中でため息をつく。
「……佳代ちゃん?」
名前を呼ばれ、ビクリと肩がはねる。
私は、前に玲奈が言っていた通りにしよう、と考えた。
「えっと……、私も、好きです」
ガタッ。
椅子が倒れた。
黒金さんが座っていた椅子だ。
足音をたてながら、黒金さんは、何故か近づいてきた。
そして、次の瞬間、がばりと、抱きしめられた。
「え?」
「あ、ごめん!う、嬉しくって」
「そ、そうですか……」
奇行に、若干引きつつ、さりげなく距離をとる。
「じゃあ……、き、今日は、俺の家に泊まってく?」
「なんでですか?」
首を傾げると、黒金さんは、顔をひきつらせた後、真っ青にして、「ご、ごめんね、いきなり過ぎたよね、テンション上がっちゃって、ごめんね、嫌いにならないで」と、早口で捲したててきた。
「だ、大丈夫ですよ。なりませんから」
ありがとうと言われ、何故か手を握られる。
顔を覗き込まれ、体が固まった。
「お、俺の名前、黒瀬 相馬って、言うんだ。黒金ショウは、源氏名で、だから……二人の時は、 相馬って……呼んで欲しい」
とんでもない色気があり、戦いた。
きっと、今までこうやって、何人もの女性を籠絡してきたんだろう。
私は、ただ黙って、首を縦に振ることしか出来なかった――
***
「相馬の顔は、お父さんに似ててかっこいいわね」
濃い口紅を塗った女が、見下ろしてくる。
その表情は、とても醜い。
蕩けた目は、俺ではないものを写していた。
「いい、相馬?女の子と遊んだりする、チャラチャラした男になっちゃダメよ。お父さんみたいにかっこよく、でも、一人の……私だけを見てくれる男になるの」
向けられる言葉には、全て、父親の名前があった。
愛してくれてるんだと、思っていた。けれど、いつしか、違うことに気づいてしまった。バカなままでいたかった。
私だけを見て、あの男のようにかっこいい人になって。というセリフが、頭にこびりついて、離れない。ヒステリックをおこすので、拒絶なんか出来なかった。ロボットのように、ただ、賛同していた。最悪な毎日だった。
大人になって、家を出た時、自分に目標がないことに気づいた。
あの男ようにも、あの女が、言っていた通りの道にも、進みたくない、という、憎しみだけが残った。
ホストを初めたのは、そんな考えからだった。
でも、しばらくしてから、この選択は、間違いだったのではないかと思った。
恋人がたくさんいた父。嘘を吐き、安い愛してるを口にする。
今の俺は、あの男のようだ。あの女が、愛した男。
だからといって、ホストをやめたら、今度は、あの女の言っていた通りになってしまう。
吐き気がした。
夢にまで出てきて、眠れなくなった。
ある日から、俺を見ている人間の、顔が分からなくなってしまった。
呪いだ。
誰も、俺自身を見てくれない。
***
「黒金ショウです。よろしくお願いします。隣、座ってもいいですか?」
笑みを貼り付けるのには慣れた。
モザイクのかかった、客の顔を見ながら、喜ぶであろう言葉を投げかける。
「緊張してる?」
「あ、はい……してます」
「そっかー、俺もこんな可愛い子とおしゃべりできるの緊張してるんだよね、同じだね」
「そ、そうですね」
焦げ茶の、ロングの髪を肩に流し、俯いている。
女の表情は見えなかった。
まぁ、顔をあげたところで、俺にはよく分からないんだけど……。
声が震えていて、ホストに、慣れていない子なんだろうと思った。
上手くいけば、大金を落としてくれるかもしれない。
それから、適当に話を振りながら、会話を続けた。
「俺のこと見てくれないの?俺、佳代ちゃんの可愛い顔みたいな」
距離を詰めて、じっと見る。
「やっと目、合った」
「そ、そそ、そうですね」
次は何を言おうか考えていると、頬に体温を感じた。
触られている。
ぞわり。
鳥肌がたった、でも、なんでもないふりをして、尋ねた。
「……どうしたの?」
「わっ、あ、すみません。いや、あの、黒金さん寝てますか……?」
「え?」
目の前の、顔にかかっていた、モザイクが一瞬消えた。
喋りたいに、声が出ない。
「その、寝不足なように、見えたので……」
メイクで隠していたのに、なんで気づかれた?
そんなに、酷い顔をしていたのだろうか。
「そっか、そう見えるのか」
自然と口が開く。
早口で、「あ、いや、やっぱり気のせいでした」と、否定されて、しまったとフォローを入れた。
「ううん、実は本当に最近寝れてないんだ、でもまさか気づかれるとは思ってなかった。声かけてくれたの佳代ちゃんだけだよ」
なんだか嫌な予感がし、体の中に、ムズムズとしたものが溜まる。
「もうそろそろ時間だ、俺の事、送りに選んでくれたら嬉しいな」
「おくり?」
「うん、最後に今まで話した人の中から一人選んでもらってお見送りする制度。佳代ちゃんと少しでも多く喋りたいからさ」
「は、はい。分かりました」
「話してくれてありがとう」
グラスを当て、俺は立ち上がる。
きちんと仮面を被らなきゃ、後悔することになる。そんな気がした。
送りに選ばれた時、俺は、普段よりも、気を引き締めて会いに行った。さっきのように、相手のペースに呑み込まれるのが、怖かった。
「選んでくれたのめっちゃ嬉しい。なんで俺にしてくれたの?」
「えっと、黒金さんとのお話が一番楽しかったので……」
「わー、まじか!照れる。出口までだけどいっぱい喋ろうね」
再び会ってから、拍子抜けする。
なんだ、やっぱりさっきのは勘違いか。
他の女と一緒だ。
***
しばらくしてから、いつも通り、営業メールを送った。
また来ても来なくても、お金に困ってるわけではないし、どうでもよかった。
次の日曜日、この前の子に指名された。
顔を見ても、モザイクはかかったままだ。
昨夜から、ズキズキと痛む頭は無視して、笑いかける。
「佳代ちゃんだ!きてくれたの?俺のこと指名してくれて嬉しい」
「えっと、お久しぶりです。名前覚えててくれたんですね」
「もちろん!佳代ちゃんみたいな可愛い子の名前忘れるはずないでしょ」
男慣れしてない感じは、相変わらずだった。もっとハマって、金を出して欲しい。
「あ、いや、私彼氏いないです」
「え、絶対いると思ってた、佳代ちゃん可愛いし、いい子だし」
笑顔を浮かべ、お世辞を並べると、分かりやすく照れ始めた。
ちょろい。
違う席で、シャンパンコールが入り、俺は腰を上げた。
「あ、ごめんね、ちょっと呼ばれたから行ってくるね、すぐ戻ってくるから!」
数十分ほど経ってから、戻ってくると、女は、モジモジとしていた。
「ごめんね佳代ちゃん、おまたせ」
隣に座り、酒を飲みながら話題を提供する。
けれど、意識が、こちらに向いてないことに気づいた。
嫉妬だろうか。
めんどくさいな、と考えていると。
「あ、あのっ……えっと、玲奈がアフターしてもらうみたいで、私も、アフターしてもらえませんか?」
予期していないセリフが飛んできた。
誘ってくるタイプだとは思えなかったので、まじかよ、と少し、衝撃を受ける。
「佳代ちゃんがアフターして欲しいって言ってくるとは思わなかったな。うーん……いつもならシャンパンとか入れてくれたらいいよって言ってるんだけど……」
まぁ、このタイプなら、約束を取り付けたら来るだろう、と考え、了承することにした。
「でも、今日はちょうど予定ないし、いいよ。佳代ちゃんが特別。その代わり、また次の休みの日にお店に来てよ。約束してくれるならいいよ」
「え」
自分から提案したくせに、何故か驚いた顔をしていた。
アフターのため、近くのコンビニで、待ち合わせをすることになった。
「いや、マジで!今回の子、お金めっちゃ出してくれそうなんですよ!本営いけそうだし」
「結構、盛り上がってたもんね」
「そうなんです!」
明るい性格に、複数のピアス、そして金髪。でもやっぱり、顔にはモザイクがかっていた。
この男は、俺より後に入ってきた、春樹という人物だ。元気よく、笑いを交えながらの対話のやり方は、真似出来ないな、と思う。
「あ、なんか、四人でまわる、みたいな雰囲気だったけど、どうなの?」
「え、「二人で遊ぼうね♡」って言われましたよ!てか、四人でって、珍しいですね」
そうだねと、相槌をうった。
あの子が、ただ勘違いしてただけだろう。
待ち合わせ場所についてから、話しかけると、女は、背中を丸めた体制で、謝罪してきた。
「謝んないで、俺は嬉しいから、だって佳代ちゃんと二人でいられるじゃん」
心が伴っていない、言葉を呟く。
あたふたとしていた相手が、急に周りを見始めたので、顔を上げた。すぐにその理由が分かり、「さっきお店出ていったよ」と教える。
「え!」
やけに、お友達、とやらを気にするな、と感じたが、すぐに思考を切り替えた。
「佳代ちゃん行きたい場所ある?」
「えっと――」
女が答える前に、口から、クシャミが飛び出た。
あぁ最悪だ。
「全然大丈夫ですけど……寒いですか?」
「いや大丈夫だよ」
頬をあげ、なんでもないふうに装う。こうすれば、誰も追及してこない。
酒を飲んだせいもあり、体が冷たい。
どこか暖かい場所で寝たい。
でも、寝たらまた、嫌な夢を見てしまう。
「黒金さん」
突然名前を呼ばれ、振り向く。
その瞬間、何かが首を、覆った。
「……え」
「良かったら使ってください」
私は暑がりで使わないので、と答える目の前の女を、口を開けたまま見つめる。
顔にかかったモザイクが、ジジ……ジジ……と、揺れた。
「えっと、元気ですか?」
意味の分からない質問だった。
「……元気、だよ?」
「その、前も言ったんですけど、黒金さん、やっぱりまだ寝れてないですよね?」
ドクンと胸が鳴り、「えっ……」と、喉から息が漏れた。
前にいる、女の表情が、鮮明になっていく。
「ごめんなさい誘っちゃって、こうやって話せただけで楽しかったです。だから、もう家帰って休んでください」
小さくて丸い輪郭。たれた大きな目。ピンクの厚い唇。
「これ、タクシー代です。もし後で足りなかったりしたら言ってください。あ、それと、そのマフラーは次にお店来た時に受け取るので、今日は付けててください」
この場を去ろうとする彼女を、慌てて引き止めた。
「か、帰るの?」
「お金足りないですか?あ、次回来るって約束はちゃんと守りますよ。日曜日辺りに行くと思います。お酒も……なるべく高いの頼みます。破るか不安なら、契約書とか書きますか?」
「そうじゃなくて……」
先程と同じように、空気が読めないクシャミが出た。
「風邪ひいちゃいますよ、あ、風邪薬も持ってるので渡しときますね」
押し込まれた薬を、じっと見て、顔を上げる。
楽しかったです、と、無邪気に笑っている。
モザイクのかかっていない、女の……佳代ちゃんの瞳には、ホストでも、あの男でもない……。
俺自身が映っていた。
スマホのキーボードを叩く。
入力し、消して、また打って、直して。
――昨日はありがとう。次会うの楽しみにしてるね!
