高貴な髪色(アルハーム)
「……」
わたしは枝を折る手を止めた。
「ロフーユ? どうしたの?」
ニエシの言葉で、側にいた一人の女の子が聞いてくる。
三日経った。わたしが目を覚まして、三日。
すべてではないが、知識の書から多くの言葉を引き出し、なんとか日常生活を行えるくらいには、ニエシの人々の言葉を覚えた。
「いや……」
力を込めかけていた枝を、わたしは見つめた。
これは、ニエシの人々が森からとって来た枝だ。長いこの枝を折って、暖炉などの着火枝として使いやすい大きさにしている。
寒い地域で遊牧するニエシの人々にとって、暖炉の火は命をつなぐ重要な綱だ。この、乾燥した細い枝を折る作業は、ニエシの人々にとって、最も基本的で、もっとも重要な作業のひとつだ。
「ううん、なんでもない。大丈夫」
ぱきり、とその枝を折る。
「なら、いいけど……?」
わたしを、その女の子が不思議そうにのぞき込んでくる。
この子は、わたしが目を覚ました時に出会った、あの女の子だ。タカンガリの娘、つまりこのニエシの集落の跡取り娘で、わたしと同年代のニエシの女の子でもある。
今はこのニエシの家のひとつの中で、枝を折る作業を一緒にしていた。
「ねぇ、イナンダ」
わたしは、目の前の彼女の名前を呼んだ。
「ん? 何?」
そのかわいらしい整った顔を、わたしに向けてくれる。
「タカンガリ……族長って、いつ帰ってくる?」
「お父さんが? うーん……?」
首をひねって、イナンダが考え始める。その考える姿もかわいらしいが、わたしは今少し焦っていた。
「いつ、って……夕方までには、帰ってくると思うけど……」
「そっか……」
夕方……あと大体、一と半ホーフくらいだろうか、さっき見た日の傾き具合からして。
それにしても、適当すぎる気もするが。まあ、仕方がない。ニエシの人々には、正確な時間を表すような語彙がないのだから。
遊牧民である彼らの生活は、ひどくゆったりとしている。時間を表す語彙は、せいぜい、「朝」、「昼」、「夕方」、「夜」くらいだ。
まあ、朝は夜明けとともに起きて、日が沈むと同時に寝て、一日一回、誰かが狩りに出かける程度のゆったりとした生活をしている彼らには、そういう語彙が必要ないのだろうが。
狩りの時間にも正確な決まりはない。狩りと言うのは不確定なものだろうから仕方がないが。
早めに良い獲物を捉えられればそのまま早めに帰ってくるだろうし、そうでなければ、少なくとも日の落ちる夕方までには帰ってくる。
「どうしたの? お父さんに、何か言いたいことあるの?」
「うん、ちょっと……」
今すぐにでも、話をしたいくらいだが。
望むべくもない。指笛の一つや二つくらい、吹ければよかったのだが。
残念ながら、口笛や指笛がはしたないものと教育されてきたわたしには、絶望的に才能がなかったようだ。ひそかに口を細めたり指を口にはさんで息を吹いたりしているのだが、息以外の音は今のところ出ていない。
「うーん、狩りの途中は吹いちゃだめだし、狩りが終わるのを待つしかないんじゃないかな……」
「そっか……うん、ありがとう。ごめんね」
「あやまらなくていいよ、そんな」
イナンダが微笑んで言ってくれる。
実にいい子だ。親であるタカンガリがかなりの人格者だったから、その子もこんなにいい子になったのだろう。
いや、この三日で会ったニエシの人々は大体いい人なのだが、たまにいたずらが大好きな子とかがいたりするのだ。
例えば、このイナンダの従妹の――――
「おねぇちゃーーーん!!」
バターン、とドアをあけ放つ音と共に、小さな体が飛び込んでくる。
そしてその体が、その勢いのまま、イナンダに突っ込んだ。
「むぐっ!?」
勢いよく抱き着かれ、床に倒されるイナンダ。
その上には、その従妹のアカイが乗り、倒れたイナンダにしがみついていた。
「むぐーっ!? むぐぐっ!」
「おねぇちゃーん! あそぼーっ!」
顔をおなかでふさがれたイナンダがむぐむぐ言おうとするが、アカイはお構いなしに力いっぱいしがみついていた。
ようやくイナンダがアカイの体に手をかけると、すんなりとアカイは引きはがされた。
「ちょ、ちょっと、いきなり抱き着いてこないで……!」
「うん! おねぇちゃん、あそぼっ!」
全く話を聞いていないアカイは、満面の笑みだった。
「え、でも今まだ、枝を折ってる最中だから、ちょっと……」
ちらり、とイナンダがわたしのほうを見る。
すると、その視線を呼んだのか、アカイがわたしのほうを向いた。
そして、再び感情と声を爆発させる。
「あーーっ! アテカミャ! アテカミャと一緒だったんだ!」
たたーっ、と、今度はアカイはわたしの方へやってきた。
抱き着かれまいか、と身構えたが、どうやらそこまでではなかったようだ。近くに立つだけだった。
まだまだ背の低いアカイは、座っているわたしが少し見上げるくらいでちょうど良い慎重だった。
「アテカミャ、一緒に遊ばない?」
今度はすこし控えめに聞いてくる。
この子、アカイは――――なぜか、わたしのことを、『アテカミャ』と呼んでくる。
ロフーユだ、と何度か訂正したのだが、それでもわたしを『アテカミャ』というあだ名で呼ぶのをやめてくれなかった。
どういう意味なのか、よく分からなかったが、イナンダに聞いたところによると、『おはなしに出てくる人の名前です』という事だった。
そのお話に出てくる人、というのは、どうやら青い髪をしているらしかった。
