第1話 「やさしい人」~やさしさの重さ~
美しさは、穢れと優しさの向こうにある。
だから触れなさい、人の弱さと優しさに。
ヘレナは、今日もまた“誰か”の声に導かれるように、ひとつの村へと足を踏み入れた。
緑がやわらかく映える季節。
川の水は透き通っていて、村の中央を静かに流れていた。
森に囲まれたセラン村は、どこか素朴で、けれど人の手のぬくもりを感じさせる場所だった。
その石畳の入り口を、ひとりの少女が歩いてくる。
風をはらんだような白銀の髪、軽やかな布のマント。
旅装束はよく馴染み、背には小ぶりな荷を背負っている。
肩の上には、雪のように白い小さな狐のような精霊がちょこんと乗っていた。
ヘレナは、風使いの旅人だった。
「……いいところだね」
風がそっと頬をなでる。
川のせせらぎ、木々の葉音、村人の笑い声が、どこか懐かしい響きに感じられた。
『今回はもしかして、三日以上いちゃう?』
肩の上の精霊──ルカが、澄んだ声をヘレナの心に送り込む。
「過ごして気持ちよかったら、いるかもしれないね」
そんなふうに会話をしながら、ヘレナは石畳の坂道をのぼる。
そこに、ふと視界の端に揺れる人影。
「あ……、大丈夫かな?」
道の先で、荷車を押している小柄な老人が、よろめきそうになっていた。
瞬間、ヘレナは息をのむと、思わず駆け出した。
「大丈夫ですか!? 手伝いますね!」
「あ、お嬢ちゃん……? おお、ありがとありがと、助かったよ」
荷車の脇に肩を入れて支えながら、ヘレナはにこりと笑った。
「いえ、こちらこそ。ちょうど通りかかったので」
「旅の人かい?」
「はい。ヘレナっていいます」
「へぇ、ヘレナちゃんていうのかい。ありがとよ。わしはセル。セルじいさんって呼ばれてるよ」
そう、これが始まりだった。
この村で、ヘレナが目にするもの、感じるもの。
それは、旅の初めにふさわしい、静かな問いかけだった。
*
翌日。
朝の光が、木枠の窓から差し込んでいた。
ヘレナは、宿屋の一室で使わせてもらっている布団の中で、うっすらと目を開ける。
ほのかに香る木材の匂いと、小鳥のさえずり。村の静かな朝が、彼女をやさしく迎えていた。
『ねえ、そろそろ起きない? もうすぐ十時になるよ』
枕元から、ルカの声がふわりと響く。
「ん……まだ」
頭をもたげると、白銀の髪が寝癖でふわふわと跳ねている。
片方の目だけでルカを見上げたヘレナは、ぼんやりと笑って肩をすくめた。
「うわ…ひどい」
『見事だね』
ルカは無表情のまま肩の上に飛び乗る。
ヘレナは寝癖を片手で軽く押さえながら、洗顔用の水瓶に向かう。
身支度を整えたヘレナは、小さな荷物を肩に背負い、階下の食堂へと向かう。
暖炉の火はすでに落ち着き、カウンターの奥では宿の女将がテーブルを拭いていた。
「おはよう、お嬢ちゃん。お出かけかい?」
「おはようございます。はい、少し村を見て回ろうと思って」
ヘレナはやわらかく微笑む。
「そっか。今日はどこへ行くんだい?」
「昨日の広場の先に、大きな木が見えたので……ちょっと気になって」
「ああ、あれはご神木って呼ばれてるやつさ。昔から村人に大事にされてるんだよ」
女将はにっこりと笑い、手を止めた。
「また夕方には戻ります。晩ごはん、楽しみにしてますね」
「おうとも!うちの煮込みは評判なんだから」
二人の間に、くすりと小さな笑いがこぼれた。
外に出ると、清々しい空気が頬をなでる。
朝の陽射しが木々を照らし、風がそっと彼女の髪を揺らす。
少し歩くと、森の方からコン、コンと木を割る音が聞こえてきた。
その音に、ヘレナはふと足を止める。
「……セルじいさん?」
ヘレナは村の東端にある小道を歩いていった。
草むらの向こうに見えたのは、やっぱりセルじいさんだった。
「おはようございます、セルじいさん」
「おや、ヘレナちゃん。昨日は手伝ってくれて助かったよ」
手には斧。
足元には割ったばかりの薪が積まれている。
「今日は薪ですか?」
「村の南の奥さんに頼まれてね。暖炉の木が足りないって」
そう言って笑う老人の顔は変わらない。
でも、どこか少し、足取りが鈍くなっている気がした。
「よかったら、私も少し手伝います」
「いやいや、旅人さんにこんなこと!」
「今は旅の合間ですから」
断る理由が見つからず、セルじいさんはまた微笑んだ。
ルカは近くの石の上に飛び降りて、じっと2人の様子を見守っていた。
ヘレナは斧に手を伸ばしかけて、ふと空を仰いだ。
「風にお願いしようかな」
彼女は手をそっと振ると、風が薪の山の周囲に集まる。
次の瞬間、すっと腕を横に振る。
「ウィンド・スライス」
風の刃が数本、静かに薪に走った。
乾いた音を立てて、薪が次々と綺麗に二つに割れていく。
「……っ! こりゃあ、たいしたもんだ!」
セルじいさんは目を見開いた。
「風魔法でここまで見事な切れ味を出せる子は、なかなかいないよ」
ヘレナは少し照れながら笑った。
「ありがとうございます。風は気分屋さんですから」
「ほう、そういう言い方をするんだな」
セルじいさんは割れた薪を拾い上げながら、懐かしそうに目を細めた。
「わしもな、昔は兵士をやっててね。多少は魔術師の力の見極めはつく方なんだよ。
あんたの風には、ちゃんと意志がある。そこがすごいんだよ」
ヘレナは一瞬、目を見開いて、それからまた小さく笑った。
ルカはその横で、ぴくりと尻尾を動かしていた。
薪をすべて荷車に積み終えたあと、セルじいさんは腰に手を当てて、ふうと息をついた。
風がふわりと吹き抜け、二人のあいだに静かな時間が流れる。
「ありがとうな、ヘレナちゃん。おかげでだいぶ助かったよ」
セルじいさんは笑いながら、薪を荷車に積み終えた。
「いえ、こちらこそ」
軽く頭を下げて、ヘレナはその場を離れる。
川沿いの道を歩きながら、村のあちこちを見てまわった。
香ばしい焼き菓子の匂いに誘われて小さな屋台でおやつを買い、
野菜を干していたおばあさんに話しかけられてしばらく談笑し、
広場では子どもたちの笑い声が響いていた。
「セルじいさーん、これもお願い〜!」
遠くから、にぎやかな声が届いた。
振り返ると、村の通りの向こうで、セルじいさんがまた別の荷物を抱えようとしていた。
どこかへ向かう途中のようだった。
「ああ、いいとも。すぐに届けよう」
いつもと変わらない、優しい笑顔。
でもその肩は、一瞬だけ重さに沈むように見えた。
ヘレナは、その様子を遠くから見ていた。
頬をかすめる風が、どこか冷たく感じる。
――あの優しさは、本当に大丈夫なんだろうか。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
優しさって難しいですよね。
セルじいさんに対してヘレナはどう思っているんでしょうかね。
次回はそんな続きを書いていきたいと思います。
すこし日常を思い出せる物語になっていたら嬉しいです。
※この物語は【毎週木曜更新】予定です。
※次回は《6月12日(木)》更新予定です。お楽しみに!
※物語の楽曲もYouTubeにて後日アップ予定です。よければそちらもぜひ。
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