第8話 「美しい国」~それぞれの美しさ~
兵士たちは声を張り上げながら言った。
「不美な行為、確認。該当者は二名。所作違反および接触行為により、整美院へ連行。同行者は強制退去だ!」
ルカが一歩踏み出しかけたのを、ヘレナは軽く首を振って制す。
兵士の一人が、おばあさんの肩を乱暴に掴みかけたその瞬間だった。
ヘレナの足元に、ふっと風が集まり始めた。
淡い光を帯びた空気が彼女のまわりで渦を巻き、次の瞬間、突風となって吹き上がる。
「っ……!?」
兵士たちは突風にあおられ、視界を遮られ、反射的に顔を覆った。
風が地面の埃を巻き上げ、一瞬にして視界を奪う。
まるで見えない手が足元を崩したように、兵士たちの体勢が揺らいだ。
その様子を見上げながら、ルカはしっぽを一度だけ振る。
毛先が微かに青く光った――。
――ザパーンッ。
一瞬、誰もが息を呑んだ。
乾いた広場に、水の音が響いた。
空から、まるで誰かが巨大な桶をひっくり返したかのように、水が落ちてきたのだ。
鎧が濡れ、衣服が貼りつき、装飾品を容赦なく汚していく。
美しかったはずの整列と均衡は、音を立てて崩れていった。
奇妙だったのは、空だ。
晴れていた。雨雲も、黒い影も、どこにもなかった。
なのに、水だけがそこにあった。
誰もが言葉を失い静寂が広場を支配する中、ヘレナはゆっくりと立ち上がった。
「今、転んだあなたたちも所作違反になりますか?」
その声音は静かだったが、不思議と広場中に響いた。。
「汚れてしまった鎧、乱れた立ち姿……それでも、美しいと認められるんですか?」
静かな笑顔。
ヘレナの視線は兵士たちに向けられていたが、その言葉が誰か個人を責めているわけではないことは、静まり返った広場の空気が証明していた。
「美しさって、形だけのものじゃないですよね?」
皮肉ではなく、ただ確かめるように――それは、真っすぐな問いだった。
「所作って、礼儀を形にしたものじゃないんですか?
礼儀って、誰かに敬意を伝えるためのものじゃないんですか?
この国では、言い方や動きだけでそれを測っている。
心がなければ、それはただの演技ですよね。」
言葉を返す者はいなかった。
その場にいた多くの大人たちが、どこかバツの悪そうな顔で、目をそらした。
「あなたたちが、国を守るために動くこと。それも、美しさの一つだと私は思います」
ヘレナの声は静かだったが、芯があった。
「なら、人を守るために動くことは、美しくないんですか?」
しんと静まり返った中、誰もが答えを探しているようだった。
ヘレナは一息つきながら言った。
「それに、そんなに無理に連れていかなくても大丈夫ですよ。今日、もともと出ていくつもりでしたから」
そう言ったヘレナの表情は穏やかで、どこか皮肉すら帯びていたが、その声はあくまで冷静だった。
誰もがヘレナの目を直視できずにいる中で、
そのとき、ひとりの少女だけが、まっすぐにヘレナを見ていた。
街を出る道すがら、ルカが首元をごそごそと掻いていた。
「やっとこの蝶ネクタイ、外してもらえたよ……。もう、息苦しかった」
精神会話でぼやくその声に、ヘレナはくすっと笑った。
「ふふ。可愛かったのに。
……でも、確かに、ちょっと似合ってなかったかもね」
風が揺れ、髪飾りがひとつ、かすかに鳴った。
ヘレナは少しだけ顔を上げ、街の方を振り返る。
三日間――この国で過ごした時間の中には、きれいなものもたしかにあった。
芸術のような菓子、花に包まれた広場、そして人々の所作の美しさ。
教えてくれた言葉は、どれも整っていて、丁寧で、優しかった。
(でも……)
「美しさって、人それぞれだと思う。
あれが本当に“美しい”と思う人がいるのも、分かるよ。
でも――私は、そうじゃなかった。」
風に乗せて、心の中でつぶやく。
「この国は、綺麗なだけで……美しくはなかったな。」
*
そのころ、街の片隅――。
少女がひとり、花壇の前にしゃがんでいた。
泥でぐしゃぐしゃになった手。
誰かに叱られるかもしれないという不安が、胸の奥に少しだけ残っていた。
けれど、手のひらから土に植えた花が、すっと背を伸ばしたとき。
「……うわぁ、きれい……!」
無邪気な声がこぼれた。
それは、誰の目も意識しない、まっすぐな感情だった。
そして、その声に気づいた周囲の空気が、ほんの少しだけ揺らいだ。
今までに見たことのないような笑顔が、少女の顔にふっと広がっていた。
その声を聞いた一人の大人が、足を止めた。
少女の姿を見つめ、なにも言わずに、静かに歩き出す。
まるで、なにかが少しだけ変わったことを知っているかのように。
そして風は吹く。
誰かの小さな一歩を、やさしく後押しするように。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
次回は新しい物語です。
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