第6話 「美しい国」~感情のない笑顔~
その晩、宿の部屋。
窓の外では、街の灯りが穏やかに揺れていた。
遠くの通りを、男女が優雅に並んで歩いていく。身なりは整い、笑顔も優しい。
まるで誰もが、舞台の中の登場人物のようだった。
ヘレナは窓辺に座ったまま、手にした温い紅茶を見つめていた。
口をつけることもなく、ただ、なんとなく――飲む気になれなかった。
「ねえ、ルカ」
『うん?』
「綺麗なんだよね、この国。建物も、服も、笑顔も……全部。でも…」
ルカはベッドの上で小さく耳を動かした。
『でも?』
「でも……綺麗すぎて、ちょっと怖い」
街を歩いていて感じた小さな違和感。
少女が泥を叱られた場面、青年が連れて行かれたあの瞬間。
周囲にいた人たちは、まるでそれが当然であるかのように、目をそらしていた。
「あのときも、誰も止めなかった。」
『それがこの国の“正しさ”だからね。無自覚ほど怖いものはないよ』
「美しいってそういうことなのかな…」
言葉にした瞬間、自分の問いが、部屋の中に落ちた。
ルカは何も答えなかった。
ただ、そっとその尻尾を一度だけ振った。
ヘレナは視線を上げ、窓の外の月を見た。
雲の切れ間からのぞく、その静かな光。
それは、この国の光とは、どこか違う気がした。
「明日、もう少しだけ“この国の美しさを見つめてみたい」
そう呟いた彼女の目には、ほんの少しだけ――迷いが消えていた。
空は透き通るように晴れていた。だが、ヘレナの心はどこか重たかった。
「あれが、整美院」
街外れの高台。低い柵に囲まれた白い建物が、静かにたたずんでいた。無駄のない幾何学的な構造、まるで感情を排したような直線だけで成り立っている。美しさというより、均整。温度のない美しさだっ
た。
『入るつもり?』
ルカの声がヘレナの肩越しに響いた。
「さすがに中までは……。でも、少しだけなら、覗けるかもしれない」
裏手へと回り、低木に身を隠して建物の隙間を探す。やがて、わずかに開いた窓をいくつか見つけた。
ヘレナの足元に風が巻き起こり、ふわりと身体が浮かぶ。 白い建物の外壁に沿って、そっと高度を上げていく。
最初に目に入ったのは、最上階の小部屋だった。
「やだ……やだっ……!」
「すみません!すみません……!」
窓の隙間から覗いた室内では、何人もの男女が壁にもたれて震えていた。 怯え、謝り、泣き叫んでいる。
(……何、この声)
風の中で、ルカがわずかに身じろぎする。
『何をされてるんだろう、あの人たち』
息を飲んだまま、ヘレナはゆっくりと視線を下ろしていく。
次の階では、人々が無表情のまま椅子に座り、前をじっと見つめていた。 誰もまばたきをせず、言葉もない。 まるで魂だけが、そこにないかのようだった。
そのさらに下――鏡の前に並ぶ人々が、機械のように声を発していた。
「おはようございます」
「ありがとうございます」
「失礼いたしました」
表情の作り方、言葉の抑揚、語尾の角度まで、白衣の職員が細かく修正していく。
「違う、それじゃ足りない。心なんていらない。声の高さ、速さ、抑揚、言葉の選び方――全部、形として覚えなさい」
その言葉が、ヘレナの胸に冷たく沈んだ。
さらにその下の階では、廊下を歩く人々の姿があった。 全員が同じ角度で背筋を伸ばし、同じ歩幅で前進する。 その一糸乱れぬ動きは、奇妙なまでの美しさを伴っていた。
だが、一人の少年がほんのわずかに足を滑らせた瞬間、鈴の音が響き渡った。 職員が即座に現れ、冷たい声で指導を始める。
(これが……美しい?)
最後に見えたのは、白く明るい部屋だった。 鏡の前で、人々が笑っている。
「もう少し口角を上げて。そう、歯を見せて」
その声に従い、皆が同じような笑みを浮かべていく。 けれど、目は笑っていなかった。
(なんでこんなに笑顔なのに、こんなにも苦しそうなの)
ヘレナの指が、静かに拳を握る。 声も、表情も、動作も――すべて“整えられた”人々。 だが、そこにあるのは、人間らしさの剥奪だった。
建物の奥から、再び微かな泣き声が聞こえた。 どの部屋も、完璧に見えた。 だからこそ、異様だった。
風に乗って建物の影から抜け出したヘレナは、静かに地に降り立った。 見たものすべてが、頭に焼き付いて離れなかった。
「ねえ、ルカ。さっきの人たち、本当に……」
『わからない。けど――そういう場所なんだろうね』
ルカの声は静かだった。けれど、その声には微かに震えが混じっていた。