第7話 逃げた理由
「――陽依ちゃーん。はーい、こっち向いてー!」
真っ白なホリゾントの前で、パシャパシャと軽快なシャッター音が響く。
カメラマンの声に合わせて、陽依は淡々とポーズを変えていく。
すでに数年、モデルとして活動してきた彼女にとって、こうした撮影は日常であり、呼吸をするのと同じくらい自然なものだった。
それでも――陽依の表情は、どこか無機質だ。
儚げな美しさを纏いながらも、どこか氷のように冷たい雰囲気を放っていた。その凛としたクールさこそ、多くの人に長く支持されてきた理由だった。
「陽依ちゃん、今日の雰囲気もバッチリですねー!」
声をかけたのは雑誌編集者。手に書類を抱えながら、撮影の様子を見守っている。
一方、その隣に立つセットアップコーデの女性は――厳しい目つきで陽依を見つめていた。サングラスの奥に覗く視線は、氷よりも冷ややかだ。
「……先月よりキレが悪いわね」
「そ、そうですか……?」
「やっぱりあの子、太ってる……」
「私には変わっていないように見えますが……」
モデルにとって体型管理は絶対条件。
服を最高に美しく見せるために必要不可欠なことだ。
サングラスの女性の言葉は刃のように鋭かった。
「はい、撮影終了! お疲れさまでしたー!」
スタッフの声が響くと、撮影現場は一気に緊張から解放される。
陽依はその瞬間、小走りで駆け出した。向かう先は――一人の女性のもと。
「ママ……今日の撮影、どうだっ――」
パシンッ!
乾いた音がスタジオに響いた。
頬を押さえ、呆然と立ち尽くす陽依。その手を振り下ろしたのは、サングラスの女性――彼女は陽依の母であり、自身のブランドも持つ有名デザイナーの雪代心乃枝だった。
「――あなた、本気でモデルをする気があるの?」
「あ、ある……」
「だとしたら、その体型は何? 明らかに先月より太っているじゃない」
「あ……う……」
「心乃枝さん、さすがに……」
「黙っていて。これは親子の問題よ」
編集者が慌てて仲裁に入ろうとしたが、心乃枝の冷たい声に遮られる。
陽依の瞳に涙がにじみ、頬は赤く腫れはじめていた。
「私のブランドでモデルを続けたいなら、それ相応の覚悟を見せなさい。別にあなたでなくてもいいのよ。――――今日はもう帰るわ」
「え……あの……このあと焼き肉に、行くって……」
「そんな体型で行けるわけないでしょう」
「ママ……ママ――」
娘のか細い声を振り切るように、心乃枝は背を向けてスタジオを後にする。
その場に残された陽依の顔に、深い影が落ちた。スタッフが慌てて駆け寄り、彼女を慰めるが、どこか空回りするばかりだった。
やがて陽依は、カバンからスマホを取り出した。
指先が迷いなく開いたアプリ――『ユーバーミーツ』。
そこに映ったのは、食べ物の注文画面。そして指名依頼のボタンで――。
◇◇◇
「ふぅ……そろそろ終わりかな」
放課後のアルバイト。配達を終え、自転車を停めてヘルメットを外すと、汗ばんだ額をタオルで拭った。
空はすっかり闇色に染まり、街の明かりがぽつぽつと瞬いている。
今日の仕事もこれでおしまい――そう思っていた矢先。
ピコン、と通知音。
「……え、なんで? 今日は呼ばないって話だったのに……」
配達員専用アプリに表示されたのは、俺への指名依頼。
送り主の住所を見て、思わず声が漏れる。それは雪代陽依の家だった。
「どういうことだ……?」
さらに目を引いたのは、報酬額。四千円。
普通ならパーティーや会社のまとめ注文でしか見ないような高額。
だが、注文主が雪代さん一人だとすれば――とんでもない量になる。
「仕方ない……行くか」
再び自転車を漕ぎ出し店舗に向かい、受け取った商品をバッグに詰め込む。
だが――
「ぐっ……お、重っ……」
背負った瞬間、腰が悲鳴を上げた。バッグはぎゅうぎゅう詰め。立っているだけで息が上がりそうだ。
それでもなんとかマンションに辿り着き、エレベーターで部屋の前まで上がる。
そうしてインターホンを押すと――
「あ、いざわ……っ」
「――うわっ!?」
ドアの向こうに現れたのは、いつもの無表情な雪代さんではなかった。
大人びたメイクに、上質な生地のワンピース、繊細に輝くアクセサリー。まるで雑誌から抜け出してきたような洗練された装いだ。
だが、その完璧な姿に似合わぬ涙が頬を伝い落ち、次の瞬間――彼女は俺の胸に飛び込んできた。
「あ、ちょ……っ」
柔らかい感触が胸に押し当てられる。ふわりと香る甘い香水。
それなのに、彼女の体は小刻みに震え、涙が止まらない。
「ゆ、雪代さん? どうしたの? 俺、汗臭いから……」
「う……うぅ……」
返事の代わりに、さらにしがみついてきた。
理由は分からない。けれど、ただ事ではないことだけは伝わってくる。
「と、とにかく中に入ろう。荷物もあるし……入るよ?」
「……ううう……」
曖昧な声を返す雪代さんを抱きかかえるようにして、なんとかリビングへ。
ソファに腰を下ろすも、彼女は俺の胸元から離れようとしなかった。
「あの……そろそろ……?」
促しても、やはり首を振る気配はなかった。