数時間もかかったのに、送ったのは、当たり障りのない短い文章だった。
チャット画面を凝視する。一分、二分と経っても、既読がつかない。心臓が痛くて、裏のまま、机に置いた。
けれどすぐに気になって、手に取ってしまった。
忙しいの?誰かといる?なんで返事くれないの?
答えは見つかるはずないのに、ずっと考えた。
出勤時間になったら、こまめに確認することもできない。
何も手につかず、布団にくるまっていると、三時間後にメッセージが届いた。
――こちらこそ色々ありがとうございました。
シンプルで、佳代ちゃんらしい文だった。
アプリを開き、急いで言葉を考える。どうにか会話を続けたくて、もっと気の利いたセリフがあったはずなのに、今何してた?と、つまらない質問を送ってしまった。
――空き時間に休憩してました。
たった一言に、気分が上がる。
そのあとも、少しだけ喋り、会話は終わった。
本当は聞きたいことも沢山あったけれど、一方的な質問は、相手に嫌われる可能性があるから。……堪えた。
佳代ちゃんが来店するまで、毎日、俺はメッセージを送り続けた。会いたくて、喋りたくて、なんで自分がこんなことになっているのか、全然分からなくて。身体中がゆっくりと、侵されている感じがした。
たった一週間、それが、あまりにも長かった。
当日になって、佳代ちゃんの待つ席に向かったら、いつもどうやって女の子に話していたかを、忘れてしまった。
「会いに来てくれて嬉しい!俺ずっと楽しみにしてたんだよね」
何とかセリフを吐き出したのに、口角がうまく上がらなくて、あぁ失敗したと、心の中でつぶやく。
「黒金さん?……虫でもいましたか?」
ちらり、視線を移すと、佳代ちゃんが、丸い瞳でこちらの様子を伺っていた。
口の中にあった水分が消え去り、ヒュッと、喉が鳴る。そんな顔で、見ないでほしい。
唇を小さく動かし、手に持っていたものを渡した。
「え、あ、いや、ごめんね、違うよ……。マフラー!そうだ、マフラー。すっごいあったかくて、佳代ちゃんのおかげで風邪ひかなかったよ!ありがとう」
実を言うと、ここ数日間は、マフラーを抱きしめて寝ていた。佳代ちゃんが貸してくれた日、外したくなくて、ずっと顔を埋めて座っていたら、いつの間にか意識が消えていた。起きたら、朝。
本当にびっくりした。
薬を飲んでも、なかなか眠れなくて、絶対に一回は、目が覚めていたのに。
頭がスッキリしていて、鏡を見たら、少しだけ、隈が薄くなっていた。
欲を出すなら、そのまま買い取りたかったけれど、匂いは薄まってくるので、仕方なく手放すことにした。
「お役に立てて良かったです」
伸ばされた手が、俺の指に当たる。
染み込むように伝わってきた体温に、気づいたら、腕を握っていた。
「……ちっちゃくてあったか」
一番最初に触れた時は、こんなこと思わなかったのに。
「え?」
「え……あっ!ご、ごめんね、ち、違うんだ、ほら俺の手にすっぽり収まるなーって思って」
いつもなら、しないへまをして、慌てて誤魔化した。言い終わってから、その誤魔化しすらも、間違えてることに気づく。
「黒金さん、大丈夫ですか?」
「……大丈夫だよ?」
小刻みに、心臓が音をたてる。
全然大丈夫じゃない。
メニューを眺め始めた佳代ちゃんに、バレないよう、じっと見た。
ほっぺが可愛いとか、一本だけ髪の毛がはねてるとか、思いながら、記憶していると、予想外の言葉が耳に入ってきた。
「あの、このお酒注文したいです」
「頼むの?」
「はい……。ダメでしたか?あんまり高くないですけど、頼んだ方が黒金さんのためになりますよね?」
「え……俺のため?」
会いに来てくれただけで嬉しくて、売上なんかどうでも良かったのに。
しかも理由が、俺のため。
「夢……かな……?いや、違うよな、死ぬのかな、俺……」
渦をまく脳を、落ち着かせる。無意識に声が出てて、誤魔化すように酒を頼んだ。
もし、誘ったら、アフターしてくれるかな。前回は、佳代ちゃんから誘ってくれたし、きっと喜んでくれるはず。
「この前さ、アフター出来なかったじゃん?だから……今日やり直ししない?」
そう思って提案したが、「え」と、むしろ嫌がっているような、返事をされた。悪寒が走る。
駄々をこねる子供みたいに、早口で、続けて加えた。
「お、俺が佳代ちゃんといたいなーって思って、楽しませるからさ」
でも、意味がなかった。眉を下げ、罪悪感がひしひしと伝わってくる表情で、「ごめんなさい」と言われた。
心臓が軋む。はっ、はっ、と、息が漏れる。
「……え、あ……そっか、うん。いや、俺こそごめんね。急だったよね、予定とか、色々あるだろうし」
「そうなんです、予定があって」
俺を優先してよ……。
喉まででかかった。情けなく、乞うてしまいそうになった。
ひと息ついてから、質問をする。
「でも、ここにはまた来てくれるでしょ?」
「は、はい」
あぁ良かった。これからも喋れる。
それから、お酒を飲みながら、幸せな時間を過ごした。自分が楽しませる側なのに、そんなことは、頭から抜けていた。
目の前にある、キラキラした顔をみていたとき、他の席で、シャンパンが入った。舌打ちをしそうになり、唇を噛む。
重い体を叱咤し、立ち上がり、「ちょっと呼ばれたから行ってくるね」と、声をかける。
向かった女の机には、派手な箱に入ったお酒が、光を反射して、ギラギラと輝いていた。
普段ならなんとも思わなかったはずなのに、今日は、目障りだなと感じた。
仮面を被り、ソファに腰掛ける。
女は、肉の詰まった足を擦り付け、甲高い声で、愛を求めてきた。
佳代ちゃん以外を相手にしている時の俺は、俺自身じゃない。本当の自分でいられるのは、佳代ちゃんの前だけ。
早く、時間がすぎればいいと思った。
やっと対応が終わり、佳代ちゃんのいる席に視線を移した。
笑ってる。
佳代ちゃんが、笑ってる。
他のやつに。
俺と最初に喋った時は、そんな顔しなかったのに。
胃液がせり上がってくる感じがした。気持ち悪い。
早足で向かい、ソファに腰掛ける。
「佳代ちゃん……おまたせ」
明るく話しかけたつもりが、何かありました?と、尋ねられた。俺の様子に気づいてくれたと、単純な心は、浮き足立つ。
「……ううん。なんでもないよ、それよりずいぶん盛り上がってたけど、何話してたの?」
誤魔化しながらも、探りを入れた。
「好きなタイプとかについて話してました」
「好きなタイプ。佳代ちゃんの好きなタイプって?」
「えっと、私は、優しくて頭のいい人が好きです」
なんでもない顔をしたが、気持ちは、前のめりになっていた。
自分が該当してるかが、きになって仕方ない。
「そっか、さっきの人との会話楽しかった?」
俺との会話の方が楽しい。そう言ってくれないかなと思ったが、期待は裏切られた。
「はい」
短い言葉が、刃物のように鋭く、刺してきた。
やばい、上手く笑えない。
視界が定まらなくなり、手が震えた。
ガラスが音をたてる。そこでやっと、正気に戻った。下を見ると、ズボンが酒で濡れていた。
「だ、大丈夫ですか?」
佳代ちゃんが、ハンカチで拭ってくれる。伸ばされた腕の、袖あたりは、湿っていた。
なんでいつも、他人のことばっかり……。
あまりにも眩しいその姿に、俺は顔を背けてしまった。
***
「ねぇ〜!私今日、ショウ君のために、いつもより時間かけて、オシャレしてきたんだー!この髪型とか可愛くない?」
「うん、すっごい可愛い。俺のためって理由も嬉しいよ、ありがとう」
数日が経った。
相変わらず、俺は、睡眠が取れていない。いや、実際は、佳代ちゃんと別れてから、夜中に、目が覚める回数が増えた。
どうして。
ずっと、その理由を探しているけれど、全く見つからない。
また来てくれるかと聞いた時は、頷いていたが、全然音沙汰がない。メッセージを送っても、予定があるからと、断られる。
しかも、俺ばっかりが話しかけている。
あぁもうよく分からない。なんでこんなに苦しいのか。ムカつくのか。
俺は、佳代ちゃんを――
「好き……」
「え?」
「だからぁ、私は、ショウのことが好きなの、ショウも、私のこと大切、って言ってくれてたじゃん?だから、両思いでしょ?そろそろ、一緒に住みたいなぁって、思って……ちょっと、聞いてる?ショウ!」
佳代ちゃんの声が聞こえたと思った。実際は、ただの金切り声だったことに、肩を落とす。
すき。好き……。
全然考えつかなかった。恋。
あまり、実感がわかない。でも、そっか。
「ねぇ!聞いてないでしょ、酷い!もう私知らないから、帰る!」
耳をつんざく声に、意識を取り戻す。普段なら、機嫌をとるよう努めるが、今は、どうでもよかった。
蟠りがなくなったおかげで、スッキリしている。
やっと理解できた。寝ようとすると、佳代ちゃんの幻覚が見えるのも。こっそりと、写真を撮りたくなるのも、メールのやり取りを全て保存してしまったのも。全部。
佳代ちゃんのことが好きだからなんだ。
翌日、仕事が休みの俺は、昼過ぎまでゴロゴロとしていた。やっぱり、近くに佳代ちゃんの存在がないと、眠れない。
