表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/34

第6話 「美しい国」~感情のない笑顔~


その晩、宿の部屋。


窓の外では、街の灯りが穏やかに揺れていた。


遠くの通りを、男女が優雅に並んで歩いていく。身なりは整い、笑顔も優しい。


まるで誰もが、舞台の中の登場人物のようだった。


ヘレナは窓辺に座ったまま、手にした温い紅茶を見つめていた。


口をつけることもなく、ただ、なんとなく――飲む気になれなかった。


「ねえ、ルカ」


『うん?』


「綺麗なんだよね、この国。建物も、服も、笑顔も……全部。でも…」


ルカはベッドの上で小さく耳を動かした。


『でも?』


「でも……綺麗すぎて、ちょっと怖い」


街を歩いていて感じた小さな違和感。


少女が泥を叱られた場面、青年が連れて行かれたあの瞬間。


周囲にいた人たちは、まるでそれが当然であるかのように、目をそらしていた。


「あのときも、誰も止めなかった。」


『それがこの国の“正しさ”だからね。無自覚ほど怖いものはないよ』


「美しいってそういうことなのかな…」


言葉にした瞬間、自分の問いが、部屋の中に落ちた。


ルカは何も答えなかった。


ただ、そっとその尻尾を一度だけ振った。


ヘレナは視線を上げ、窓の外の月を見た。


雲の切れ間からのぞく、その静かな光。


それは、この国の光とは、どこか違う気がした。


「明日、もう少しだけ“この国の美しさを見つめてみたい」


そう呟いた彼女の目には、ほんの少しだけ――迷いが消えていた。




空は透き通るように晴れていた。だが、ヘレナの心はどこか重たかった。


「あれが、整美院」


街外れの高台。低い柵に囲まれた白い建物が、静かにたたずんでいた。無駄のない幾何学的な構造、まるで感情を排したような直線だけで成り立っている。美しさというより、均整。温度のない美しさだっ

た。


『入るつもり?』


ルカの声がヘレナの肩越しに響いた。


「さすがに中までは……。でも、少しだけなら、覗けるかもしれない」


裏手へと回り、低木に身を隠して建物の隙間を探す。やがて、わずかに開いた窓をいくつか見つけた。


ヘレナの足元に風が巻き起こり、ふわりと身体が浮かぶ。 白い建物の外壁に沿って、そっと高度を上げていく。


最初に目に入ったのは、最上階の小部屋だった。


「やだ……やだっ……!」


「すみません!すみません……!」


窓の隙間から覗いた室内では、何人もの男女が壁にもたれて震えていた。 怯え、謝り、泣き叫んでいる。


(……何、この声)


風の中で、ルカがわずかに身じろぎする。


『何をされてるんだろう、あの人たち』


息を飲んだまま、ヘレナはゆっくりと視線を下ろしていく。


次の階では、人々が無表情のまま椅子に座り、前をじっと見つめていた。 誰もまばたきをせず、言葉もない。 まるで魂だけが、そこにないかのようだった。


そのさらに下――鏡の前に並ぶ人々が、機械のように声を発していた。


「おはようございます」


「ありがとうございます」


「失礼いたしました」


表情の作り方、言葉の抑揚、語尾の角度まで、白衣の職員が細かく修正していく。


「違う、それじゃ足りない。心なんていらない。声の高さ、速さ、抑揚、言葉の選び方――全部、形として覚えなさい」


その言葉が、ヘレナの胸に冷たく沈んだ。


さらにその下の階では、廊下を歩く人々の姿があった。 全員が同じ角度で背筋を伸ばし、同じ歩幅で前進する。 その一糸乱れぬ動きは、奇妙なまでの美しさを伴っていた。


だが、一人の少年がほんのわずかに足を滑らせた瞬間、鈴の音が響き渡った。 職員が即座に現れ、冷たい声で指導を始める。


(これが……美しい?)


最後に見えたのは、白く明るい部屋だった。 鏡の前で、人々が笑っている。


「もう少し口角を上げて。そう、歯を見せて」


その声に従い、皆が同じような笑みを浮かべていく。 けれど、目は笑っていなかった。


(なんでこんなに笑顔なのに、こんなにも苦しそうなの)


ヘレナの指が、静かに拳を握る。 声も、表情も、動作も――すべて“整えられた”人々。 だが、そこにあるのは、人間らしさの剥奪だった。


建物の奥から、再び微かな泣き声が聞こえた。 どの部屋も、完璧に見えた。 だからこそ、異様だった。


風に乗って建物の影から抜け出したヘレナは、静かに地に降り立った。 見たものすべてが、頭に焼き付いて離れなかった。


「ねえ、ルカ。さっきの人たち、本当に……」


『わからない。けど――そういう場所なんだろうね』


ルカの声は静かだった。けれど、その声には微かに震えが混じっていた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