普段なら喜ぶべき状況なのに、胸の奥が妙にざわつく。
これは嬉しさではなく、彼女の悲しみの重さが伝わってきてしまうからだ。
いつもならすぐに食べはじめるはずの料理も、目の前に置かれたまま手つかず。
――何があったのか。
その答えはわからない。けれど俺は、静かに語りかけた。
「……そのままでいいから、ちょっと聞いてくれる?」
小さく頷く気配がした。
だから俺は、自分のことを話しはじめた。
「俺さ――実は一人暮らしをはじめたのって、家が嫌だったからなんだ。いや、正確には家というより、親父……かな」
家を出てから、もう一ヶ月は経った。
自由な暮らしを手に入れて、それなりに満喫しているつもりだが、全てが理想通りかといえば――正直、そうでもない。
「家業がさ、日本料理を出してる料亭なんだ。俺、小さい頃からずっとそこで料理の手伝いをしてた」
店は古くから続く老舗。何度か改築を繰り返し、今の形になったが、昔から通ってくれる馴染みの客も多く、歴史ある場所だ。
「親父はその三代目でさ……とにかく厳しい人なんだ。代々、男が継いできた家だから、俺もいつか親方って呼ばれるんだって、小さい頃は本気でそう夢見てたんだよ」
三代にわたって続いた暖簾。
子供がそれに憧れるなんて、ある意味自然なことだ。
「でも、中学生くらいからかな。親父の厳しさに拍車がかかって……気づいたら、周りについていけてない自分がいた」
サボったわけじゃない。手を抜いた覚えなんて一度もない。
たしかにテスト勉強の前は手伝いを減らすことはあったけど、それだって仕方のないことだし、普段は真面目にやっていた。
「調理場にいるのは親父と俺だけじゃない。他にも何人も料理人がいて、修行に来てる人もいた。小さい頃は許されていた失敗も、年齢を重ねるにつれて、もう許されなくなった」
あの頃、何をしても子供だからで済まされた。
でも、体が大きくなるにつれて、もう同じようには扱ってもらえなくなった。
毎日叱られるばかりで、家にいても、親父がそこにいるだけで空気が重くなる。
部屋に籠もるのが習慣になったのも、その頃からだった。
「中学三年の時かな。あれは多分、できない自分を正当化したかったんだと思う。親父に言っちゃったんだよ。『古い日本料理に固執してちゃ、時代についていけない。このままじゃ客は減る一方だ』……なんて」
あれは勢いだった。怒られてばかりで、つい反抗してしまった。
多分はじめての反抗だったと思う。
「本当はそんなこと思ってなかったんだ。心の底では、家の料理はすごいって思ってる。親父の料理は小さい頃からずっと、俺にとって誇りだったのに……できない自分を隠すために、否定するような言葉を口にした」
言った瞬間、自分が嫌になった。
大好きなものを、心にもない言葉で貶めるなんて。
「その時、親父にはじめて思い切りビンタされたよ……。痛かったし、悲しかったし、悔しかった……。自分の思い通りにならない居場所が、どんどん息苦しく感じて、高校に入ったら一人暮らしするって言ったら――意外なほどあっさり許されたんだ」
正直、止められると思っていた。
もしかしたら母さんや姉ちゃんが裏で説得してくれたのかもしれないけど……。
「だから俺が一人暮らしをしてる理由って、要するに、息苦しい空気から抜け出したかっただけなんだ……このバイトも、好きな時間に黙々とやれるから気に入ってるけど、結局は――実家から逃げただけ……」
話していて、自分でも情けなくなる。
すごくダサい。
蓮次に話すなら気にもしないことなのに、雪代さんに話すとなると、つい嫌われるんじゃないかなんて思ってしまう。
だけど、それでも――
「雪代さんに何があったのかは、俺にはわからない。……でもさ、生きてりゃ辛いこと、あるよね。俺みたいに逃げる奴だっているし、向き合えない人間だって山ほどいる……それでも、まあ、どうにかこうにか生きてるんだ。何が言いたいかっていうと、言葉がまとまらないんだけど……俺は、落ち込んで泣いてる雪代さんより、元気に……いや、ちょっとぽけーっとしてるけど、自然体のあの感じの雪代さんの方が好きだな」
教室にいる雪代さん。クールで無表情なのに、どこか柔らかくて、ゆったりした雰囲気を纏っている。
一方、家で見せる彼女は全然違う。無防備でだらしなく、ぐでーっとしていて、よく喋るし、たまに無邪気な笑顔さえ見せる。最近じゃ、甘えた顔とか、妙にあざとい顔まで……。
「うう、ううっ……うばああああ〜〜〜っ」
「えっ、ちょっ……き、汚なっ!?」
すると、それまで黙って聞いていた雪代さんが、突然また泣き出した。
鼻水を撒き散らしながら、俺の服に遠慮なくこすりつけてくる。
「雪代さん……」
もう服がどうこうなんて諦めた。
自然と手が動いて、彼女の頭を撫でていた。
体は女性にしては大きいのに、こうして抱きつかれて泣かれていると、不思議と妹のように思えてしまう。
子どもっぽい一面が多いから、余計にそう感じるのかもしれない。
俺は雪代さんが泣き止むまで、しばらくそのまま寄り添っていた。