窓を見れば、太陽は沈みかかっていた。
何とかベッドから起き上がり、冷蔵庫を開ける。がらんとしたその箱を、ぼーっと眺めた。
寝室に戻ろうとした足を止める。
何となく、いや、もしかしたら会えるかもしれない、なんて期待があって、この前のコンビニに行こうと思った。
***
「ありがとうございましたー」
感情のこもってない挨拶を受け、店から出る。
手の袋には、ゼリー飲料。食欲がない時は、いつもこれだ。
目的の人には、結局会えなかった。
のろのろとしたスピードで、来た道をあるく。ふと顔を上げると、見覚えのある姿が見えた。
鼓動が早くなる。歩幅が大きくなる。視線が合って、体が沸騰しそうになった。
さらに近づき、綺麗な顔の、頬に、目が留まった。腫れている。
「……佳代ちゃん?」
「黒金さん……」
俺がいることに驚いてるようだった。目尻を下げて、普段通りに話しかけてこようとするので、どうしたのかと、少し大きめな声が出た。
すると佳代ちゃんは、口を引き結び、下を向いた。
違う。ただ心配してただけで、そんな顔、して欲しかったわけじゃ……。
「わ、わたじの、せいなんです」
嗚咽の混じったセリフが横から飛んできた。佳代ちゃんばかりを見ていて、もう一人の存在に気がついていなかった。
わたしのせい
今、確かにそう言った。胃がムカムカとして、殴りかかりそうになった。
けれど、俺が行動を起こすよりも先に、佳代ちゃんは、バッグから絆創膏を取り出し、女に貼った。
「佳代ー!」
目の前で佳代ちゃんに抱きついている。
次の瞬間には、手が出ていた。
「へ?」
「え、あ……いや……、ほら、頬が腫れてるから、痛そうで……ご、ごめんね。無意識に腕掴んじゃった」
自分の体なのに、制御が効かない。
とにかく、俺以外といる所を、みたくなかった。
「か、佳代ちゃんのこと、手当しないとだよね。そうだ、俺の家おいでよ」
連れ出そうとすると、佳代ちゃんは、「玲奈と一緒に行動したい」と言ってきた。
「……なんで」
無意識に漏れた言葉は、誰にも届かない。
その後やってきた警察に、事情を説明しているのを聞いて、俺はやっと、状況が理解できた。
結局は、全部あの女のせいだったのだ。
やっとふたりきりになれた頃、俺は食事に誘った。数日ぶりに会えたのだ、もっと、一緒にいたい。
「すみません。誘って下さったのは嬉しいんですが、今日は帰ります。服も汚れてるし、怪我もしちゃったので」
「あ……そうだよね、ごめんね」
丁寧なお辞儀で断られる。帰ろうとする後ろ姿を見た時、胸騒ぎがした。
もう会えないかもしれない。
なるべく優しくとか、もっと知的に見えるようにとか、全然考えられないまま、引き止めていた。
「また俺に会いに来てくれる?」
佳代ちゃんは、小さく頷く。
「い、いつ来てくれる?」
「えっと、じ、時間がある時に」
「やっぱり、今日家においでよ」
「ほ、本当に大丈夫です」
「もしかして、新しい担当ができたとか?だから、俺から離れようとするの?最近他のところに行ってるから、会いに来てくれないの?」
溜まっていた疑問や不満が爆発した。
「離してください!」
いつもは穏やかな佳代ちゃんの、切羽詰まったような声に、手を離す。やってしまった。
謝るが、返事はない。それどころか、この場から去ろうとしている。
「待って、もしかして電車でかえろうとしてる?危ないんだからタクシーで帰りな、はい。これ使って」
持っていた、ありったけのお札を渡す。
佳代ちゃんの性格なら、きっと連絡をしてくる。金額に気づく前に、早く別れれば、また会える。
なるだけ平然を装って、見送った。
家に帰ってから、画面を見続け、小一時間。予想通り、メッセージは届いた。……良かった。
鉛のような人体を、布団に預け、なんと返事をしようか考える。違和感がないように、接点を作りたい。
――明日、俺の家これる?交通費と欲しい分は、そのお金から引いていいから。と打ち込み、伝えた。
しばらくしてから、了承の文が送られてきて、ホッと息を吐く。
ついでに、仕事を休む連絡を入れた。
欠勤なんていつぶりだろう……。
写真ホルダーを開き、保存していたやり取りを見ていく。
カーテンの隙間から入った光に顔を上げると、いつの間にか朝をむかえていた。
佳代ちゃんは、今何をしてるのかな。
まだ寝てるのかな。
今日会うというのに、既に恋しい。
画面を凝視して、また時間が経った。スマホが振動して、通知がくる。
――十七時くらいに伺いますね。
ドクン。
心臓が、口から出るかと思った。
すぐにアプリを開く。
指が震えた。ぐるぐると悩んで、全然思いつかなくて、やっと、――わかった。待ってるね。と、答えた。
けれど、返事がこない。読んですらもらえない。
冷や汗が止まらない。
――昨日の傷大丈夫?
――やっぱり、心配だから迎えに行ってもいい?
――今日も、昨日の女の子といる?
――既読付けて欲しい
タップ音だけが、耳に響く。
ひたすらおくって、返事が来たのは、何十件と、送信した後だった。
授業中で見れなかっただけだと分かり、肩の力が抜ける。呼吸が楽になった。
俺は、無意識に、通話ボタンを押していた。
自分でかけたのに、出てくれたことに驚いた。
「……もしもし?佳代ちゃん?」
――あ、はい……
小さな声を聞いて、頬が緩む。
「ご、ごめんね。急に。どうしても不安だったんだ。声も、聞きたくて」
――えっと、大丈夫です……。すみません、次も授業あるので、また
会話を終わらせようとするので、疑問を抱き、引き止めた。
「今、誰かといる?昨日の女の子とか、男友達とか……」
――いませんけど……急にどうしたんですか?
「あ、ううん。いないならいいんだ。」
俺が知らない間、知らない誰かと一緒にいるなんて、耐えられないと思い、尋ねたが、杞憂だった。
電話を切ってからも、夢を見てる気分だった。
佳代ちゃんがくるんだから、部屋を綺麗にしないと。
そう考え、散乱した服をまとめ、床を掃除し、机の上を片付けた。
近くの有名なスイーツ屋さんにも行き、好き嫌いがあるかもしれないから、シンプルなショートケーキを買った。
服装も新しくしようとしたが、似合わないと思われたらいやなので、いつもの格好に落ち着いた。
時間が余り、やることがなくなったあと、俺は椅子に座っていた。
膝の上で握った拳に、力がこもっていく。空気が重たくて、体が動かない。
なにか違うことを考えようと、思考を巡らせたが、最終的にいきつくのは、佳代ちゃんのことだった。
今までのが全て、俺の妄想だったらどうしよう。もしかしたら、家にこないかもしれない。さっき話したのも、全部嘘で……。
強く瞼を閉じた時、ピンポーンと、音が響いた。
蹴飛ばすように立ち上がり、モニターを見る。
「佳代ちゃん?」
「あ、こんにちは」
息を飲む。
声が上ずりそうになった。
番号を伝え、部屋で待ってる間、廊下をウロウロと歩いた。
インターホンがなり、ゆっくりと扉を開ける。
「黒金さん――」
「……っ、ほんもの」
伝えるはずなかったセリフが、飛び出た。
最悪だ、やり直したい。
次にかける言葉を探していると、何かを渡される。
「これ……!残った分が入ってます。ありがとうございました」
完全に忘れていた俺は、紙幣の入った封筒を手に取った。
すると、佳代ちゃんは、来た道を戻ろうとして行く。
「ケーキ!」
引き止めたくて、咄嗟に叫ぶ。
「け、ケーキがあるんだ、えっと、実は、知人からもらって、良かったら、食べていかない……?あ、お、おれ一人じゃ食べきれなくて。ね、お願い」
逃がさないための言い訳だった。
本当は、佳代ちゃんのために用意したものなのに。
「こ、困ってるんだ、佳代ちゃんに食べてもらえたら、すごく助かるんだけど」
そうお願いすれば、断られないことは分かっていた。
離さないためなら、嘘をつくしかなかった。
結果的に、佳代ちゃんは今、俺の前にいる。
どうぞとスイーツを提供すれば、表情を明るくした。
「はい……ショートケーキなんだけど」
「ショートケーキ。あ、いちご」
「もしかして、嫌いだった?」
「あ、違います!」
「そ、そっか。なら良かった。じゃあ、逆に好きってこと?」
じっと見つめ、質問すると、「はい」とはにかんだ。
「いちご……好きなんだ。……分かった。教えてくれてありがとう」
今度、いちごのお菓子とかをプレゼントしよう。喜んでくれるかな。
沈黙が流れ、意を決して、口を開いた。
「今日も、昨日の女の子といたの?」
「玲奈のことですか?……今日は、授業被らなかったので、私一人でいましたけど」
「……もしかして、その子と、恋愛関係にあったり、する?」
ずっと気になっていた。最悪の可能性。否定してくれと、固唾を呑む。
「違いますよ」
顔を上げる、誤魔化してるようには見えなかった。
「そっか、でも、すごい気にかけてるよね」
「まぁ、親友なので」
いちごを咀嚼する佳代ちゃんの、唇を凝視する。
果汁によって、ぷるんと光っていた。赤く染まっていて、紅を塗っているようで。
