第9話 彩女
悠希が帰宅してから、およそ一時間後。
時刻はすでに夜十時を回っていた。
インターホンの音が鳴り、エントランスを通すと、エレベーターから降りてきた人物がドタドタと慌ただしい足音を響かせながら近づいてくる。
「――陽依っ! 大丈夫なの!?」
ドアを開けた瞬間、心配そうな顔でそう叫んだのは――
「大丈夫だよ、彩女」
「それで……その相沢ってやつは?」
「さっき帰った」
「そ、そう……」
「入って」
「……わかったわ」
胸を撫で下ろし、ようやく安堵の色を見せたのは、紫藤彩女。
陽依が唯一、心を許している友人だった。
腰まで届く金色のツインテール。どこか外国風にも見える整った顔立ち。活発さと華やかさを兼ね備えたその存在は、まさに陽依の隣にふさわしい少女だった。
「え……えっ!?」
リビングに足を踏み入れた瞬間、彩女は目を見開いた。
そこに広がっていたのは――いつも物で溢れかえっていたはずの部屋が、驚くほど綺麗に片付けられた光景だったからだ。
「相沢が……片付けてくれた」
「ちょっと! 下着とかはどうしたのよ!?」
「最初の日だけ……見られた」
「な、何やってるのよ、もうっ!」
呆れ顔でため息を吐きつつ、陽依の頭を軽く小突く彩女。
(男なんて絶対に家に入れなかった陽依が……どうして。相沢ってやつ、本当に信用できるの……?)
中学からずっと陽依の傍にいた彩女だからこそ、強い警戒心が芽生えていた。
容姿のお陰で人付き合いが広く見える陽依だが、プライベートで遊んだのは彩女ただ一人。だからこそ彼女は、陽依の事情も心もよく理解している。
「彩女、仕事終わりだったの?」
「そうよ。明日の仕込みがあったからね。――とりあえず、お風呂に入るわよ」
「……うん」
――ポチャン、と天井の結露が浴槽に落ちる。
広々とした豪華な浴室の湯船に、二人は肩を並べて浸かっていた。
「ねえ、本当に襲われたりしてないの? 男をいきなり家に上げるなんて正気じゃないわよ。内容によっては、私……陽依を本気で叱らなきゃいけない」
「……大丈夫。相沢、とっても優しい。今日は……ママに太ってるって怒られたから……辛くなって、呼んじゃったの」
「心乃枝さんに……? まあ陽依が落ち込んでたのはわかったけど、そもそもどうやって家に呼ぶことになったのか説明して」
陽依は、悠希との出会いをぽつりぽつりと話しはじめた。
ユーバーミーツの配達で偶然来たこと。惨状の部屋を見られたこと。秘密を守ってもらうために指名依頼したこと――。
「……なるほど。そういう流れだったのね。だけど、それでも家に入れるのはダメよ」
「でも……そのまま逃げられたら、バラされちゃうかもしれないから」
「確かに昼休みの大食いを見られたら、イメージは崩れちゃうかも。でも、普段の見た目は痩せてるんだし、気にしない人も多いと思うんだけど」
「ママが……SNSで拡散されたらどうするのって……」
「それはそうよね。陽依はクールで洗練されたモデルってイメージで売ってるもの。大食いしてるなんて広まったら……確かにズレちゃうかも」
食べることだけはやめられない。
それ以外は、モデルとして、母親のために全てを律している。
そして、その裏で彼女の心を支えてきたのは――ほかでもない彩女だった。
「いつもお昼に大量の食べ物、持って行くの大変なんだからね」
「……相沢にも、協力してもらえないかな」
「ちょっと! 頼りすぎ! まだ信用しちゃダメだから。私が見極めるまでは、パーソナルスペースは絶対守って」
「どれくらい?」
「五メートル!」
「今日、相沢に抱きついた」
「な、なんですってぇぇ!?」
彩女は頭を抱え、浴槽の縁に突っ伏した。
せっかく釘を刺したのに、既にゼロ距離まで詰められているなんて。
「あのね、男子は獣なの! いつ襲われてもおかしくないんだから!」
「相沢……パンツ見たとき、ちょっと興奮してたかも」
「やっぱりじゃないの!!」
『パンツパンツパンツパンツ……ぐへへぐへへぐへへぐへへ……』
彩女は知らない男子が陽依のパンツを握りしめてニヤけている想像をした。
「危険よ! やっぱり私が、その相沢って男を直接見極めなきゃダメだわ!」
勢いよく立ち上がり、びしっとガッツポーズを決める彩女。
全く危機感のない陽依を野獣の魔の手から守るために――。
お風呂を出ると、彩女は陽依の髪を丁寧にドライヤーで乾かし、そのまま一緒にベッドへ。
散らかっていた寝室の床の衣類を端に寄せ、クイーンサイズのベッドに二人で並んで横になった。
「今日は……触らないの? いつもは私のおっぱい、触ってたのに」
「きょ、今日は真剣な話してたから……そういう気分じゃなかったの」
「触りたいなら、いいよ」
「むぐっ……」
陽依が胸を寄せて彩女の顔を包みこむ。
「ああ〜癒やされる……陽依って細いけど背が高いから、こうして抱きしめられると安心するんだよね」
「私も……彩女は温かくて、心地いい」
その夜、陽依は彩女と寄り添うことで寂しさを忘れることができた。
けれど――なぜだろう。心の奥では、彼女ではなく悠希にそばにいてほしかった。
彼の前だと、なぜか素直に自分をさらけ出せて、穏やかな気持ちになれるから。
「すー……すー……」
しばらくすると隣で寝息を立てはじめた彩女の温もりを感じながら、陽依はふとつぶやく。
「……相沢に抱きしめられたら、彩女みたいに……安心できるのかな」




