第9話 「ふしぎなパンといたずらパン」
旅の途中、峠を越えて谷あいの道を歩いていたヘレナとルカの足取りは、すっかり重くなっていた。
「……おなか、すいたね……」
小さくつぶやいたヘレナに、肩の上のルカが
『ずっと前から言ってたじゃん』
とでも言い尻尾を揺らす。
「うん、ごめんごめん。次の村までって思ってたけど、ちょっと無理だったかも……」
風が木々の間を抜けて、ふと、香ばしい香りを運んできた。
「……パンの匂い?」
ヘレナが顔を上げると、谷あいの緩やかな斜面に、煙突のある小さな建物がぽつんと佇んでいるのが見えた。
近づいてみると、木の看板に手描きでこう書かれていた。
【パン屋・ふしぎといたずら】
「……なんだか、不思議な名前」
ルカがくんくんと鼻を動かし、興味津々で扉の方を見やる。
「ちょっと寄っていこうか。ルカも、お腹すいたでしょ」
ルカは控えめにしっぽをふると、すっと扉の前へ歩き出した。
ヘレナがそっと扉に手をかけると、金属の鈴が、ころん、と控えめな音を立てた。
中からは、ほんのり甘くて香ばしい匂いがふわりと鼻をくすぐる。
扉の向こうに広がっていたのは、あたたかな木の色に包まれた、小さなパン屋の風景だった。
天井からは乾かされたハーブの束が吊るされており、壁際にはいくつもの木棚が並び、その上にずらりと焼きたてのパンが並んでいる。
丸くふくらんだブール、小さなクルミパン、ほのかに光るはちみつパン。
窓から差し込む柔らかな光が、小麦色のパンたちをやさしく照らしていた。
奥の厨房からは、かすかに薪のはぜる音が聞こえてくる。
室内は静かで、まるで時間の流れがほんの少しだけ、ゆっくりになったようだった。
ルカが小さく鼻を鳴らしながら、ふわりと香るパンのにおいに釘付けになっている。
そのとき、奥のカーテンがふわりと揺れ、女将さんらしき年配の女性が顔を出した。
扉の奥から現れたのは、優しげで朗らかな、けれどちょっぴりお節介そうな雰囲気の女将さんだった。
灰色の髪を後ろでまとめ、白い三角布をかぶっている。
「はい。ゆっくりと、いろんな国を見て回っているんです」
「そうかいそうかい。よく歩いてきたねぇ。ここは国と国の間だから、距離があって大変だったろう?」
そう言って、女将さんは微笑みながら手を差し出した。
「ちょっとだけ、手を見せてくれる?」
ヘレナがそっと手を差し出すと、女将さんはその手を包み込むようにして、やわらかく触れた。
「あら……風の魔法を使えるのね。……それだけじゃないみたいだけど」
思わずヘレナは目を見開いた。
「手だけで、わかるんですか?」
女将さんは、くすっと笑った。
「年を取るとね、そういうものがなんとなく見えてくるのよ。手は、人を映す鏡だからねぇ」
彼女は指先で軽くなぞるように見つめ、満足げにうなずいた。
「なるほど。いろいろな出会いがあったのね。その年で、よく頑張ってる。……あなたのパン、すぐ焼けるわ」
そう言って、ふっと優しく笑みを浮かべた。
「遅くなったけど、私はプア。少しだけ、待っていてね」
そう言い残し、プアさんは厨房の奥へと姿を消していった。
しばらくして焼きあがったパンは、ほんのりと風の香りがする、ふわふわの丸パンだった。
ヘレナがひとくち食べると、目を見開いた。
「これ……おじいさんが昔つくってくれたパンに、そっくり……」
「旅人の心はね、パンに映るのよ」
プアさんは優しく微笑んだ。
「心が覚えている味が、自然と手に宿るの」
ルカにも小さなパンが出されると、ぱくっとかじって、嬉しそうにしっぽをふる。
「あなたには、どんな味がしているのかしらね?」
くすくすと笑うプアさんの背後から、厨房の扉ががたんと開いた。
「おっ、いいタイミング!俺のパンも食べてみてくれよ!ちょっと変わってるけど、楽しいぜ?」
陽気で少しお調子者そうな男性が顔を出した。イーズさん、とプアさんが呼んだ。
「うちのは心が味に出るけど、俺のはパンが口をきくんだ!」
冗談のようにパンを渡され、半信半疑でヘレナが受け取ると、パンはけらけらと笑い出した。
それだけでも十分驚きだったが、ルカが近づいてパンをつまもうとした瞬間、
「しっぽふりすぎー!」
と、パンがつっこんだ。
ルカは飛び上がって驚き、ヘレナは思わず叫んだ。
「パンがしゃべった!?」
イーズさんは得意げにうなずいた。
「俺のパンにはちょっとした意思があるのさ!くすっと笑わせるのが得意なんだ!」
ヘレナは笑いながらも、パンを手にとりじっと見つめた。
「私にはなんていうかな?」
パンはけらけら笑っているだけ…のはずだった。
そのとき、不思議な感覚が胸の奥に広がった。
まるで誰かが、心の中で囁いたような。
——だいじょうぶだよ。
誰にも聞こえなかったその声が、自分にだけ届いた気がした。
強がっていたつもりはなかったのに、その言葉が、心のどこかに優しく染みていく。
イーズさんが首をかしげる。
「おや、こんなに黙るとは珍しいな。ふつうはもっとしゃべるんだが……まあ、それもパンの気分か!」
ヘレナはふっと笑って、パンをかじった。
「……ちょっと焼けすぎちゃったのかな?」
と冗談めかして言うと、イーズさんが吹き出し、
「かもしれねぇな!」
と大きく笑った。
ルカもくすっとしたようにしっぽを揺らした。
「また来てね〜!」
プアさんが手を振る。
「次はもっとふしぎなパン、用意しておくわよ」
「新作、楽しみにしといてくれ!」
とイーズさんも笑う。
『おいしかったね!』
ルカがぱたぱたと歩きながら言う。
「うん、ほんとに」
ヘレナは答えながら、ふと思い返していた。
——だいじょうぶだよ。
あの声は本当に聞こえたのか、それとも自分の心がつくり出したものだったのかは、わからない。
でも、救われた気がしたのはたしかだった。
おせっかいなのはプアさん以上に、イーズさんの方だったのかもしれない。
パンたちに、二人の優しさが焼き込まれていたんだろう。
ヘレナは小さく笑った。
その夜、谷あいの空は澄みきっていて、星々が澄んだ空に、音もなくまたたいていた。
焚き火の炎がやさしく揺れ、一人と一匹は、その光の下で静かに目を閉じた。
――夜風に、やわらかなパンの香りがまだ残っていた。