「俺のさ」
もし、俺が彼氏になったら、そこに……。
「お、俺の性格、どう思う?」
「……気を使ってくれたり、優しくて、いい人。だと思ってます」
「そ、そっか!じゃあ、俺のこと、タイプ?」
「はい」
佳代ちゃんの全部を、手に入れられるかもしれない。
「お、俺ね、佳代ちゃんのことが、す、好きなんだ……」
喋りだしたら、止まらなかった。
「あのね……好きって気づいたのは最近なんだけど、今までの子とは違って、か、佳代ちゃんだけなんだ。佳代ちゃんは、俺のこと、どう思ってる?」
呼吸もしづらくて、言葉も噛んでしまったけれど、気にしてられなかった。
なかなか答えてくれないので、名前を呼ぶ。
不安げな視線が向けられ、声が届く。
「えっと……、私も、好きです」
泣きそうだった。いや、泣いてたかもしれない。
佳代ちゃんに抱きつき、気づかれないよう、目元を拭う。
「え?」
「あ、ごめん!う、嬉しくって」
「そ、そうですか……」
「じゃあ……、き、今日は、俺の家に泊まってく?」
「なんでですか?」
気持ちが高ぶったまま提案してしまった。体温が下がっていく。
不誠実だと思われて、振られてしまう。
「ご、ごめんね、いきなり過ぎたよね、テンション上がっちゃって、ごめんね、嫌いにならないで」
「だ、大丈夫ですよ。なりませんから」
「ありがとう……」
佳代ちゃんの手を握る。
こうやって触れるのも、もっと先も、彼氏になったから、できるんだ。
嫌われたくないから、ゆっくりと、進めていこう。
「お、俺の名前、黒瀬相馬って、言うんだ。黒金ショウは、源氏名で、だから……二人の時は、 相馬って……呼んで欲しい」
佳代ちゃんに似合う服を買って、デートをして、結婚して。テレビを見ながら、何気ない会話をして。
俺の初恋は、佳代ちゃんなんだよって言って。
あぁ楽しみだなぁ。
なんて幸せなんだろう。
***
何故か、いつもよりテンションが高い相馬さんは、出入口まで送ってくれた。
外は小雨になっていた。
別れ際、左手の薬指を撫でられる。
向けられた表情がなまめかしくて、身震いをしてしまう。
「あ……雨だしさ、やっぱり……もうちょっと、一緒にいない?」
かろうじて聞き取れるくらいの、小さな声量で提案された。けれど「折りたたみ傘あるので大丈夫です、ありがとうございます」と、かぶりを振った。
進んでから後ろを振り返ると、相馬さんは、私をじっと見ていた。
圧を感じる。
バス停に着き、待っている間、スマホの電源を付けた。
玲奈から返事がない。その日のうちには何かしらのアクションがあるのに……。
言いしれない不安を感じ、通話ボタンを押した。
数コールしてから繋がったが、いつもの元気なこえがない。
「……玲奈?」
「い……よ」
「え?何、どうしたの」
くぐもっていて、分からない。
耳をピタリと当てた。
「くる、しいよ……」
一瞬頭が真っ白になったが、我にかえり「何があったの!」と、感情のままに尋ねた。
「なんかぁ……熱いし……だるいし……体が重いし」
もう嫌だと、弱音を吐く玲奈に、私は口を開けた。
「それ、熱じゃない?」
「……そーかもぉ、助けて……くるしいよ」
思わず眉間をつまんでしまう。
マップを開き、近くの薬局を探した。
今から行くということを伝え、食べ物と、冷えピタを買うため、足を動かした。
数十分経ってから、玲奈の家に到着した。呼び鈴を鳴らし、扉を眺める。けれど、開かない。
電話も出なかったので、ドアノブに触れた。
ガチャリ。
金属音。
鍵がかかっていない。
隙間から中を見る。
玲奈がよく着ている服や、ショルダーバッグ、メイク道具が、入口付近に散らばっていた。
ため息が漏れる。
綺麗にしなと言ったのに、全く変わっていない。
数ヶ月前におじゃました時より、酷くなってる気がする。
「れいなー、どこー……」
踏み場のない廊下を、つま先だけで進みながら、目的の人物を探す。
多分、寝室にいるだろうと、半開きになっているドアから、顔を覗かせた。ベッドの真ん中、白い毛布が、何枚も乱雑に重なっていた。山のようになっているそれは、よく見ると少し動いている気がする。
部屋の中ですら物で溢れかえっていたが、構わずに進んだ。
両手を使って、布団をまさぐると、指先が温かい何かに触れた。それを引っ張りだすと顔が現れた。
玲奈だ。
りんごのように赤くなっている。
「布団整えるから、いったん起き上がって」
玲奈の脇の下に腕をいれて、なんとか体を起こさせる。
違和感があり、目を向けた。
「え、ちょ、なんで下着姿なの!」
ほぼ産まれた姿の玲奈に、叫びにちかい声が出た。
「んぅ……だって、あっついんだもん」
慌ててそばに落ちていた玲奈の服を掴み、「とりあえずこれ!」と、押し付けた。
ベッド周りを軽く整理する。
口をすぼませながら、着替えている玲奈を尻目に、私は台所へ向かった。
先程買ってきた、レトルトのおかゆを温め、同じように購入した紙皿へ盛り付ける。
流し台は汚れた食器で埋まっていた。
端に置いてあった、砂糖とはちみつをかけ、ご飯を持っていく。
Tシャツだけを身につけた玲奈は、ベッドの上で大の字になっていた。
「はい。これ食べて」
「ん〜……」
ゾンビのように起きた玲奈は、私の手にあるお皿を受け取った。スプーンを持ち、[[rb:啜 > すす]]るように食べ始める。何回か繰り返してから、「……甘い」と呟いた。
「砂糖とはちみつ入れたから」
「……え、なんでぇ」
「え、だって、玲奈甘いの好きでしょ?」
首を傾げると、不満そうな声が室内に響いた。
「好きだけどぉ、おかゆが甘いのはやだ……、佳代ってなんでも出来るのに、料理だけ上手くできないよね。私が作る方が美味しいもん」
確かに、玲奈の作るお菓子は絶品だ。
でも、私のも、結構美味しいと思うんだけどな。
「なんでもはできないよ、料理、そんなに下手かな……?」
ボソリ、言葉にすると、玲奈は唸ってから、溶けて形の変わったいちご飴を渡してきた。
「……いらない、かな」
「えぇ、美味しいのに」
フンと鼻を鳴らし、飴を食べ始めた玲奈に、私は、それいつのやつだろう……と思った。
「体はもう大丈夫なの?さっきより動けるようになってるけど」
「うーん、だるいけど、佳代と喋ったら、元気になってきた! そういえば、私のところに来るのはやいね」
「あ、うん。ちょうど、そうま……黒金さんに会ってて」
「え! 佳代も、私たちみたいに付き合い始めたの?」
身を乗り出してきた玲奈に苦笑する。
「違うよ、借りてたお金をかえしただけ」
「なーんだ。私もタイプだし、かっこいいから付き合っちゃえばいいのに!」
「……タイプって、春樹さん?が、好きなんじゃないの?」
「うん! 私は、かっこいい人みんな好きなの、それに春樹くんは、私のこと好きって言ってくれるから、私も特別好きなんだ!」
それは本当の好きなの? と、疑いながら、そうなんだと返した。
足が、床のビニール袋に当たる。
冷えピタがあることを思い出し、袋から取り出した。
「そうだ、これと、後、飲み物と薬とかも買ってきたから置いておくね。明日休むでしょ?」
「わぁ〜! ありがとう。うん!」
にこにことしている玲奈に、ほっと胸を撫で下ろす。笑える程の体力はあるみたいだし、付き添わなくても大丈夫そうだ。
「課題もあるし、そろそろ帰るね、明日も会いにくるから」
「はーい! あ、明日は、アイスとか、ケーキとか食べたい! 甘いおかゆじゃなくてね」
えへへと、軽口を叩く玲奈に、しかたないなぁとこぼし、私は部屋から出た。
外は薄暗い。
何時だろうと思い、カバンに触れると、小さな振動が伝わってきた。すぐにスマホからだと気づく。
もしかしてと思い取り出すと、やはり相馬さんからだった。着信画面が表示されている。
すぐに切れたが、数秒してからまたかかってきた。
メッセージもあった。
通知の量がすごいことになっている。
背筋がヒヤリとした。なんだか怖い。
最近の相馬さんは、よく分からない行動が多い。
[[rb:躊躇 > ためら]]いながらも応答すると、切羽詰まったような声で、名前を呼ばれた。
――か、佳代ちゃん……! 良かった、出てくれて……あっ、えっと、ぶ、無事帰れた? ご、ごめんね、俺さ、えっと、ほら、心配で、そう、心配になっちゃって! だから、電話しちゃって……
泣きそうにも聞こえて、別れ際はあんなに楽しそうにしていたのに、何があったんだろうと思った。
「全然問題ないです……。あの、相馬さんこそ、大丈夫ですか?」
――お、俺……? ……うん
歯切れの悪い返事だった。
そろそろ通話を終えたいなと考えていたとき、ふと、ご馳走になったケーキが、頭に浮かんだ。
「あの、相馬さん」
――えっ……! ど、どうしたの?
「もらったって言ってたショートケーキって、どこのお店のか分かりますか? 美味しかったので、また食べたいなと思って」
――ケーキ……あ、あぁ、いちごの……。じゃ、じゃあさ! 一緒に買いに行こう?