それで、すこし青みがかっているわたしの髪と結び付けて、『アテカミャ』と呼んでいるらしい。
「え、えっと……」
自分よりこれだけ小さくて、しかもこれだけ元気なこと接したことがないので、対応の仕方が分からない。
わたしはよそ者だし、ここで仕事をほっぽり出したら迷惑がかかる。
「じゃあ、一緒にお仕事やって、早く終わらせたら、いっしょに遊ぼう!」
ちら、と枝を見たのを読まれたのだろうか。アカイがそう提案してくれる。
「う、うん。終わったら、一緒にあそぼ」
「うん! やったー!」
両手を上にあげて、全身で喜びを表現するアカイ。
何もかもが全力だ、この子。
そして、イナンダの隣にどっしりと座って、枝を折りはじめる。
「ねー、これでいい?」
ぱきっ、と折った枝を、イナンダに見せてみる。
「うん、いいよ」
「やったー!」
そういって、さっそく新しい枝を手に取る。
「あ、それは折らなくていいよ。あんまり長くないから」
「じゃあ、こっち?」
「うん」
パキパキ、とわたしたちの倍の速度で追って行く。
二人で並ぶイナンダとアカイは、一見すると姉妹のように見える。
しかし実際はそうではなく、イナンダから見るとアカイは従妹だ。タカンガリの妹の、そのまた娘であるらしい。
しかし、基本的にいつも一緒にいる。と言うより、アカイがいつもイナンダに付きまとっているので、よく一緒にいる。
おしとやかな感じのイナンダと、元気いっぱいのアカイだが、見ていると不思議と互いに適応しあっている。
わたしにもこういう感じの兄妹関係があればよかったのだが。まあ別にいいけど。
「……?」
「? イナンダ、どうしたの?」
ぴたり、とイナンダが手を止めた。
見ると、アカイも何かに反応しているようだった。しかし、なぜか手は止めているようだった。
「……吹いてる」
イナンダが、突然壁の一方向を眺めて、呟くように言った。
吹いてる……ニエシの人々は、口笛を吹く、という事を、縮めて「吹いている」とだけ表現する。
つまり、誰かが、口笛を吹いている、という事だろう。
「……? 吹いてた?」
何も聞こえなかった。
「うん、吹いてた」
「吹いてたね」
しかし、イナンダは、確信したようにこくりとうなずいている。
アカイもそれを肯定している。
わたしには聞こえなかったが、いつも口笛に触れている彼女たちならば、聞こえる程度の音、という事なのだろう。
そして、今向いている方向から鳴ったのか。
「その方向って……」
「お父さんたちが出かけた方向だね。なんて吹いてるのかは、よく聞こえなかったけど……しっ、静かにして」
口の前に一歩指を立てて、イナンダが言った。
何かまた聞こえたのだろうか。
「……」
しばらく、イナンダもアカイも、それを黙って聞いていた。
そして、終わったのだろうか、イナンダが、口を開く。
「……狩りが終わったって、帰ってくるって」
「あ、そうなんだ」
よかった。今日は、かなり早く終わったようである。
今日まで三日しかこの集落の生活を見ていないが、三日とも、基本的に夕暮れ以降に帰ってきていた。
「……」
「?」
その割には、どこか腑に落ちないような顔だった。ぼーっと、家の麻の布の壁を眺めている。
「どうかしたの?」
はっ、と気が付いたように、イナンダはこちらを向いた。
「いや、べつに、たいしたことじゃ……」
「けっこう遠いところに行ったね、お父さん」
言い渋るイナンダの代わりのように、アカイが何気なく言った。
「そうなの?」
「あ、は、はい。いつもは、もっと笛が聞こえる場所で狩りをしていると思うんですけど……。狩りであんなに遠いところに行くのは、あんまり……」
そう言いながら、再び壁の方を見る。
「何かあったのかな……?」
「いえ……何かあったら、吹いて知らせてくれると思います。ただ、遠くに行ってしまっただけかと……」
「ふーん、そうなんだ」
「あれ……ちょっと待ってください、静かに……」
また、何かがなったのかな。
イナンダが集中し始める。
「……なんでしょう……出会った……?」
「?」
「新しい……青い髪の……?」
「えっ」
声が口をついて出た。
「青い髪の……男……」
青い髪の、男。
青い髪……。
「イナンダ、それ、本当に?」
ずいっ、と身を乗り出してきく。
「えっ……何がですか?」
「青い髪の男って、本当に言ったの?」
「え、あ、はい。吹いていたと思いますけど……」
……うそ。
いや、まだ。ニエシのどこかの人たちは、青い髪を持っているのかもしれない。
「ねぇ、イナンダ、わたし以外に、青い髪の人って、会ったことある?」
「な、なんでですか……? ないと思いますけど……どうしたんですか?」
「アカイ、アカイは見たことある?」
「ないよ、見たことあるアテカミャは、アテカミャだけだよ」
無邪気に、アカイはそう答えて見せる。
青い髪……自然には存在し得ない、わたしの髪色。わたしは薄いほうで黝の髪色になっているけれど、それでも本来ありえない色。
わたしたちだけが持つ、高貴とされる髪の毛の色。
「ロフーユ?」
イナンダの顔が、わたしをのぞき込む。
「大丈夫? どこか、痛いの?」
心配そうな顔で、わたしを見る。
それに応えようとして、わたしは、自分の唇が震えていることに気が付いた。
そうか、こんなにも。
ここまで来て、安心していたみたいだ。
こんなに、わたしは怖がっていたんだ。
「ねぇ、イナンダ」
「な、なに?」
「わたしが今すぐ逃げたい、って言ったら……受け入れてくれる?」
自分の声が、少し震えていた。