第3話 「やさしい人」~頼ることの罪悪感~
セルじいさんの代わりに、ヘレナの一日が始まった。
それからヘレナは、風のように動いた。
人に会う必要のある依頼は昼間に、一人で済む作業は夜のうちに。
草刈り、修理、配達、整備——昼も夜も関係なく、風魔法の加護を受けたヘレナの動きは軽やかで速かった。
夜明け前。ようやく最後の依頼を終えて、セルじいさんの家に戻ってきた。
中では、セルじいさんがまだ静かに眠っていた。
顔色は昨日よりもはるかによく、マナの流れも整っている。
(これなら……きっと、もう大丈夫)
窓の外から光が差し始めていた。
ヘレナはそっと一枚の紙を取り出すと、机の上に置いた。
声に出せなかった“助けて”を、ヘレナは確かに受け取っていた。
だから彼女は、こう書いた。
『道具、少しお借りました。話してくれて、ありがとう』
肩の上でルカが小さく瞬きをする。
「行こう、ルカ」
扉を開け、朝の風が髪をなでる中、ヘレナは静かにその家を後にした。
太陽が高く昇り始めた頃。
セルじいさんは、ふとまぶたの裏に光を感じて目を開けた。
天井をしばらくぼんやりと眺め、やがて気づく。身体が軽い。息が深く吸える。
(……あれ、わし?)
ゆっくりと起き上がり、傍らに置かれた水をひと口すする。
机に、見覚えのない紙が一枚置かれていた。
『道具、少しお借りました。話してくれて、ありがとう』
しばらく、セルじいさんはその文字を見つめていた。
その短い言葉の奥に、どれほどの想いが詰まっているかを思いながら。
戸口を開けた先で、ふと気づく。
昨日、途中だった荷物は、すでに届けられていた。
壊れていた井戸の滑車も直っている。草もきれいに刈られていた。
(……全部、やってくれたのか)
セルじいさんは、胸の奥で何かがじんと温かくなるのを感じながら、あらためて紙の文字を見つめ直した。
村の通りには、いつもより早く人の声があった。
数人の村人たちが集まり、小さな話し合いをしていた。
「あ、セルさん…! ご無事でよかった!」
「あの、昨日、私たちで少し話し合ったんです」
「セルさんに頼ってばかりじゃいけないって!今後は、みんなで協力してやっていこうって」
セルじいさんは、何かを噛みしめるようにゆっくりと頷いた。
「…ありがとうな」
風が通り抜ける。
その優しさに包まれながら、セルじいさんはゆっくりと空を見上げた。
そう言って笑ったセルじいさんの声は、少しだけ震えていた。
その日の昼前。
村の広場に面した草地で、若者たちが見慣れない道具を手に草を刈っていた。
小さな子どもが、飴の包みを抱えてセルじいさんの家の前に立っていた。
「これ、おじいちゃんがくれた飴の、お返し!」
照れくさそうに言って、男の子はすぐに走り去った。
セルじいさんは少しだけそれをみつめて、そっと胸に抱きしめた。
鍋の入った布包み、薬草の束、小さな差し入れ。
次々と届く気遣いに、心があたたかくなる——けれど、どこか落ち着かない。
こんなにもたくさんの手が、自分のために動いてくれるなんて。
(ありがたい。でも、申し訳ない)
──いつの間にか「頼ること」に罪悪感を覚えてしまっていた。
そして、逆に「頼られること」が当たり前になった誰かが、静かに潰れていく。
優しさは、声に出さなければ、ただの“便利さ”にすり替わってしまうのかもしれない。
セルじいさんは、胸の奥にふっと染み込むようなその実感を抱きながら、遠くを見つめていた。
「ほんとに、ありがとう」
そう繰り返した声は、今度は少しだけ、素直だった。
村を離れる小道を、ヘレナとルカが並んで歩いていた。
朝の光がやわらかく、緑の葉を透かしてきらめいている。
『終わったね』
ルカがぽつりと言う。
「うん。それにしても、夜が明けちゃうくらい、すごい量だったね。セルじいさん、どれだけ頼まれてたんだろう」
『途中で棚ひとつ壊しちゃって、びっくりしたけどね』
「うん、勢いよく風魔法を使いすぎちゃった…。でも、あれは思わず笑っちゃったな。無事直せてよかったよ」
「誰かに、頼れるといいけどなあ。セルじいさん、きっとずっとひとりで頑張ってたんだよ」
ヘレナの呟きに、ルカがのそっと歩きながら返す。
「人は、そんなにすぐには変わらないよ。たとえ少し気づいたとしてもね」
「もし、誰にも言えないままだったとしても。これをきっかけに、誰かが気づけるようになったならいいな。」
風がふわりと吹いた。白い髪がふわっとなびく。
「それだけでも、よかったのかもしれないな」
ヘレナの横顔には、どこか安心したような、少し切ないような光が差していた。
「ルカ。私も誰かの優しさを、見逃してきたんじゃないかなって」
『ヘレナが?』
風が、ヘレナのマントを揺らす。
遠くで鳥の声が聞こえた。
「ありがとうを、ちゃんと伝えられていたのかなって」
『これから、気づいたときに伝えればいいんじゃない? 前のことはどうしようもないんだからさ』
「そうだね」
ヘレナはそっと笑った。
風の旅路は、まだ始まったばかりだった。
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最後まで読んでいただきましてありがとうございます!
次はどんな国へ向かうのか…。ヘレナの旅は始まったばかりです!
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