「え、そんな……悪いですし、お店の名前だけ教えてくだされば、自分で行きます」
やんわりと断ったが、相馬さんは、気にしないでいいからと粘ってきた。
結局、明日の授業後に、二人で出かけることになった。
待ち合わせは大学近くの公園だ。
翌日の十三時、私はお昼ご飯を食べてから向かった。
入口から斜め前に見えるベンチには、既に相馬さんがいた。何故か座らず、立って深呼吸をしている。
困惑しながらも近づき、名前を呼ぶ。
「わっ! え、あ……か、佳代ちゃん? 」
相馬さんは目線を四方八方に散らし、口角を引きつらせた。
なんだか気まずい。
「……すみませんお待たせしちゃって。えーと、じゃあ、行きましょうか」
私も愛想笑いをしながら進もうとした。けれど、体の向きを変えたとき、後ろから指を掴まれた。
肩がはねる。振り返ると、下唇を噛み締めた相馬さんがいた。
なんで触られているんだろう。
「あの」喋り始めるより先に、上擦った声が聞こえた。
「てっ……あっ……その……手繋ごう?」
「……え」
どうしてだろう。
相馬さんは眉を下げて、[[rb:縋 > すが]]るような視線をおくってきた。
握ってきた手は、[[rb:微 > かす]]かに震えている。
でも、了承して繋いだら、周りに誤解されるのでは? 付き合ったりしてるわけでもないのに。
口をつぐんでいると、相馬さんは急にペラペラと喋りだした。
「ごっ、ごめんね! あ、汗かいてたかな……あ、はは、えっと、い、嫌だったよね、俺なんかと手繋ぐの、や、やっぱり大丈夫だから……うん。だ、だから、お、俺のこと、嫌いにならないでほしいな。……あー、ほ、ほら、早く行こっか!」
「えっ、別にそういうわけでは――」
私が全部を言い終わる前に、相馬さんは早足で歩き始めた。心なしか背中が丸まっている。それを見て、思わず引き止めた。
「腕……組むっていうのはどうですか?」
玲奈がよく、してくるのを思い出して提案した。
けれど、男女でやったら、さらにカップルっぽさが増してしまうのでは? ということに気づいた。
やばいと訂正しようとして、口を開けた。が、「えっ……!ぜ、全然! 嬉しい 」という言葉が、数秒の間もなくに返ってきたので、私は黙るしかなくなった。
すぐに隣にやってきた相馬さんは、私の左腕に両手を絡ませてきた。至近距離に体が[[rb:強 > こわ]]ばる。玲奈との時は全然気にならなかったのに……。相手が違うだけで、こうも変わるのか、と思った。
ふわりと鼻に、爽やかなレモンの匂いが届いた。相馬さんからだ。
香水かな?
これだけの距離だったら、私のもとどいてそうだ。臭いとか思われたらどうしよう。
……というか本当に近い。
何故かこちらをグイグイと押してくるので、体が右に傾いてしまう。
「ちょっと……苦しいです」
「あっ、ご、ごめんね! なんかすごい……うん。あ、いや、なんでもない! えっと、力緩めるね」
ほんの少し離れてくれたおかげで、さっきよりはましになったが、ほぼ変わらない。もういいやとあきらめ、相馬さんに案内されながら、ケーキ屋へ向かった。
目的地につき、顔をあげる。
お店は、白を基調とした建物で、金の看板がついていた。中も同じ配色だ。
入口から数メートル先には、ショーケースが設置されていて、色々な種類のスイーツが陳列されている。
「わぁ……」と声をもらした。どれもおいしそうだ。
右から左へ視線を移す。
私が食べたケーキをみつけ、その横に、いちごがふんだんに使われている別のものがあった。
玲奈用にそれと、私は普通のをたのむことにした。
店員さんに声をかけ、お財布を用意する。
「……二つ食べるの?」
横から、相馬さんが尋ねてきた。
「あ、違います。これはれ――」
「もしかしてっ……俺と一緒に食べるやつ?」
「……え」
冷や汗が流れる。
嬉しいなと言葉にし、勘違いをしている相馬さん。
どうやって誤解をとけばいいのだろうか。高速で頭を動かし、箱詰めが終わる前に、私は「すみません、ケーキ、別々にしてください!」と頼んだ。そして、早口で言葉を紡ぐ。
「た、食べるんじゃなくて、前回のお礼に、相馬さんにケーキお返ししようと思って。ついでに友達のも買って帰ろうかなって思ったんです」
即興で考えた言い訳。
罪悪感から、下を向く。
「……俺のと……友達にも? それって、佳代ちゃんが怪我した原因の女の子だよね、あの日一緒にいた」
「い、一緒にいたのは玲奈ですけど、でも、原因じゃないです。私のせいでもあって」
「違うよ、その女が後先考えず行動したから、怪我させられたんだ、佳代ちゃんのこと邪魔して、やること――」
「そんなふうに言わないでください!」
何も知らないのに。
私がどれだけ、玲奈に救われてきたか。
分からないから、悪く言えるんだ。
感情的になってしまった自分に後悔する。
高まった熱は、だんだんとひいて、冷静になってきた。周りに人もいるのに、声を上げてしまった。
店員さんがこちらを見ている。
ケーキの入った箱を持ったまま、ぽかんと口をあけている。
すみませんと謝罪をし、払おうとした私の手を、相馬さんは遮ってきた。
「これでお願いします」
一瞬よく分からなくなり、眺めていたが、すぐに小声で話しかける。
「な、なんでお金出して……はらいますから」
それでも、私のことなど意に介さず、相馬さんは勝手に会計を済ませ、商品を受け取り、流れるように私の手をとって外に出た。ギュッと握られていて痛い。
一歩二歩と進む。
そよりと風がふいたかと思ったら、突然、抱きしめられた。
「ごっ……ごめん、ごめんね、ついカッとなって、分かってる、分かってるんだけど、なんか、むしゃくしゃして。あ、あのね、俺ね、人の顔が見えないんだ。なんかぼやぼやして、パーツとかは何となくわかるんだけど、よく分かんなくて、佳代ちゃんだけなんだ。ちゃんと見えるの。だから、佳代ちゃんの口から誰かの名前出ると、こう、潰したくなるって言うか。……はは、意味、わかんないよね、俺もわかんない。あぁ……そうだ、ケーキは、全部食べて、俺はいらないから、いちご、好きなんだよね? すごい見てたし……お金……は、気にしないで、許してもらおうと思って買ったわけじゃないから……いや、まぁ、ちょっとあるけど、ってそういうんじゃなくて、か、佳代ちゃんに嫌われたくないから、俺、何とか我慢するから、一番は俺だし、我慢する」
情報量が多すぎて、理解ができない。とりあえず、先程のことを謝ってくれてる、という認識でいいのだろうか。
「……私もすみません、いきなり声上げたりして」
「ううん」
何とか和解をして、ひといきついてから、離れようと腕をつっぱねるが、動いてくれない。
「相馬さん、時間もあれなので、そろそろ私、帰ります」
「あっ……うん。そっか、もうばいばいか」
窮屈だった体は、相馬さんが後ろに下がったことによって解放された。
疲れた。
「じゃあ、ありがとうございました」
「……うん」
微動だにしない相馬さんを気にしつつも、私はその場から去った。
結局奢られてしまった。本当ならちゃんと断るべきなんだろうけど、そんな状況ではなかったし。
もらってばっかで、何か返した方がいいのかな。でも、相馬さんに会いたくない。
とりあえず、後で感謝のメッセージを送ることにして、思考を切り替えた。
そこから数十分後、私は玲奈の家に着いた。インターホンを押すと、昨日とは違い、物音が聞こえる。
次に、バンという衝撃音と一緒に、扉が開いた。
「いらっしゃーい!」
玲奈が現れ、飛びついてくる。あんなにぐったりとしていたのに、驚異の回復力だ。
「お待たせ、ケーキ買ってきたよ」
「やったー!……あ! 高いやつだ!」
「え、知ってるの?」
「好きだった配信者が食べてたの〜、私も食べようと思ってたんだけど、その前に担降りしたから、忘れてたんだぁ」
なるほどと頷く。どこにあったの? と聞かれたので、「バスにのったらすぐ着くよ」と答えた。
「今度一緒に行こうね! あ、そうだ、値段どんくらいだった? 何円あればいいかな」
「あぁ、いいよ、お店、そ……黒金さんに教えてもらって、お金も払ってくれたから、私が買ったわけじゃないの」
玲奈は一瞬ぽかんとしたが、分かった! と言って私の手をひいた。
「じゃあ早く食べよ〜!」
満面の笑みをうかべる玲奈に、私もつられて口角をあげた。
「うんそうだね、食べよっか!」
***
美味しい美味しいと、笑顔で食べる玲奈を見つめた。
私は、手元にあるケーキを数秒眺め、口を開いた。
「私のも食べる?」
「えっ、いいの! でも……なんで? すごい美味しいのに」
少し間を置いてから答える。
「なんか、急にお腹いっぱいになっちゃって」
ケーキを目にしたら相馬さんの姿が思い浮かび、食欲が失せてしまったのだ。
喜びの声をあげる玲奈に渡し、立ち上がる。床に散乱しているバッグのひとつを持ち上げ、「食べ終わったら少し片付けない?」と提案した。
「う〜ん、えー、めんどくさいよぉ、すぐこうなるよ」
「過ごしにくくないの?」
「うん!」
「じゃあ、私がやってもいい?」
頬にクリームをつけたまま頷いてきたので、苦笑してしまう。
玲奈の部屋は別にゴミ屋敷とかの汚さはないのだが、物が多い。
私は片付けの優先順位を決め、最初に、部屋の角にある服を移動させることにした。
両腕で持ち上げる。その瞬間バサリと音がした。
続けて、バサ、バサ、バササと何かが落ちる。布ではないことはすぐにわかった。
違うものが紛れ込んでいたのだろう。正体はなんだと下を向く。
床にあったもの、それはお金だった。一万円の紙だった。数えきれないほどの量。
予想外の結果に喉が鳴る。声が出ない。ゆっくりと振り返り、玲奈を見た。気づいていないのか、二つ目のケーキを食べようとしていた。
私は震える声で玲奈の名前を呼んだ。
「ん〜? なにー」と場にそぐわない返事。
「これ、どうしたの」
尋ねると、玲奈は目を瞬かせた後、答えた。
「それはねー、汚いお金」
驚いた様子もなく、玲奈は再びフォークを動かし始めた。
どういうこと?
意味がわからないので、私は持っていた服を傍に置き、紙幣をじっと観察した。十秒、二十秒と経っても、私は理解出来なかった。お金に、目立ったよごれはない。汚いお金って、なんだ。
頭を悩ませ、最終的に、不正な方法で入手したものなのでは。という結論に至った。
「だ、ダメだよ、盗んだりしちゃ……」
「え? ……ぷっ、あはは、違うよ!」
お腹をかかえて笑いだした玲奈を、じゃあこれは何? という目で見る。
「もー、酷いよ! 私はそんなことしないもん。これはね、汚いお金。 バイトしたり自分で稼いだお金は、普通のお金か、綺麗なお金なんだよ」
説明をしてくれてるのは分かったが、内容が頭に入ってこない。区別なんてあるのか、と質問したくなってくる。
私は傍に落ちている一万円と玲奈を交互に見て、「じゃあ、ぱ、パパ活とかは?」と聞いた。
「……うーん、普通? ホストに行くためには、お金が必要だから稼がなきゃなんだもん。だけど、その汚いお金は絶対使いたくないの、それにパパ活って言っても、赤の他人だし、本当の娘とか関係ないし、自分で稼いだお金だし」
発せられる言葉に違和感があり、口を挟もうとしたら、それよりも先に玲奈が立ち上がった。
「やっぱり片付けなんてつまらないから違うことしよ!」
ね? という圧に、私は小さく頷いた。
最終的に、カードゲームをして残りの時間を過ごした。
早い解散になり、私は今帰路についている。バス停から十分ほど歩いた場所にある家に向かっていると、突然肩を叩かれた。
振り向いて、思わず固まった。
「……よ、良かった。あ、あってた。か、佳代ちゃん」
「そ、相馬さん? なんで」
何度も見た姿。
興奮した様子で、目を合わせてくる。どうしてここに?
不気味で、ひっと、声が出そうになった。
「なんでって……あっ……えっと……、た、たまたま? 用事があってここら辺にきたら、えっと、佳代ちゃんがいて」
視線を散らしながら、理由を述べている。
けれど私は、何一つ信じられそうになかった。だって、ここら辺は、少し田舎っぽいから、お店などはないし、賑わっているわけでもない。用事なんてあるはずない。
何も言えずにいると、相馬さんは名前を呼んできた。
「あのさ、も、もしかして今から帰るの? えっと……それなら、俺送るよ」
少し照れながら腕を伸ばしてくる。叫びそうになったのを耐え、無理やり口角を上げた。
「あ、いえ、ま、まだ帰るつもりなくて」
家を知られちゃダメだと、反射的に思った。
何を考えているのか分からないから怖い。ストーカーみたいだ。
片方の手で、自分の二の腕を掴み、グッと耐えた。とりあえず離れよう。
「前にいただいたケーキのかわりに、ち、ちょっと遠いんですけど、近くのカフェで、私が奢るので、行きませんか?」
震える声を誤魔化すように、勢いよく喋った。相馬さんは、えっ、とつぶやき、「い、行く! もちろん行きたい」と同意して笑った。
私が足を進めると、相馬さんは隣にピッタリとくっついてきた。手を繋いでこようとしたのがわかったので、両手でバッグのハンドルを握った。
徒歩で約二十分。その間に、相馬さんが話しかけてきた。
「えっと、あのさ、佳代ちゃんは、どうしたら嬉しい? ……何が嫌? と、友達のこと、俺が悪く言っちゃったでしょ、い、嫌な気持ちにさせて、もう、会えなくなるのかなって……お、思って、それは嫌だなって」
嬉しいとか、嫌とか、そんなことはいいから関わらないでほしい。だけど、伝えられない。怖い。
「……玲奈に、強くあたったり、しないでください。優しくしてください」
危害を加えられたら困るから。何とか発した言葉に、相馬さんは首を縦に振った。
「わ、わかった。し、しないから、優しくするよ、そしたら、佳代ちゃんは、嫌じゃないんだよね」
黙って頷いた。
そこからカフェにつくまで、相馬さんが喋りかけてくることはなかった。
お店のなかでも、少しだけ会話をしたくらいで、一時間もしないうちに帰ることになった。
私が二人でいるのに耐えられなくなったのだ。
お金を払おうとしたら、いつのまにか相馬さんが財布を持っていたので、阻止した。
外に出てすぐ、相馬さんと別れようとしたら、会った時と同様に、送るといいだした。
大丈夫と断っているのに、引きさがらないので、私は言葉を詰まらせた。
下を向く。急に手首を掴まれたので体がはねた。
「じ、じゃあ、また、またホストクラブでいいからきてよ、夜だったら、学校も終わって、時間合うよね? いつも会えないのは、い、忙しいからだろうし、ね、お願い」
会わないのは、忙しいからではなく単純に会いたくないからなのに。勝手に勘違いをしている。
今家についてこられるよりマシだろうと思い、私は「分かりました」と答えた。喋る隙を与えたら、振り切れないと思い、腕をひきぬいて、後ろを向く。
曲がり角まで早足で進み、その後走った。
背後に、相馬さんの姿はなかった。
数日後、玲奈と授業が被った時に「最近はホストクラブに行ってるの?」と尋ねた。
「うん! え、佳代も行く? 今週も行く予定なんだ〜!」
相変わらずニコニコと楽しそうにしている玲奈を見ていると、気が抜ける。
「あー……えっと迷ってて」
「え! なんで、行こうよ!」
相馬さんとの約束があるけれど、正直行きたくない。けれど、別れた日から催促してくる連絡が絶えない。
それに、また家の近くに来られたりしたら……。
「うーん、じゃあ、私も次の時行こうかな」
玲奈は、やったーと、両手を上げた。
お酒を飲んですぐ帰ればいいだけだろうし、きっと大丈夫だろう。
***
ホストクラブに行く日はすぐにやってきた。
相変わらず治安の悪い道を二人で歩く。
お店につき、中に入り、席へ案内される。椅子に座ってから数秒もしないうちに相馬さんたちはやってきた。
「佳代ちゃん。きてくれたんだ! な、何飲む? お金とかは俺が払うからさ、好きなの頼んでいいよ」
初対面の時と同じくらいの距離感。なのに、気分が悪くなって「御手洗行ってきます」と伝え、立ち上がった。
落ち着けるかなと思っていたトイレにも、高級そうな装飾があり、リフレッシュはできなかった。手を洗って身なりを整えて、そうしてからテーブルに戻った。
すると、人の配置が変わっていた。どういう経緯でそうなったのかは分からないが、相馬さんと玲奈が喋っている。春樹さんはいないみたいだ。
ソファの端に座ると、私に気づいた相馬さんは、チラチラとこちらに目を向けた。けれど、玲奈とは喋り続けたままだった。
玲奈は笑っているし、楽しそう。私はひとりになれるし、正直助かった。
数分くらいして、相馬さんが私に声をかけてきた。でも、タイミングよく誰かが私の隣に座った。
「あ、えーと、佳代ちゃん? だっけ、黒金さんから聞いてます! いやぁごめんね、俺が席外してたせいで。喉乾いたりしてたでしょ〜、今ちょっと忙しくてさ」
歯を見せて笑い、話しかけできたのは、春樹さんだった。
大丈夫ですと答えれば、ありがとう!と元気よくお礼を言われた。ほんのちょっとだけ玲奈と似ていて、肩の力が抜ける。
「玲奈ちゃんお待たせ〜! ……あれ、黒金さんどうしたんですか?」
玲奈たちの方を向く。
「……いや、別に」と言った相馬さんの目が一瞬、春樹さんを睨んでるように見えたが、多分気のせいだろう。私に喋りかけてきた時には、いつもの顔だったから。
「佳代ちゃん。お、俺、さっき喋ってた時、悪口とか言ってないからね。ちゃんと楽しくしたつもりだし……、み、見てたよね?」
聞いてもないのに、相馬さんはグイグイと近づきながら説明してくる。私は曖昧に頷いた。
終わりまで、話が途切れることはなかった。それが逆に苦痛だった。
会計が終わり、出入口に向かっている時、相馬さんが次の予定を決めようとしてきたので、適当な理由を作り、玲奈を連れて店からでた。
玲奈とは途中でわかれ、私はそのまま家に向かった。
それから一週間後、休日の夜、家にいたら、インターホンが鳴った。ドアスコープを除けば、見知った桃色の髪に、フリルの付いた洋服。玲奈だと気づき、私は扉を開けた。
「どうしたの、こんなじかん……」
口を閉じる。
目に涙をためて、嗚咽を漏らす玲奈が居たから。
「ひっ……ひぐっ……は、春樹ぐんが、も、もぅ、か、かがわらないっで……な、なんか、お前らにかがわるど、ろ、ろぐなこどがないがらって……」
声を上げて泣き始めたので、私は慌てて腕を引っ張った。ティッシュを取りに行き、玲奈に渡す。
「落ち着いて、とりあえずこれで拭きな」
玲奈は鼻を啜りながら、うん、と首を振った。
手を引き、リビングに連れていく。机の近くに座らせてから、私はお湯を沸かしに台所へ向かった。
ココアを作り、玲奈用に持っていく。
「……それで、何があったの」
こっぷを渡して尋ねると、玲奈は小さな声で喋りだした。
「な、なんか……この前、佳代と一緒に行った時は普通だったのに、今日会いに行ったら、急に……なんか、もうかかわんないでって、言ってきて」
「急に?」
「……うん」
ちびちびとココアをすすっている玲奈。私は隣に腰を下ろし、「本性が分かって良かったって思おう……。ホストクラブがある場所も、夜だと危ないし、もう、行かない方がいいんじゃないかな。玲奈にはちゃんと好きになった人と、幸せになってほしい」と言った。
数秒の沈黙が流れる。先に口を開いたのは玲奈だった。
「うん。払い終わってないお金だけ返しに行ったら、これからは行かない。ねぇ佳代……好きって何?」
突然の質問に、頭が混乱した。
好きなんて、私も分からない。でも、何かを言わなければ。
「なんだろうね……。楽しいとか幸せとか思ったら、好きなんじゃないかな。人でも物でも。あんまりわかんないけど、でも、私は玲奈のこと好きだよ」
視線を向ければ、玲奈は私の顔を見て固まっていた。そして直ぐに、泣いてるのか笑ってるのか分からない表情で抱きついてきた。
危なっかしくて、目が離せない玲奈。
これからもずっと親友でいたい。そう思いながら、私も抱きしめ返した。
***
「お、お母さん。……えっとね、き、今日テストがあったんだ。それでね――」
「佳代! 今お母さん忙しいの分からない? そんなこと報告してくる暇があったらさっさと宿題やりなさい!」
つり上がった眉。への字の口。眉間によったシワ。
お母さんはいつもこの顔をしていた。忙しい、忙しい、忙しいと常に喋っている。
看護師のお母さんと、出張が多いお父さんが家にいることは少なかった。三人でどこかに出かけた記憶はない。自分のことは全部自分でやらなきゃいけなかったから、あゆみに書いてある先生からの評価には、真面目で責任感の強い子、なんてふうにかかれていた。
弱みを見せちゃダメだと言われていたから、なんでもできるふうに装っていた。本当は、お母さんのご飯が食べたかったし、もっといっぱい喋りたかった。
「そんな泣き虫な子は、私の子じゃありません。わがままもいい加減にして! 」
小学校六年生の時、友達のいなかった私は、学校に行くのが辛くなって、一度だけ休みたいと、お母さんに伝えた。
クラスの子が、「うちのママは優しくて、休みたいって言ったらそういう日もあるよね、気分展開にお出かけしよっか! って、言ってくれるんだよ〜!」と話していたのを私は聞いていた。だから、もしかしたらお母さんもそう言ってくれるんじゃないか、なんて、思ってしまったのだ。
結局、学校には行くことになった。
中学生になっても、相変わらず私はひとりだった。自分の存在意義が分からなくて、人から嫌われたくなくて、少しでも誰かの役にたとうと思った。だから、とにかく人助けをした。困っている人がいたら、声をかけるようにした。でも、みんな曖昧に笑って離れていった。
中学二年生の夏。転校生がやってきた。
第一印象は派手な子だな、という感じで、一生関わらないだろうと思っていた。
国語のグループ発表で、私含め五人でのチームになった。
話し合いの時、隣の女の子が、筆箱を漁っているのに気づき、机の上のシャーペンと、書きかけの紙を見て、消しゴムを忘れたんだとわかった。
「良かったら、これ使って」
そう言って持っていた新しい消しゴムを渡せば、女の子はポカンとしたあと、苦笑いをした。
「……え、あ、ありがとうー。でもこれ新品だしさ、別にいいよ。……なんか前から思ってたんだけどさ、佳代ちゃんって、全部自分でやろうとしたり、何考えてるかわかんないよね。急に現れたりして、ずっと誰かのこと見てるの、ちょっと変……というかきもちわるい、かも……」
女の子は、近くの子とすぐに会話を始めた。私は動けなかった。手に持っていた消しゴムが、やけに重く感じた。
そっか、私は変なんだ。だからみんないつも、私が喋りかけるとよくわからない顔をするんだ。
奥歯を噛み締める。指先の震えは、力をいれて誤魔化した。
「私今日鉛筆とか全部忘れちゃって、貸してほしい!」
元気な声だった。顔を上げれば、転校生がいた。びっくりして固まっている私を気にせず、続けて話しかけてくる。
「あ、私はね〜、玲奈って言うんだー、なんて名前?」
「し、清水佳代」
「じゃあ佳代ね! よろしくね!」
今思えば、あの時玲奈は、私に気を使ってくれていたんだと思う。
それから、次の日も、その次の日も、玲奈は私に話しかけてきた。嫌な顔なんてしなくて、ずっとにこにこしている玲奈といるのは楽だった。私から声をかけることも増え、家族といるより、玲奈といる時間の方が長くなった。
しばらくしてから、「友達になってほしい」と私は玲奈に頼んだ。玲奈は目を丸くした。
「 え! 私はもう、友達だと思ってたよ」
「……え」
「だって、いつも一緒だし!」
友達だと思ってた。その言葉に、目頭が熱くなった。
「そっか、うん……そっか、確かに」
顔を背ける。喉から声が漏れそうになり、グッと口を閉じた。
「どうしたの? ……え、泣いてる? もしかして嫌だったの! 私と友達なの、えっと……えーと」
「ち、違うの……違う。私、今まで友達いたことなかったから、これからもずっと、ずっとひとりなんだって思ってたから」
「そうなの? でも私、佳代くらい優しい人今までみたことないよ。あ、じゃあ、私が友達第一号ね! それでー、親友になろう! 親友第一号!」
「ふふっ……なにそれ」
水が頬をつたって地面に落ちる。
笑い合う私たちの間に、暖かい風が通り過ぎた気がした。
***
玲奈が夜中にやってきた日から、数週間が経った。
学校には来ていない。春樹さんの事件がショックだったのだろう。今までも休むことはあったが、私が何を言ってもほぼ意味がなかったので、様子を見るだけにしている。
それとは別で、私は相馬さんからの連絡に困っていた。
数分単位でメッセージが届くのだ。通知はオフにしたけれど、表示が邪魔でうんざりしていた。
休み時間にアプリを開いたら、固定している玲奈の下に、相馬さんの名前が表示されていた。玲奈ももう、ホストクラブに行くこともないだろうから、ブロックしようかなと指を動かす。
――大事な話があるんだ。
たった今送られてきた言葉に、意識が向けられる。
――伝えたいことがあって
伝えたいこと? もしかして玲奈関連のことかな、そう思って既読をつける。すぐに電話がかかってきた。私は画面をタップして出た。
――あ、か、佳代ちゃん!
「えっと、大事な話ってなんですか? 玲奈の話ですか?」
――え、ち、違うよ。そうじゃなくて
「あの、違うなら、私もう切りますね」
――ま、待って! お願い。週末に、日曜日に、俺の家に来て欲しい。な、何もしないから、それに、もうホストクラブこなくていいから、大丈夫になるから
でもと言い淀むと、相馬さんは、鼓膜が破れそうなくらいの声量でお願いしてきた。
「じゃあ、これから……連絡も、しないでもらいたいです」
――えっ、あっ、え、あ、わ、分かった。なるべく……しない。だから、日曜日、来てほしい
何の用事だろう。疑いは膨らんでいくが、何もしないと言っていたし、連絡もなくなるなら、いいだろうと思った。これで最後にしよう。
「分かりました」
――あ、ありがとう! 待ってるから、十二時頃、お昼に、来てほしい
私は再び同意した。相馬さんは、嬉しい、ありがとうと何度も呟いていた。構わず、「また日曜日に」と言って、通話を終わらせた。
相馬さんとの約束の日はすぐにやってきた。
相変わらず高級そうなマンションだなと、息を呑む。前回来たこともあり、今回はスムーズに部屋までたどりつけた。
インターホンを押すと、すぐに扉が開いた。出てきた相馬さんの姿に、口があく。キチッとしたスーツと、いつもより整えられた髪。血色の良い肌。普段もかっこいいけれど、今日はいちだんと輝いていた。
動けずにいる私を、相馬さんは「佳代ちゃん、いらっしゃい」と言って、中に招いてきた。
正気に戻った私は、一体何があるんだろうと、足を踏み入れた。
「げ、玄関にね、花を置いてみたんだ。……佳代ちゃんは、好き?」
「……はい、良いと思います」
「そうだよね!」
口元を緩ませながら、何故か新しくなった部分を紹介してくる。適当に返事をしながら前へ進んだ。暗いリビングに足を踏み入れた瞬間、パッと電気がついた。一番最初に目に入ってきたのは、机の上にある、いちごのケーキだった。次に、二人がけのソファ。そして最後に、床に置いてある謎の包み。全部見覚えはない。
これはなんだと、理解するため、頭を動かしていた時、相馬さんが説明を始めた。
「こ、これはね、二人で食べようと思って買ったケーキだよ。ホールで買っちゃって、今日で食べきれないかもだけど、明日とか食べよう? あ、お腹すいてるよね、ご飯も用意してるから、先にそっちでもいいよ。あと、マグカップも二つ買ったんだ。そ、それでね、ソファ。やっぱり、あった方がいいかなって、疲れた時、ここで休めるように。あと、あとね、洋服とか、小物とか、化粧水とかも、買ったんだよ」
ペラペラと喋っているが、私の耳には全然入ってこない。何のためにこれを私に見せるの?
「そ、相馬さん。これ、どうして、私に見せたんですか? 」
「え、あっ、いっぱいいっぱいでちゃんと言ってなかった。ご、ごめんね。あ、あのね、付き合って結構経ったでしょ? だから同棲したいなって、思って、俺色々用意したんだ。佳代ちゃんはなかなか店にこられないし、店だと、お金使わせちゃうみたいでいやだし、でも忙しいから、メールも返事できなかったり、デートもできなかったり、すれ違ってるなって思ったから、一緒に暮らせば、問題ないでしょ?」
全身の体温が一瞬でなくなった。相馬さんはなんの話をしているの? 同棲 ? デート? 身に覚えがない。
「あの……付き合ってるって……誰と、誰がですか?」
「え? 佳代ちゃんと俺だよ。急にどうしたの」
付き合うなんて、私はひとことも言っていない。なのに何故、相馬さんは思い込んでいるのか。
「あ、それでね……えっと、大事な話っていうのは、えっと」
相馬さんは、突然私の手を取った。私が震えていることに気づかないまま、ポケットから何かを取り出している。
「ちゃんとしたのは、二人で選びたいからさ、こ、これは婚約指輪なんだけど……。佳代ちゃん、俺と結婚してください! 」
冷たい感触が指に触れる。何とか視線を手元に向けた。そして、湧き出た嫌悪感と一緒に、はまった指輪を引き抜いた。滑り落ち、コン、コンと無機質な音が響く。
それを拾うことなんてできず、じっとみつめた。
「か、佳代ちゃん? い、嫌だった? ご、ごめんね。もっと可愛くて高いのにすれば良かったかな……ごめんね、買い直すから」
「……じゃなくて」
「え?」
「そうじゃなくて……付き合ってるって、どういうことですか? わ、私に、恋人はいません」
シンと、沈黙が流れる。視線をキョロキョロと、下に向けて動かす。小物などが入っているであろう包みのそばに、色違いのスリッパや、ハートの付いたクッションまであって、鳥肌がたった。
体が押される。相馬さんが私の両腕を掴んできた。
「い、いないって、どういうこと? お、俺と付き合ってるでしょ」
「つ、付き合ってないです」
「なんで? なんでそんなこと言うの? 恋人同士でしょ? 嘘つかないでよ!」
「ついてないです。は、離してください……」
「好きって! 言っただろ!」
怒鳴られて、喋るのを辞めた。相馬さんは下を向いて何かをぶつぶつと呟いたあと、私の目を見てきた。
「お、俺、俺の、俺の事、好きって言ったでしょ? 私も好きですって言った……。言ったじゃん。ねぇ」
「そ、相馬さんは、ホストですよね。好きって、誰にでも言うんでしょう? もし本気の好きだって言うなら、う、受け取れません……ごめんなさい。私は相馬さんのこと、好きじゃないです」
言い切ると、相馬さんの顔から、表情が抜け落ちた。
「は、はは……そ、そっか、じ、じゃあさ、あれ、嘘だったんだ。そっか……」
私の服の袖を掴んだまま、相馬さんが床に崩れ落ちる。膝をついて、お腹に顔を埋めてくる。
距離を取ろうとして後ずさったら、鼻をすする音が聞こえてきた。
「っ……いやだ、いやだよ、ねぇ、いやだ! お、俺、つぎあいだい。がよちゃんと、恋人になりだい。お、俺ね、俺、おれざ、ず、すぎになっだのはじめでなんだよ? は、はづごいなんだ。が、かよちゃんが」
うっ、ひっぐと、泣きながら喋っている。水滴が染み込んできて冷たい。私は小さな声で、「……無理です。ごめんなさい」と答えた。
「お、俺が、俺がさ、女の子になって、顔がえて、名前もがえて、そしだら……そうしだら、す、好きになってくれる? ど、どうしだら、いい……? ね、ねぇ……い、嫌だよ、お、おれ、嫌だ、いやだ……す、好きじゃなくていい、いいからさ、だ、だから、おれのそばにいて? ね、お願い。好きなんだ、大好き、愛してるんだよ……!い、嫌だっ……うっ……」
ぎゅっと、腰に腕を回してくる。きつくきつく、抱きしめられる。
何も言えなくて、黙って相馬さんの腕を引き剥がした。
ボロボロの顔に、ぐしゃぐしゃの髪。服もヨレヨレになっていて、でも、私は見ないふりをして、後ろを向いた。
早く帰ろう。そう思って玄関に向かおうとしたら、すごい勢いで背後から引っ張られた。次の瞬間、ガチリと、歯がなにかにぶつかった。
「……ふっ……ん!」
吸えなくなった息、口内に入り込んできた異物に、体が震えた。
「んっ……ちゅ……ん……んん」
異を唱えようとしても、隙を与えてくれない。水音が響いている。
舌を吸われ、唾液が混ざり会う。
気持ち悪くて気持ち悪くて、私は片手を、相馬さんの頬に叩きつけた。
相馬さんは力を緩め、唖然とした顔で、へたりこんだ。私は上から睨みつけ、襲われた拍子に落ちたバッグを掴み、家から逃げ出した。
そして、ひたすら走った。
唇を何度もこする。
早く忘れたい。
何も考えたくない。
***
一ヶ月が経った。
相馬さんとは連絡することも、会うこともしていない。
急にあの時の記憶がフラッシュバッグするので、授業にも集中出来ずにいた。
「――よ、佳代〜、どうしたの? 大丈夫?」
「……あ、うん。大丈夫」
理由は分からないが、数週間前から玲奈は元気を取り戻して、学校に来るようになった。
「それより玲奈、何かあった? 楽しそうな顔してる」
「あ、やっぱり分かる? 実はね〜、最近幸せなんだぁ。佳代が言ってた通り、好きな人ができたから!」
「そうなの?」
「うん! ずっと嫌だなって思ってたことをね、受け入れてもらえたんだぁ」
嫌だと思っていたこと、とはなんだろう。玲奈の発言で聞きたいところがあったが、楽しそうにしているところに、水をさすわけにはいかない。
良かったねと、私は返事をした。
「あ、佳代にも紹介してあげる! 今日の放課後カフェ行こう!」
「いいけど……そんな急に大丈夫なの?」
「うん! 大丈夫!」
それならと承諾し、授業終わりに近くのお店に行くことになった。
玲奈と二人で向かい合って座り、会話をする。頼んだ飲み物が半分くらいの量になった時、玲奈が突然立ち上がった。
「え、玲奈?」
「お店着いたって、迎えいってくる!」
小走りで離れていく背中をながめる。玲奈には、今度こそ幸せになってほしい。
ストローで、氷をかき混ぜていると、足音が近づいてきた。ピタリと横で止まったので、私は顔を上げた。
「おかえり――」
「じゃーん、黒金さんです! 私の彼氏なんだ!」
予想外の人物に、グラスを持つ手に力がこもる。
喉が瞬く間にカラカラになった。
「……なんで、そ……黒金さんが、ここにいるんですか。どこで、どこで玲奈とあったんですか」
穏やかな顔をしている相馬さんは、喋らない。変わりに隣の玲奈が口を開いた。
「ホストクラブに払わないといけないお金が残っててね、それを払いに行ったら、相馬さんに話しかけられたんだー! それでね、仲良くなって〜、付き合うことになったの」
そうなんですか? と、相馬さんに尋ねても、頷きもしない。
ガシャンと大きな音をたてて、私の持っていたグラスが倒れた。
玲奈は「えっ、どうしたの佳代! 珍しい! ふきん持ってくるね!」と言って、その場を離れた。
残った私と相馬さん。
「どういうことなんですか……玲奈と付き合ってるって」
相馬さんは私の顔を見下ろしながら、ははと、笑った。
「ホストだから、営業で好きって言ったら、付き合ってると思っちゃったみたい」
「なっ……」
唇を噛む。言い返そうとしたら、相馬さんが先に話し始めた。
「なんであんなにバカなのに、佳代ちゃんと同じ大学に入ってるんだろうと思ってたんだ。ずっとおかしいなって……。お酒たくさん飲ませて酔わせたら、ペラペラ喋りだしたよ。あの女の父親は偉いとこの人みたいで、あの女。あ〜、玲奈? のことが好きなんだって。血が繋がった娘なのに。だから母親と父親の仲は最悪。母親からは嫌われて、父親からは気持ち悪い感情を向けられて、でも、金はあったから、行きたい場所にいけて、生活に不自由はなかったんだって。だから、ちゃんとした愛に飢えてるだろうなって思って、欲しいだろうなって言葉かけたら、コロッと落ちたんだよね」
初めて聞いた玲奈の過去。何があって、何が辛いかなんて、私にひとことも言ってこなかった。
いつもにこにこして、元気で。
「もしかして……知らなかった? あの女の生い立ち。親友って言ってたのにね、所詮その程度なんだ」
頭に血が上って、殴りそうになった。けれど、後ろに見えた玲奈の姿に、腕を下ろした。
「なんか全然なくて、やっと見つけたから、たくさん持ってきた!」
戻ってきた玲奈は両手にふきんを持ち、こぼれた飲み物を拭き始める。
私も一緒に拭いていると、「なんか、佳代変だよ、どうしたの?」と顔を覗き込まれた。なんでもないよと、誤魔化す。
「あ、飲むものなくなっちゃったからショックなの? 頼む? えーと、ジャスミン茶とか?」
メニュー表を掴み、指をさしてくる。いらないと断ろうとしたら、相馬さんが口を挟んできた。
「……佳代ちゃんはいちごジュースがいいんじゃない? いちご、好きなんでしょ?」
「ちがっ――」
「佳代は甘いの普通? くらいだからあんま飲まないの。いちごは私が好きなんだ! あ、黒金さん今度いちごケーキ食べに行こう!」
否定しようとしたら、玲奈が訂正して、提案をした。相馬さんは、それを無視して、私の顔を見てきた。
「……佳代ちゃんは、何が好きなの」
私は押し黙る。玲奈は違和感に気づかず、「佳代はねー、カルボナーラが好きなんだ! 私の作ったやつ」と呑気に答えている。
玲奈、と名前を呼ぼうとした時、相馬さんが玲奈の服に触れた。
「シミ、できちゃってるから、落としてきた方がいいんじゃないかな」
「あっ、ほんとだ! お気に入りなのに〜。気づかなかった。黒金さんありがとう!」
トイレに向かう玲奈。追いかけようと腰を上げたら、正面に相馬さんが座ってきた。
「ねぇ佳代ちゃん」
今まで聞いたことのない、低い声だった。背筋が凍る。嫌な汗が、首を流れる。
「佳代ちゃんは俺にホントのことひとつも言ってくれなかったんだね」
口は笑っているのに、目は笑っていない。逃げなきゃ、玲奈を連れて早く。
席から立った私の左腕が掴まれる。掴んできた犯人が相馬さんなのは、見なくても分かった。振りほどこうと体に力を込めたら、耳に声が届いた。
「俺ね、あの女のこと大嫌いなんだ。だから、酷いこと、いくらでもできるんだよね」
足が縫いとめられる。
はっはっと、断続的に息がこぼれる。振り返れなくて、逃げることもできなくて、石像のように固まった。
ズキリ。
刺したような痛み。
得体の知れない衝撃が左手からした。引っ張られた方の腕を見ると、相馬さんの顔が視界に映った。
そこから下に辿って見ると、私の薬指に、見慣れない歯型があった。
血が滲んで赤くなっている。
あの日、相馬さんの家ではめられた指輪を思い出す。
「佳代ちゃん」
甘く蕩けるような声で名前を呼ばれた。
「俺と結婚して」
そう告げてきた男の顔は、ゾッとするほど綺麗だった。
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